『70歳、豊かさのゆくえ』

春秋花壇

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第1話「10年の積み重ね」 

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第1話「10年の積み重ね」 

 朝の光は、年齢を重ねるほど優しくなるような気がする。
 七十歳の冬、私は台所の窓辺に立ち、湯気の立つ味噌汁を見つめながら思った。

 ふわりと、削り節の香りが立つ。
 味噌を溶くスプーンの先で、ゆっくり円を描くと、
 白い雲が鍋の中でほどけていく。

「今日も……静かねえ」

 独り言が、湯気に混じって溶けていく。
 結婚はしなかった。子どももいない。
 けれど、私は孤独そのものを嫌っているわけではない。
 “孤独に慣れているふり”が嫌なだけだ。

 スマホに残る三人のグループ名を見る。
 《春の会》――私・由紀子・真澄。
 四十年以上つづく、女三人の小さな友情。
 年に一度のランチ会は、退職後の私の楽しみだった。

 十年前、六十歳で定年退職したあの日。
 冬の光は今日よりも鋭くて、私の胸の奥の不安を照らし出していた。

 

──十年前の、あの日のこと。

「退職金……二千万円、か」

 私は通帳の数字を眺め、深く息を吸った。
 長く働いた。
 でも、これで老後を乗り越えられるだろうか?
 病気になったら?
 施設に入ることになったら?
 誰も頼れる人がいない私は、その不安を押しつぶすように椅子に座り込んだ。

 その日から、私は投資について必死で勉強した。
 老後のために、“お金に働いてもらう”という方法があると知ったからだ。

「怖いけど……やってみよう」

 震える手で押したボタン。
 インデックスファンドへの二千万円。
 人生最大の買い物だった。

 

──現在。

 十年が経った。
 その間、贅沢はしなかった。
 旅行も控え、外食も月に一度。
 服はユニクロで十分だった。
 好きな古民家カフェに月二回行くのだけが、静かな贅沢だった。

 部屋の棚には、十年間の手帳が並ぶ。
 表紙は日焼けして薄れ、角は丸くなっている。
 私は一冊、六十五歳の年の手帳を開いた。

〈今週の支出:12,400円〉
〈心配:将来、お金が足りるだろうか〉
〈春の会まであと3日。みんなに会えるのが楽しみ〉

 手帳の字が若い。
 まだ恐れが濃いころの私だ。

 私は天井を見上げ、ぽつりとつぶやいた。

「よく頑張ってきたよね……ほんとに」

 通帳を開く。
 そこには、十年前の私が想像もしなかった数字が並んでいる。

 三千万円を、少し越えていた。

 胸の奥がじわ……と温かくなる。
 自分で自分の未来を守れたという事実が、言葉にできないほど嬉しい。

「そろそろ……使っていいよね?」

 声に出すと、急に涙が滲んだ。
 ああ、私、頑張ってきたんだ。
 こんなふうに、お金を使う許可を自分に出すのに、十年もかかったんだ。

 ちょうどそのとき、スマホが震える。
 《春の会》のグループチャットだった。

《今年のランチ、どこにする?》
 由紀子だ。

《去年のフレンチ、美味しかったよね》
 真澄から。

 私は胸の奥で小さく笑う。
「みんな、覚えてるんだ……毎年の時間を」

 画面を見つめながら、ふと十年前のランチ会を思い出す。
 退職したばかりの私を、二人は励ましてくれた。

「はるちゃんは真面目だから、きっと大丈夫よ」
「老後ってね、お金だけじゃなくて、心の余裕が大事なの。無理しないでね」

 その言葉が、投資を始める勇気にもつながったのだ。

 十年後の今。
 私は、あのときの不安から解放されている。

 でも二人は――。

 由紀子は、夫の介護が本格的になってきた。
 真澄は、娘夫婦からの金銭援助の相談が絶えないと言っていた。

 私だけが、こんなに心穏やかでいていいのだろうか?

「違う……私だけじゃない。
 あの二人も必死に十年を積み重ねてきたんだ」

 そう言い聞かせながら、私は返信を打つ。

《今年は私がごちそうするね。70歳になった記念に!》

 送信ボタンを押した瞬間、
 少しだけ胸が高鳴った。

 十年間、
 節約し、投資し、働かせたお金で、
 やっと「誰かのために使える」と思えたからだ。

 

──翌週。

 通帳をしまい、私は新しいコートを手に取った。
 まだタグがついたままの、薄いグレーのウール。
 十年ぶりの“ちょっといい服”。

「よし……今日は買い物に行こう」

 玄関を出ると、冬の空気が頬に触れた。
 冷たいのに、どこか甘い香りがした。

 街の風景が、いつもより色鮮やかに見える。
 信号待ちの人たちの話し声、
 パン屋から出るバターの匂い、
 自転車のブレーキがきしむ音。

 世界がこんなに生きているなんて、
 十年間、私はどれだけ必死で“未来だけ”を見ていたんだろう。

「これからは……今を楽しんでもいいよね」

 風に向かって呟く。
 心がふわりと軽くなる。

 だけど――。

 このときの私はまだ知らなかった。
 この“ささやかな幸福”が、
 あの二人との間に、小さな影を落とすことになるなんて。

 十年積み重ねてきたものは、確かに豊かだった。
 でも、その豊かさは、
 ときに誰かの心を沈めてしまうこともある。

 私はまだ知らない。
 これから三人の友情が、
 思いがけない試練にさらされることを。

 ただ――冬の空の下を歩く私の足取りは、
 十年ぶりの“未来への軽さ”に満ちていた。

 あの日の私は、
 まだその兆しに気づくことさえできなかったのだ。

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