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第3話 『魔法学園の春』
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第3話 『魔法学園の春』
春は、桃色の息をまとってやってきた。
帝都アルディネスよりも温暖なこの国の学園には、朝露が光る桜に似た魔法樹《アウレア》が満開に咲いている。新入生の制服は、白と藍を基調にした軽やかな生地。裾が揺れるたび、花粉とは違う魔力の粒子が淡く舞った。
「……やっと、学園生活が始まるのね」
リリアンヌは胸の奥でそっと呟いた。
入学式の朝、空気はまだ少し冷たく、頬に触れると冷水のように冴え渡る。弱くなった魔力でも、春の魔法樹の気配は感じられた。枝先に宿る魔素は、きらきらと子どもの笑い声のように弾けている。
周囲の生徒たちは、王女の姿を見つけると小声でざわめいた。
「第五王女殿下よね?」
「公爵家に滞在しているとか聞いたけど……」
「すごい、実物はもっと綺麗だ」
好奇と憧れ、そして遠慮の混じった視線が絡みつく。
リリアンヌは柔らかく微笑み、胸元に手を添えて軽く会釈した。王女としての礼儀は身体に染み込んでいる。だが、その所作に秘めた魔力は、以前より確実に弱々しい。
彼女は自覚していた。
――魔力量は、すでに4割ほど減っている。
理由は単純だ。
公爵家で課された家事、雑務、疲労。それが毎日静かに魔力を削り続けた。
結界の魔法は、緻密で繊細な精神力を必要とする。王女としての本来の仕事であるはずが、労働と消耗がそれを覆った。
◆
その日の魔力測定は、新入生にとって最初の関門だ。
広い魔法実験室には石造りの柱が並び、天井には魔法文字が刻まれている。空気は少し乾いており、墨と薬品と魔素が混ざった匂いがする。緊張で汗をかく生徒も多く、淡い体温の匂いまで重なっていた。
教師は、測定器と呼ばれる水晶球に手を添えながら説明した。
「魔力量は個人によって生涯ほぼ一定。ただし訓練により制御精度は変わる。王族は概して魔力量が高く、特にリリアンヌ殿下は――」
教師はそこで一拍置き、黒板に視線を向ける生徒の興奮を感じ取った。
「――帝国結界の継承者として、歴代でも屈指の潜在魔力量を持つと記録されています」
室内がざわっと揺れた。
「すごい……」
「天才中の天才ってこと?」
「学年首席は確定では?」
リリアンヌは控えめに微笑み、胸の奥をそっと撫でた。
――この紹介が、今日だけは苦しい。
順番が進み、いよいよ彼女の番になった。教師が恭しく言う。
「では、殿下。どうぞ」
「はい」
彼女は深呼吸し、両手を水晶球に添える。
水晶球はひんやりとしていて、触れると奥底に冷たい水流のような感触が走る。測定器は、魔力が流れ込むほどに色を濃くしていく仕組みだ。
リリアンヌは、ほんのわずか魔力を流した――はずだった。
……が、
ぱち、ぱち、と水晶球が光る。
しかし色はすぐに沈み、まるで深い霧に吸われていく。
周囲の生徒が首を傾げた。
「え、薄い?」
「こんなものなの……?」
「王女殿下で?そんなことあるの?」
教師の眉が跳ね上がった。
「な、なんという数値……!」
「誤差ではありませんの?」
「誤差どころではありません。殿下は本来、帝国級の魔力量を示すはず。これは……あまりにも低い!」
リリアンヌは唇をかみしめた。
水晶球の色は、学生の平均より低い。魔力が枯れたわけではないが、制御も供給も明らかに乱れている。
そこへ、まるで舞台の幕が上がるように――ミレイユが現れた。
甘い香水をまとい、上質な制服を纏った彼女は、いつもの柔らかい微笑みを浮かべている。髪色は蜂蜜のように黄金で、光に照らされると天使の輪が浮かんだ。
「先生、殿下は最近、家事に励まれておりますの」
ミレイユはさらりと言った。
生徒たちの耳がぴくりと動く。
「家事?」
「そうですの。生活力をつけるのも将来必要ですもの。殿下は本当に努力家ですわ。夜遅い掃除にも、早朝の洗濯にも、文句一つおっしゃらない」
周囲がざわざわし始める。
「王女って、家事するの?」
「公爵家で?雑務ってこと?」
「そんな教育制度、聞いたことないけど……」
ミレイユは、微笑んだまま教師に向き直る。
「魔力が抑えられているのは、きっと無駄な魔力を使わぬ生活の知恵ですわ。異国の暮らしですもの。助けられる力を学んでおられるのです」
教師は戸惑い、言葉を探した。
「……殿下。あなたは本来、帝国の守護結界を扱うはず。魔力がここまで低いというのは、心身に負担がかかっている証拠です。体調は?」
リリアンヌは静かに微笑んだ。
「ご心配なく。学園に来るのが、とても楽しみでしたの」
声は優しかったが、震えていた。
夜の疲労は、まだ指先に残っている。
手にした雑巾が、自分の魔力を吸い取っていった日々が、身体に刻まれている。
ミレイユは、わざとらしい感嘆をもらした。
「殿下は本当に謙虚でいらっしゃる。わたくしも見習わなければ」
周囲の空気が変わる。
「王女=雑務係」という噂が、瞬く間に生徒たちの間を駆け抜けるのが、リリアンヌには はっきり 聞こえた。
紙をめくる音よりも、筆が走る音よりも、はるかに耳に痛い。
――これが噂の力。
――これが、孤立のはじまり。
教師は眉を寄せ、柔らかな声で言った。
「殿下。無理はなさらず、休養も学びの一部と思ってください」
「ありがとうございます。学園に来られただけで、心が軽くなります」
「そう感じられるなら、よいのですが……」
教師はまだ不安げだった。
彼には見えてしまう――魔力が薄いのではなく、疲労で魔素が閉じている ことが。
これは訓練では改善できない種類の消耗だ。
リリアンヌは教師の視線を受け止めながら、ごく小さな声で言った。
「私は大丈夫。いずれ、結界は戻りますわ」
言った瞬間、自分の声が他人のもののように感じた。
結界は嘘をつけない。けれど、心は嘘をつく。
ミレイユが近づき、耳元でささやく。
「殿下、無理をなさらずに。ね? 慣れていただければ、もっと楽になりますわ」
リリアンヌは顔色ひとつ変えなかった。
「慣れることが、正しいとは限りませんわ」
ミレイユの目に、一瞬、鋭い光が走った。
「あら、殿下……強情ですこと」
「王女は、意志の魔法で生きるものですもの」
ミレイユは微笑みを深めた。
「その意志がどれほど続くか、楽しみですわ」
リリアンヌは、それを受け流した。
胸の奥で――痛みは針のように沈む。
そして心の中で、ただ一言。
(私は、結界の主。それを忘れずにいれば、必ず立ち直れる)
外では、アウレアの花弁がひらひらと舞っていた。
白い花びらに触れると、ひんやりとした魔素が指に吸い込み、微弱ながら落ち着く。
「春は、再生の季節。きっと、私にも」
小さな祈りが、桜色の風に溶けていった。
春は、桃色の息をまとってやってきた。
帝都アルディネスよりも温暖なこの国の学園には、朝露が光る桜に似た魔法樹《アウレア》が満開に咲いている。新入生の制服は、白と藍を基調にした軽やかな生地。裾が揺れるたび、花粉とは違う魔力の粒子が淡く舞った。
「……やっと、学園生活が始まるのね」
リリアンヌは胸の奥でそっと呟いた。
入学式の朝、空気はまだ少し冷たく、頬に触れると冷水のように冴え渡る。弱くなった魔力でも、春の魔法樹の気配は感じられた。枝先に宿る魔素は、きらきらと子どもの笑い声のように弾けている。
周囲の生徒たちは、王女の姿を見つけると小声でざわめいた。
「第五王女殿下よね?」
「公爵家に滞在しているとか聞いたけど……」
「すごい、実物はもっと綺麗だ」
好奇と憧れ、そして遠慮の混じった視線が絡みつく。
リリアンヌは柔らかく微笑み、胸元に手を添えて軽く会釈した。王女としての礼儀は身体に染み込んでいる。だが、その所作に秘めた魔力は、以前より確実に弱々しい。
彼女は自覚していた。
――魔力量は、すでに4割ほど減っている。
理由は単純だ。
公爵家で課された家事、雑務、疲労。それが毎日静かに魔力を削り続けた。
結界の魔法は、緻密で繊細な精神力を必要とする。王女としての本来の仕事であるはずが、労働と消耗がそれを覆った。
◆
その日の魔力測定は、新入生にとって最初の関門だ。
広い魔法実験室には石造りの柱が並び、天井には魔法文字が刻まれている。空気は少し乾いており、墨と薬品と魔素が混ざった匂いがする。緊張で汗をかく生徒も多く、淡い体温の匂いまで重なっていた。
教師は、測定器と呼ばれる水晶球に手を添えながら説明した。
「魔力量は個人によって生涯ほぼ一定。ただし訓練により制御精度は変わる。王族は概して魔力量が高く、特にリリアンヌ殿下は――」
教師はそこで一拍置き、黒板に視線を向ける生徒の興奮を感じ取った。
「――帝国結界の継承者として、歴代でも屈指の潜在魔力量を持つと記録されています」
室内がざわっと揺れた。
「すごい……」
「天才中の天才ってこと?」
「学年首席は確定では?」
リリアンヌは控えめに微笑み、胸の奥をそっと撫でた。
――この紹介が、今日だけは苦しい。
順番が進み、いよいよ彼女の番になった。教師が恭しく言う。
「では、殿下。どうぞ」
「はい」
彼女は深呼吸し、両手を水晶球に添える。
水晶球はひんやりとしていて、触れると奥底に冷たい水流のような感触が走る。測定器は、魔力が流れ込むほどに色を濃くしていく仕組みだ。
リリアンヌは、ほんのわずか魔力を流した――はずだった。
……が、
ぱち、ぱち、と水晶球が光る。
しかし色はすぐに沈み、まるで深い霧に吸われていく。
周囲の生徒が首を傾げた。
「え、薄い?」
「こんなものなの……?」
「王女殿下で?そんなことあるの?」
教師の眉が跳ね上がった。
「な、なんという数値……!」
「誤差ではありませんの?」
「誤差どころではありません。殿下は本来、帝国級の魔力量を示すはず。これは……あまりにも低い!」
リリアンヌは唇をかみしめた。
水晶球の色は、学生の平均より低い。魔力が枯れたわけではないが、制御も供給も明らかに乱れている。
そこへ、まるで舞台の幕が上がるように――ミレイユが現れた。
甘い香水をまとい、上質な制服を纏った彼女は、いつもの柔らかい微笑みを浮かべている。髪色は蜂蜜のように黄金で、光に照らされると天使の輪が浮かんだ。
「先生、殿下は最近、家事に励まれておりますの」
ミレイユはさらりと言った。
生徒たちの耳がぴくりと動く。
「家事?」
「そうですの。生活力をつけるのも将来必要ですもの。殿下は本当に努力家ですわ。夜遅い掃除にも、早朝の洗濯にも、文句一つおっしゃらない」
周囲がざわざわし始める。
「王女って、家事するの?」
「公爵家で?雑務ってこと?」
「そんな教育制度、聞いたことないけど……」
ミレイユは、微笑んだまま教師に向き直る。
「魔力が抑えられているのは、きっと無駄な魔力を使わぬ生活の知恵ですわ。異国の暮らしですもの。助けられる力を学んでおられるのです」
教師は戸惑い、言葉を探した。
「……殿下。あなたは本来、帝国の守護結界を扱うはず。魔力がここまで低いというのは、心身に負担がかかっている証拠です。体調は?」
リリアンヌは静かに微笑んだ。
「ご心配なく。学園に来るのが、とても楽しみでしたの」
声は優しかったが、震えていた。
夜の疲労は、まだ指先に残っている。
手にした雑巾が、自分の魔力を吸い取っていった日々が、身体に刻まれている。
ミレイユは、わざとらしい感嘆をもらした。
「殿下は本当に謙虚でいらっしゃる。わたくしも見習わなければ」
周囲の空気が変わる。
「王女=雑務係」という噂が、瞬く間に生徒たちの間を駆け抜けるのが、リリアンヌには はっきり 聞こえた。
紙をめくる音よりも、筆が走る音よりも、はるかに耳に痛い。
――これが噂の力。
――これが、孤立のはじまり。
教師は眉を寄せ、柔らかな声で言った。
「殿下。無理はなさらず、休養も学びの一部と思ってください」
「ありがとうございます。学園に来られただけで、心が軽くなります」
「そう感じられるなら、よいのですが……」
教師はまだ不安げだった。
彼には見えてしまう――魔力が薄いのではなく、疲労で魔素が閉じている ことが。
これは訓練では改善できない種類の消耗だ。
リリアンヌは教師の視線を受け止めながら、ごく小さな声で言った。
「私は大丈夫。いずれ、結界は戻りますわ」
言った瞬間、自分の声が他人のもののように感じた。
結界は嘘をつけない。けれど、心は嘘をつく。
ミレイユが近づき、耳元でささやく。
「殿下、無理をなさらずに。ね? 慣れていただければ、もっと楽になりますわ」
リリアンヌは顔色ひとつ変えなかった。
「慣れることが、正しいとは限りませんわ」
ミレイユの目に、一瞬、鋭い光が走った。
「あら、殿下……強情ですこと」
「王女は、意志の魔法で生きるものですもの」
ミレイユは微笑みを深めた。
「その意志がどれほど続くか、楽しみですわ」
リリアンヌは、それを受け流した。
胸の奥で――痛みは針のように沈む。
そして心の中で、ただ一言。
(私は、結界の主。それを忘れずにいれば、必ず立ち直れる)
外では、アウレアの花弁がひらひらと舞っていた。
白い花びらに触れると、ひんやりとした魔素が指に吸い込み、微弱ながら落ち着く。
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