『帝国第五王女の結界は、婚約破棄では解けません』

春秋花壇

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第6話 『静かな反撃』

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第6話 『静かな反撃』

 魔力発表の日の翌朝、公爵家の応接室には、墨の匂いが満ちていた。黒いインクが重厚な机に広がり、羊皮紙が何枚も積み上げられている。窓の外は薄曇りで、冬の空は色を持たず、重たい灰色の幕が降りている。

 アレクシスは書類を前にして、妙に晴れやかな顔をしていた。昨夜から、彼は教師や法務担当の使用人を呼び出し、婚約破棄の公式文書を作成している。羊皮紙が擦れる音が絶え間なく響き、部屋の空気は乾いて緊張していた。

「やっと解放されるのだ」

 アレクシスは羽ペンを走らせながら言う。声には勝利の響きがある。

「王族だからといって、婚約を続ける必要はない。君は無能だ。これで、公爵家もようやく面倒から解放される」

 彼の視線は羊皮紙の数字に向けられている。
 リリアンヌは、丁寧に椅子に座ったまま、淡い微笑を保っていた。机の上に広げられた羊皮紙には、婚約破棄の理由がずらりと並んでいる。

《魔力量が著しく低い》
《公爵家の期待にそぐわない能力》
《学園での不適切な評価》

 リリアンヌは、指先で羊皮紙の端を押さえ、静かに目を通した。インクの匂い、羊皮紙のざらりとした手触り、冬の冷気。すべての感覚が妙に研ぎ澄まされる。

「まあ、内容に異論はないわ」

 彼女は淡々と言う。

「事実、魔力は少し減っていましたもの。あなた方が数字を重視するなら、それがすべてでしょう」

 アレクシスは満足げに頷く。

「そうだ。数字がすべてだ。努力も才能も結果が伴わねば意味がない」

 白い指が羊皮紙を撫でる。リリアンヌは視線を上げた。

「ただ、一点確認させていただきたいのですが」

「なんだ?」

「婚約破棄は……あなたの署名だけでは成立しませんわよね?」

 アレクシスは眉をひそめた。

「公爵家の長である父が承認すれば良い。王族であっても婚約とは契約だ。契約は双方の意思によって成立し、破棄できる」

 その言い回しには、権威があるように聞こえる。しかし、リリアンヌは首を傾げた。

「帝国皇帝の娘に対して?」

 アレクシスは一瞬黙り、眉間に皺を寄せた。

「……父は隣国の法律に明るい。問題はないはずだ」

「帝国側の婚姻規約を読んだことは?」

「読んだとは思うが……細部までは」

「細部が重要なのですわ」

 すると、扉が静かに開いた。
 ミレイユが入ってくる。薄紫のドレスに身を包み、髪は完璧に整えられている。表情は喜びと余裕に満ちていた。

「婚約破棄の文書は私が法務室に届けてまいりますわ。公爵家の名の下に手続きを進めれば、学園側もすぐ承認します」

「そうだ。ミレイユは賢いし、仕事も早い」

 アレクシスは、ミレイユに深く微笑んだ。
 ミレイユはさらに甘い声音で言った。

「殿下、これでご負担はなくなりますわ。公爵家もわたくしも、立場が明確になります」

「立場?」

「あなたにふさわしい妻は私、ということですわ」

 その言葉には、勝利宣言の風格があった。
 リリアンヌは小さな笑みを浮かべ、頬に触れた。

「ふさわしい妻……そう思うなら、おめでとう」

 ミレイユは一瞬、勝ち誇った光を目に浮かべた。

「もちろんですわ。あなたは魔力も低く、雑務ばかりで学園での評価も低い。公爵夫人としての器量が足りなかったのでしょう」

「そうかもしれませんね」

「ええ。認めてくださるなら話は早いですわ」

 リリアンヌは、少しだけ椅子を引き寄せ、姿勢を整えた。

「では、お願いします。婚約破棄の書類は……皇帝陛下に直接お送りください」

 室内の空気が一瞬にして変わった。
 ミレイユの微笑が固まる。

「……皇帝陛下に?」

「ええ。婚約は国家間契約でしたもの。破棄には帝国側の承認が必要。国家法に基づき、正式手続きを踏む必要があります」

「……帝国の審査を受ける、と?」

「もちろん。国家法ですから」

 ミレイユは椅子の背を握りしめ、表情がわずかに引き攣った。

「でも、公爵家が了承しているなら――」

「帝国皇帝が承認しなければ成立いたしません。帝国は、外交上の婚約に関しては非常に厳格です」

 アレクシスは声を荒げた。

「それは脅しか!」

「脅しではありません。帝国法に沿った規定よ」

「……!」

 ミレイユはかすかに声を詰まらせた。

「殿下、それは……膨大な手続きが必要になるはずですわ。法務、外交、審査、調査、証言……」

「ええ。最低半年はかかりますわね。皇帝陛下はとてもお忙しい。承認印が押される頃には、あなたの婚約話も、学園での評価も……少し変わっているかもしれません」

 ミレイユの頬が青ざめる。

「そんな……!」

「もちろん、あなたが急ぐ理由がなければ問題ないでしょう」

「急ぐ理由……?」

「あなたが早く公爵夫人の証明を欲しいのなら、半年は長い」

 リリアンヌは、羊皮紙を整然とそろえ、淡々と告げた。

「学園と貴族社会では、正式婚約が成立するまで“あなたはただの幼馴染”のまま。地位は保留されます」

 ミレイユの目が揺れた。

「……わたくしはアレクシス様の有能な補佐として……」

「補佐と妻は違いますわね」

 部屋の沈黙が重くなる。
 冬の空気が、針のように静まり返った。

 リリアンヌは淡い笑みを浮かべる。

「婚約破棄は喜んで受けるわ。ただし――手続きは国家法に基づき、帝国皇帝の承認を通していただきます。お二人が望むなら、今すぐ書類を送付できますわ」

 ミレイユの喉が震える。

「殿下……本気ですの?」

「もちろん本気です。婚姻とは、あなた達の恋の遊びではなく、国家契約なのです」

「そんな……そんな話、聞いていません!」

「聞く機会はありましたわね。読む気がなかっただけでしょう」

 リリアンヌは最後に一言、静かに放った。

「帝国第五王女の結界は、婚約破棄では解けません。
 法律も同じ。あなたが思うより重いのです」

 ミレイユは椅子から立ち上がり、声を失った。
 アレクシスも、拳を握りしめ、唇を噛む。

 冬の空気の中、リリアンヌだけが、穏やかに微笑んでいた。

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