『帝国第五王女の結界は、婚約破棄では解けません』

春秋花壇

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第7話 『結界の真相』

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第7話 『結界の真相』

 午後の光が、応接室の古い木枠の窓を通り抜けて、淡い帯のように床に落ちていた。
 冬の陽光は弱く、白い粉をまとうように静かで、冷たい。
 空気には羊皮紙の匂いと、煮詰まった議論の熱が漂っている。

 アレクシスとミレイユは、婚約破棄の書面を完成させたつもりでいた。
 すでに午後も深い。カーテンの縁は青い影を帯びている。
 暖炉はぱちぱちと火を吐き、燃える樫の木が少し焦げ甘い香りを放つ。

 リリアンヌはソファに座り、長い呼吸を整えていた。背筋はまっすぐで、姿勢は微動だにしない。手には温かい紅茶の入ったカップ。
 カップの底を鳴らすように指が軽く触れ、金属のかすかな音が響く。

「さて……最後に一つだけ、お伝えしておきたいことがありますわ」

 リリアンヌの声は、驚くほど穏やかだった。
 まるで、朝露のように柔らかく、しかし氷柱の芯を抱いている。

「なんだ、まだ何かあるのか」

 アレクシスは不快げに眉を寄せた。ミレイユは書面を握ったまま、動きを止めた。

 リリアンヌはカップをそっと机に置く。陶器が静かに触れ合う音は、部屋の緊張をさらに鮮明にした。

「婚約破棄が成立する前に、私の“結界”について説明しておきましょう」

「結界?」
 アレクシスは鼻で笑った。

「君にそんな魔力はもう残っていないだろう。数字が証明している」

「ええ、確かに今は少ないですわ」

 リリアンヌはゆっくり微笑む。

「けれど――この結界の仕掛けは、魔力量が減る前に張ってありますの」

 ミレイユの指が、羊皮紙を握りつぶすように震えた。

「いつ……張ったというの?」

「婚約初日からですわ。公爵邸全域に」

「――は?」

 空気が一瞬で変わった。
 アレクシスの顔に、理解より先に恐怖の色が浮かぶ。

「そんな大規模な結界、莫大な魔力が必要だ。君にそんな力が――」

「昔はありましたわよ。
 この家に来るまでは」

 リリアンヌの声は凍てついているが、感情は揺れていない。
 その冷静さが、逆に二人を追い詰めた。

「結界を張る目的は何だ」

「防御ですわ」

「防御?」

「公爵家で何が起きるか、当時の私には予測できませんでしたから。
 私は帝国皇族、外交の人質でもあります。安全の保証が必要でした」

 ミレイユがかすれた声を上げた。

「まさか、その結界……ただ守るだけでは……?」

「ええ。守るだけならまだ簡単でした」

 リリアンヌは、人差し指を軽く上げる。
 その仕草は、気取らず、それでも王族らしい威厳が滲む。

「私が張った結界の正式名称は――
《領域記録結界》」

 アレクシスが椅子から立ち上がる勢いで声を荒げる。

「記録だと!? 何をだ!」

「公爵邸全域の音声と映像を、複層魔法で保存します。
 日時付きで、改ざんはできません」

「……っ!」

 ミレイユは、肩を抱きしめるように身を縮めた。

「そんな……そんな馬鹿げた話……!」

「馬鹿げているなら笑ってくださって構いません」

 リリアンヌは淡々と続ける。

「記録対象は、領内にいるすべての人間の発話、命令、行動。
 雑務の強制、魔力の搾取、無視、侮辱、すべて映像付きで保管してあります」

 部屋の空気が濃くなった。
 暖炉のはぜる音だけが、細く、鋭く、耳を刺す。

「な、何を言っている……!」

「帝国皇帝陛下に婚約報告した日に、同時に“危険対策申請”をしています。
 その申請の一部がこの結界ですわ」

 アレクシスの顔が蒼白になる。

「まさか……!帝国は知っているのか!」

「知っています。記録は帝国国法証拠として、司法部の仕舞い箱に保管されています」

「証拠……だと?」

「ええ。
 帝国では、録音も録画も魔法結界の記録は“法的証拠”として扱われますの。」

 ミレイユの唇がわなわな震える。

「待って……待って……!殿下、それは罠でしょう!
 その結界は、わざと私を陥れるために――」

「罠ではありません。防御であり、外交上の保険です」

 リリアンヌは、冷たい紅茶を一口含み、喉を潤す。
 冷たい金属の味がわずかに舌に残る。
 その味は、不思議と心を落ち着かせた。

「私の魔力が減ったのも、雑務の日々も、吸収器事件も――
 “実際に起きたこと”。
 結界は、ただありのままを映しています」

「や、やめろ……!」

 アレクシスは机を叩いた。羊皮紙がひらりと舞う。

「そんなもの!公爵家を滅ぼす気か!?」

「滅ぼす?私が?
 いいえ、滅ぶ原因はあなた方の行いですわ」

「言いがかりだ!!」

「いいえ。
 法律は記録を前に沈黙します。
 証言は不要、弁明も不要。
 事実のみが扱われます」

 ミレイユは崩れ落ちるように椅子に座る。顔色は雪より白く、唇は青い。

「こ、こんなこと……想定してない……!」

「想定していないのは自由です。
 しかし、“知らなかった”は免責になりません」

「殿下……あなたは最初から……」

「防衛策として張りました」

「わたくし達を潰すために!」

「違いますわ」

 リリアンヌは、ゆっくり首を振った。

「あなた方が私を潰すなら、私は潰されないために守るだけです。
 私はあなた方と闘うつもりなど一切ありません。
 ただ――黙ってやられるつもりもありませんわ」

 暖炉の火が、ぱち、と乾いた火種を弾く。
 その音がまるで、公爵家の沈んだ鼓動のように響く。

「帝国の審査が始まれば、この結界の内容は全て提出されます。
 あとは法務官が判断するだけ。
 あなた達が私の婚約破棄を望むなら、証拠付きで成立しますわ」

「待て!!待て!!」

 アレクシスは、リリアンヌに向かって一歩踏み出す。

「すぐに結界を破棄しろ!今すぐだ!!」

「破棄できるものなら、どうぞ」

「……どうやって破棄すれば!」

「魔力が枯れた今、私にも破壊できませんわ。
 帝国魔法庁に申請すれば、五年後くらいに審査が通るかもしれません」

「五年!?ふざけるな!!」

「冗談ではありません。
 国家防御型結界は、個人でも貴族家でも勝手に破壊できません。
 改ざん不可、証拠として永久保存されます」

 ミレイユの声は、ほとんど泣き声だった。

「終わった……終わったわ……!」

「終わっていませんわ」

「え……?」

「私はあなた方を訴えようなどと思っていません。
 私の願いはただ一つ――静かに離れること」

 リリアンヌは立ち上がり、静かに息を吐いた。
 その瞳には怒りも憎しみもない。
 ただ、澄みきった湖面のような冷たい決意だけが宿っている。

「婚約破棄は歓迎します。
 あとは――法律の順番に従いましょう。
 外交、法務、証拠審査。
 あなた方が正式に望むなら、すぐに帝国に書類を送付できます」

「ま、待て!!」

 アレクシスは、恐怖に駆られた狼のような目で叫んだ。

「それは……この家の名誉が……!」

「名誉とは、実態が伴ってこそ守られます。
 記録を前に沈黙するなら、すべてはあなた方の営みですわ」

 リリアンヌは、最後に静かに言った。

「帝国第五王女の結界は、婚約破棄では解けません。
 国家法も同じ。
 あなた方の恋の都合で書き換えられるものではないのです」

 その瞬間、公爵家の空気は、冬の夜よりも冷たく凍り付いた。

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