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第8話 『皇帝、出陣』
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第8話 『皇帝、出陣』
学園の朝は、冬の霧に包まれて始まった。
白い息が空中で淡くほどけては、地面に吸い込まれてゆく。
芝生は霜で白く、その上を歩く靴底が、ザクザクと音を立てた。
「何……あれ……?」
生徒の一人が声を上げる。
遠く、東の空に黒い塊が動いていた。
最初、巨大な雲の影かと思ったが、違う。
近づくにつれて、それは人の群れであることがわかった。
槍と盾が陽光を反射し、鱗のようにきらめく。
重い足音が、大地を揺らす。
馬のいななき。旗が風を裂く音。
耳を澄ますまでもなく、町全体が震え始めていた。
数を数えることは不可能だ。
だが、見渡す限り地平線まで――軍勢、軍勢、軍勢。
「……軍隊? なんで軍が――」
「しかも帝国旗だぞ!」
「冗談でしょ……!」
校庭は一瞬で騒然となった。
教師たちが慌てて生徒を誘導しようとしたが、彼ら自身、膝が震えている。
門が軋み、城門のように重たく開いた。
軍勢の先頭には、金色の馬鎧をまとった騎馬兵。
その中央に、まばゆい白馬に乗る男がいた。
皇帝だった。
漆黒の外套に、深紅の刺繍。
冬の陽光を跳ね返すような威厳。
その表情は、噂通りの冷徹ではなく、怒りと悲哀を湛えていた。
「……こ、皇帝陛下が……ここに……?」
誰もが息を呑む。
これほどの軍とともに学園へ赴くなど、歴史上でも聞いたことがない。
外交でも戦でもない。
“娘を迎えに来るため”だけに――帝国軍一万人を伴って。
アレクシスとミレイユは、中庭の奥で、膝を震わせていた。
隣では、公爵であるアレクシスの父・ヴァレンシア公爵が真っ青になっている。
「……ばか、これは……外交問題どころじゃない……!」
公爵の膝がかくりと折れた。
貴族たちも青ざめている。
戦争になるわけではない。
だが、“皇帝が軍を伴って娘を迎えに来る”という事実は、羞恥と威圧を街全体に刻み込む。
皇帝の声が、静かに響いた。
怒鳴り声ではない。
だが、沈黙を支配する音だった。
「第五王女リリアンヌはどこにいる」
教師たちは何も言えず、震えながら指差した。
リリアンヌは、落ち葉の舞う中庭の端で静かに立っていた。
外套は薄く、指先が少し冷えている。
だが、その姿は、皇帝軍の中にいても霞むことはなかった。
「父上……」
リリアンヌは少し瞼を伏せた。
皇帝は馬から降り、足を地面に下ろした瞬間――冬土の湿った匂いと、冷えた空気が揺れた。
皇帝は娘に歩み寄り、手袋を外した。
その指先がリリアンヌの頬を優しく撫でる。
父親の表情は、怒りよりも先に、深い悲しみだった。
「この腕が……雑務で荒れているな」
リリアンヌは驚いた。
父が自分の手を見るのは、幼い頃以来だ。
「申し訳ありません。ご心配を――」
「謝るな。謝る理由はない」
皇帝の瞳が炎を宿した。
「私は聞いた。
この家が――我が娘を“奴隷扱い”したと」
その言葉に、公爵は膝をついた。
軍勢が一斉に槍を地面に突き立て、重い音が轟く。
空気の震えが背骨に刺さる。
「陛下!誤解です!誤解でございます!」
公爵は額を地面につけた。
砂と霜で冷たい土が衣服を濡らす。
「誤解だと?」
皇帝の瞳が凍った。
「帝国魔法庁が、結界記録をすでに確認した。
雑務の強制、侮辱、魔力の吸収――
すべて時系列で残っている」
公爵の顔色は死人のように白い。
「陛下、それは……罠か偽造かもしれません!」
「国家結界が偽造されるなら、帝国法はとっくに崩壊している」
「し、しかし……!」
皇帝の声は雷のようではない。
静かな海でありながら、深い海底に引きずり込む力を持っていた。
「――私は娘を傷つけたことを赦さぬ」
ミレイユは蒼白になった。
「お……お待ちください!私たちは王女殿下を助けていたのですわ!生活に必要な力を教えて――」
皇帝は一歩近づいた。
ミレイユは息が止まった。
父親の怒りは、剣より鋭い。
「帝国の王女に必要な生活力は、雑務ではなく――
外交と魔法だ」
その言葉が、刃物のように響く。
「それを奪い、侮辱し、挙げ句――公開で婚約破棄を宣言したと聞いた」
アレクシスは口を開こうとしたが、声が出ない。
喉が痙攣している。
「婚約破棄は、我らの都合だ。
ただし――国家の結界では解けぬ」
皇帝は、リリアンヌの肩に外套をかける。
白い毛皮の温かさが、凍える指を包み込んだ。
「行こう、娘よ。
ここはもう“家”ではない」
リリアンヌは深く息を吸い込んだ。
空気は冷たいが、その冷たさが清潔だった。
「はい、父上」
軍勢の道が開く。
冬の空気に金属の匂いが混ざる。
馬の蹄が土を踏みしめるたび、胸が震えた。
公爵は這いながら叫ぶ。
「陛下!どうか情けを――!この家は滅びます!!」
「滅ぶ理由を作ったのはそちらだ」
皇帝は振り返らない。
「外交相手の娘を傷つけておいて、“情け”を求めるとは卑しい」
風が、ミレイユの頬を切った。
泣き声は冬の空に吸い込まれる。
皇帝は最後にだけ、静かに告げる。
「帝国第五王女の結界は、私人の都合では解けない。
国家の尊厳を守るものだ」
軍勢が一斉に動き出す。
凍てついた地面が揺れ、旗が翻り、街中の窓が震える。
その日――
学園全体が、歴史の中心に立った。
リリアンヌは父の手を取り、外套に身を包みながら馬に乗る。
胸の奥で、凍っていたものが静かに溶けていく。
「やっと……帰れますわね」
皇帝は微笑まず、ただ深く頷いた。
「二度と、あなたを雑務で浪費させはしない。
お前は守られるために生まれてきたのだ」
その声に、リリアンヌの瞳が静かに濡れた。
学園の朝は、冬の霧に包まれて始まった。
白い息が空中で淡くほどけては、地面に吸い込まれてゆく。
芝生は霜で白く、その上を歩く靴底が、ザクザクと音を立てた。
「何……あれ……?」
生徒の一人が声を上げる。
遠く、東の空に黒い塊が動いていた。
最初、巨大な雲の影かと思ったが、違う。
近づくにつれて、それは人の群れであることがわかった。
槍と盾が陽光を反射し、鱗のようにきらめく。
重い足音が、大地を揺らす。
馬のいななき。旗が風を裂く音。
耳を澄ますまでもなく、町全体が震え始めていた。
数を数えることは不可能だ。
だが、見渡す限り地平線まで――軍勢、軍勢、軍勢。
「……軍隊? なんで軍が――」
「しかも帝国旗だぞ!」
「冗談でしょ……!」
校庭は一瞬で騒然となった。
教師たちが慌てて生徒を誘導しようとしたが、彼ら自身、膝が震えている。
門が軋み、城門のように重たく開いた。
軍勢の先頭には、金色の馬鎧をまとった騎馬兵。
その中央に、まばゆい白馬に乗る男がいた。
皇帝だった。
漆黒の外套に、深紅の刺繍。
冬の陽光を跳ね返すような威厳。
その表情は、噂通りの冷徹ではなく、怒りと悲哀を湛えていた。
「……こ、皇帝陛下が……ここに……?」
誰もが息を呑む。
これほどの軍とともに学園へ赴くなど、歴史上でも聞いたことがない。
外交でも戦でもない。
“娘を迎えに来るため”だけに――帝国軍一万人を伴って。
アレクシスとミレイユは、中庭の奥で、膝を震わせていた。
隣では、公爵であるアレクシスの父・ヴァレンシア公爵が真っ青になっている。
「……ばか、これは……外交問題どころじゃない……!」
公爵の膝がかくりと折れた。
貴族たちも青ざめている。
戦争になるわけではない。
だが、“皇帝が軍を伴って娘を迎えに来る”という事実は、羞恥と威圧を街全体に刻み込む。
皇帝の声が、静かに響いた。
怒鳴り声ではない。
だが、沈黙を支配する音だった。
「第五王女リリアンヌはどこにいる」
教師たちは何も言えず、震えながら指差した。
リリアンヌは、落ち葉の舞う中庭の端で静かに立っていた。
外套は薄く、指先が少し冷えている。
だが、その姿は、皇帝軍の中にいても霞むことはなかった。
「父上……」
リリアンヌは少し瞼を伏せた。
皇帝は馬から降り、足を地面に下ろした瞬間――冬土の湿った匂いと、冷えた空気が揺れた。
皇帝は娘に歩み寄り、手袋を外した。
その指先がリリアンヌの頬を優しく撫でる。
父親の表情は、怒りよりも先に、深い悲しみだった。
「この腕が……雑務で荒れているな」
リリアンヌは驚いた。
父が自分の手を見るのは、幼い頃以来だ。
「申し訳ありません。ご心配を――」
「謝るな。謝る理由はない」
皇帝の瞳が炎を宿した。
「私は聞いた。
この家が――我が娘を“奴隷扱い”したと」
その言葉に、公爵は膝をついた。
軍勢が一斉に槍を地面に突き立て、重い音が轟く。
空気の震えが背骨に刺さる。
「陛下!誤解です!誤解でございます!」
公爵は額を地面につけた。
砂と霜で冷たい土が衣服を濡らす。
「誤解だと?」
皇帝の瞳が凍った。
「帝国魔法庁が、結界記録をすでに確認した。
雑務の強制、侮辱、魔力の吸収――
すべて時系列で残っている」
公爵の顔色は死人のように白い。
「陛下、それは……罠か偽造かもしれません!」
「国家結界が偽造されるなら、帝国法はとっくに崩壊している」
「し、しかし……!」
皇帝の声は雷のようではない。
静かな海でありながら、深い海底に引きずり込む力を持っていた。
「――私は娘を傷つけたことを赦さぬ」
ミレイユは蒼白になった。
「お……お待ちください!私たちは王女殿下を助けていたのですわ!生活に必要な力を教えて――」
皇帝は一歩近づいた。
ミレイユは息が止まった。
父親の怒りは、剣より鋭い。
「帝国の王女に必要な生活力は、雑務ではなく――
外交と魔法だ」
その言葉が、刃物のように響く。
「それを奪い、侮辱し、挙げ句――公開で婚約破棄を宣言したと聞いた」
アレクシスは口を開こうとしたが、声が出ない。
喉が痙攣している。
「婚約破棄は、我らの都合だ。
ただし――国家の結界では解けぬ」
皇帝は、リリアンヌの肩に外套をかける。
白い毛皮の温かさが、凍える指を包み込んだ。
「行こう、娘よ。
ここはもう“家”ではない」
リリアンヌは深く息を吸い込んだ。
空気は冷たいが、その冷たさが清潔だった。
「はい、父上」
軍勢の道が開く。
冬の空気に金属の匂いが混ざる。
馬の蹄が土を踏みしめるたび、胸が震えた。
公爵は這いながら叫ぶ。
「陛下!どうか情けを――!この家は滅びます!!」
「滅ぶ理由を作ったのはそちらだ」
皇帝は振り返らない。
「外交相手の娘を傷つけておいて、“情け”を求めるとは卑しい」
風が、ミレイユの頬を切った。
泣き声は冬の空に吸い込まれる。
皇帝は最後にだけ、静かに告げる。
「帝国第五王女の結界は、私人の都合では解けない。
国家の尊厳を守るものだ」
軍勢が一斉に動き出す。
凍てついた地面が揺れ、旗が翻り、街中の窓が震える。
その日――
学園全体が、歴史の中心に立った。
リリアンヌは父の手を取り、外套に身を包みながら馬に乗る。
胸の奥で、凍っていたものが静かに溶けていく。
「やっと……帰れますわね」
皇帝は微笑まず、ただ深く頷いた。
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