『夫、赤ちゃん化しました。』

春秋花壇

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『赤ちゃん返り、再び。──でも今回はひとりじゃない』

第8話:陸、初めての“お兄ちゃん仕事”

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第8話:陸、初めての“お兄ちゃん仕事”

 

その日は、柔らかい春の昼間だった。
窓の外では、風が木を揺らし、サラサラと葉がこすれる音がしている。
リビングには、優しい光が差し込み、赤ちゃん用の洗濯物が小さく揺れていた。

柚はベビーベッドの上で、ふにゃ、とあくびをしたあと、細い声で
「ふぇ……」
と泣きそうな音を出す。

私はすぐに立ち上がった。

「はいはい、ゆずちゃん。ちょっと待ってね。」

肩がまだ重い。
寝不足で、背中に鉛が乗っているよう。
でも昨日より、心の奥は静かだった。

――義母の言葉のおかげだ。

 

陸は床に座り、戦隊ヒーローのフィギュアを横一列に並べながら黙ってこちらを見ていた。

私は柚の口元のミルク跡を見て、小さく息を吐く。

「あ、ガーゼ取らなきゃ……」

そう言った瞬間、陸がぴくっと反応する。

私は陸の名前を呼んだ。

「ねぇ、陸。手伝ってくれる?」

 

その言葉に、陸は目を丸くした。

しばらく動かなかった。
まるで心の中で**「戦うのか」「逃げるのか」**全会議が開催されているようだった。

やがて、小さく頷き、

「……いいよ。」

と呟いた。

その声は照れて丸まっていたけれど、どこか誇らしげだった。

 

陸は慎重に立ち上がり、棚の上のガーゼを取る。

その手は小さくて、ほんのりあたたかくて、それでも震えている。

「ここ……だよね?」

「うん。ありがとう。」

 

陸は柚の胸の横に、ふわりとガーゼを置いた。
柚はその柔らかい触れ方に反応して、目をぱちっと開けた。

そして――

ほんの一瞬。

口元が、にこっ、と上がった。

 

陸が息をのむ音が聞こえた。

「……え……」

 

柚はもう一度笑った。
声にならない、小さな天使みたいな笑顔。

陸は両手を胸の前でぎゅっと握りしめて、震えた声で言った。

「……今……
ぼくのこと好きって言ってる?」

 

私は、微笑んだ。
胸の奥が温かくじんわり広がる。

「うん。言ってるね。」

 

陸は眉を寄せて、でも口元は嬉しそうで、
なんとも言えないもどかしい表情になった。

「……そっか……うん……」

照れ隠しのように頭をかきながら、柚の隣にそっと座る。

 

柚は小さな指を陸の服に触れようと伸ばし、掴めなくて、また手をぱたぱた動かした。

陸は息を止め、ゆっくり手を出し――
その小さな指を受け止めた。

 

「……ちっちゃ。」

 

その言葉は、驚きと愛しさが混ざった声だった。

私はキッチンからココアを作りながら、二人を横目で見守った。
湯気のあまい香りとミルクの匂いがまじり、部屋の空気がやわらかくなる。

 

陸はぽつりと言った。

「……ぼく、お兄ちゃんだけど……
ずっと赤ちゃんでもいい?」

その言葉に、胸がぎゅっとなった。

私は背中越しに答えた。

「うん。
陸が赤ちゃんでいたいときは赤ちゃんでいていいの。
でもね――」

振り返ると、陸はまっすぐ私を見ていた。

私は続けた。

「今日みたいに、“お兄ちゃん”を選んだ日は、
そのぶんだけ、ちゃんと大きくなるんだよ。」

 

陸はしばらく考えて、照れ臭そうに笑った。

「じゃあ今日は……
ちょっとだけ、大きくなる日。」

 

柚はその声に合わせて、また笑った。
その笑顔は、まるで褒めているみたいだった。

私はそっと呟く。

 

「うん。今日はその日。」

 

陸は柚の小さな指を握ったまま、誇らしげに言った。

「ぼく、もう泣かないよ。
……いや、たまには泣くけど。」

 

私は笑って、ココアを陸の前に置いた。

「いいよ。泣いても。
でもね、今日みたいな日は忘れないで。」

 

陸はカップを両手で包んで、小さく頷いた。

 

――“大きくなる日は、自分で選べる”

その気づきが、リビングの空気をほんのり暖めた。

 

そして、その日。
陸は初めて気づいた。

 

柚は敵じゃない。“自分の家族”なんだって。

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