先行投資

槇村香月

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先行投資・俺だけの人。

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進藤君から、樹は進藤君の家にいると告げられ、呆然自失となった私はそのまま家に帰ったはず…だった。

そう…はずだったのに。

「…ん~、戸塚さん、どうしてそんなふくれているのかな?」

私は、今、自宅にはいない。
今は他人の車の中。突然拉致られてしまったのだ。
それも…

「戸塚さん、そんなむすっとしてると美人が台無しだぜ?」
「…、」
「ま、そんなぶすっとしている顔も可愛いんだけどさ」
「………」
「俺としては、やっぱり好みドストライクな戸塚さんには可愛く笑って欲しいんだが…」


それも、初めてあった私に不埒なことをした、あの医者の車に乗っていたりする。

あの、私の身体を触りまくり、なおかつ、樹とのことを見抜いた医者に。

全く持って、予想外である。

どうしてこうなったのか…。

そもそも、私がふらふらし、そこへ医者が声をかけてきたのが原因なのだが。


 数時間前の私に、早まるな、と言ってやりたい。


 進藤君から樹の行方を知らされた私は、それから呆然と帰路を歩いていた。そこへ、本日休暇を取っていた医者がたまたま私を発見したのだ。
医者は呆然とする私の手を引っ張り、「一緒にドライブでも…」と誘い、私を車に乗せたのだ。
そもそも、私と医者はただの顔見知りで会って、友人でもなんでもない。
しかも、医者は診察と称し、不埒な真似をしたし、軽薄で私があまり好きじゃないタイプの男だ。

普通の私ならこんな誘い断るはずなのに…。

やけになったとでも言うのだろうか。

一度あんなことされた相手の手に自分から行くなんて…。

馬鹿としかいいようがない。


「戸塚さん、どうだった?あれから…」
「あれから…?」
「アレだよ…アレ…」

にや、っと視線は前に向けたまま、医者はにやりと口角をあげる。
どこか卑猥というか…含んだ笑みに、カッと頬が染まる。

アレ…から…。
あれっていうと…やっぱりアレか…。
胸や身体を弄られた…。

樹の事が色々あって忘れていたけれど…、恋人じゃない人間に肌を許すなんて…
これも…浮気だったんじゃないだろうか。

「あれれ~、どうしたのかな?戸塚さん。俺はあれから胃の方は大丈夫かって聞いたんだけど…」

にたり、と医者は私の反応を見てからかうように言う。
胃の方…。
そうだよな…医者なんだもんな。

なにを考えているんだ…私は。


「胃の方は…大丈夫だ。ただ薬がなくなったから、明日また薬を貰いに行こうと思う」
「ふぅん…大丈夫…ねぇ…。俺はそうは思わなかったけどね。ね、彼氏には言った?具合悪くて病院行ったら、悪いお医者さんに悪戯されましたって」
「そんなの…っ、言うわけがない…」

そんなの言ったら…樹はきっと私を軽蔑した目で見るに決まっている。
それこそ、もう30の男が知らない男に手を出されて、ぐずぐず泣き寝入りをするなんて…。

怖かった、だなんて。
言える訳がない。
慰めて、大丈夫だって言ってほしかっただなんて。
女のように、言える訳ないだろう。

私が言ったって薄ら寒いだけだ。


「あ、あんなのっ…ただの…診察だろ…」

そうだ、あれはただの診察。

ちょっと悪ふざけが過ぎた診察なんだ。

でも…もし。
もしも…、樹が…
樹が進藤君に同じようなことをしていたら。
今も、進藤君の家にいついて、同じことをしているんだとしたら。

胸元を弄って、下腹部を弄って…、進藤君に愛を乞いていたら…。

「…っ、」
胸が、痛い。
でも、この痛みにもなれないといけない。

もう、離れることに決めたのだから。
樹は、彼の元へ行ってしまったのだから。
私は、この痛みに慣れなくてはいけない。いつかは、痛みすら、忘れなければいけない。

口を閉ざし、俯く私に医者は何も言ってくれない。

しばらく、そのまま車は進み…、
住宅街に出た。
どこだろう…、見たことない風景だ。
医者は、一旦左端に車を止めて、車のエンジンを切った。

そして、私に向き直り…


「ってか…彼氏クン、気づかねぇ?普通」
「え…?」

そっと、頬に手を添える。


「こんなに痩せてる…。診察して一週間…?くらいだぜ?

そんな短期間でこんなに…」

いいながら医者は痛ましそうに眉をよせる。

こんなに…?そんなに痩せてしまったか…?


自分の事だから気づかなかった。

最近、鏡を見てないし。
興味、ない。

私がどうなったって、誰も気づかないから。
樹だって…。


「食事はとっているのか?仕事は…?」
「とってる。仕事も…してる」


両方とも、樹とぎくしゃくして少ない量になったけど。

でも必要最低限は…。


「本当か?」
「本当だ」
「こんなになって?」
「だるいときくらい、人間あるだろう?食べたくないときくらい…」
「そりゃあるが…」


私の反発にまいったな…っと医者は頭をかく。
そして私の顔をじっと見据えた。
まるで、私の心までも見透かすように、医者の瞳は真っすぐ前を向いていて。

私は樹との事すべてが知られないか気が気でなかった。


「我慢してねぇか…戸塚さん。色々」
「……」
「我慢するだけの人生ってさ…俺にとっちゃ可哀相なだけだと思うんだけど」
「あんたに…関係ないだろう…」

我慢もなにも…
私は、ちゃんと考えて行動しているんだ。

我慢なんて…。


 樹の事を諦めるのも我慢なんかじゃない。

"逃げ"だ。
私が、樹が去るのを見ていたくないから。
だから……


「ふぅん…俺に付け入る隙はないって訳ね…?」
「付け入る…すき?」
「戸塚さんが悩んでいる原因を取り除く…手助け?出来ないかなと思いまして」
「ある訳…ないだろ」

ばかばかしい。
こんな話するだけなら、早く家に帰してほしい。
でも…家に帰っても、樹は…樹はいない。
私一人。
あの広い部屋で…。

「彼氏君とはラブラブなのか?」
「…ああ」

無駄な虚勢を張る。
ラブラブ、なんかじゃないのに。
私は、もう樹に見捨てられたのに。

しかし医者は私の話に納得したのか…。
そのまま、私を家まで送ってくれた。

去る時、何か言いたげに口を動かしていたが。
私は、それを見なかったふりをして、そのまま家へと入った。
結局、医者は何をしたかったのだろう。

着ていた上着をハンガーにかけながら、ぼんやりとそんなことを思った。

『我慢してねぇか…戸塚さん。色々』
『我慢するだけの人生ってさ…俺にとっちゃ可哀相なだけだと思うんだけど』

「はぁ…」

家に帰ると、既に時刻は7時を過ぎていた。樹はまだ家に帰っていないらしい。
しんとした、空しい部屋が私を出迎えていた。

汗もかいていたので適当に風呂に入る。

温かな風呂に入ると、ささくれていた心が少し癒された。
ふぅ、と一つ息を吐いて、天井を見つめる。

諦める。
もう、樹の好きにさせる。
私は、何も言わない。
だって、私は樹の親だから。
恋人の前に、樹の親だから。

―だから。
もし、樹が進藤君を選び、誕生日にここを出たら。
私は、笑って、樹を送り出す。
それが、親である私の義務だ。

たとえ、私がどんなに愛していても。
私は恋人である前に、樹の親なのだから。
だから、樹が離れることを選べば、私は何も言えない。
言う権利もない。

「大丈夫…、また、一人に戻るだけだ。8年前に、戻るだけ…」

呟いて、もうそんな年がたったのかと気づく。
8年.
私と樹の年の差に近い。

たかが、8年。でもされど8年。
いろんな事があった。


『公久さんにとって、俺がいるメリットなんかないじゃん』
『公久さん、好きだよ』
『公久さん大好き!』
『公久さん、俺、すっげぇ頭よくなってかっこいい男になるね』
『公久さん…抱きたい…、公久さんが抱きたくて仕方がない…』

こんな私を見て、切羽詰った顔で、私を抱きたいと言っていた樹。
今でも、出会った日から今までふつふつといろんな出来事が蘇ってくる。
樹とキスした日、樹が泣いた日、喧嘩した日…。

それから…初めて抱き合った日。
初めて、人のぬくもりを知った日。

痛かったけれど、それ以上に満たされたものを感じた。
樹の腕の中にいることが、何かに守られているような感じがして…私は男なのに、樹の腕に安らぎを感じていた。
たぶん、それが、好きの…愛している気持ちの証だったんだと思う。

こんな筈じゃなかったのに。こんなに、好きになる予定もなかったのに。
樹といた8年間は、私の中では一番充実した愛された日になった。
樹といて、私は愛することも愛されることも知ったのだ。


いつの日か、樹が自分を押し倒せと言ったことがある。
私のメリットがないから、だそうだ。
樹を世話しても、私になんのメリットもないから。
そんなこと、ありはしないのに。

私は樹の傍にいられるだけで良かったのに。

傍にいられる、それだけで。
隣にいられるだけで、良かったのに。

もう、その役目もお役御免になってしまった。
私の代わりには、進藤君がいる。
わざわざ樹の傍にいたいということも言えなくなってしまった。

バスローブを羽織る。
見る必要もないのに、テレビをつける。
ちょうどテレビでは、野球が始まっており、ヤクルト対巨人をやっていた。
私は何もせずぼんやりと、それを眺めていた。
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