境界のクオリア

山碕田鶴

文字の大きさ
24 / 65

24.慈雨 一

しおりを挟む
 名前も連絡先も何も知らない。
 訊くことも訊かれることもなく、それでも偶然会えば話をする。会わなくても日常は変わらない。
 それが晴久と男の距離だった。
 仕事が早番で、今日は退勤時間も早かった。晴久は昨日より一時間以上早く駅前に来て、こうしてまだベンチに座っている。
   明日は夜勤、次の日は夜勤明け、休みと続くから、この後三日間は駅に来ない。
 それだけで、どうして今日の偶然を期待してしまうのか。自問するが答えはない。
 言い合いをした後から、男が駅前に現れる頻度が減った。言い合いといっても、晴久が一方的に苛立ちをぶつけたに等しい。言わなくていいことも言った。
 男は、まるで深い悲しみの中で泣いているようだった。繊細な心の内をほんの一瞬でも覗いてしまったことに晴久は今も罪悪感を持っている。
 あれは、同情でも憐れみでもない。同調。男が晴久と同じ経験をした感覚になってしまっていたのではないか。
   感受性の強さを無表情に隠していたのか。晴久には想像することしかできない。
 男が晴久を避けているのかはわからないが、会わなくなるのも時間の問題のような気がした。
 謝っておきたい。
 今思えば、男は晴久を心配していただけだ。あの直後からも変わらず声をかけてくれていたのに、晴久は心の中で男を避けた。きっと男は気づいていただろう。晴久と同じだけ遠ざかったのだ。
 会いたい。会って謝りたい。
 ……何を謝る?
 男の心配を疎ましく思った冷たい態度をか。そもそもなぜ謝る?
 ……違う。会いたいから謝りたいのだ。謝るのは口実だ。
 会いたい。ただそれだけだ。
 男に会いたいと思ったのは初めてだった。
 はっきり誰かに会いたいと思ったのも、初めてだ。
 会いたい。
 今、会いたい。
 晴久は空を見上げた。星は見えない。一面の雲が全てを覆い隠していた。
 ……雨だ。
 地面に落ちる暗い点が徐々に広がり、混雑する駅前の誰もが早足になっていく。
 降り出した雨は、晴久の頰を濡らしていった。ポツポツと小さな雨粒に打たれるまま、晴久はベンチから動かなかった。
 僕を知る人は誰もいない。僕は存在しない。
 悲しいと思ったことはなかった。今だって悲しくはない。寂しくもない。
 それなのに、僕はここから動けないでいる。
 願えば叶う偶然なんてあるはずがないのに。
 それでも願わずにはいられない。
 どうか僕がここにいると知って欲しい。
 どうか僕に気づいて欲しい。
 僕のことを見つけて欲しい。
 もし会えたら、僕は……。
   僕は?
 ふいに雨が止んだ。
 見上げると、無表情に晴久を見つめる知った顔があった。

「雨天決行か。本当に、いつもここにいるのだな」

 晴久に傘を差しかける男の声は、やはり穏やかで優しかった。

「天気予報は見なかったのか?」

 本降りになる前でよかったと独り言のように言いながら、男はハンカチで晴久の頭や顔を拭いていく。なおも濡れ続ける晴久の頰を手の甲でさりげなく拭って、呆れたように晴久を見た。
 もし会えたら。

「あの……」

 立ち上がって正面に男を見た途端、あれほど望んでいたはずなのに、まるで伸ばしかけた手を引き戻されるかのように、強い力が晴久の心を抑え込んだ。
 もしこれ以上近づいて、いらないと言われたらどうする?
 晴久を縛る「いらない」という言葉。
   この人には、言われたくない。

「どうした?」

 静かな問いが、晴久の心に波を立てる。

「なんでもない……です」

 ようやくそれだけ言うと、他に話すことは何もなかった。
   会いたかった。その一言は飲み込んだ。
 これ以上近づいてはいけない。そんな言葉がぼんやりと頭に浮かんだ。
 無言で向き合う状況をどうしたらよいかわからないでいると、男が小さく溜息をついた。

「話は終わっていないが今は時間がない。一緒に来なさい」

 え?

「私の用事はすぐ済むから。続きはそれからだ」
「続きなんて……」
「お前が変な顔で笑っている」

 晴久は、はっとした。自分の気持ちをはぐらかす時に、きっと僕は変な顔で笑っている。
 男の傘に入れてもらい、黙って従った。小雨だが、晴久の体が男から少し離れるたびに男の肩だけが濡れていく。
   何も言わない男の横顔を盗み見ながら、晴久は緊張を隠してそっと体を寄せて歩いた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

日当たりの良い借家には、花の精が憑いていました⁉︎

山碕田鶴
ライト文芸
大学生になった河西一郎が入居したボロ借家は、日当たり良好、広い庭、縁側が魅力だが、なぜか庭には黒衣のおかっぱ美少女と作業着姿の爽やかお兄さんたちが居ついていた。彼らを花の精だと説明する大家の孫、二宮誠。銀髪長身で綿毛タンポポのような超絶美形の青年は、花の精が現れた経緯を知っているようだが……。 (表紙絵/山碕田鶴)

お茶をしましょう、若菜さん。〜強面自衛官、スイーツと君の笑顔を守ります〜

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
陸上自衛隊衛生科所属の安達四季陸曹長は、見た目がどうもヤのつく人ににていて怖い。 「だって顔に大きな傷があるんだもん!」 体力徽章もレンジャー徽章も持った看護官は、鬼神のように荒野を走る。 実は怖いのは顔だけで、本当はとても優しくて怒鳴ったりイライラしたりしない自衛官。 寺の住職になった方が良いのでは?そう思うくらいに懐が大きく、上官からも部下からも慕われ頼りにされている。 スイーツ大好き、奥さん大好きな安達陸曹長の若かりし日々を振り返るお話です。 ※フィクションです。 ※カクヨム、小説家になろうにも公開しています。

一億円の花嫁

藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。 父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。 もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。 「きっと、素晴らしい旅になる」 ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが…… 幸か不幸か!? 思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。 ※エブリスタさまにも掲載

『 ゆりかご 』 

設楽理沙
ライト文芸
  - - - - - 非公開予定でしたがもうしばらく公開します。- - - - ◉2025.7.2~……本文を少し見直ししています。 " 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始 の加筆修正有版になります。 2022.7.30 再掲載          ・・・・・・・・・・・  夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・  その後で私に残されたものは・・。 ―――― 「静かな夜のあとに」― 大人の再生を描く愛の物語 『静寂の夜を越えて、彼女はもう一度、愛を信じた――』 過去の痛み(不倫・別離)を“夜”として象徴し、 そのあとに芽吹く新しい愛を暗示。 [大人の再生と静かな愛] “嵐のような過去を静かに受け入れて、その先にある光を見つめる”  読後に“しっとりとした再生”を感じていただければ――――。 ――――            ・・・・・・・・・・ 芹 あさみ  36歳  専業主婦    娘:  ゆみ  中学2年生 13才 芹 裕輔   39歳  会社経営   息子: 拓哉   小学2年生  8才  早乙女京平  28歳  会社員  (家庭の事情があり、ホストクラブでアルバイト) 浅野エリカ   35歳  看護師 浅野マイケル  40歳  会社員 ❧イラストはAI生成画像自作  

見えない戦争

山碕田鶴
SF
長引く戦争と隣国からの亡命希望者のニュースに日々うんざりする公務員のAとB。 仕事の合間にぼやく一コマです。 ブラックジョーク系。

182年の人生

山碕田鶴
ホラー
1913年。軍の諜報活動を支援する貿易商シキは暗殺されたはずだった。他人の肉体を乗っ取り魂を存続させる能力に目覚めたシキは、死神に追われながら永遠を生き始める。 人間としてこの世に生まれ来る死神カイと、アンドロイド・イオンを「魂の器」とすべく開発するシキ。 二人の幾度もの人生が交差する、シキ182年の記録。 『月のトカゲを探す者』第一部(全三部)。 (表紙絵/山碕田鶴)  

ヤクザに医官はおりません

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした 会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。 シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。 無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。 反社会組織の集まりか! ヤ◯ザに見初められたら逃げられない? 勘違いから始まる異文化交流のお話です。 ※もちろんフィクションです。 小説家になろう、カクヨムに投稿しています。

モテ男とデキ女の奥手な恋

松丹子
恋愛
 来るもの拒まず去るもの追わずなモテ男、神崎政人。  学歴、仕事共に、エリート過ぎることに悩む同期、橘彩乃。  ただの同期として接していた二人は、ある日を境に接近していくが、互いに近づく勇気がないまま、関係をこじらせていく。  そんなじれじれな話です。 *学歴についての偏った見解が出てきますので、ご了承の上ご覧ください。(1/23追記) *エセ関西弁とエセ博多弁が出てきます。 *拙著『神崎くんは残念なイケメン』の登場人物が出てきますが、単体で読めます。  ただし、こちらの方が後の話になるため、前著のネタバレを含みます。 *作品に出てくる団体は実在の団体と関係ありません。 関連作品(どれも政人が出ます。時系列順。カッコ内主役) 『期待外れな吉田さん、自由人な前田くん』(隼人友人、サリー) 『初恋旅行に出かけます』(山口ヒカル) 『物狂ほしや色と情』(名取葉子) 『さくやこの』(江原あきら) 『爆走織姫はやさぐれ彦星と結ばれたい!』(阿久津)

処理中です...