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1-1
しおりを挟む第一章
ここは獣人と人間が共存する世界。
基本的に獣人と人間は海を挟んでそれぞれ別の大陸で暮らし、行き来はごく稀であった。
人間の住む大陸は五つの国に分かれ、その内の一つがバイエルント国。陸地の大半が海に囲まれた自然豊かな国である。
バイエルント国の辺境伯令嬢セレス・アーガストは、自国の王子であるクリストファーと婚約関係にある。獣人との平和式典に参加するため王都を訪れていたセレスは、クリストファーから呼び出されて王宮へと向かっていた。
バイエルント国の王城はその美しい純白の城壁から白亜の城と呼ばれ、城内は豪華なシャンデリアや有名画家の作品など一流の品が飾られて贅の限りを尽くしている。そんな美術品には目もくれず、セレスは王子の執務室へと急いだ。
執務室の扉をノックし許可を得ると、室内に入り優雅なカーテシーをした。
「アーガスト家のセレスでございます」
「顔を上げろ」
セレスが顔を上げると、革張りの椅子に腰かけたクリストファーが不満げな顔をしていた。
「随分遅かったな」
「申し訳ございません。殿下の御前に参じるために準備をしておりましたもので」
「ハッ! 準備をした結果がそれか!」
「……申し訳ございません」
セレスは頭を下げる。侍女により美しく結わえられた銀色の髪も、アーガスト家で用意したドレスも完璧な装いだった。それでも気に入らないと言うのなら、それはセレス自身が気に入らないのだろう。
「まぁ、お前のような女に淑女としての完璧さを求めるのは無理な話か」
そう言ってセレスを嗤うクリストファーは、見た目だけでいえば美しい王子だった。
サラサラとした金髪に、ブルーの瞳。国王と当時傾国と称された踊り子との間に生まれた、ただ一人の王子。美しい踊り子は愛妾として後宮に入ったはずなのに、王妃の突然の死後、いつの間にか後釜におさまって王妃となった女性であった。
一方、クリストファーが馬鹿にするセレスも美しい顔立ちをしている。
銀髪にアメジストのように輝く紫色の瞳。色白で気品ある大人びた顔立ちにツンと尖った鼻。
クリストファーの前では感情を露わにすることがほとんどないため、セレスの人形のような美しさがより強調されていた。
「辺境地に篭ってばかりで一向に垢抜けない女だからな!」
そう言ってクリストファーはセレスを馬鹿にしたように嗤った。
隣国との国境付近にある辺境伯領から王都まで、馬車で五日はかかる。王都から離れた場所に住むセレスのことを、クリストファーは流行りを知らない田舎者だと馬鹿にしていた。
セレスとクリストファーは婚約関係にあるものの、お世辞にも友好な関係とは言えない。
少しでも距離を縮めようとしたセレスに対し、クリストファーは田舎者が自分の婚約者なんて恥ずかしいと一切歩み寄ろうとしなかった。
六歳のときに婚約者として紹介されてから、仲良くなりたいセレスが一生懸命クリストファーに話しかけても、つれなくそっぽを向かれてしまう。それどころか、当時他の子供に比べて魔力の発現が遅かった彼女を、出来損ないだと罵る始末。
自分を嫌う婚約者にセレスは疲れてしまい、十八歳になった今では最低限の交流しかしていない。
バイエルント国では二十歳になると成人の儀を行い、貴族は決められた婚約者と結婚するのが習わしである。セレスもクリストファーも今年で十九歳。あと一年ほどでクリストファーと結婚しなければならず、セレスは憂鬱な気持ちを抑えられなかった。
クリストファーはひとしきり嗤った後、人を不快にさせる嫌な顔を見せた。
「愛想もなく教養もない、お前のような女が俺の婚約者だなんて嘆かわしいが、父上の命令だからやむなく婚約者でいさせてやってるんだ。分かっているだろうな?」
「はい」
「明日は獣人共と平和協定を結んで五百年の節目を祝う、大切な式典がある。不本意だが俺の婚約者として隣に立つ以上、俺の顔に泥を塗るような真似はするなよ」
「承知しております」
クリストファーとの関係には半ば諦めてしまっているが、それでも婚約者としての責務は果たさなければならないとセレスは思っていた。
「殿下の婚約者として、務めを果たしてまいります」
明日の式典には多くの獣人が参加する。日頃、人間と獣人はほとんど交流がない。お互いに文化や価値観が違うため、失礼がないようにしなければとセレスは気を引き締めた。
人間とは別の大陸に住む獣人は、その広大な領土を、代々圧倒的な力を持ち竜王と呼ばれる一人の王が治めている。
この世界の獣人は人間の姿にも動物の姿にもなれる。ただ人間と違うのは、人化したときに体のどこかに獣の特徴が現れること、獣人は人間よりも長生きで力が強いことだ。
五百年前に平和協定を結ぶまでは、人間が貴重な素材を求めて獣人を殺したり、獣人が繁殖を目的として人間を攫ったりと問題が後を絶たなかったのだという。だが、平和協定を結んだ今では、人間と獣人との間で輸出入の仕組みを設け、お互い距離を保ちながら一定の条件下でのみ交流している。そのため一般の人間と獣人はほとんど関わりがなく、生涯を終えるまで一度も獣人に会ったことがない人間が大半であった。
今回、平和協定を結んで五百年となる節目の年に竜王率いる獣人の一団が人間の諸国をまわる。使節団とのコネが出来れば貿易において有利になるのではと考える者は多い。各国は少しでも恩恵を受けたいと、華やかな式典の裏側で様々な思惑を抱えていた。
そんな中、王子の婚約者として式典に参加する以上、失礼があってはならない。今回の式典参加にあたって、セレスは数少ない文献を取り寄せて事前に獣人について調べてきていた。
「分かればいいんだ」
クリストファーが満足げに頷く。
顔を上げたセレスは、今回の呼び出しの件でずっと気になっていたことを尋ねた。
「殿下……あの、伝令から至急と言われて来たのですが、今回私を呼んだご用件とはなんでしょうか?」
「ハァ? 今言っただろうが。お前、俺の話を聞いてなかったのか?」
「……申し訳ございません」
クリストファーの高圧的な態度にセレスは目を伏せる。
いくら婚約者から愛されることを諦めているからといって、邪険に扱われれば傷付く。
辛気臭い顔をするなと怒鳴られてしまうから顔には出せないけれど、嫌われている相手と一緒にいなければならないこの状態が辛くて心が凍りそうだった。
そんなセレスに構うことなく、クリストファーは形の良い眉を吊り上げて机を叩いた。
「本当に頭の悪い女だな! 明日の式典での注意をしただろうが!」
「……それが至急の用でございますか?」
「何度も言わせるな! 愚か者が!」
美しい顔を醜く歪めて、クリストファーが大きな声を上げる。
辺境伯領からの長旅を終えて、セレスが王都内に所有するアーガスト家の屋敷に到着した直後にクリストファーからの呼び出しを受けた。使いの者が来たときは一体なんの用だろうと不思議に思っていたけれど、まさかこの程度のことで呼び出すなんて……
使いの者から伝えるだけで良かったのではないかと内心首を傾げたセレスは、ふとクリストファーの前の机を見た。
執務室であれば仕事の書類が置かれているはずなのに、用紙は一枚も置かれていない。サインをするためのペンや、書類を分ける箱さえもない。
――そういえば、この前会ったときに殿下があまりにも仕事をしていないから、やむを得ず指摘したような。
そのときは『お前が見ていないときにちゃんとやっている!』と顔を赤くして怒鳴っていたけれど、まさか仕事をしていると思わせたいがために、わざわざ執務室に呼び出したのだろうか……
そう考えると普段は応接室に呼び出されるというのに今回に限って執務室に来るよう指示された理由が分かる。椅子に腰かけたクリストファーが、どうだと言わんばかりにふんぞり返っているのも頷ける。
自分の婚約者の幼稚な考えに呆れたセレスは、頭を下げながら心の中で大きく溜息をついた。
◆ ◆ ◆
翌日、朝早くから入念に準備をして完璧な装いとなったセレスは王宮へと向かった。
式典には国内の高位貴族とその子息子女が呼ばれ、会場は国の威厳を示すかのように煌びやかで素晴らしいものだった。式典の後はパーティーが予定されている。
獣人に対する好奇心と、少しでも関係を持ちたいという欲望とで会場内は色めき立っていた。
セレスはクリストファーの隣に立ち式典が始まるのを待ちながら、先ほどまで顔を合わせていた国王陛下とのやり取りを思い出す。
セレスがお目通りの機会を与えられたこの国の王は、豊かな髭と豊かな腹をした恰幅の良い男で、本日の式典に備えてか豪華な衣装を身に纏っていた。
国王はセレスの父である辺境伯のことを随分と気にしているようで、セレスが王宮に来るたびに接見を求めてくる。そしてセレスが毎回、父の国王陛下に対する忠誠心は変わらないことを告げると満足そうな顔をするのだった。
国王がセレスとクリストファーを婚約させたのは、父の持つ武力を恐れているからなのだろう。国防の要を担うアーガスト家は、軍事力だけであればこの国で一番の力を誇る。
国王としてその力を制御したいと考えているのだろうけれど、政略的に結び付けられたクリストファーとセレスの仲は悪い。その上セレスとの言葉のやり取りだけで安心している国王を見て、セレスはそれでいいのだろうかといつも疑問に思っていた。
現在父の忠誠心に変わりはないが、仮に父が謀反を起こそうと計画を立てていたとしても、セレスは馬鹿正直にそのことを言ったりしないだろう。
そんなことを考えていたセレスの隣で、暇を持て余したクリストファーが声を上げた。
「お前は気の利いた話題の一つも提供できないのか」
理不尽な文句に内心呆れる。
「殿下、そろそろ式典が始まりますので……」
「そんなことは分かっている。ああ! 気の利かない無愛想な女を隣に置くことのなんとつまらないことか!」
「……申し訳ございません」
「お前がそんな調子だから『氷の悪女』などと噂されるんだぞ」
「『氷の悪女』……? 殿下、それは一体なんのことですか……?」
聞きなれない言葉にセレスがクリストファーを見たときだった。
「静粛に! 竜王様ご一行の入場です!」
高らかな声と共に会場の扉が開き、二十人ほどの集団が中に入ってきた。
初めて見る獣人の姿に会場内はシンと静まり返る。圧倒的な存在感を前に、誰もが声を出すことができなかった。
竜王の後ろに控えるのは、遠目からでも分かるほど屈強な体躯の獣人。人間の一・五倍はありそうな巨大な体は、黒の軍服を纏い迫力を増していた。
人化しても獣の特徴を残しているという話は本当のようで、頭には獣の耳、腰の下には尾が出ている。体の大きさに大小はあれど、どの獣人も皆一様に整った顔立ちをしていた。
そんな中、一番に目を引くのは先頭に立つ竜王の姿。
誰も竜王を見たことがないのに、一目で彼が竜王……獣人の王なのだと分かる。
黒地に金の装飾を施されたコートを着て、前を向いて歩くその姿はまさに王者であった。
多くの者が見つめる中、人目を気にせず堂々と歩く竜王の姿に、セレスは目を奪われた。あっという間に通り過ぎ、遠ざかる背中を思わず目で追ってしまう。
獣人を従えて歩く竜王は揺るぎない自信に満ち溢れているようで、その力強い輝きが自分に自信が持てないセレスには眩しく感じられた。
つつがなく式典は終わった……かというと、少しばかり怪しい。
竜王の雰囲気にのまれた国王が祝いの言葉を噛みに噛み、国の者たちは皆居た堪れない思いをしたのだ。それでもなんとか式典は終了した。
獣人たちが先に会場を後にし、続いてクリストファーとセレスが退席しようとしたときだった。
「クリストファー様~~~!」
甘く高い声が聞こえ、何事かと周囲を見回したセレスは、次の瞬間背の低い何かがクリストファーの胸に飛び込んできたことに気付き、ギョッとした。
――まさか、刺客⁉
しかしクリストファーは呻き声を上げることなく飛び込んできたソレを優しく抱きかかえると、同様に甘い声を出した。
「ラァナ、よく来たな」
「クリストファー様が特別に呼んでくださったおかげです! 私もう楽しみで楽しみで、昨日は眠れませんでしたっ!」
「ハハッ、ラァナは可愛いなぁ」
クリストファーがデレデレとラァナと呼んだ女の子に笑いかける。
「クリストファー様から贈っていただいたこのドレス、いかがですか?」
「あぁ、ラァナによく似合ってる。ラァナは何を着ても似合うな」
「クリストファー様のセンスがいいからですよぉっ!」
キャッキャウフフと二人だけの世界を繰り広げる彼ら。
突然現れた少女に呆然としていたセレスはようやく我に返り、状況を把握して焦った。
貴族は爵位を重んじる。この国の王子であるクリストファーが会場から出なければ、他の貴族は会場から出ることができない。
つまり、国中の貴族たちがこの二人のやり取りを見ているということになる。
婚約者として、これ以上この恥ずかしいやり取りを晒し続けるのはマズイのではないだろうか。
「殿下、そろそろ会場を出ませんと。この後の予定もございますし」
セレスの進言に何を勘違いしたのか、クリストファーはニヤリと意地悪く笑った。
「お前、まさか我々の仲の良さに嫉妬しているのか? ああ! 女の嫉妬は醜いものだ!」
「殿下……あの、そういう話では……」
「無知なお前に紹介してやろう。彼女はラァナ・グランシー男爵令嬢だ」
クリストファーの紹介に、ラァナは可憐に一礼した。
「ラァナ・グランシーでございます」
ハニーブラウンの長い髪を緩やかに巻いて、エメラルド色の瞳を輝かせたラァナはとても可愛い女の子だった。
華奢で背が低く、守ってあげたくなるような、庇護欲をくすぐられるタイプに見える。
「ラァナ、この女はセレス・アーガスト。学園にも通えない辺境の地に住んでいるから、見るのは初めてだろう?」
「まぁ! ではこの方が『氷の悪女』ですのね!」
――だからなんなのかしら。その、『氷の悪女』って。
セレスに対するクリストファーの態度の悪さはともかく、爵位の低い者から紹介するなどマナーに欠ける。これではクリストファーの評価を下げるだけだと、セレスがもう一度退席を促そうとしたときだった。
「殿下、時間がございませんのでご移動をお願いいたします」
式典を進行していた宰相が有無を言わさぬ声で言い放った。
いくらクリストファーでも宰相には強く言えないようで、ブツブツと文句を言いながら会場を後にする。そのことに安堵したのも束の間、パーティー会場までの道のりをセレスは何故か宰相と共に歩くことになった。クリストファーはラァナと共に先を歩いている。
宰相は冷たい眼差しでセレスを見下ろした。
「先ほどの殿下の言動、何故止めなかったのですか」
「止めようとはしたのですが、なかなか聞き入れていただけなくて……」
「それは貴方が殿下の手綱をしっかり握っていないからでしょう。将来の王子妃がそんなことでどうするのです」
「……申し訳ございません」
宰相のお小言にセレスの心はグサグサと傷ついた。確かにそれは自分でも感じていたことだった。
クリストファーが間違った道を進んでいれば、それを正すのも婚約者の役目だ。
ただ、クリストファーとの関係が悪すぎて、セレスの意見はまったく聞き入れてもらえない。
目を伏せたセレスに、宰相はあからさまに溜息をついた。
「困った顔をすれば男がどうにかしてくれるとでも思っているのですか。これは、貴方がどうにかすべき問題ですからね」
「分かり、ました」
目の奥が熱くなってくるのを感じ、セレスはぎゅっと唇を結んだ。
この人の前で泣きたくない。それはセレスのささやかな矜持だった。
式典同様、パーティー会場も贅の限りを尽くされていた。
シャンデリアから降り注ぐ温かな光、最上級の食べ物、色とりどりのドレス。これらは全て獣人たちのために用意されたもの。
乾杯の挨拶の後、普段であれば皆会話や食事を楽しむが、今回は竜王への挨拶のために列を作り、宰相がそれを取りまとめている。セレスもクリストファーを捕まえてその列に並んだ。
「どうして俺がお前なんかと……」
王族である彼は既に竜王への挨拶を済ませている。セレスに付き合うのが面倒なのだろう、ブツブツと文句を言っていた。
けれどここでクリストファーをほったらかしにすれば、宰相がまたお小言を言ってくる。セレスはクリストファーの腕に手を絡め、必死で逃がさないようにした。
「殿下、お願いです。偉大なる竜王様の御前に一人で立つのは心細いのです。殿下がお側にいてくださるだけで安心できます」
セレスがそう言い募るとクリストファーは少し嬉しそうな顔をした。
「そ、そうか。なら仕方がないな。そこまで言うなら付き添ってやろう」
フン! と顔を上げて抵抗を止めた彼に、セレスは心底ホッとした。
公爵家、侯爵家と爵位順に挨拶をし、とうとうセレスの番がやってきた。
宰相が「辺境伯令嬢、セレス・アーガスト様です」と竜王に告げる。セレスは礼を執ると、顔を上げ目の前に立つ竜王を見た。
先ほどは気付かなかったけれど、竜王は随分と端整な顔立ちをした美丈夫だった。
若い女性が色めきだっているのは彼の見た目のせいだろう。
式典では大柄の獣人を後ろに侍らせていたためスマートな印象を受けたけれど、金の装飾が美しい黒のコートに包まれたその体は厚みがあり、背も高く立派な体躯をしていた。
人目を引く、黄金のように強い輝きを放つ金色の髪。
凛々しい眉に、力強いブルーの瞳はギラギラと鋭く、射抜くような眼差しで……
……えっ? 睨まれてる⁉
思いがけない竜王の眼力にセレスの体は硬直した。思わずクリストファーを掴む手にも力が入る。
セレスがクリストファーに縋るような態度を取ると、竜王の視線はますます鋭くなった。
隣に立つクリストファーからは「ヒッ!」と小さな悲鳴が聞こえてくる。
竜王を取り巻く空気が一瞬にして変わったのを感じた。
目の前の男から発せられる重苦しい圧。強い感情をぶつけられて思わず身震いしてしまう。
何故睨まれているのかまったく見当もつかないけれど、初対面のこの人から『嫌われている』ということだけは分かった。
セレスを射抜く鋭い視線からは、憎悪の感情がにじみ出ていた。
「――ローファン……」
後ろに控えていた獣人の側近が竜王の肩を叩く。
セレスに向けられていた視線が外れ、その途端、先ほどまでの空気は一変した。
「……ああ」
竜王は下を向き一つ息を吐くと、セレスをもう一度見た。
「獣人の王、ローファンだ。お会いできて光栄に思う」
定型の挨拶をされ、睨みつけたことなどなかったかのように視線を逸らされた。
ドクドクと恐怖で激しく鼓動を打つ心臓から意識を逸らして、平常心を取り戻そうと試みる。……が、上手くいったかどうか分からない。
セレスはなんとか挨拶を終えると、クリストファーを促して逃げるようにその場を後にした。
壁際まで離れたところで、ようやくクリストファーは我に返ったらしい。先ほどの恐怖体験のせいで青白い顔のままセレスに詰め寄った。
「お前っ、竜王に何かしでかしたのか⁉」
「そんな……思い当たることは何もありません」
本当にセレスには身に覚えがなかった。竜王の前で執った礼は他の貴族と同じであるし、そもそも初対面だ。
あとはもう、セレスの見た目が受け入れがたいものだったとか、それくらいしか考えられない。
一方的ではあるけれど、憧れにも似た思いを抱いた相手から嫌われていると知り、セレスは悲しい気持ちになる。
「私、どうしたらいいんでしょう……」
思わず不安な気持ちを口に出してしまい、きゅっと唇を結ぶ。
視線を下げたセレスにクリストファーは慌てて言った。
「竜王がお怒りだったとしても、おっ、俺には関係ないからな⁉」
お前の問題だ! と指をさして声を荒らげるクリストファーを見て、セレスはますます悲しくなった。もともと嫌われている関係だけれど、ここまでだったとは。
「もうエスコートはいいだろう? これ以上は付いてくるなよ⁉」
そう言って離れていくクリストファーを呆然と見つめる。
クリストファーがいなくなるとセレスは一人になってしまう。冷遇されている王子の婚約者と親しくしようとする者など誰もいなかった。
「貴方はこんなところで壁の花でもやっているつもりですか」
途方に暮れたセレスのもとにやってきたのは宰相の息子、ジェラルドだった。
クリストファーとは同い年で学友でもある彼とは、セレスが婚約者に決まった頃から交流がある。
「こんな調子じゃ、ラァナ嬢の思う壺ですよ」
ただ、昔からの知り合いとはいえ仲が良いわけではない。この親にしてこの子あり、というように、宰相と同じかそれ以上にセレスに対して容赦がなかった。
「貴方は殿下を手玉に取るどころか囲うことさえできていないですからねぇ。『氷の悪女』とは本当に名ばかりだ」
切れ長の目には呆れたような色が浮かんでいる。
「先ほどからその、『氷の悪女』ってなんなのですか? 私、まったく身に覚えがなくて……」
ずっと気になっていたことを尋ねると、ジェラルドは歌うようにスラスラと答えてくれた。
「学園で誰かが言い始めたんですよ。セレス・アーガストは、辺境伯の権力を使って強引に王子の婚約者まで上り詰めた、悪魔のような女だって。ニコリとも笑わず、氷のような心を持ち、気に食わない者がいれば氷漬けにしてしまう、恐ろしい女だそうですよ貴方は」
「なんでそんなことに……」
セレスは脳内で頭を抱えた。なんだろう、そのとんでもない設定は……
クリストファーの婚約者になったのは国王の強い希望によるもので、セレスの願望は一切入っていない。もちろん誰かを氷漬けにしたことだってない。
……確かにセレスの家系魔法は氷であるため、そこは合わせてきたのかもしれないが……
「そんなことはしていません!」
「まぁそうでしょうね」
セレスの訴えにジェラルドはしれっと同意した。
「事実はどうであれ、それを否定する者がいないから噂が助長されているのですよ。貴方、学園に通っていないでしょう?」
セレスは、うっ、と言葉を詰まらせた。
ジェラルドの言う学園とは、貴族の子息子女が八歳から十九歳まで通う魔法学園のことで、義務ではないがほとんどの貴族が通っている。
セレスは自領から通えないことを言い訳にして、入学していなかった。
「ああ見えてラァナ嬢はやり手ですよ。中途入学組なのに学園内の派閥を掌握しているし、男女問わず懐に入り込むのがとても上手い。学園では身分が低い男爵令嬢が王妃に抜擢されるシンデレラストーリーを上手く演出している。その話の中で、貴方は二人の仲を邪魔する悪役なんですよ」
「そんなことになっていたなんて知らなかったわ」
「そりゃあそうでしょうね。貴方は滅多に自領から出ようとしないから」
「……どれもこれも私のせいなのね」
応援ありがとうございます!
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