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九・消え行く泡のように、
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甘い水の匂いが漂って……雨音は囁くように軒を飛び跳ねている。
飛鳥は目をひらいた。外からの薄明るい光が、滴り落ちそうな水の煌きとなって、ゆらゆらと天井に光の影を浮かべている。天井の木目の流れ、一様ではない節穴の波紋が、それと重なり、夢の続きのような色を作り出している。
目覚めてはいるのだが、手足に力が入らない。このまま再び夢という深いまどろみの中に沈みそうだ。
「あの時、助けてくれたのは、誰なのだろう?」
どこかで見覚えのあるような、あの影。もううっすらとしか記憶の無い幼少の出来事。河原で遊んでいた時、水に足を取られておぼれた時の記憶。今では指先に残る濡れて冷えた肌のぬくもりだけが、感触として覚えている。
飛鳥は寝返りをうち隣を見た。隣では泳魚が眠っているはずであったが、彼の姿は無い。何も無い畳の床が、そこにあった。
(兄ちゃんはもう起きたのだろうか)
泳魚は起きるのが早い。彼が起きている、それだけで、このまどろみから起きられるような気がした。少しでも長く一緒にいたいという、恋にも似た感情が湧き上がり、意識にかかった雲を掃う。彼の気配はそれを充分に成してくれる。
飛鳥はなんとか布団から出て、居間へと向かった。朝も早いせいか、廊下には人の気配がしなかった。その静かな廊下を歩く。飛鳥は居間の戸を開け中をのぞいてみた。誰もいない部屋は薄暗く、そこに満ちる空気は肌にまとわりつく。
「あれ、いない」
飛鳥の予想では、そこに座っていてぼんやりしているはずであった。しかし居間をいくら見回してみても、泳魚の姿は無かった。予想は裏切られたのだ。
ふと居間にあるテレビが目に入る。岩のように黒い画面のテレビ。この消えているテレビを、今つければ、何が映し出されるだろう。飛鳥の望むものは、きっと何も映らない。
「どこにいるんだろう?」
その時、部屋の隅で水の跳ねる音がした。水面近くを泳いでいた金魚が人の気配を察して水をはじいたために、水が舞ったのだ。金魚は今日も変わらず赤く美しいその鱗を、水中で揺らしている。
「君は、今日も元気だね」
飛鳥は水槽に近づき、赤い鱗の小さな魚にそうっと語りかけた。
「兄ちゃん、どこに行ったか。知っていてもしゃべれないよね」
金魚は変わらず大きな目で、どこを見ているのか分からない視線であたりを見回している。
飛鳥はため息をつく。これといって用事があるわけではないのだが、姿が見えないということに多少の不安を感じてしまう。
「ハクアに金魚のフンのようだって、言われたっけな」
ハクアに言われたことを思い出し、泳魚にべったりな飛鳥は「確かに」と思い、苦笑いをする。
「ちょっとそこら辺に、探しに行こう」
飛鳥は居間を出ることにした。
飛鳥は居間から出て家中を探した。しかし、どこへ行っても泳魚の姿は無かった。
「もしかしたら、外にいるのかもしれない」
飛鳥はふと思い立って玄関へ向かう。すると泳魚の靴はなかった。つまり家の中にはいないようなのだ。
「こんな朝早くに。雨の中、兄ちゃんはどこへでかけたのだろう」
そう思いながらも、飛鳥は玄関の鍵を開けて外へ出てみた。雨の降る庭や商店街へ向かう道路を軽く見渡してみたが、泳魚はいなかった。
「本当に、どこへ行ったのだろう」
家の中へ入ろうと再び玄関に手をかけた時、飛鳥は違和感を感じた。
「さっき、玄関の鍵を開けて外に出た」
この扉は関係者用の玄関で、大抵、鍵がかかっている。だから鍵がかかっていることに、最初は違和感を感じなかった。関係者である飛鳥はここの鍵を持っている。しかし、泳魚は鍵を持っていない。つまり泳魚は外に出たあと、ここの鍵を閉められないのだ。両親のどちらかが、玄関が開いていることに気が付いて鍵を閉めたとも考えられるが、出かける前や夜の戸締りの時間ならいざ知らず、こんな朝からそのような確認をするとは思えない。
鍵がかかっていた以上、泳魚はこの玄関から出ていない。それは泳魚は外にもいない可能性があるということになる。
もしかしたら窓から落縁へ出て外に出たのかもしれないが、わざわざ靴を持っていってそこから出て行くという、そんな面倒なことをする理由が分からない。
飛鳥はため息をついた。
「本当にどこへ行ったのだろう」
家の中にいるのか、もしくは外へ出たのか、泳魚がどこにいるのかまったく分からなかった。それらがわかる痕跡はどこにも無かった。
誰かに聞けば知っているかもしれない。飛鳥はそう思い本館の厨房の方へ向かう。そこにならば誰かはいるはずである。飛鳥は厨房を覗き込んだ。中では何人かの人が、休むことなく朝食の準備をしていた。
「飛鳥ちゃん、今日は朝早いね」
厨房の入り口で作業をしていた女性が話しかけてきた。飛鳥よりも七つか八つくらい年上くらいの、従業員の中では一番若い人である。
「何か探しているの?」
「兄ちゃんどこへ行ったか知らない? どこを探してもいないんだ」
「お兄さん?」
その言葉は、兄という存在自体に疑問がかけられているそんな違和感を感じた。
「その人、飛鳥ちゃんのお友達?」
「違うよ、従兄だよ」
「従兄、ねぇ」
首をかしげ飛鳥の言葉を繰り返す。
「見なかった?」
「飛鳥ちゃんに、従兄なんていたかしら」
「……」
飛鳥は彼女が冗談で言っていると思った。
「私は分からないわ。ごめんね。役に立てなくて。今は忙しいから、またあとでね」
そう言って厨房の奥へ去っていく。
「うそだ」
あの人が泳魚の事を知らないはずが無かった。彼女が何かと泳魚を気にかけていた事を飛鳥は知っていた。二人で滝に行く時、泳魚は弁当を作ってきたが、それを一緒に作ったはずなのだ。それを彼女が嬉しそうに話していたのを、飛鳥は知っている。それどころか今、恋人がいるのかどうか聞いてきて欲しいと、飛鳥に頼んできたほどなのだ。泳魚の事を知らないはずがなかった。
「うそだ、うそだ、うそだ」
飛鳥は廊下を駆け、自分の部屋の戸を開ける。
起きた時は気がつかなかったのだが、部屋にあるのは飛鳥が眠っていた布団が一組だけであった。本当ならば、畳まれた布団がもう一組、そこにあるはずである。しかし、イグサの床が見えるだけで、隣にあるはずの泳魚の布団は見当たらなかった。
なんでだ? なんで……だ?
―ー心の中でこだまする。
どこにもない泳魚の気配、何一つ残っていない泳魚がいたという痕跡、泳魚の存在が消えている。消えてしまった。
飛鳥は目をひらいた。外からの薄明るい光が、滴り落ちそうな水の煌きとなって、ゆらゆらと天井に光の影を浮かべている。天井の木目の流れ、一様ではない節穴の波紋が、それと重なり、夢の続きのような色を作り出している。
目覚めてはいるのだが、手足に力が入らない。このまま再び夢という深いまどろみの中に沈みそうだ。
「あの時、助けてくれたのは、誰なのだろう?」
どこかで見覚えのあるような、あの影。もううっすらとしか記憶の無い幼少の出来事。河原で遊んでいた時、水に足を取られておぼれた時の記憶。今では指先に残る濡れて冷えた肌のぬくもりだけが、感触として覚えている。
飛鳥は寝返りをうち隣を見た。隣では泳魚が眠っているはずであったが、彼の姿は無い。何も無い畳の床が、そこにあった。
(兄ちゃんはもう起きたのだろうか)
泳魚は起きるのが早い。彼が起きている、それだけで、このまどろみから起きられるような気がした。少しでも長く一緒にいたいという、恋にも似た感情が湧き上がり、意識にかかった雲を掃う。彼の気配はそれを充分に成してくれる。
飛鳥はなんとか布団から出て、居間へと向かった。朝も早いせいか、廊下には人の気配がしなかった。その静かな廊下を歩く。飛鳥は居間の戸を開け中をのぞいてみた。誰もいない部屋は薄暗く、そこに満ちる空気は肌にまとわりつく。
「あれ、いない」
飛鳥の予想では、そこに座っていてぼんやりしているはずであった。しかし居間をいくら見回してみても、泳魚の姿は無かった。予想は裏切られたのだ。
ふと居間にあるテレビが目に入る。岩のように黒い画面のテレビ。この消えているテレビを、今つければ、何が映し出されるだろう。飛鳥の望むものは、きっと何も映らない。
「どこにいるんだろう?」
その時、部屋の隅で水の跳ねる音がした。水面近くを泳いでいた金魚が人の気配を察して水をはじいたために、水が舞ったのだ。金魚は今日も変わらず赤く美しいその鱗を、水中で揺らしている。
「君は、今日も元気だね」
飛鳥は水槽に近づき、赤い鱗の小さな魚にそうっと語りかけた。
「兄ちゃん、どこに行ったか。知っていてもしゃべれないよね」
金魚は変わらず大きな目で、どこを見ているのか分からない視線であたりを見回している。
飛鳥はため息をつく。これといって用事があるわけではないのだが、姿が見えないということに多少の不安を感じてしまう。
「ハクアに金魚のフンのようだって、言われたっけな」
ハクアに言われたことを思い出し、泳魚にべったりな飛鳥は「確かに」と思い、苦笑いをする。
「ちょっとそこら辺に、探しに行こう」
飛鳥は居間を出ることにした。
飛鳥は居間から出て家中を探した。しかし、どこへ行っても泳魚の姿は無かった。
「もしかしたら、外にいるのかもしれない」
飛鳥はふと思い立って玄関へ向かう。すると泳魚の靴はなかった。つまり家の中にはいないようなのだ。
「こんな朝早くに。雨の中、兄ちゃんはどこへでかけたのだろう」
そう思いながらも、飛鳥は玄関の鍵を開けて外へ出てみた。雨の降る庭や商店街へ向かう道路を軽く見渡してみたが、泳魚はいなかった。
「本当に、どこへ行ったのだろう」
家の中へ入ろうと再び玄関に手をかけた時、飛鳥は違和感を感じた。
「さっき、玄関の鍵を開けて外に出た」
この扉は関係者用の玄関で、大抵、鍵がかかっている。だから鍵がかかっていることに、最初は違和感を感じなかった。関係者である飛鳥はここの鍵を持っている。しかし、泳魚は鍵を持っていない。つまり泳魚は外に出たあと、ここの鍵を閉められないのだ。両親のどちらかが、玄関が開いていることに気が付いて鍵を閉めたとも考えられるが、出かける前や夜の戸締りの時間ならいざ知らず、こんな朝からそのような確認をするとは思えない。
鍵がかかっていた以上、泳魚はこの玄関から出ていない。それは泳魚は外にもいない可能性があるということになる。
もしかしたら窓から落縁へ出て外に出たのかもしれないが、わざわざ靴を持っていってそこから出て行くという、そんな面倒なことをする理由が分からない。
飛鳥はため息をついた。
「本当にどこへ行ったのだろう」
家の中にいるのか、もしくは外へ出たのか、泳魚がどこにいるのかまったく分からなかった。それらがわかる痕跡はどこにも無かった。
誰かに聞けば知っているかもしれない。飛鳥はそう思い本館の厨房の方へ向かう。そこにならば誰かはいるはずである。飛鳥は厨房を覗き込んだ。中では何人かの人が、休むことなく朝食の準備をしていた。
「飛鳥ちゃん、今日は朝早いね」
厨房の入り口で作業をしていた女性が話しかけてきた。飛鳥よりも七つか八つくらい年上くらいの、従業員の中では一番若い人である。
「何か探しているの?」
「兄ちゃんどこへ行ったか知らない? どこを探してもいないんだ」
「お兄さん?」
その言葉は、兄という存在自体に疑問がかけられているそんな違和感を感じた。
「その人、飛鳥ちゃんのお友達?」
「違うよ、従兄だよ」
「従兄、ねぇ」
首をかしげ飛鳥の言葉を繰り返す。
「見なかった?」
「飛鳥ちゃんに、従兄なんていたかしら」
「……」
飛鳥は彼女が冗談で言っていると思った。
「私は分からないわ。ごめんね。役に立てなくて。今は忙しいから、またあとでね」
そう言って厨房の奥へ去っていく。
「うそだ」
あの人が泳魚の事を知らないはずが無かった。彼女が何かと泳魚を気にかけていた事を飛鳥は知っていた。二人で滝に行く時、泳魚は弁当を作ってきたが、それを一緒に作ったはずなのだ。それを彼女が嬉しそうに話していたのを、飛鳥は知っている。それどころか今、恋人がいるのかどうか聞いてきて欲しいと、飛鳥に頼んできたほどなのだ。泳魚の事を知らないはずがなかった。
「うそだ、うそだ、うそだ」
飛鳥は廊下を駆け、自分の部屋の戸を開ける。
起きた時は気がつかなかったのだが、部屋にあるのは飛鳥が眠っていた布団が一組だけであった。本当ならば、畳まれた布団がもう一組、そこにあるはずである。しかし、イグサの床が見えるだけで、隣にあるはずの泳魚の布団は見当たらなかった。
なんでだ? なんで……だ?
―ー心の中でこだまする。
どこにもない泳魚の気配、何一つ残っていない泳魚がいたという痕跡、泳魚の存在が消えている。消えてしまった。
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