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夜毎僕を抱く旦那様には偽りだけしか残されていない

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今日俺はとある豪商に貰われる。いや、正確には、売られる。まあ食う物にさえ困る家に生まれた四男など、そんなものだ。別に不満もなかった。今までだって適当に体を売っていたんだ。むしろこれから先、客にも寝床にも困らなくなるというなら、嬉しさすらあった。
愛人だろうとなんだろうと、金持ちなら待遇はかえって、下手な奉公先よりいいはずだ。特に隣の奴の奉公先よりはどこだってマシだろう。

「……こちらへ。旦那様がお待ちでございます」

背後の暗闇へ、従者が溶けて消えた。
旦那様はどうやら、煙管を吸うらしい。煙と薄布と、二重になっていて、この距離からでも顔は見えない。
礼儀なんて存在しないような環境で育ったせいで、ここからどう動いたらいいのかわからない。何が失礼にあたる?いや、そもそもこうして黙っていることも大丈夫なのか?そんな風にぐるぐると考えていると、耳を澄まさなければ聞き取れないほど、優しげで繊細な声が奥から聞こえた。

「もっとこちらへおいで……キミの顔を、私によく見せておくれ」

言われるがままに近寄れば、身を乗り出した旦那様に、ふわりと頬を挟まれた。それと同時に、品の良い香りが舞った。

「だ、旦那様……?」
「ああ、やっぱりそうだ……!ああ、ああ!」

こちらの声など気にもとめず、旦那様はそのまま俺をひしと抱きしめた。……薄い肩が、震えていた。
こちらに体重をかけるような体勢だというのに、重さを感じさせないその人は、何かの幻かなのではとさえ俺に疑わせる。だが、布越しに感じる温もりだけは、確かだった。

「っ、すまない。思わず取り乱してしまった。不愉快だったろう。悪かったね」

しばらく俺を抱きしめていると、旦那様は急に我に返ったようにその身を離し、その立場からは考えられないほど誠実に謝罪した。悲しげに瞳を揺らす旦那様は、美しくあると同時に、人の胸を締めつけて。俺は礼儀など忘れて、思わず否定の言葉を口にした。
父にも母にも愛されなかった俺が、初めて人の愛を、温もりを感じられた。初めて、自分を見てくれる人と出会った。だからとても嬉しかったんだと、あなたがそんな顔をする必要はないのだと、そうと伝わって欲しい一心で、必死に言葉を紡ぐ。
段々と、言葉を重ねる毎に、旦那様の顔はやわらかくなっていった。

「……ありがとう。そう言ってくれて、とても嬉しいよ」

花が綻んだかのような、心からの笑み。俺は素直にその顔を美しいと感じた。
一息ついて、旦那様は俺に向き直る。

「説明と抱擁と、思わず順番は逆になってしまったが、君をここに呼んだのには理由があってね。聞いてくれるかい?」

真剣な顔で話された内容は、およそ信じ難いものだった。

「俺が、旦那様の子供……?」
「ああ、そうなんだ。もう、ずっと昔のことになる。私はとある女性と恋に落ちて、キミを授かった。けれど公にする前に、彼女は姿を消してしまったんだ。目撃証言、考えうる行動、私が培った財産その全てを駆使して、私は彼女を探し続けた。探して探して、探し続けて……ある日彼女を見つけたと報告があった……既に亡くなってしまっていたけれど、ね。その場所をまた手がかりに、消えかけた希望をもって、その近辺の村を探したんだ。そうしたら……キミが、いた。ひと目でわかったよ。そのつややかな黒髪も、空を閉じ込めたような、透き通った青の瞳も……全部全部、彼女と一緒だ。あの時見たキミは冬だというのに薄着で、寒そうに、かじかんだ指先を合わせていた……本当はすぐにでもキミを引き取りたかったのだけれど、なにぶん距離があってね……しかも、こんな……嫁がせるような形になってしまった。申し訳ない。けれど、安心してくれ。キミにはこれから私の子として教育を受け、誰かを妻に娶り、いずれ私の跡をついでもらうつもりだ」

あまりの情報量に目眩がする。本当の両親、教育、その上俺が跡継ぎ?そのまま倒れそうになった俺は、影に待機していた従者らしき人物に抱きとめられる。最後に聞いたのは、優しいおやすみ、の声。俺が心の隅で憧れてやまなかった、子供を寝かしつける親の声。
次々と押し寄せる疑念。それでも、俺の今までの苦労は全て、この人に会うためのものだったんだということ。これだけは、ひとつ確かに信じられた。

あの衝撃的な日から、もう1ヶ月が経った。最初は手を通すことさえ躊躇われた上質な衣服にも、一生かかっても食べることも、見ることさえもなかったであろう食材ばかりが並ぶ食事にも、少しづつ、俺は慣れていった。旦那様……もとい父様への疑いも、あの日受けた言葉が実行されていく度に薄らいで、今ではもはや影も形もない。だってあの人は本当に、俺に愛情を注いでくれる。俺を見つめる瞳、名を呼ぶ声、頭を撫でる時の優しさ。信じずにはいられなかった。信じたかった。俺にも無償の愛が与えられる資格があるのだと。
風が頬をさらりと撫でた。空を見上げれば、薄い雲に丸い月が透けて見えた。ああ、こうして素直に景色を美しいと感じられる。以前はそんな余裕も、発想もなかった。それもこれも、全部が全部あの人のおかげだと思うと、顔が無性に見たくなる。昼にも適当な理由をつけて会いに行ったというのに。
ため息が漏れる。どうやら自分は、想像以上に甘えたがりらしい。親の顔など見たくもなかった時代があったとは自分でも信じられない……まだ、起きておられるだろうか。もし、お休みになられているようなら、すぐに帰ろう。様子を見るだけ。そう、それだけだから……だから。誰に対してかも分からない言い訳を繰り返しながら、俺は部屋を出た。



様子見などするまでもなく、父様は起きていた。寝巻き姿で起きて、月を眺めていた。父様が自分と同じことをしていた、ほんのそれだけなのに、それが柄にもなく嬉しくて。
つい駆けだした俺の足音に、父様が振り返る。それから、ふわりと微笑んだ。

「……やあ、キミも眠れないのかな」

言葉も仕草も表情も、いつもと何一つ変わらない。変わっていない、のに。何故だか俺にはその父様が泣いているように見えて。途方もない悲しみを、1人背負い込んでるように見えて。気付けば思わず、抱きついていた。父様から抱きしめられることは、たまにあった。でもそれらは全て、一瞬で。気づいた時にはもう、香りしか残っていないような、そんな儚いものだった。けれど、今は違う。煙のようなその人は今、俺の腕の中にいる。

「俺じゃ頼りないでしょうけど……心配事があるなら、話してください。俺に出来ることなら、なんでもします。だから、どうか、そんな悲しいお顔、もうなさらないでください。」

腕にきゅうっと力を込める。とはいえ、つい動いてしまったが、失礼だとは、思われないだろうか。不愉快に、感じないだろうか……嫌われは、しないだろうか。今更浮かんでくるそんな不安のせいで、上を向けない。
一体どれほどの時間が経ったのか。動かないままの父様が、不意にぽつりともらした。

「……私がキミを買ったからと言って、そんな気を遣う必要はないよ」
「っ!違います!!」

腕に込める力が、無意識のうちに、強まった。

「俺が貴方に買われたからとか、そんなんじゃなくて!俺はこの1ヶ月で、初めて幸せを感じられました。初めて人の温かさに、家族の温かさに触れられました。それは全部、他でもない貴方のおかげだ。だから、そんな貴方の悲しむ顔は、見たくないんです」
「千、代……?」

初めて聞く女性の名前に、ふと顔をあげれば、そのまま頬を包まれた。初めて会ったあの日と、同じ瞳の輝き。いつの間に出てきたのか、差し込む月の光に照らされた父様。どうしようもないほど眩くて、それでいて悲痛なその表情に、目を奪われて。
抱きしめ返された時にはもう、唇を奪われていた。壊れ物を扱うかのような、繊細で、触れるだけの口付け。
しようと思えば、抵抗も、振りほどくこともできた。冷静になるだけの余裕もあった。だから、それがいけないことも、わかっていた。自分にもたらされる不利益、訪れるであろう苦しみ、全て理解していた。そう、理解していたんだ。そのうえで、俺は応えることを選んだ。自分から舌をねじ込ませる。驚き以上に、喜ぶ気配が感じられた。ああ、たとえこの行動にどんな意味があったとしても、この人が、それで救われるなら。俺はそれでいい。

目覚めた時には自分の部屋で。衣服も広がる景色も、何もかもが、至っていつも通りだった。あれは夢かなにかだったのだろうか、なんて思った途端、しばらく感じていなかった、独特の痛みが腰に走った。

「ああ、それじゃあ……」

昨夜のことは、現実だったのか。呆然と、手のひらを見つめる。俺は本当に、父様に抱かれたのか。それからしばらくかけて、昨晩の出来事を思い返す。父様の汗に濡れた肌。普段からは想像もつかないほど、余裕のない顔。
後悔は、なかった。むしろ、不思議な高揚感すら湧いていた。ただひとつ気になったのは、最中にも何度も呼んでいた、女性の名前。彼女こそが、俺の本当の母親なのだろうか。

それからしばらくは、満月の度に呼び出された。昼のおしゃべりで和やかな雰囲気とは打って変わって、最中、父様はただ時折、例の女性の名を呼ぶだけで、終わって部屋へ送り届ける間にも口を開かなかった。
だが段々と、呼び出しの頻度が多くなっていくのに合わせて、父様の口数も増えていった。最中に愛の言葉を囁かれるのに始まって、今では昼に、ただの恋人同士がするような、意味の無い戯れさえも行われる。

「キミの肌は本当に滑らかで美しい。彼女とは色も細さも全く違っているのに、感触はそっくりだ」

そう言って、指先で、唇で。慈しむように俺の体全体をたどる。

「私がこうして、不意に口付けた時の表情も同じ」

軽く唇を吸われる。父様は唇の端を歪ませる。

「そして何より……私を見つめるこの瞳。ああ、本当に美しい。キミの瞳に見つめられるだけで、私は我慢が効かなくなる。心から、愛しているよ」

瞳をじっと覗き込んで、それから満足気に父様は微笑む。

これらの行動全てが、嫌じゃないから困っていた。俺もこの人に、与えられる愛に、快楽に、溺れていた。亡き母といくら比べられようと、今この場にいるのは俺だ。この人が今愛を囁いているのは、この俺だ。
今ではそっくりに産んでくれた母親に、感謝すら覚えている。だってそうでなければ父様に気づいてもらえなかった。父様を慰めることもできなかった。誰かを愛することも、愛されることもなかった。この胸にある温かい感情。これがきっと、愛なんだ。

今日の夜もいつも通り、呼び出されていた。前に似合うと言ってくれた藤色の召し物に、今夜は少し肌寒いから、内緒で作らせた父様とお揃いの羽織を。褒めてくださるかな。似合うと笑ってくれるかな。そんなことを考えていた矢先。不意に後ろから口を塞がれ、抵抗出来ぬほど強い力でそのままそばの物置へ押し込まれた。扉が閉められれば室内は完全な暗闇。それでも息遣いで、複数人で襲われたとわかる。身代金?いや、それなら屋敷の外へ連れ出される。彼らの目的は。

「っ!」

その感覚に、ぞわりと背筋が震えた。これは、手。複数人があらゆる場所から服の中へと侵入してくるのがわかる。荒々しい手つき。自分よりも高い体温。違う違う違う!この手じゃない。俺に触れていいのはこの手じゃない。こんなこと、父様と会う前なら日常茶飯事だった。なのに、なのに。
嫌だ。気持ち悪い。心が、拒否する。邪魔になったのか、舌打ちと共に衣が引き裂かれた。
同時に、声を出すまもなく誰かしらのそれが口に突っ込まれる。噛む余裕もないくらい、頭を抱えられて、口奥を犯される。
ふと、暗闇の中でひとりが声をあげた。

「おいおい、金払ってまで犯せっていうからどれだけ醜いのかと思いきや、まあまあじゃねえか」

金を払った?誰かが命令したというのか。行為にだけは慣れているせいか、頭だけは冷静に言葉の意味を考える。けれど答えはすぐにもたらされた。

「こちらです」

カラリと開いた戸。月の光に照らされたその顔には見覚えがあった。いや、見覚えなんてものではない。それは、いつも父様の一番そばにいた。

「……はははっ、なかなかいい格好だな。やはり下賎の者はそのように体でも売っておればよいのだ」
「父様がっ……!!!」

こんなことを許すと思うのか、と犯すうちに一瞬緩んだ隙を狙って声を出す。
けれど、続きは言わせては貰えなかった。父様という言葉を発した途端、従者の顔が釣り上がり、気付けば頭を踏みつけられていた。めりめりと何かが食い込む感触。

「お前が!お前ごときがそう呼ぶ資格などない!!!」

声を張り上げて従者は叫ぶ。

「あの方のお子様は死んだ!!!母君の腕に抱かれたまま!お前はあの方となんの繋がりもない、ただの薄汚い下賎だ!!!」

頭の痛みも、下半身の違和感も、全てが消えた。とって変わったのは従者の言葉。俺が、父様の子ではない?

「あのお方自身が確認された!母君の遺体も、幼子様の遺体も!だいたい年齢も合わない!そんなことに気付かないお人ではない!お前さえいなければ、あのお方だって現実を受け入れていた、お前のような者に騙されもしなかった、!!!お前が!お前が!!!」

一通り言い終えて満足したのか、従者は最後に俺の頭を一蹴りして去っていった。汚れたお前を見れば、これであのお方も目を覚まされるだろう。そんな言葉を残して。それでも俺には、蹴られた痛みも、言葉も、何も届かなかった。ただ俺の頭には父様が浮かんでいた。

そのまま抵抗せずにいると、やがて男たちは行為を終えたらしく去っていった。
衣服の乱れも正さず、俺はただよろよろと、父様の部屋へと向かう。

俺の姿を見た父様は開口一番、何があったと詰め寄ってきた。普段ならば、父様の言葉を無視するなどありえない。でも今日は、今回だけは、父様の話よりも、怪我の治療よりも先に聞きたいことがあった。

「……俺が父様の子でなくとも、愛してくれますか?」

自分のものとは思えないほど弱く細い声だった。

「?そんなことより今は医者を……」
「答えて、ください」

グッと自分の裾を握りしめる。手には汚らわしい男の欲望が付着していた。
父様はひとつ息をつくと、ただ事ではないと悟ったのか、俺を己の膝へと誘導した。そして静かに、こう言った。

「キミは、私の子だよ」

ぽんぽんと頭を軽く叩きながら。

「……父様は実際に、見たのでしょう?双方の遺体を」
「見ていないよ。キミの遺体だけはなかったと伝えたはずだろう」
「……けど」

「見て、いないよ」

父様は見ているこちらが悲しくなるくらい、そっと微笑んだ。
ああ、そうか。胸につっかえていたものが、すとんと落ちた。
この人は、可哀想な人なんだ。知らないふりを、無理に続けているんだ。そうか、そうなんだ。

「父様、俺は母君と似ていますか?」
「ああ、もちろん」
「父様は、母君と同じくらい、俺を愛してくれていますか?」
「……ああ、もちろん」

従者に蹴られた時に出たらしい鼻血を、父様がぺろりと舐めた。俺の血で真っ赤に染まった父様の舌は、とても美しかった。

俺が願うのは、あなたの幸せです。
あなたが望むのであれば、私は役者になりましょう。私はいくらでも踊りましょう。私はいつまでも演じ続けましょう。
他の誰でもない、あなただけのために。
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