紫房ノ十手は斬り捨て御免

藤城満定

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お静さんは元忍者〜其の弐。

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 『丸九』に新しく雇われた奉公人が元忍者だと看破ったその晩の九つ頃、伝三郎の家の塀を一つの影が飛び越えて入ってきた。
 その影は屋根に飛び乗り瓦を剥がしにかかるが、ちょっと手こずっているようだ。屋根から忍び入ろうとしているのだろうが、瓦と瓦を膠で固めてあるので、剥がすにはそれなりの時を要するので、屋根から忍び込むのはかなり難しいし、八丁堀の組屋敷が建ち並ぶこの辺りで屋根の上に長い事いれば直ぐに見つかり大騒ぎになる。
 その影は屋根が駄目なら雨戸をと思ったのだろう。梃子のような道具を使って抉じ開けようとしているが、それも叶わなかった。
 何の気配もなく、いきなり雨戸が開いたのだ。
 ギョッとして飛び退くが、雨戸を開けた伝三郎の手から分銅付きの細紐が投げ打たれ、その影の右足を絡め取った。
 その影は腰の脇差を抜いて細紐を切ろうとしたが直ぐに諦めた。脇差に小柄が突き立ったからだ。
「お静。どうする」
 影は暫く躊躇ったが、覆面を取った。
 その影は間違いなくお静だった。
「旦那。旦那は忍びですか」
「少々心得があるだけだ」
「少々、ね。その少々でこうまで手玉に取られたんじゃあ、女狐お静の立つ瀬がありゃしませんよ。さ。スッパリと殺っておくんなさいな」
 脇差の鞘も棒手裏剣などの暗器も何もかもを捨てて死を覚悟したお静だったが、ここでもまた思いもかけない事が起こった。
 伝三郎が斬ったのがお静ではなく、足に絡みついた細紐で、
「まあ、上がれ。酒と肴を用意してある」
「まさか、私が忍び込んでくると」
「ああ。そのとおりだ。今夜か遅くても明日の晩くらいだろうとな」
 お静は小さく笑った。
「こりゃ駄目だ。参った参りましたよ。この女狐お静は兜を脱ぎましたよ」
 忍びの世界から抜けたとは言え、里の女忍びの中では上位にあって、それなりの腕前だと自負していた自分が手も足も出せずに赤子の手を捻るように敗れるなんて思ってもみなかったのだろう。
 足に絡まった細紐を外して笑いながら屋敷に上がり、勧められるままに猪口を持ち、注がれる酒をキュッと飲む。
「おや。さすがは八丁堀の旦那だ。酒も上等なのを飲んでらっしゃるんですね」
「ああ。この酒は日本橋松島町にある酒問屋信濃屋から贈られた物だ。信濃屋の馬鹿旦那が美人局に遭ったのを助けてやったら、毎月角樽を届けてくれるようになったんだ。ほれ、飲め飲め」
「灘の生一本。ただ酒だと思うと余計に美味しゅうございますよ」
「だろう。ただ酒は美味いからな」
 伝三郎も猪口を傾けながら笑う。
「で。この後はどうする」
「旦那を驚かしたら旅に出ようと思ってたんですがね、逆に驚かされちまったんでね。さあて、どうしたものか」
「『丸九』は辞めてきたのか」
「ええ。私が忍びの出だと知られたからには彼処に居座るわけにはいかないんでね。藤助親分と女将さんは辞める事はないと言って下さったんですがね。どうも居心地が良くないんですよ」
 忍びの血ですかねと寂しげに笑うお静に伝三郎は何を思うのだろう、そうかいと呟いて猪口を傾ける。
 注いで注がれて、静かに酒を飲む。
 暫くして、
「行く当てがねえんなら、家で働かねえか」
「冗談でしょう」
「下男の左吉の給金は三両一人扶持で下女のお咲は一両三分一人扶持。オメェは下女というよりも女中として働いてもらいてえから、給金は二両二分一人扶持を払う。それにオメェには色々と働いてもらうから、その時には特別に手当も出そう。どうだ」
「旦那。私は元とは言え忍びの出ですよ。そんなのを雇って、後で旦那に迷惑がかかるかもしれませんよ。それでも良いんですか」
「迷惑か。そうだな、そんなのは叩っ斬っちまえばいいだけだ。ほれ、あれを見ろ」
 伝三郎が指差す先には紺羽織があり。
 その紺羽織の紋は葵の御紋所。
「おう。そうだ。ありゃな畏れ多くも上様から賜った物でな、紫房ノ十手と同じで『斬り捨て御免状』なのさ。其処らの大名や旗本連中がケチを付けて来たって悪党なら幾らでも叩っ斬っても構わねぇって証しだ。だからオメェを雇ったって迷惑なんぞは迷惑の内にはならねえんだ。どうだ。これでもまだ不安か」
 お静はニヤリと笑う伝三郎の目を見て猪口を置くと、手を突いて頭を下げた。
「どうぞ、私を雇って下さい」
「分かった。今日からオメェは家の奉公人で、家族の一員だ。左吉とお咲にはオメェが家で働くのは話してあるから朝になったら顔合わせだ。藤助とお玉には見廻りの時に挨拶に行くぞ」
 伝三郎は嬉しそうに猪口を傾ける。
 お静は手回しの早いこってと苦笑いしていたが、伝三郎の優しさに思うところがあったのだろう。猪口に残った酒を一気に飲み干した。
 こうして元女忍者女狐お静は、伝三郎の女中兼密偵となったのである。
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