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水神様と娘
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頭上からの赤い瞳に見据えられ、知らず体が震え出す。
恐怖でその場に崩れ落ちそうになりながら、なんとか正座の体勢を整えた。
「……水神、さ、ま……」
目の前でとぐろを巻く、白くなめらかな、鱗に覆われた長い体。二つに割れた細い舌。私なんか一呑みに出来そうなそのあぎと。
大きな、白蛇。
「わ、わたくし、……この度、供物と、して……やって参りました……!」
本当にいた、いや、いらっしゃった。怖い。大きい。神様。化け物。
乱れた思考が悲鳴にならないよう、カラカラに乾いた喉と舌を慎重に動かす。
「この身を、捧げます、ゆえ……どうか、どうか! 雨を、降らせて下さいませ…………!」
◇
ここ二月ほど、うちの領地は日照り続き。
いつぶりかに顔を見せてくれたと思ったお父様は、威厳ある声でそう仰った。
そして、こう続けられた。
『このままでは作物も、民の命も危うくなる。……誰かを、水神様の元へ遣わせねばならん』
そしてその身を差しだし、血肉と引き換えにこの地に恵みを降らせて頂かねば、と。
『お前はうってつけだ』
ようやく役立つ時が来たのだ、励め。
そう仰って、頭をなでてくれた。初めて、なでられた。
励まない筈がない。
儀式用と言われた裾の長いゆったりとした衣服を身にまとって、初めて乗る籠の揺れに戸惑いながら、水神様をお祀りする山の手前まで送られた。
そこからは一人で山を登った。
長い裾を引きずらないよう持ち上げて、同じく長い袖も肩に掛けて。
途中、履き慣れない草履の鼻緒が切れて、置いていくのも忍びなくて土を払って懐にしまった。そしたら足袋も汚れてしまうと思い至って、それも脱いだ。同じようにしまう。
足の裏に感じる土の感触。慣れ親しんだもの。この方が歩きやすい。
そうして一本道を登っていけば、言われたとおりにお宮様があった。
足袋と草履を履き直し、袖と裾を元に戻して、背筋を伸ばして一礼する。
「……」
ここまでしてから、どうやって水神様にお会いすればいいのか聞いていない事に思い至り、私は固まってしまった。
父からも、支度を手伝ってくれた人達も、運んでくれた人達もただ「行け」としか。
行けば、水神様が現れる。そしたら、その大蛇へ頭を垂れ、お願いするのだと。
自分を食って、雨を降らせて下さいと。
「え、と」
日照りで虫達もやられたのか、山の中は静まり返っていて、情けなくか細い自分の声が小さくこだました。
「……す、水神、様……? いらっしゃいませんか……?」
なんとか、辺りに視線を彷徨わせながら呼びかける。
出てきてもらわないと、困る。
それが水神様だろうとなんだろうと、出てきてもらわないと私はお役目を果たせない。
「水神様ぁ…………? お、お姿? を見せては頂けませんか……?」
どのくらい経ったか。途方に暮れかけていたその時、お宮様の脇で何かの影がよぎった。
「?」
それを、もしかして、と思う間もなく。
「──……ッ!」
お宮様の後ろから鎌首をもたげてきた真っ白な大蛇に見据えられ、私は全身を強ばらせた。
◇
私は頭を地にこすりつけ、言葉を続ける。
「供物はわたくしで御座います! 今まで一度も病にかからず、身も清らかに御座います! この地で一番の供物になると神主様も仰っておられました!」
ずるり、と地を這う音がした。ヒュッ、と喉がすぼまる。
「……どうか、わたくしを、私を、お気に、召……されまし、たら……」
ずるり、ずるり、と音が右手に回り、後ろへ移動していく。
ああ、視線を感じる。あの赤い目がこちらを向いている。私は今、品定めをされている。
乾いた地面を見つめながら、飛びそうになる気を必死に保つ。
「……その、後……どうか……わたしの、」
ぁ、「わたし」じゃ、駄目と言われたのに。「わたくし」と言えと。
「わ、わたくし、の父の収める地へ、恵みの、雨を……!」
合わない歯の根をなんとか合わせ、掠れそうになる声を絞り出す。
「ど、どうか──」
「気に入らなければ、追い返しても良いのか?」
「──え」
涼やかな声が耳朶を打ち、思わず間の抜けた声が出る。
「雨を降らせろとお前は言うが、おれが「嫌だ」と言ったら、どうする気だ?」
「……っ!」
俯けた視界の隙間から、チロチロと出し入れされる舌が見えた。
この声、水神様の、こえ?
「そ、れは……」
「供物と言うが、そんな枯れ木のような体、食い出も無さそうだ」
その声はなんともつまらなそうに言葉を続ける。
「その辺の兎でも食った方がましな気もするな。……ふむ、ではやはり娘、お前は帰れ」
「そ、そうは参りません!」
慌ててがばりと顔を上げたら、目と鼻の先に水神様のお顔が。
つまり、大きな白蛇が。
「ヒィッ!」
思わず叫び声を上げ、身を起こした勢いのままに後ろへ下がる。
拍子に、引っかけるようになんとか履いていた草履が脱げた。
「いちいち騒ぐな。食わぬと言ってるだろうに」
「! い、いえ、ですが」
かぱりと開いた口から届く呆れ声に、身を縮こませる。
食べない、というこの蛇。いや、水神様。
安堵してしまうが、駄目なのだ。
「どうにか、お納めいただけないでしょうか……? 微力ながらもそれをお力に、この地に、雨を……」
「雨、雨なぁ……」
水神様はその鎌首を、上に下にゆったりと振る。血のような赤い瞳は今は空を見ているようで、私はまた少しほっとした。
この水神様は元は乱暴な物の怪で、人をよく食っていたと聞けばそれはもう恐ろしかった。昔何かで心を入れ替え祀られるようになったとも聞いたけれど、物の怪は物の怪で。
そんな方のもとへ足を運ばなければならないと知った時には、外に出られた喜びなど吹っ飛んだのだ。
でも、これは、わたしが初めて役立てる事。
最初で最後の、わたしのお役目。
「そうだ娘よ。もう一つ思いついたぞ」
「えっ?」
はっと顔を上げると、表情は掴めないながら興味深そうに、水神様はこんな事を言った。
「おれがお前など食わずに雨を齎したら、お前の処遇はどのようになる?」
「……え、ええっ?!」
何を言ってるんだろう、この蛇。いや水神様。
そんな、自分に何の得にもならない事を? 人を食べるのが大好きなんじゃなかったの?
「今ここを治めているとかいう父のもとへ帰るのか? それともどこぞへ嫁にでも行くのか?」
なんでか楽しそうに訊ねられる。
でも。
「……いえ、どちらも、ないかと……」
私の役目は、この地へ雨を降らせてもらうよう、水神様への供物となる事。それが出来なければ──。
言葉に詰まったわたしに向かって、水神様は頭を斜めに傾けた。
「ふむ、では娘」
水神様の言葉と共に、ふわりと、どこからか水の匂いがした。
「行くあてもなくなるならば、おれの使いになれ」
その言葉が終わるかどうか、天は瞬く間に雲を生み。
「──え」
ザァァ────……
乾いた地面を雨粒が強く叩いて、土が黒く色づいていく。そしてそれは、いつしか水煙を立ち上らせるほどの豪雨となった。
恐怖でその場に崩れ落ちそうになりながら、なんとか正座の体勢を整えた。
「……水神、さ、ま……」
目の前でとぐろを巻く、白くなめらかな、鱗に覆われた長い体。二つに割れた細い舌。私なんか一呑みに出来そうなそのあぎと。
大きな、白蛇。
「わ、わたくし、……この度、供物と、して……やって参りました……!」
本当にいた、いや、いらっしゃった。怖い。大きい。神様。化け物。
乱れた思考が悲鳴にならないよう、カラカラに乾いた喉と舌を慎重に動かす。
「この身を、捧げます、ゆえ……どうか、どうか! 雨を、降らせて下さいませ…………!」
◇
ここ二月ほど、うちの領地は日照り続き。
いつぶりかに顔を見せてくれたと思ったお父様は、威厳ある声でそう仰った。
そして、こう続けられた。
『このままでは作物も、民の命も危うくなる。……誰かを、水神様の元へ遣わせねばならん』
そしてその身を差しだし、血肉と引き換えにこの地に恵みを降らせて頂かねば、と。
『お前はうってつけだ』
ようやく役立つ時が来たのだ、励め。
そう仰って、頭をなでてくれた。初めて、なでられた。
励まない筈がない。
儀式用と言われた裾の長いゆったりとした衣服を身にまとって、初めて乗る籠の揺れに戸惑いながら、水神様をお祀りする山の手前まで送られた。
そこからは一人で山を登った。
長い裾を引きずらないよう持ち上げて、同じく長い袖も肩に掛けて。
途中、履き慣れない草履の鼻緒が切れて、置いていくのも忍びなくて土を払って懐にしまった。そしたら足袋も汚れてしまうと思い至って、それも脱いだ。同じようにしまう。
足の裏に感じる土の感触。慣れ親しんだもの。この方が歩きやすい。
そうして一本道を登っていけば、言われたとおりにお宮様があった。
足袋と草履を履き直し、袖と裾を元に戻して、背筋を伸ばして一礼する。
「……」
ここまでしてから、どうやって水神様にお会いすればいいのか聞いていない事に思い至り、私は固まってしまった。
父からも、支度を手伝ってくれた人達も、運んでくれた人達もただ「行け」としか。
行けば、水神様が現れる。そしたら、その大蛇へ頭を垂れ、お願いするのだと。
自分を食って、雨を降らせて下さいと。
「え、と」
日照りで虫達もやられたのか、山の中は静まり返っていて、情けなくか細い自分の声が小さくこだました。
「……す、水神、様……? いらっしゃいませんか……?」
なんとか、辺りに視線を彷徨わせながら呼びかける。
出てきてもらわないと、困る。
それが水神様だろうとなんだろうと、出てきてもらわないと私はお役目を果たせない。
「水神様ぁ…………? お、お姿? を見せては頂けませんか……?」
どのくらい経ったか。途方に暮れかけていたその時、お宮様の脇で何かの影がよぎった。
「?」
それを、もしかして、と思う間もなく。
「──……ッ!」
お宮様の後ろから鎌首をもたげてきた真っ白な大蛇に見据えられ、私は全身を強ばらせた。
◇
私は頭を地にこすりつけ、言葉を続ける。
「供物はわたくしで御座います! 今まで一度も病にかからず、身も清らかに御座います! この地で一番の供物になると神主様も仰っておられました!」
ずるり、と地を這う音がした。ヒュッ、と喉がすぼまる。
「……どうか、わたくしを、私を、お気に、召……されまし、たら……」
ずるり、ずるり、と音が右手に回り、後ろへ移動していく。
ああ、視線を感じる。あの赤い目がこちらを向いている。私は今、品定めをされている。
乾いた地面を見つめながら、飛びそうになる気を必死に保つ。
「……その、後……どうか……わたしの、」
ぁ、「わたし」じゃ、駄目と言われたのに。「わたくし」と言えと。
「わ、わたくし、の父の収める地へ、恵みの、雨を……!」
合わない歯の根をなんとか合わせ、掠れそうになる声を絞り出す。
「ど、どうか──」
「気に入らなければ、追い返しても良いのか?」
「──え」
涼やかな声が耳朶を打ち、思わず間の抜けた声が出る。
「雨を降らせろとお前は言うが、おれが「嫌だ」と言ったら、どうする気だ?」
「……っ!」
俯けた視界の隙間から、チロチロと出し入れされる舌が見えた。
この声、水神様の、こえ?
「そ、れは……」
「供物と言うが、そんな枯れ木のような体、食い出も無さそうだ」
その声はなんともつまらなそうに言葉を続ける。
「その辺の兎でも食った方がましな気もするな。……ふむ、ではやはり娘、お前は帰れ」
「そ、そうは参りません!」
慌ててがばりと顔を上げたら、目と鼻の先に水神様のお顔が。
つまり、大きな白蛇が。
「ヒィッ!」
思わず叫び声を上げ、身を起こした勢いのままに後ろへ下がる。
拍子に、引っかけるようになんとか履いていた草履が脱げた。
「いちいち騒ぐな。食わぬと言ってるだろうに」
「! い、いえ、ですが」
かぱりと開いた口から届く呆れ声に、身を縮こませる。
食べない、というこの蛇。いや、水神様。
安堵してしまうが、駄目なのだ。
「どうにか、お納めいただけないでしょうか……? 微力ながらもそれをお力に、この地に、雨を……」
「雨、雨なぁ……」
水神様はその鎌首を、上に下にゆったりと振る。血のような赤い瞳は今は空を見ているようで、私はまた少しほっとした。
この水神様は元は乱暴な物の怪で、人をよく食っていたと聞けばそれはもう恐ろしかった。昔何かで心を入れ替え祀られるようになったとも聞いたけれど、物の怪は物の怪で。
そんな方のもとへ足を運ばなければならないと知った時には、外に出られた喜びなど吹っ飛んだのだ。
でも、これは、わたしが初めて役立てる事。
最初で最後の、わたしのお役目。
「そうだ娘よ。もう一つ思いついたぞ」
「えっ?」
はっと顔を上げると、表情は掴めないながら興味深そうに、水神様はこんな事を言った。
「おれがお前など食わずに雨を齎したら、お前の処遇はどのようになる?」
「……え、ええっ?!」
何を言ってるんだろう、この蛇。いや水神様。
そんな、自分に何の得にもならない事を? 人を食べるのが大好きなんじゃなかったの?
「今ここを治めているとかいう父のもとへ帰るのか? それともどこぞへ嫁にでも行くのか?」
なんでか楽しそうに訊ねられる。
でも。
「……いえ、どちらも、ないかと……」
私の役目は、この地へ雨を降らせてもらうよう、水神様への供物となる事。それが出来なければ──。
言葉に詰まったわたしに向かって、水神様は頭を斜めに傾けた。
「ふむ、では娘」
水神様の言葉と共に、ふわりと、どこからか水の匂いがした。
「行くあてもなくなるならば、おれの使いになれ」
その言葉が終わるかどうか、天は瞬く間に雲を生み。
「──え」
ザァァ────……
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