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第22話 例え世界の果てに行ったとしても
しおりを挟む机の上に花の輪とコマドリが描かれたカードを出して、私は彼女のことを考えていた。
「来週はエヴェリーナの誕生日だから、バースデーカードと贈り物を送らなきゃね」
数日前に出会った親友と、その婚約者のことを思い返す。彼がエヴェリーナに向ける視線は、見ているこちらが気恥ずかしくなるくらいに熱烈なものだった。純真な彼女が頭を悩ませるのも納得だ。
でもね、エヴェリーナ。貴女は気付いているかしら?
(彼を見つめる貴女の瞳は、恋する女の子そのものだったわよ――。)
私の結婚式が早いか、彼女の婚約式が早いか。賭けをするわけではないけれど、きっと私はオリバーとの結婚式に二人をそろって招待することになるだろう、と思った。
苦労をしてきた子だから、幸せになって欲しい――そう願って、私は彼女へのメッセージをカードにしたためた。
♢♢♢
7月18日、私は18歳を迎えた。今日の私は、昨日の私より少しだけ大人に近付いた。
今日は久しぶりにお父様と町に出かける予定だ。町の視察を兼ねて、誕生日プレゼントを選ぶのだと言っていたけれど、欲しいものは特にないのよね。みんなからおめでとうとお祝いしてもらえる、それだけで充分だわ。
「アル、今日は迎えに来なくていいからね。お父様とお出かけだから、絶対についてこないでね!」
「分かりました。今日は屋敷で待っています」
アルに念を押して、大人しく待っているように伝えた。この男に常識は通用しないのだから、逐一伝えなければならない。
「お父様、行きましょう」
「ああ。ロナルド、留守を頼むよ」
「かしこまりました。お気をつけていってらっしゃいませ」
馬車に揺られて、領地の町へと向かう。お父様とこうして二人で出かけるのは久しぶりだわ。村を抜けて、川を渡る。道沿いにはクローバーが青々と生い茂っている。緩やかな斜面に広がる麦畑は、夏の日差しを浴びて黄金色に輝いていた。
「欲しい物は決まったかい?」
「うーん、本当に思いつかないの。日記帳がそろそろなくなりそうだから、新しいノートは欲しいわ」
「お前は本当に欲のない子だね」
お父様はからからと笑っている。すると、ふとその横顔に影が差した。
「エヴェリーナ、お前は昔からあまり我儘を言わないね。私が頼りないせいもあるだろうが、父親としては娘の願いを叶えてやることが喜びだ」
お父様は風に揺れるボーラーを押さえながら、私を優しく見つめていた。なんだかそれがくすぐったくて、嬉しくて。私は子どもの頃のようにお父様の肩に体を預け、お願いをした。
「ねえお父様、リーナの産まれた日の話をして」
「またかい?はは、いいぞ。あの日は我が家の歴史の中で最も幸福な瞬間だった……」
父はその日の光景を思い出すように瞼をゆっくりと閉じた。
♢♢♢
7月17日の夜明けからグレイスが産気づき、丸一日。私は夜通し妻の部屋の前で神に祈っていた。扉の中からは、グレイスの苦しそうな叫び声が絶え間なく聞こえてくる。
(どうか、母子共に無事で)
変われるものなら変わってやりたいと、何度思ったことか。男はこんな時にただ神に祈ることしかできない、役立たずな生き物だ。
両手を組み、ひたすら祈りを捧げていた次の瞬間。
――ほぎゃあっ。
夜明けの世界を切り開くように聞こえた、産声。窓から見えた朝焼けは、鮮やかな曙色に染まっていた。
『旦那様、お生まれになりましたよ!元気な女の子です!』
メアリーの声に導かれて、ふらふらした足取りで部屋に入る。グレイスは汗だくで疲れ切った顔をしていたが、赤子を抱く姿は聖母のように美しい。そのワンシーンは宗教画のようで、私は思わず息を呑んだ。
『貴方、見て。私たちの赤ちゃんよ』
ベッドに近付き、震える手で恐る恐る我が子を抱く。なんて小ささだ、壊れてしまいそうなほどに柔らかくて温かい。この子は私たちが出会わなければ決して産まれることのない、奇跡のような命なんだ――。
そう思うともう涙が止まらなかった。横でグレイスが穏やかな顔をしているというのに、情けないことに私は溢れる涙と鼻水を垂れ流すばかりだった。
『ありがとうグレイス、ありがとう……!』
産まれてきてくれて、ありがとう――。
『名前をつけてあげて。考えてくれたのでしょう?』
『ああ、もちろんだよ。いくつか考えていたのだが、顔を見てからと思って……うん、この子はエヴェリーナだ。エヴェリーナ・エイヴェリー』
『なんだか領地名と似ていますわね』
そう言ったグレイスはふふ、と笑った。
『だってこの子はいつかはお嫁に行って名前が変わってしまうだろう?遠く離れた場所に嫁いでも、生まれ育った領地を忘れないように。家族も領地民も、皆がこの子を愛している。その愛を忘れずに生きて欲しいんだ』
この子は私たちの元へ、束の間に舞い降りた小鳥。いつかは大空に飛び立って別の場所に行ってしまう。
君は深く愛されているのだと、決して忘れないで。その愛は、君を嵐からも守ってくれる力になるのだから――。
♢♢♢
蹄の足音と、振動だけが静かに響く。私もお父様も、在りし日を瞼の裏に描いていた。
「だから、お前はどこに行っても大丈夫なんだよ。例え世界の果てに行ったとしても、お前を今日まで育ててくれたたくさんの愛が心の中に息づいているのだから」
「……世界の果てになんか、行きたくないわ」
少しだけ頬を膨らませていじけると、お父様はまた肩を揺らして笑っていた。
「我が娘ながら手強いことだ!アルサリオン君は一体どこでお前を見染めたのだろうね」
「分からないわ。でも、思い出してって言ってたから私は知ってるはずなのよ」
「案外身近な人物だったのかもしれないぞ。魔法で姿を変えていた、なんてこともあるのではないか?」
姿を変えて……動物だったとか?つい私は想像してしまった。
白銀の毛並みに、セレストブルーの瞳をした狼……まさか。イングランドに狼はいないわ。森で白銀の狼に会ったら、それこそ絶対に忘れない。
お父様の話に頭を悩ませていると、いつの間にか町の入り口まで辿り着いていた。
私はお父様と町の雑貨屋に訪れた。日記帳を一冊と、レターセットを買ってもらう。
その後は教会や孤児院の視察も行なった。
父が視察に行くと、必ずみんな「領主様だ!」と嬉しそうに出迎えてくれる。
いつだったか、リズが教えてくれた。結婚して他領で暮らすリズの叔母が夫を亡くした時、「この領地に戻ってくればいい」と父が言ってくれたと。
10年前の流行病と不作の時も、私財を投げ打ってまで領地民を守ろうとした。こんなにも優しい領主を、私は他に知らない。お人好しで騙されやすいけど、父は私の誇りなのだ。
「……私が男だったら良かったのに」
ポツリと溢した独り言には誰も気が付かない。男性なら、爵位を継げた。女性でも爵位を継ぐ場合はあるが、それはごく稀なことだ。何か特別な貢献をしない限り、女性が爵位を継承することはほとんどなかった。
父と母の間にできた子どもは私だけ。男の子は授からなかった。母が亡くなった後に後妻を娶る話もあったけど、父は頑なに断ったらしい。
例え男爵家の血縁が絶えようとも、グレイス以外を愛する気はない――。
ある意味父も、貴族にしては変わった人よね。牧師様と話す父の後ろ姿を見つめていると、牧師様は私を見て穏やかな微笑みを浮かべてこう仰った。
「エヴェリーナ様は、グレイス様にもフレデリック様にも似ておられますね。神様がお二人の良い所を分け与えて作られたような気がします」
「私に似ているのかい?娘は妻似だと思うんだがなあ」
指を顎に添えて私を見るお父様は、首を傾げている。
「お父様、私はお母様には似てないわよ。髪の色も瞳の色も違うじゃない」
拗ねて小さくこぼすと、父は私の頭を撫でて目を細めた。
「確かに、髪や瞳の色はグレイスとは違うよ。だが、指の形や髪質はグレイスのものだし、お茶を飲む仕草やダンスをしている横顔はお母様そっくりだ。君の中に今もグレイスが生きているのだと、私はそう思うよ」
「髪の色はフレデリック様に似てきましたね。領民を想う優しい眼差しも、お父上譲りでしょう」
二人の言葉を聞いて、私の心はじわりと温まっていく。
鏡を覗いてはお母様に似ているところが一つでもあるかしら、と探していたの。そんなに頑張って探さなくてもよかったのね。
私はお母様の言葉をふと思い出した。
『あなたはあなたのままで美しいのよ』
――私は、私のままでいいのね。
夏の眩い日差しが領地を照らす。例え世界の果てに行ったとしても、私は自分らしくいられる――そう信じられる気がした。
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