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第4話:墓地での逢瀬
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限界だった。
ワルツが三曲続いたあたりで、私の平衡感覚は崩壊寸前だった。 王太子殿下の腕の中で回されるたびに、シャンデリアの光が鋭い刃物のように網膜を突き刺す。 オーケストラの優雅な旋律が、断頭台へ向かう際の野次馬たちの怒号と重なって聞こえる。
「ヴィオレッタ、次はあそこの公爵夫人に挨拶に行こう。僕たちの仲睦まじい姿を見せれば、彼女も君の悪評など忘れるはずだ!」
殿下は汗ばんだ手で私の手を握りしめ、次なる戦場(社交場)へ向かおうとする。 その熱意が、私には毒だった。 胃の底から、酸っぱいものがこみ上げてくる。
「……うッ」
私は口元を押さえた。
「ん? どうした?」
「申し訳……ございません。少し、外の空気を……」
返事を待たずに、私は殿下の手を振りほどいた。 礼儀作法もへったくれもない。 これ以上ここにいたら、王太子の靴の上に吐いてしまう。そうなれば、また「悪女の狼藉」として歴史に刻まれてしまうだろう。
「ヴィオレッタ! 待て、一人では危ない!」
背後で殿下の呼ぶ声がしたが、私は聞こえないふりをして人混みをかき分けた。 ドレスの裾が誰かの足に当たっても構わなかった。 ただ、この光の洪水から逃げ出したかった。
テラスへの扉を押し開け、夜の庭園へと飛び出す。 冷たい夜風が頬を打ち、ようやく呼吸ができた。
けれど、テラスにはまだ人の気配がある。恋人たちが愛を語らっている。 ここも駄目だ。 もっと暗い場所。もっと静かな場所。
私はハイヒールで石畳を蹴り、庭園の奥深くへと走った。 行き先は決まっていた。 昼間見つけた、あの場所だ。
薔薇のアーチをくぐり、噴水を通り過ぎ、整備された道を外れる。 草木が生い茂る獣道のような小径を進むと、やがて空気が変わった。 ひんやりと湿った、カビと土の匂い。
目の前に、錆びついた鉄柵が現れた。 その向こうに広がるのは、苔むした石碑と、古木が影を落とす王族専用の墓所。 王宮の煌びやかな光は、ここまでは届かない。 あるのは青白い月明かりだけ。
私は鉄柵の隙間をすり抜け(痩せこけた今の体には容易いことだった)、墓地の中へと足を踏み入れた。
「……はあ、はあ、はあ」
荒い息をつきながら、近くの大きな墓石に背中を預けて座り込む。 石の冷たさが、ドレス越しに背中へと伝わり、沸騰しそうな体温を奪ってくれる。
静かだ。 虫の声すら聞こえないほどの静寂。 ここには、私を責める人間も、勝手な愛を押し付ける人間もいない。 眠っているのは、物言わぬ死者たちだけ。
「……落ち着く」
私は膝を抱え、深く息を吸い込んだ。 死の匂いが、私にとっては最上の安定剤だった。 いっそ、このまま土に還ってしまいたい。そうすれば、二度と目覚めなくて済むのに。
その時。
「……生者の来るところではないな」
頭上から、氷のように冷たい声が降ってきた。 私は心臓が止まるかと思った。 けれど、不思議と恐怖はなかった。その声があまりにも静かで、夜の闇に溶け込んでいたからだ。
ゆっくりと顔を上げる。 そこに、彼が立っていた。
月光を背負い、漆黒のコートを夜風になびかせる長身の影。 葬儀卿、シルヴィオ公爵。 先ほどまで夜会の会場にいたはずの彼が、いつの間にかここにいた。 瞬間移動でもしたのかと思うほど、足音も気配もなかった。
「迷い猫かと思えば……先ほどの、公爵令嬢か」
彼は私を見下ろしていた。 その灰色の瞳には、何の感情も浮かんでいない。 ただ、自分の領分(テリトリー)に異物が紛れ込んだことを確認するような、事務的な眼差しだった。
「立ちなさい。ここは遊び場ではない。王太子殿下が血眼になって君を探している頃だろう」
彼は手を貸そうともせず、淡々と告げた。 早く帰れ、と言外に言っている。
私は首を横に振った。
「……帰りたく、ありません」
「子供のような駄々をこねるな。ここは死者の眠る場所だ。生きている人間が放つ熱気は、彼らの安眠を妨げる」
彼は迷惑そうに眉をひそめた。 本当に、生きている人間が嫌いなのだろう。 その拒絶が、私には心地よかった。 「好きだ」「愛している」と追いかけ回されるより、「邪魔だ」と突き放される方が、今の私にはどれほど誠実に響くか。
「私なら、大丈夫です」
私は地面に座り込んだまま、彼を見上げて言った。
「私はもう、死んでいますから」
シルヴィオ公爵の動きが止まった。
「……何?」
「一度、死にました。心臓は動いていますけれど、中身は空っぽです。あの断頭台で……いいえ、なんでもありません。とにかく、私は生きていないのです」
支離滅裂なことを言っている自覚はあった。 狂った令嬢だと思われるだろう。 それでも構わなかった。自分の内側にある真実を、誰かに――この死を司る男にだけは、伝えたかった。
シルヴィオ公爵は、黙って私を見つめていた。 やがて、彼はゆっくりと膝を折り、私の目の高さに視線を合わせた。 黒い革手袋を外し、素手を私の顔へと伸ばす。
白く、細長い指。 血が通っているのか疑わしいほど白い手が、私の頬に触れた。
ひやり、とした。 私よりも体温が低い。 けれど、その冷たさがたまらなく気持ちよかった。
彼はそのまま、私の頬から首筋へと指を滑らせた。 まるで、商品の検品をするかのように。 あるいは、美術品の鑑定をするかのように。
「……確かに」
彼が低く呟いた。
「冷たいな。生きている人間特有の、あの鬱陶しい熱がない」
彼の親指が、私の脈打つ頸動脈の上をなぞる。 普通の女性なら、悲鳴を上げて逃げ出すシチュエーションだ。 絞め殺されるかもしれないという恐怖を感じる場面だ。
けれど、私は目を閉じて、その冷たい感触に身を委ねていた。 彼の手は、ギロチンの刃よりも優しく、王太子の手よりも繊細だった。
「目は光を失い、肌は陶器のように冷たく、魂はここにあらず」
シルヴィオ公爵の声に、微かな熱が帯びた。 それは恋情ではない。 もっと歪で、純粋な、偏愛の響き。
「美しい。……まるで、手入れされた極上の遺体のようだ」
それは、最上級の賛辞だった。 彼にとっては。 そして、今の私にとっても。
「遺体……」
その言葉が、すとんと胸に落ちた。 そうか。私は遺体なのだ。 動く死体。 だから、こんなにも生きていることが苦しいのだ。
王太子は私に「生きろ」「笑え」と強要する。 けれど、この人は私を「死体」として認めてくれた。 私の絶望を、私の虚無を、「美しい」と肯定してくれた。
目頭が熱くなった。 涙が溢れそうになり、私は慌てて微笑んだ。 この二度目の人生で初めて、心からの笑みが浮かんだ。
「……ありがとう存じます、閣下」
私は彼の手のひらに、自分の頬を擦り寄せた。
「そのお言葉が、今の私には何よりの救いです」
シルヴィオ公爵が、わずかに目を見開いた。 彼は呆気にとられたように私を見つめている。 まさか、「遺体のようだ」と言われて喜ぶ令嬢がいるとは思わなかったのだろう。
月明かりの下、墓石に囲まれた奇妙な二人。 一人は、死に損ないの元悪女。 一人は、死を愛する変わり者の公爵。
沈黙が落ちた。 けれどそれは、気まずい沈黙ではなかった。 お互いの欠落した部分が、カチリと噛み合ったような、奇跡的な静寂だった。
「……変わった女だ」
しばらくして、彼はふっと短く息を吐いた。 それは嘲笑ではなく、どこか面白がるような響きを含んでいた。
「立てるか? これ以上ここにいると、本当に連れて行かれるぞ。……彼岸へ」
「連れて行ってくださるなら、それでも構いませんけれど」
「私の仕事は死者を送ることだが、生きたまま埋葬するのは主義じゃない」
彼は立ち上がり、私に手を差し伸べた。 さっきまでの拒絶の色は消えていた。
私はその冷たい手を取り、立ち上がった。 ドレスの裾は土で汚れ、髪も乱れているだろう。 王太子が見たら「なんてことだ!」と騒ぎ立てるに違いない。
けれど、シルヴィオ公爵は何も言わなかった。 ただ、汚れた私をそのまま受け入れてくれた。
「送ろう。庭園の入り口までだ」
「……はい」
私たちは並んで歩き出した。 会話はない。 手も繋いでいない。 一定の距離を保ち、ただ同じ方向へ歩く。
背後から聞こえる夜会の音楽が、少しずつ大きくなってくる。 現実へ戻る時間が近づいている。
けれど、私の心は不思議と軽かった。 隣を歩く黒い影が、王宮の眩しさから私を守る盾になってくれているような気がしたからだ。
ワルツが三曲続いたあたりで、私の平衡感覚は崩壊寸前だった。 王太子殿下の腕の中で回されるたびに、シャンデリアの光が鋭い刃物のように網膜を突き刺す。 オーケストラの優雅な旋律が、断頭台へ向かう際の野次馬たちの怒号と重なって聞こえる。
「ヴィオレッタ、次はあそこの公爵夫人に挨拶に行こう。僕たちの仲睦まじい姿を見せれば、彼女も君の悪評など忘れるはずだ!」
殿下は汗ばんだ手で私の手を握りしめ、次なる戦場(社交場)へ向かおうとする。 その熱意が、私には毒だった。 胃の底から、酸っぱいものがこみ上げてくる。
「……うッ」
私は口元を押さえた。
「ん? どうした?」
「申し訳……ございません。少し、外の空気を……」
返事を待たずに、私は殿下の手を振りほどいた。 礼儀作法もへったくれもない。 これ以上ここにいたら、王太子の靴の上に吐いてしまう。そうなれば、また「悪女の狼藉」として歴史に刻まれてしまうだろう。
「ヴィオレッタ! 待て、一人では危ない!」
背後で殿下の呼ぶ声がしたが、私は聞こえないふりをして人混みをかき分けた。 ドレスの裾が誰かの足に当たっても構わなかった。 ただ、この光の洪水から逃げ出したかった。
テラスへの扉を押し開け、夜の庭園へと飛び出す。 冷たい夜風が頬を打ち、ようやく呼吸ができた。
けれど、テラスにはまだ人の気配がある。恋人たちが愛を語らっている。 ここも駄目だ。 もっと暗い場所。もっと静かな場所。
私はハイヒールで石畳を蹴り、庭園の奥深くへと走った。 行き先は決まっていた。 昼間見つけた、あの場所だ。
薔薇のアーチをくぐり、噴水を通り過ぎ、整備された道を外れる。 草木が生い茂る獣道のような小径を進むと、やがて空気が変わった。 ひんやりと湿った、カビと土の匂い。
目の前に、錆びついた鉄柵が現れた。 その向こうに広がるのは、苔むした石碑と、古木が影を落とす王族専用の墓所。 王宮の煌びやかな光は、ここまでは届かない。 あるのは青白い月明かりだけ。
私は鉄柵の隙間をすり抜け(痩せこけた今の体には容易いことだった)、墓地の中へと足を踏み入れた。
「……はあ、はあ、はあ」
荒い息をつきながら、近くの大きな墓石に背中を預けて座り込む。 石の冷たさが、ドレス越しに背中へと伝わり、沸騰しそうな体温を奪ってくれる。
静かだ。 虫の声すら聞こえないほどの静寂。 ここには、私を責める人間も、勝手な愛を押し付ける人間もいない。 眠っているのは、物言わぬ死者たちだけ。
「……落ち着く」
私は膝を抱え、深く息を吸い込んだ。 死の匂いが、私にとっては最上の安定剤だった。 いっそ、このまま土に還ってしまいたい。そうすれば、二度と目覚めなくて済むのに。
その時。
「……生者の来るところではないな」
頭上から、氷のように冷たい声が降ってきた。 私は心臓が止まるかと思った。 けれど、不思議と恐怖はなかった。その声があまりにも静かで、夜の闇に溶け込んでいたからだ。
ゆっくりと顔を上げる。 そこに、彼が立っていた。
月光を背負い、漆黒のコートを夜風になびかせる長身の影。 葬儀卿、シルヴィオ公爵。 先ほどまで夜会の会場にいたはずの彼が、いつの間にかここにいた。 瞬間移動でもしたのかと思うほど、足音も気配もなかった。
「迷い猫かと思えば……先ほどの、公爵令嬢か」
彼は私を見下ろしていた。 その灰色の瞳には、何の感情も浮かんでいない。 ただ、自分の領分(テリトリー)に異物が紛れ込んだことを確認するような、事務的な眼差しだった。
「立ちなさい。ここは遊び場ではない。王太子殿下が血眼になって君を探している頃だろう」
彼は手を貸そうともせず、淡々と告げた。 早く帰れ、と言外に言っている。
私は首を横に振った。
「……帰りたく、ありません」
「子供のような駄々をこねるな。ここは死者の眠る場所だ。生きている人間が放つ熱気は、彼らの安眠を妨げる」
彼は迷惑そうに眉をひそめた。 本当に、生きている人間が嫌いなのだろう。 その拒絶が、私には心地よかった。 「好きだ」「愛している」と追いかけ回されるより、「邪魔だ」と突き放される方が、今の私にはどれほど誠実に響くか。
「私なら、大丈夫です」
私は地面に座り込んだまま、彼を見上げて言った。
「私はもう、死んでいますから」
シルヴィオ公爵の動きが止まった。
「……何?」
「一度、死にました。心臓は動いていますけれど、中身は空っぽです。あの断頭台で……いいえ、なんでもありません。とにかく、私は生きていないのです」
支離滅裂なことを言っている自覚はあった。 狂った令嬢だと思われるだろう。 それでも構わなかった。自分の内側にある真実を、誰かに――この死を司る男にだけは、伝えたかった。
シルヴィオ公爵は、黙って私を見つめていた。 やがて、彼はゆっくりと膝を折り、私の目の高さに視線を合わせた。 黒い革手袋を外し、素手を私の顔へと伸ばす。
白く、細長い指。 血が通っているのか疑わしいほど白い手が、私の頬に触れた。
ひやり、とした。 私よりも体温が低い。 けれど、その冷たさがたまらなく気持ちよかった。
彼はそのまま、私の頬から首筋へと指を滑らせた。 まるで、商品の検品をするかのように。 あるいは、美術品の鑑定をするかのように。
「……確かに」
彼が低く呟いた。
「冷たいな。生きている人間特有の、あの鬱陶しい熱がない」
彼の親指が、私の脈打つ頸動脈の上をなぞる。 普通の女性なら、悲鳴を上げて逃げ出すシチュエーションだ。 絞め殺されるかもしれないという恐怖を感じる場面だ。
けれど、私は目を閉じて、その冷たい感触に身を委ねていた。 彼の手は、ギロチンの刃よりも優しく、王太子の手よりも繊細だった。
「目は光を失い、肌は陶器のように冷たく、魂はここにあらず」
シルヴィオ公爵の声に、微かな熱が帯びた。 それは恋情ではない。 もっと歪で、純粋な、偏愛の響き。
「美しい。……まるで、手入れされた極上の遺体のようだ」
それは、最上級の賛辞だった。 彼にとっては。 そして、今の私にとっても。
「遺体……」
その言葉が、すとんと胸に落ちた。 そうか。私は遺体なのだ。 動く死体。 だから、こんなにも生きていることが苦しいのだ。
王太子は私に「生きろ」「笑え」と強要する。 けれど、この人は私を「死体」として認めてくれた。 私の絶望を、私の虚無を、「美しい」と肯定してくれた。
目頭が熱くなった。 涙が溢れそうになり、私は慌てて微笑んだ。 この二度目の人生で初めて、心からの笑みが浮かんだ。
「……ありがとう存じます、閣下」
私は彼の手のひらに、自分の頬を擦り寄せた。
「そのお言葉が、今の私には何よりの救いです」
シルヴィオ公爵が、わずかに目を見開いた。 彼は呆気にとられたように私を見つめている。 まさか、「遺体のようだ」と言われて喜ぶ令嬢がいるとは思わなかったのだろう。
月明かりの下、墓石に囲まれた奇妙な二人。 一人は、死に損ないの元悪女。 一人は、死を愛する変わり者の公爵。
沈黙が落ちた。 けれどそれは、気まずい沈黙ではなかった。 お互いの欠落した部分が、カチリと噛み合ったような、奇跡的な静寂だった。
「……変わった女だ」
しばらくして、彼はふっと短く息を吐いた。 それは嘲笑ではなく、どこか面白がるような響きを含んでいた。
「立てるか? これ以上ここにいると、本当に連れて行かれるぞ。……彼岸へ」
「連れて行ってくださるなら、それでも構いませんけれど」
「私の仕事は死者を送ることだが、生きたまま埋葬するのは主義じゃない」
彼は立ち上がり、私に手を差し伸べた。 さっきまでの拒絶の色は消えていた。
私はその冷たい手を取り、立ち上がった。 ドレスの裾は土で汚れ、髪も乱れているだろう。 王太子が見たら「なんてことだ!」と騒ぎ立てるに違いない。
けれど、シルヴィオ公爵は何も言わなかった。 ただ、汚れた私をそのまま受け入れてくれた。
「送ろう。庭園の入り口までだ」
「……はい」
私たちは並んで歩き出した。 会話はない。 手も繋いでいない。 一定の距離を保ち、ただ同じ方向へ歩く。
背後から聞こえる夜会の音楽が、少しずつ大きくなってくる。 現実へ戻る時間が近づいている。
けれど、私の心は不思議と軽かった。 隣を歩く黒い影が、王宮の眩しさから私を守る盾になってくれているような気がしたからだ。
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