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第20話:新しい朝
あれから、数ヶ月が過ぎた。 季節は秋を迎え、ベルンシュタイン領の木々は赤や黄色に色づき、やがて枯れ葉となって大地へと還り始めていた。
王都では、王太子廃嫡のニュースが嵐のように駆け巡り、やがて新しい風と共に少しずつ落ち着きを取り戻しているという。 けれど、ここ「黒の館」には、そんな世間の喧騒は一切届かない。 あるのは、変わらぬ静寂と、冷たく澄んだ空気だけ。
私は今、屋敷のサンルームで、午後の仕事をしていた。 仕事といっても、派手な社交や刺繍ではない。 シルヴィオ様が持ち帰ってきた「葬儀の打ち合わせ書類」の整理と、霊園に手向ける献花の選定だ。
「……こちらの棺には、白百合よりもリンドウの方が似合うかしら」
私は黒いドレスの袖をまくり、花の手入れをする。 かつて王太子が贈ってきた、むせ返るような薔薇の香りはもうない。 ここにあるのは、控えめで、静かな草花の香りだけ。
「ヴィオレッタ様、お茶をお持ちしました」
控えていた侍女――以前は私のことを「呪われた」と恐れていたが、今ではすっかりこの屋敷の空気に馴染んだ少女――が、ワゴンを押してきた。 カップに注がれるのは、温かいハーブティー。 そして、シルヴィオ様特製の「冷たい湧き水」も、私の定位置には欠かせない。
「ありがとう。……あら、窓の外は?」
ふと視線を上げると、窓の外、枯れ葉舞う庭園を歩く人影が見えた。 漆黒のロングコートを風になびかせ、長い足で落ち葉を踏みしめて歩く男性。 シルヴィオ・D・ベルンシュタイン公爵。 私の、大切な「共犯者」であり、婚約者。
彼は仕事――王都での重要な葬儀――から戻ったところのようだ。 私はペンを置き、サンルームを飛び出した。 以前なら「はしたない」と侍女に止められただろうが、今は誰も何も言わない。 ここでは、私がルールだから。
「シルヴィオ様!」
玄関ホールではなく、庭先へ回り込んで彼を迎える。 彼は私に気づくと、無表情だった顔をふわりと緩めた。 その変化はとても微かなものだけれど、私にははっきりと「安らぎ」として伝わってくる。
「……ただいま、ヴィオレッタ」
彼は手袋を外しながら、私に歩み寄った。 その体からは、線香の香りと、冷たい外気の匂いがした。
「お帰りなさいませ。お疲れではありませんか?」
「ああ。生きている遺族たちの相手をするのは骨が折れる。彼らは死を受け入れるのが下手で、やたらと泣き叫ぶからね。耳が痛いよ」
彼は皮肉っぽく肩をすくめたが、その目は優しかった。 きっと、悲しむ遺族に寄り添い、彼なりの方法で慰めてきたのだろう。この人は口が悪いだけで、死者にも生者にも誠実なのだ。
「中へどうぞ。美味しいお水を用意してありますわ」
「それはありがたい。……だがその前に、少し散歩でもどうだ? 今日は空気がいい」
彼が空を見上げる。 薄曇りの空。直射日光はなく、穏やかなグレーの雲が広がっている。 私たちにとっての「快晴」だ。
「喜んで」
私は彼が差し出した腕に、自然と自分の手を滑り込ませた。 触れ合う部分から伝わる体温は、相変わらず人より少し低い。 でも、それが心地よい。
私たちは屋敷の裏手に広がる、広大な霊園へと足を向けた。 苔むした石畳。 整然と並ぶ墓石たち。 時折、カラスがカァと鳴いて飛び立つ。
王太子アレクサンダー殿下なら、「なんて不吉な場所だ! 君を連れ出さなきゃ!」と叫んだだろう。 けれど私には、ここが世界で一番落ち着く公園に見える。
「……王太子殿下の噂、聞きましたか?」
歩きながら、私はふと尋ねた。 彼の名前を口にしても、もう古傷は痛まない。
「ああ。北の修道院で、熱心に祈りを捧げているそうだ。『時間を戻してくれ』と、壁に向かって独り言を続けているらしい」
シルヴィオ様は淡々と答えた。
「狂気だな。だが、それもまた一つの『死』だ。彼は生きながらにして、過去という棺桶に閉じ込められたのだから」
「……そうですね」
私は遠い北の空を見つめた。 可哀想だとは思う。けれど、同情はしない。 彼は自分の選択の結果を受け取っただけなのだから。
私は今、こうして自分の足で歩いている。 誰かに強制された道ではなく、自分で選んだ、静かな砂利道を。
「ヴィオレッタ」
墓地の奥、一本の大きな古木のそばで、シルヴィオ様が足を止めた。 そこには、まだ文字の刻まれていない、真新しい二つの墓石が並んで置かれていた。 彼が以前から用意していた、彼自身の墓だ。そして、もう一つは……。
「君に、聞きたいことがあった」
彼は私に向き直り、真剣な眼差しで見つめてきた。 その灰色の瞳に、私の姿が映っている。
「君はまだ……死にたいと、思うかい?」
それは、私たちが初めて出会った夜、私が彼に投げかけた言葉への問いかけだった。 『私はもう死んでいます』と言った私。 安らかな死だけを求めていた私。
私は少し考えた。 風が吹き抜け、枯れ葉がカサカサと音を立てる。 静かだ。 本当に、静かで満ち足りている。
私はゆっくりと首を横に振った。
「……いいえ」
私は彼の手を、両手で包み込んだ。
「死にたくはありません。だって、死んでしまったら、貴方の入れてくださるお水が飲めなくなりますもの。貴方との静かなおしゃべりも、この冷たい手の感触も、感じられなくなってしまいます」
生きることは、苦痛だった。 熱くて、うるさくて、痛いことだと思っていた。 でも、この人の隣にある「生」は違った。 静かで、涼しくて、優しい。
「私は、生きたいです。シルヴィオ様」
私は彼を見上げて微笑んだ。 作り笑顔ではない。心の底から湧き上がる、穏やかな笑みを。
「貴方と共に、白髪のお婆さんになって、干からびたミイラのようになるまで……静かに、長く生きていきたいです」
それは、普通の恋人たちが交わす熱烈な愛の言葉とはかけ離れているかもしれない。 けれど、私たちにとっては、これ以上ないプロポーズの言葉だった。
シルヴィオ様の目が、わずかに見開かれた。 そして、今まで見たこともないほど優しく、人間らしい微笑みが浮かんだ。
「……そうか。ミイラか。それは楽しみだ」
彼は懐から、小さな箱を取り出した。 パカッ、と蓋が開く。 中に入っていたのは、煌びやかなダイヤモンドの指輪ではない。 黒く輝く石――ジェット(黒玉)で作られた、シックな指輪だった。 喪に服す際に身につける宝石だが、その深い黒色は、吸い込まれそうなほど美しい。
「では、契約を更新しよう」
彼は私の左手を取り、薬指にその指輪をはめた。
「死が二人を分かつまで……いや、死が二人を棺に納めるその時まで。君の静寂は、私が守り抜くと誓おう」
「はい。……お受けいたします、私の死神様」
指輪が指に収まる。 冷たくて、重みのある石。 それは、決して解けることのない鎖のように、私と彼を繋いだ。
シルヴィオ様が顔を近づけてくる。 私は目を閉じた。 彼の唇が触れる。 情熱的な熱さはない。ひんやりとした、秋の風のような口づけ。 それが、私の心を満たしていく。
墓石に囲まれた結婚式。 立会人は、数千の死者たち。 祝福のファンファーレは、カラスの鳴き声。
なんて素敵なハッピーエンドだろう。
雲の切れ間から、薄日が差し込んできた。 それはギラギラとした太陽ではなく、優しく世界を包むヴェールのような光。
新しい朝が来たのだ。 絶望のループを抜け出し、自分たちだけのテンポで歩んでいく、新しい人生の朝が。
「行こうか、ヴィオレッタ。腹が減った」 「ふふ、はい。今日はパンプキンスープにしましょうか」
私たちは手を繋ぎ、屋敷へと歩き出した。 並んで歩く足音が、静寂な霊園にコツ、コツと心地よく響く。
冤罪で処刑された悪女と、孤独な葬儀卿。 二人の奇妙な愛の物語は、ここで幕を閉じる。 しかし、二人の「静かなる生」は、棺桶に入るその日まで、永遠に続いていくのだった。
王都では、王太子廃嫡のニュースが嵐のように駆け巡り、やがて新しい風と共に少しずつ落ち着きを取り戻しているという。 けれど、ここ「黒の館」には、そんな世間の喧騒は一切届かない。 あるのは、変わらぬ静寂と、冷たく澄んだ空気だけ。
私は今、屋敷のサンルームで、午後の仕事をしていた。 仕事といっても、派手な社交や刺繍ではない。 シルヴィオ様が持ち帰ってきた「葬儀の打ち合わせ書類」の整理と、霊園に手向ける献花の選定だ。
「……こちらの棺には、白百合よりもリンドウの方が似合うかしら」
私は黒いドレスの袖をまくり、花の手入れをする。 かつて王太子が贈ってきた、むせ返るような薔薇の香りはもうない。 ここにあるのは、控えめで、静かな草花の香りだけ。
「ヴィオレッタ様、お茶をお持ちしました」
控えていた侍女――以前は私のことを「呪われた」と恐れていたが、今ではすっかりこの屋敷の空気に馴染んだ少女――が、ワゴンを押してきた。 カップに注がれるのは、温かいハーブティー。 そして、シルヴィオ様特製の「冷たい湧き水」も、私の定位置には欠かせない。
「ありがとう。……あら、窓の外は?」
ふと視線を上げると、窓の外、枯れ葉舞う庭園を歩く人影が見えた。 漆黒のロングコートを風になびかせ、長い足で落ち葉を踏みしめて歩く男性。 シルヴィオ・D・ベルンシュタイン公爵。 私の、大切な「共犯者」であり、婚約者。
彼は仕事――王都での重要な葬儀――から戻ったところのようだ。 私はペンを置き、サンルームを飛び出した。 以前なら「はしたない」と侍女に止められただろうが、今は誰も何も言わない。 ここでは、私がルールだから。
「シルヴィオ様!」
玄関ホールではなく、庭先へ回り込んで彼を迎える。 彼は私に気づくと、無表情だった顔をふわりと緩めた。 その変化はとても微かなものだけれど、私にははっきりと「安らぎ」として伝わってくる。
「……ただいま、ヴィオレッタ」
彼は手袋を外しながら、私に歩み寄った。 その体からは、線香の香りと、冷たい外気の匂いがした。
「お帰りなさいませ。お疲れではありませんか?」
「ああ。生きている遺族たちの相手をするのは骨が折れる。彼らは死を受け入れるのが下手で、やたらと泣き叫ぶからね。耳が痛いよ」
彼は皮肉っぽく肩をすくめたが、その目は優しかった。 きっと、悲しむ遺族に寄り添い、彼なりの方法で慰めてきたのだろう。この人は口が悪いだけで、死者にも生者にも誠実なのだ。
「中へどうぞ。美味しいお水を用意してありますわ」
「それはありがたい。……だがその前に、少し散歩でもどうだ? 今日は空気がいい」
彼が空を見上げる。 薄曇りの空。直射日光はなく、穏やかなグレーの雲が広がっている。 私たちにとっての「快晴」だ。
「喜んで」
私は彼が差し出した腕に、自然と自分の手を滑り込ませた。 触れ合う部分から伝わる体温は、相変わらず人より少し低い。 でも、それが心地よい。
私たちは屋敷の裏手に広がる、広大な霊園へと足を向けた。 苔むした石畳。 整然と並ぶ墓石たち。 時折、カラスがカァと鳴いて飛び立つ。
王太子アレクサンダー殿下なら、「なんて不吉な場所だ! 君を連れ出さなきゃ!」と叫んだだろう。 けれど私には、ここが世界で一番落ち着く公園に見える。
「……王太子殿下の噂、聞きましたか?」
歩きながら、私はふと尋ねた。 彼の名前を口にしても、もう古傷は痛まない。
「ああ。北の修道院で、熱心に祈りを捧げているそうだ。『時間を戻してくれ』と、壁に向かって独り言を続けているらしい」
シルヴィオ様は淡々と答えた。
「狂気だな。だが、それもまた一つの『死』だ。彼は生きながらにして、過去という棺桶に閉じ込められたのだから」
「……そうですね」
私は遠い北の空を見つめた。 可哀想だとは思う。けれど、同情はしない。 彼は自分の選択の結果を受け取っただけなのだから。
私は今、こうして自分の足で歩いている。 誰かに強制された道ではなく、自分で選んだ、静かな砂利道を。
「ヴィオレッタ」
墓地の奥、一本の大きな古木のそばで、シルヴィオ様が足を止めた。 そこには、まだ文字の刻まれていない、真新しい二つの墓石が並んで置かれていた。 彼が以前から用意していた、彼自身の墓だ。そして、もう一つは……。
「君に、聞きたいことがあった」
彼は私に向き直り、真剣な眼差しで見つめてきた。 その灰色の瞳に、私の姿が映っている。
「君はまだ……死にたいと、思うかい?」
それは、私たちが初めて出会った夜、私が彼に投げかけた言葉への問いかけだった。 『私はもう死んでいます』と言った私。 安らかな死だけを求めていた私。
私は少し考えた。 風が吹き抜け、枯れ葉がカサカサと音を立てる。 静かだ。 本当に、静かで満ち足りている。
私はゆっくりと首を横に振った。
「……いいえ」
私は彼の手を、両手で包み込んだ。
「死にたくはありません。だって、死んでしまったら、貴方の入れてくださるお水が飲めなくなりますもの。貴方との静かなおしゃべりも、この冷たい手の感触も、感じられなくなってしまいます」
生きることは、苦痛だった。 熱くて、うるさくて、痛いことだと思っていた。 でも、この人の隣にある「生」は違った。 静かで、涼しくて、優しい。
「私は、生きたいです。シルヴィオ様」
私は彼を見上げて微笑んだ。 作り笑顔ではない。心の底から湧き上がる、穏やかな笑みを。
「貴方と共に、白髪のお婆さんになって、干からびたミイラのようになるまで……静かに、長く生きていきたいです」
それは、普通の恋人たちが交わす熱烈な愛の言葉とはかけ離れているかもしれない。 けれど、私たちにとっては、これ以上ないプロポーズの言葉だった。
シルヴィオ様の目が、わずかに見開かれた。 そして、今まで見たこともないほど優しく、人間らしい微笑みが浮かんだ。
「……そうか。ミイラか。それは楽しみだ」
彼は懐から、小さな箱を取り出した。 パカッ、と蓋が開く。 中に入っていたのは、煌びやかなダイヤモンドの指輪ではない。 黒く輝く石――ジェット(黒玉)で作られた、シックな指輪だった。 喪に服す際に身につける宝石だが、その深い黒色は、吸い込まれそうなほど美しい。
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彼は私の左手を取り、薬指にその指輪をはめた。
「死が二人を分かつまで……いや、死が二人を棺に納めるその時まで。君の静寂は、私が守り抜くと誓おう」
「はい。……お受けいたします、私の死神様」
指輪が指に収まる。 冷たくて、重みのある石。 それは、決して解けることのない鎖のように、私と彼を繋いだ。
シルヴィオ様が顔を近づけてくる。 私は目を閉じた。 彼の唇が触れる。 情熱的な熱さはない。ひんやりとした、秋の風のような口づけ。 それが、私の心を満たしていく。
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なんて素敵なハッピーエンドだろう。
雲の切れ間から、薄日が差し込んできた。 それはギラギラとした太陽ではなく、優しく世界を包むヴェールのような光。
新しい朝が来たのだ。 絶望のループを抜け出し、自分たちだけのテンポで歩んでいく、新しい人生の朝が。
「行こうか、ヴィオレッタ。腹が減った」 「ふふ、はい。今日はパンプキンスープにしましょうか」
私たちは手を繋ぎ、屋敷へと歩き出した。 並んで歩く足音が、静寂な霊園にコツ、コツと心地よく響く。
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