余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました

なつめ

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第12話 遅すぎる謝罪


 その日のノクレールは、朝から風がなかった。

 海辺の町では珍しいほど、空気が凪いでいた。海は青かった。嵐のあとに何度か曇りを引きずっていた空も、今日は最初から高く晴れている。陽は強すぎず、白い家並みの壁をやわらかく照らし、波の表面に細かな銀を散らしていた。風がないぶん、潮の匂いはいつもよりゆっくり町の中へ留まっている。魚を干す匂い、濡れた綱の塩気、焼きたてのパン、どこかの軒先で刻まれる香草の青い匂い。それらが混ざり合って、今日のノクレールはどこか温んだ台所みたいな空気をしていた。

 そんな穏やかな日ほど、心の内側だけが落ち着かないのだと、リュゼルは知っていた。

 朝から胸の奥がざわついていた。咳は少ない。熱もない。身体の具合だけなら、ここ数日の中ではましなほうだった。だからこそ、余計に心のざわめきが目立つ。

 昨日の夜、ほとんど眠れなかったせいもあるだろう。

 ノクレールへ来てから何度もそうだったが、眠りの浅い夜の翌朝は、感情の縁だけが薄くなる。普段なら見ないふりをできるものが、今日はできない気がしていた。海燕亭の木の床を拭いていても、帳場の横で布巾をたたんでいても、意識の端には常に同じものがある。

 町外れの空き家。

 薪の束。

 不器用な手。

 そして、その男がまだここにいるという事実。

 セヴリックは本当に帰らないらしかった。

 それはもう噂ではなく、町の空気の一部になりつつあった。海燕亭へ来る客たちが「あの薪の旦那は今日は市場で釘を買ってた」とか、「朝から井戸の桶をひっくり返してた」とか、勝手に報告していく。パン屋の女主人は「礼儀だけはきっちりしてるけど、頼み方が致命的に下手」と笑い、魚屋のネラは「子どもに薪積みを習う貴族なんて初めて見た」と言った。

 それらを聞くたび、リュゼルは腹が立った。

 腹が立つのに、耳を塞げない。

 見たくないのに、町は勝手に彼の話を運んでくる。海が町じゅうに潮を運ぶみたいに、あの男の不器用さも少しずつノクレールのあちこちへ滲んでいた。

 昼前、食堂の客が引いたあとだった。マルグリットが煮込み鍋の味を見て、少し塩を足す。ジルは裏口の樽を洗っている。窓から差し込む光は明るく、磨いた木卓の表面に白く揺れていた。昼と夕方のあいだの、いちばん静かな時間だった。

「エルナ」

 マルグリットが帳場のほうを顎でしゃくる。

「表に客」

 反射的に顔を上げる。海燕亭の表へ立つ客は珍しくもない。だが女将の言い方がいつもより少しだけ平坦で、余計な色がなかった。だからこそわかった。

「……わたしに?」

「そうだよ」

 リュゼルは一瞬だけ動けなかった。

 ジルが裏口から顔を出し、事情を知っているらしく気まずそうに頭を掻く。マルグリットは鍋の火を弱めながら、あくまで何でもないように言った。

「嫌なら断る。そういう約束だ」

「……ええ」

「でも逃げるだけだと、あんた、たぶん今夜も眠れないよ」

 その言葉は、妙に静かに胸へ落ちた。

 図星だった。ここ数日、逃げることにはもう慣れたはずなのに、実際には一歩も前へ進んでいない。見つかりたくない、帰りたくない、許したくない。その全部は本当だ。けれど、その一方で、何も言わないまま追われ続けることにも、もう疲れていた。

「……少しだけ」

 そう言うと、マルグリットは小さく頷いた。

「裏庭使いな。表は日が強い」

 裏庭へ出る扉を開けると、乾いた明るさがあった。嵐のあと数日たって、石敷きはようやくすっかり乾いている。桶の縁に残っていた水も今日は光だけを映し、軒先の影はくっきり濃い。風がないせいで、遠い海鳴りもいつもより低く、深く聞こえた。

 セヴリックは、前と同じ位置に立っていた。

 扉から数歩離れた、こちらがすぐ戻れる場所を塞がない距離。前回と同じだ。無意識なのか、気を遣った結果なのかはわからない。けれどその距離の取り方が、かえって神経に障る。

 今日は旅用の上着も少し乾いた色をしていた。袖はまくらず、泥も昨日ほどついていない。髪も整っている。だが完全に王都の男へ戻ったわけではない。長靴の踵には乾いた土が薄く残り、襟元は見慣れた公爵の衣装より少しだけくたびれている。その半端さが、彼がもうここで数日を生きてしまっていることを、ひどく生々しく示していた。

「……話があると言うから」

 リュゼルは先に言った。牽制するみたいに。

「来ただけです。長くは付き合いません」

「ああ」

 セヴリックは頷いた。少しも急かさない。その落ち着きがまた腹立たしい。

 沈黙が落ちる。

 空は青い。軒先の白い壁に陽が当たり、反射した光が裏庭の石に薄く跳ねている。平和な昼の色だった。こんな色の中で話すことではない、とリュゼルは少しだけ思う。もっとひどい雨の日や、夜のほうがよかったかもしれない。明るい場所では、互いの顔が見えすぎる。

「謝りに来た」

 やがてセヴリックが言った。

 その一言で、リュゼルは反射的に視線を上げた。

 謝りに来た。

 今まで、彼の口からそういう言葉を聞いたことがなかったわけではない。社交上の非礼に対する形式的な謝罪や、部下の失敗の責任を負う言葉なら、何度も聞いている。だが今のそれは、そういうものとは違った。

 低く、まっすぐで、逃げ場を作っていない。

 その声音にだけで、今日の会話が昨日までとは違うものになるのだとわかってしまい、リュゼルの胸は小さくこわばった。

「……今さらですね」

 返事はそれしか出なかった。

「そうだ」

 セヴリックはあっさり認める。

「今さらだ。遅い。遅すぎる。その上で謝る」

 その言い方がずるい。開き直りでもなく、卑屈でもなく、ただ順番どおり事実を並べてくる。もっと何か、こちらが切り捨てやすい言い方をしてくれたらいいのに。

「守るために距離を取った、と前に言いましたね」

 リュゼルが先に刺すように言うと、セヴリックは頷いた。

「言った」

「今日はその続きですか」

「違う」

「なら?」

「それが免罪符にならないと、言いに来た」

 裏庭に落ちる光が、少しだけ揺れた気がした。たぶん雲が一枚流れただけだ。けれどリュゼルの視界は、ほんの一瞬だけ揺れた。

 守るために距離を取った。

 その理由を聞いたとき、腹が立った。勝手だと思った。愚かだと思った。けれど同時に、それが彼なりの歪んだ理屈だとも理解してしまった。理解してしまうから余計につらかった。

 そして今、彼はその理由を、自分から否定しに来た。

「……どういう意味ですか」

 喉が少し乾く。

 セヴリックは、少しも言葉を急がなかった。

「俺は、お前を大切に思った」

 その出だしに、リュゼルの胸が強く打つ。けれど続く言葉が、それをそのまま叩き落とした。

「だから遠ざけた。自分の感情を見せれば、そこが弱みになると思った。そうしていれば守れると、本気で考えていた」

 彼はそこで一度、息を継いだ。

「だが、結果としてお前は一人で病を抱え、一人で出ていった。助けを求める相手にすら、俺はならなかった」

 日差しの下でも、彼の声は少しも柔らかくならない。ただ低く、冷静なまま落ちてくる。それがかえって重かった。

「だから、その理屈に意味はない。守るためだったとしても、守れなかった。お前を傷つけた事実は変わらない」

 リュゼルは何も言えなかった。

 言い逃れではない。

 自分に都合のいい解釈でもない。

 ただ、事実として、自分が何をしたかを並べている。

 その姿勢が誠実なのだとわかってしまうから、胸の奥がひりつく。

「謝る」

 セヴリックがもう一度、はっきり言った。

「お前に何も伝わっていなかったことを。伝えようとしなかったことを。守っているつもりで、お前を一人にしたことを」

 そこまで聞いたとき、リュゼルはやっと口を開けた。

「伝わっていなかった、ではありません」

 思ったよりも声が冷たく出た。

「伝わらなかったのではなく、なかったんです」

 セヴリックの目がわずかに細くなる。だが彼は遮らない。

 だからリュゼルは止まれなかった。

「あなたがどう思っていたかなんて、今さら関係ありません」

 胸の奥が痛む。喉も熱い。けれど言葉は、むしろその痛みを燃料にするみたいに続いていく。

「大切だったとか、守りたかったとか、愛していたとか。そんなものを今になって言われても、わたくしには確かめようがないでしょう」

 セヴリックは黙っている。

 その沈黙が許しを乞うものではないと、もう知っている。だからこそ余計に、リュゼルの言葉は鋭くなる。

「わたくしには、愛されていた記憶が一つもない」

 言った瞬間、裏庭の空気が変わった気がした。

 潮の匂いも、遠い海鳴りも、全部その一言のあとへ引いたみたいに感じられる。

 愛されていた記憶が一つもない。

 あまりにもまっすぐな言葉だった。飾りも比喩もない。そのぶん、余計に逃げ場がなかった。

 リュゼルは自分で自分の言葉に刺される。

 本当のことだからだ。

 愛していたと言われても、愛されていた記憶がない。待った食卓も、閉じた寝室も、高価で正確な贈り物も、熱の夜の冷えたままの空気も、全部思い出せる。けれどそのどこにも、「この人に愛されている」と信じられる瞬間だけがなかった。

 それは、どうしようもなく事実だった。

 セヴリックは返す言葉を失っていた。

 本当に。

 何か言い返すかと思った。そんなことはない、とか。覚えていないだけだ、とか。俺はお前を、と繰り返すかと思った。

 だが彼はただ、立ったまま沈黙した。

 顔色が変わるわけではない。けれど、言葉だけが完全に消えている。その沈黙を見た瞬間、リュゼルははっきり悟った。

 彼は今、自分の気持ちではなく、伝わった事実で裁かれている。

 そして、その裁きに反論する材料を持っていない。

 愛していた。

 大切だった。

 守りたかった。

 そういう彼の内側の事情は、どれほど本当でも、伝わらなかったのなら現実の前では意味を持たない。少なくとも、自分の孤独の前では。

 そのことを、彼は理解している。

 理解しているから、言い返せない。

 それがわかると、リュゼルの胸の奥は、すっと冷えるのではなく、逆にもっと痛んだ。

 もっともな言葉で傷つけるのは、思ったより苦しい。

 けれど苦しいからといって、引っ込められる言葉ではない。

「……愛していたのかもしれません」

 リュゼルは静かに言う。

「あなたの中では、本当にそうだったのかもしれない。そう思っていたことも、今では信じます」

 セヴリックの目が、そこでやっと少しだけ動いた。

 信じる、という言葉に救いがあると思ったのかもしれない。だが、次の言葉でその希望はきっと消えた。

「でも、それと、わたくしが愛されていたかどうかは別です」

 陽が少しだけ傾き、裏庭の石の影が長くなる。

「わたくしは、一度も安心できなかった」

 リュゼルは自分の指先を見た。膝の前で、知らないうちにきつく握り込まれている。爪が掌へ食い込んで、鈍い痛みがある。

「待っても来ない食事。別々の寝室。何でもないような顔で渡される贈り物。体調が悪いときに呼ばれる医師。どれも間違っていないのに、全部、冷たかった」

 セヴリックは視線を逸らさなかった。そのことだけは、今の彼が逃げていない証みたいで、余計につらい。

「あなたは必要なものを全部与えたつもりだったのでしょう。そうかもしれません。公爵夫人としてのわたくしには、たぶん何も不足はなかった」

 少し笑いそうになる。笑える話ではないのに。

「でも、妻としてのわたくしには、何一つ届かなかった」

 そこまで言って、リュゼルは一度目を閉じた。

 苦しかった。責めるためだけの言葉なら、ここまで苦しくはないだろう。これは責めると同時に、自分の過去も一緒に抉っているからだ。待っていた自分も、期待していた自分も、全部そこに含まれてしまう。

「だから、今さら謝られても、どうしたらいいかわかりません」

 目を開ける。セヴリックは、まだ立ったままだった。

「許すとか、許さないとか、その前のところで止まっているんです。あなたが愛していたと言っても、わたくしには愛されていた記憶がない。その事実を、どうやって埋めればいいのか、わからない」

 ようやくそこで、セヴリックが口を開いた。

「埋まらないかもしれない」

 低い声だった。

「たぶん、簡単には埋まらない。俺が今何を言っても、過去の三年が変わるわけでもない」

 リュゼルは何も言わない。

 彼は続けた。

「だから、許してほしいとは、まだ言えない」

 その言葉に、胸の奥がまた小さく揺れる。

 許してほしいとは言えない。

 それは正しい。今ここでそんなことを言われたら、たぶんリュゼルはもっと強く拒んでいただろう。謝罪は受け取れても、許しを求められた瞬間に、もう全部がいやになる。そこを彼は踏み越えてこない。

 それでも、だからといって楽になるわけではない。

「では、何をしに来たんですか」

 問いかける声は、少しだけ掠れていた。

「謝るためだと言ったでしょう」

「それだけですか」

「……それだけではない」

 セヴリックはそう言って、ほんのわずかに視線を落とした。彼が考えるように沈黙するとき、それはたいてい本当に言葉を選んでいると、今はもうわかってしまう。

「お前がどう感じていたかを、今さらでも、自分の耳で聞くためだ」

 リュゼルは眉を寄せる。

「そんなことをして、どうするんですか」

「知る」

 また短い答えだ。

「今まで知らなかったことを」

「知って、満足するのですか」

「満足はしない」

「では」

「知った上で、ここにいる」

 同じような言葉を、前にも聞いた気がした。ここにいる。それだけは動かないとでもいうみたいな声音で。

「勝手です」

「そうだ」

「……本当に、そればかりですね」

「事実だからな」

 そこで、ほんの一瞬だけだったが、リュゼルは笑いそうになってしまった。あまりにも馬鹿みたいで、あまりにも救いのない会話だったからだ。勝手だと責めれば認める。愚かだと言えば認める。愛されていた記憶が一つもないと言えば、言い返せなくなる。

 こんな謝罪があるだろうか。

 もっと上手い謝り方はいくらでもあるはずだ。形だけでも心を軽くする言葉も、相手を泣かせる言い回しも、王都には溢れていた。なのにセヴリックは、最後まで不器用なまま、自分の言葉でしか謝れない。

 その不器用さを、今さら正面から見せられている。

 それが遅すぎる。

 だからつらい。

「……わたくし、ずっと」

 気づくと、声が少しだけ弱くなっていた。

「何度も、自分がおかしいのかと思いました」

 セヴリックの目が動く。

「足りているはずなのに、足りないと思うわたくしのほうが贅沢なのではないかって。公爵夫人として恥をかくことは一つもなくて、使用人たちにもよくしてもらって、物も、立場も、何もかも足りていたのに、それでも苦しいと思う自分が、間違っているんじゃないかって」

 風はない。だから余計に、自分の声だけが裏庭に細く響く。

「そう思いながら三年過ごして、最後に病気だと言われたとき」

 リュゼルはそこで一度息を止めた。離宮の白い部屋。ベルナールの静かな声。余命半年という文字。あの光景は、思い返すだけで胸の奥が冷たくなる。

「やっぱり最後まで、わたくしは何も言えないまま死ぬのだと思いました」

 セヴリックはもう、何も言わなかった。

 言えないのだろう。あるいは、言ってはいけないと思っているのかもしれない。

 その沈黙は重い。だが嫌いではなかった。少なくとも、空疎な慰めよりはずっと。

「謝罪は受け取ります」

 リュゼルは静かに告げた。

 それが精いっぱいだった。

「あなたが何もわかっていなかったことも、それを今わかったのだということも、信じます。でも、それで過去が変わるわけではないし、わたくしの記憶も変わりません」

「……ああ」

「だから」

 喉が少し震える。だが、言わなければならない。

「謝られたからといって、すぐにどうこうなると思わないでください」

「思っていない」

「本当に?」

「本当にだ」

 その答えに嘘はないと、嫌になるほどわかる。

 リュゼルは視線を逸らした。青い空が眩しい。こんなふうに明るい昼に、夫婦の崩れた三年を一つずつ拾い上げることになるなんて、少し前までは考えもしなかった。

「……だったら、今日はもう終わりにしましょう」

 ようやくそう言うと、セヴリックは頷いた。

「わかった」

「また、その『わかった』ですか」

「ほかに言うべき言葉が見つからない」

「そこは否定しないんですね」

「できない」

 そのまっすぐさに、また胸が刺さる。

 本当に遅すぎる。けれど、遅すぎるからといって偽物にもなってくれない。その中途半端に本物なところが、リュゼルをいちばん苦しめる。

 扉へ向かおうとして、ふと足が止まる。

 自分でもなぜそうしたのかわからない。だが、一つだけ、どうしても確かめたくなった。

「……もし」

 背中を向けたまま、言う。

「もし、あなたが本当に愛していたのなら」

 喉の奥がひどく熱い。

「どうして一度も、わたくしにわかる形で言わなかったんですか」

 長い沈黙が落ちた。

 今度の沈黙は、今までのどれとも違っていた。返答を探している。言い訳ではなく、もっと根の深いところの言葉を。そういう沈黙だった。

 やがてセヴリックは、低く答える。

「失うのが怖かった」

 リュゼルはゆっくり振り返る。

「だから遠ざけた。愚かだと、自分でも思う」

 その顔に、劇的な感情はない。泣きそうでも、絶望しているふうでもない。ただ、削りすぎた言葉のあとに残るものだけがあった。

「だが、お前を失いたくなかったのは本当だ」

 その一言に、リュゼルは何も返せなかった。

 たぶん、今必要なのは返事ではない。

 好きだった。たしかに好きだった。だからこそ、その言葉を聞いて心が揺れること自体が苦しい。けれど揺れるからといって、それがすぐ許しや救いになるわけではない。

 愛されていた記憶は一つもない。

 その事実はまだ、少しも動いていないのだから。

「……遅すぎます」

 最後にそれだけ言うと、セヴリックは小さく頷いた。

「ああ」

 それ以上の言葉は、もうどちらからも出なかった。

 リュゼルは扉を開けて中へ戻る。海燕亭の中は煮込みの匂いと木の温度に満ちていて、さっきまでの裏庭が別の場所みたいに思えた。マルグリットが帳場の奥からちらりとこちらを見たが、何も聞かなかった。その沈黙がありがたい。

 リュゼルは食堂の奥の椅子へ腰を下ろした。

 手が少し震えていた。胸の奥にはまだ痛みがある。けれどそれは、離宮の夜の冷たい絶望とは違う痛みだった。もっと生々しく、人間らしく、どうしようもなく扱いにくい。

 謝罪は受け取った。

 でも、だからといって記憶は変わらない。

 愛していたと言われても、愛されていた記憶が一つもない。

 あの一言を口にした瞬間、彼は返す言葉を失った。気持ちではなく、伝わった事実で裁かれたとき、人はああいう沈黙をするのだと、初めて知った。

 それを知って、少しだけ救われたのかもしれない。

 少なくとも、自分が感じていた孤独は、気のせいでも、贅沢でもなかったのだと、ようやく現実として彼の前に置くことができたのだから。

 けれど救われることと、許せることは別だった。

 そこにはまだ、長い距離がある。

 窓の外では、青い海の上を白い鳥がひとつ横切っていった。何も知らないみたいに、まっすぐに。


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