余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました

なつめ

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第14話 帰らない理由


 翌日のノクレールは、朝からひどく静かだった。

 空は晴れているのに、町の空気だけがどこか薄く張りつめている。嵐のあと数日たって、港も市場もようやくいつもの賑わいを取り戻していたはずなのに、今日は人の声が妙に遠く聞こえた。潮の匂いは変わらない。白い家並みの壁へ反射する陽もやわらかい。けれど、その全部の上に、見えない糸が一本ぴんと張られているみたいな気配があった。

 その理由を、リュゼルは自分でもわかっていた。

 昨日、王都からの召喚状が届いた。

 親族も来た。

 あの町外れの空き家の前で、王都の重さがそのままノクレールへ降ってきた。余命わずかな妻ひとりに振り回されるのは恥だと、はっきり言われた。その言葉は一晩たっても、胸の奥から消えなかった。薄くなるどころか、眠れぬまま何度も反芻したせいで、ますます輪郭がくっきりしてしまった。

 恥。

 足枷。

 壊したくなかった人生。

 そのどれもが、朝になってもまだ胸の中に冷たく残っている。

 海燕亭の二階で目を覚ましたとき、リュゼルはまず深く息を吸おうとして、胸の奥が鈍く痛むのを感じた。咳は出ない。熱も昨夜ほどではない。だが、眠りの浅さのせいで身体の芯が重い。毛布を押しのけて起き上がると、窓の外では海鳥がひと声だけ鋭く鳴いた。

 起きなければならない。

 働かなければならない。

 そう思う一方で、今日は一日、外へ出たくないとも思った。あの空き家の方向を見たくない。王都から来た使いの気配がまだ町のどこかに残っている気がして、それだけで気持ちがざわつく。

 けれど、部屋に閉じこもっていたところで、考えは止まらない。それなら動いていたほうがまだましだ。

 リュゼルは顔を洗い、髪を整え、灰色のドレスに袖を通した。地味で、目立たず、身体へ馴染む服。ここへ来てから、何度その簡素さに救われただろう。王都の公爵夫人だった頃の衣装なら、こんな日に自分の心だけを守るために選ぶことは許されなかった。何を着るかも、その場に相応しいかで決まる。今は違う。ただ今日、自分が潰れないための服を選べばいい。

 階段を下りると、海燕亭の朝はすでに動いていた。

 厨房からは魚の出汁の匂いが漂い、食堂の窓は少しだけ開いている。風は弱い。潮の粒を含んだ空気が、木の床の上を静かに流れていた。マルグリットは帳場の前で伝票を見ながら、ジルへ短く指示を飛ばしている。その声の調子もいつもどおりだ。いつもどおりにしてくれているのだと、リュゼルはわかっていた。

「おはよう、エルナ」

 女将が顔を上げる。

「おはようございます」

「顔色、よくないね」

「寝不足です」

「そうだろうと思った」

 それ以上追及はしない。代わりに、卓の上へ湯気の立つカップを置いた。

「まず飲みな。今日は午前中、表はジルに任せる。あんたは裏で布巾たたみと野菜の下ごしらえ」

「でも」

「でもじゃない」

 マルグリットはぴしゃりと言ったが、その声音はきつくなかった。

「今の顔で客前に出たら、余計な詮索を呼ぶ。今日は裏でいい」

 ありがたかった。

 ありがたいと思ってしまうことが、自分でも少し情けない。だが今は意地を張る余裕もない。

「……ありがとうございます」

「礼はいい。働いて返しな」

 カップの中身は、昨日と同じく少し苦い草の湯だった。口に含むと、乾いた喉へじんわり熱が落ちていく。温かいだけで少し救われる朝もあるのだと、この町へ来てから初めて知った。

 午前のあいだ、リュゼルは言われたとおり裏の作業場で過ごした。布巾をたたみ、根菜の皮を剥き、魚の下処理を見ながら使う皿を揃える。単純な仕事だ。単純だからこそ、手を動かしているあいだだけは余計なことを考えずに済む。

 けれど完全には無理だった。

 裏口の向こうで馬の蹄の音がするたび、胸が小さく跳ねる。表通りで誰かが「王都」と言ったような気がするたび、手が一瞬だけ止まる。自分の神経が過敏になっているだけかもしれない。けれど、昨日あれだけ露骨な形で王都が追いついてきた以上、もう何もなかった頃のようには戻れなかった。

 昼近く、野菜を刻んでいたときだった。表で、ことり、と鈴が鳴る。客が来たのだろう。ジルの声がして、続いて別の男の声が重なる。低く、きちんとした発音の、王都の空気を残した声だった。

 リュゼルの手が止まる。

 まさか、また。

 包丁の刃先がまな板へ軽く触れ、乾いた音を立てた。

 マルグリットが一瞬だけこちらを見た。だが何も言わない。その代わり、自分で表へ出ていく。帳場越しに交わされる会話の内容は聞き取れない。けれど、何か短い確認のあと、その足音が食堂を横切って裏口のほうへ向かうのがわかった。

 次の瞬間、扉が開く。

 立っていたのは、セヴリックではなかった。

 アルヴァンだった。

 リュゼルは思わず息を呑んだ。

 王都で何度も顔を合わせた、セヴリックの従弟。ラヴィエール家の中ではまだ若いほうだが、社交界でも愛想のよさと頭の回転の速さで知られている男だ。柔らかな栗色の髪、穏やかな顔立ち、けれど今日はさすがにその表情にも疲れが見えた。旅の外套へ潮風の塩が薄く乗り、長旅の埃が靴へ残っている。

「義姉上」

 その呼び方に、リュゼルは凍った。

 ここで、その名で呼ばれるとは思っていなかった。海燕亭の裏の作業場が、一瞬で王都の空気を帯びる。魚の匂いも、刻んだ香草の青い匂いも、その呼び方ひとつで遠のいた気がした。

「……わたしは」

 エルナです、と言いかけて、言えなかった。

 アルヴァンの目が、もう全部知っている目だったからだ。ここでその仮の名を使っても、余計に惨めになるだけだとわかってしまう。

「失礼」

 彼は一礼し、視線を少しだけ落とした。

「この呼び方は、ここでは不適切でしたね」

「どうして……」

「兄上のところへ来ました」

 やはり、と胸の奥が冷たく沈む。

「そして、できれば義姉上にもお伝えしておくべきだと思いました」

「何を」

 アルヴァンはちらりとマルグリットを見る。女将は腕を組んだまま、逃げもせず、気後れもしていなかった。

「ここでは宿の主人が一番強いんだろうね」

 アルヴァンが小さく苦笑する。

 マルグリットは鼻で笑った。

「客が変に偉そうにするなら叩き出すだけさ。で、何しに来たんだい」

「安心してください。連れ戻しには来ていません」

 その言葉に、リュゼルの指先が冷える。

 連れ戻しに来たのではない。

 なら、何を。

 アルヴァンは懐から封書を一通取り出した。王家のものではない。だがラヴィエール家の封蝋が押されている。

「これを兄上へ届けに」

「召喚状ですか」

 リュゼルの問いに、アルヴァンは一瞬だけ言いよどんだ。

「正確には、その続きです」

 マルグリットが顎をしゃくる。

「回りくどいね。まっすぐ言いな」

「ええ」

 アルヴァンは観念したように息を吐いた。

「昨日、王都から正式な帰還命令が届きました。北方の国境問題が悪化しており、兄上の不在を長くは許容できないという内容です」

 リュゼルの心臓がひとつ強く打つ。

 やはり。そうなるだろうと思っていた。思っていたはずなのに、現実の言葉として突きつけられると、身体の中が少しずつ冷えていく。

「それで」

 喉が乾いていた。声が少し掠れる。

「セヴリックは」

 アルヴァンは、返答の前にほんのわずかだけ目を伏せた。その仕草がすでに答えの半分を含んでいるようで、リュゼルは無意識に息を止める。

「破棄しました」

 裏の作業場がしんと静まった。

 外では波の音がしている。表通りでは誰かが笑っている。厨房では鍋が小さく沸き立っている。世界は動いているのに、その一言のあとだけ時間が止まったみたいだった。

「……破棄?」

 自分の声が信じられないほど小さく聞こえた。

「はい」

「どういう、意味ですか」

「言葉どおりです」

 アルヴァンの口調は穏やかだったが、その穏やかさがかえって現実味を増した。

「王都から届いた文書を読み、その場で火にくべました」

 リュゼルは言葉を失う。

 想像してしまうからだ。あの空き家の粗末な暖炉。乾いた薪。そこへ赤い封蝋のついた命令書が投げこまれ、紙が黒く縮れていく様子。王の名に近い重さを持つ文書を、彼はそこで、何のためらいもなく燃やしたのだ。

 恐ろしかった。

 驚きより先に、恐怖が来た。

 ここまでして追われる理由が、わからないからだ。

 王都の側近で、公爵で、国境問題の中心にいる男が、そんなものを焼いてまでここに留まる。それは常識の範囲から外れている。愛だとか執着だとかいう言葉で片づけるには、あまりにも重すぎた。

「兄上は、最初から戻るつもりがないのです」

 アルヴァンが静かに続ける。

「……何を」

「義姉上が出ていかれた日から、王都と公爵家のほうは回るよう手を打っていました」

 その言葉に、リュゼルはようやく顔を上げた。

「回るように、とは」

「そのままです」

 アルヴァンは封書を指先で軽く叩く。

「側近職の代行体制も、貴族院への引継ぎも、公爵家の執務も、兄上はノクレールへ来る前にほぼ整理していました。私が暫定継承者として前へ出る手続きも済ませ、必要な書類の流れも止まらぬよう組み直してあります」

 そこまで聞いたところで、リュゼルの背筋に冷たいものが走った。

 つまり、彼は衝動でここまで来たわけではない。

 来るために、先に全部を片づけてきたのだ。

 王都が彼の不在で回るように。

 家が崩れないように。

 自分がいなくても、国も家も倒れないように。

 そこまでしてから、ノクレールへ来た。

 その用意周到さが、ただただ怖かった。

「そんなの……」

 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。

「そんなことまでして、どうして」

 問いかけはアルヴァンへ向けたものだったのに、答えは別のところから返ってきた。

「ここにいるためだ」

 低い声だった。

 振り返ると、裏口の扉のところにセヴリックが立っていた。いつから聞いていたのかはわからない。旅用の濃紺の上着、泥の乾いた長靴、片手には薪の小さな束。まるで今しがた普通に暮らしの途中から戻ってきた人間みたいにそこにいる。そのことが、余計に現実味を狂わせた。

 アルヴァンがわずかに身を引く。

「兄上」

「ご苦労」

 短いやり取りのあと、セヴリックの視線はまっすぐリュゼルへ向いた。

 リュゼルは自分の指先が冷たくなっていくのを感じる。逃げたい。だが足が動かない。

「本当なのですか」

 やっとそれだけ聞く。

「召喚状を」

「破棄した」

「どうして」

「戻る気がないからだ」

 あまりにも迷いのない返答だった。

 そこに、王都への未練も、公爵としてのためらいも見えない。少なくとも今この瞬間には。

「国も家も、回るようにした」

 セヴリックは淡々と言った。

「最初からそのつもりで来た。だから王都からの圧力でお前が自分を足枷だと思う必要はない」

「そんなこと」

 言いかけて、言葉がつまる。

 そんなこと、言われても。

 足枷ではないと言われても、ここまでされて何も感じずにいられるはずがない。むしろ逆だ。ここまでしてこられる理由がわからないから、足枷でないどころか、もっと重い何かになってしまった気がして怖いのだ。

「どうして、そこまで」

 リュゼルは繰り返す。今度はさっきよりはっきりと。

 セヴリックは少しだけ黙った。沈黙を挟むのは、いつもの癖だ。言い訳ではなく、本当に言葉を選ぶときの沈黙。

「今さら失う痛みだけ知った」

 やがて彼は静かに言った。

 リュゼルは息を止める。

「知らないままのほうが、よほど冷徹だった」

 その言葉は、まっすぐ胸へ入ってきた。

 飾りも、言い逃れもない。たぶん彼にとって、これ以上削れないところまで削った本音だったのだろう。今さら失う痛みだけ知った。知らないままのほうが、よほど冷徹だった。

 それはつまり、失いかけて初めて、自分に何をしていたのかを知ったということだ。

 遅すぎる。

 どうしようもなく。

 けれどその遅さを、自分で免罪符にせず、そのまま痛みとして引き受けているのがわかるから、リュゼルは何も言い返せなかった。

「王都で冷徹と呼ばれることに、意味があると思っていた」

 セヴリックの声は低いままだった。

「必要なものを切り、情を見せず、揺るがないことが、俺の役目だと。だが、お前を失いかけた今となっては、それを知らないままでいたことのほうが、よほど冷徹だったと思う」

 裏の作業場に、昼の明るさが満ちている。魚の匂い、刻んだ香草、木の床の乾いた匂い。日常のただ中で、そんな言葉を聞かされる現実感のなさに、リュゼルは少し眩暈がした。

 アルヴァンが気を利かせてか、一歩、二歩と後ろへ下がる。マルグリットは帳場のほうへ移っていた。二人とも、ここから先はもう他人が割りこむ場ではないとわかっているのだろう。

 けれどリュゼルは、今この場に二人だけで立たされるのがひどく怖かった。

「……だからといって」

 どうにか声を出す。

「だからといって、全部を投げていい理由にはならないでしょう」

「投げてはいない」

「同じです」

「違う」

 セヴリックは首を横に振る。

「回るようにした上で、俺がここにいることを選んだ。それは捨てたのではなく、優先を変えた」

 優先。

 その言葉に、リュゼルはぞくりとする。

 国でも家でもなく、自分がその先に置かれているのだと、言外に示されているからだ。

 そんなこと、受け止められるはずがない。

 受け止めた瞬間、今まで逃げてきたものが全部こちらへ流れこんでくる気がする。

「お前は俺の人生を壊したくないと言ったな」

 セヴリックが続ける。

「壊れていない」

「そう見えません」

「なら、俺がそうする」

「何を」

「壊れていないと、お前にわかる形にする」

 言葉がない。

 本当に、どうしてこの人は、こういうところだけ変にまっすぐなのだろう。もっと曖昧に誤魔化せばいいのに。もっと王都の理屈を口にすればいいのに。そうすればこちらも「やはりその程度だった」と冷たく切れたはずなのに。

 なのに彼は、召喚状を破棄したことすら隠さない。国も家も回るように先に手を打っていたことも隠さない。その用意周到さと覚悟の重さを、全部こちらへ見せてくる。

 ここまでして追われる理由がわからない。

 わからないまま、ただ怖い。

 もしこれが本当に一時の熱ではなく、冷静に整えた上での執着なら、自分は何から逃げればいいのだろう。いや、逃げるべきなのかどうかすら、もうわからなくなる。

「……怖いです」

 気づけば、そんな言葉がこぼれていた。

 言ってしまってから、リュゼル自身がはっとする。こんなことを口にするつもりはなかった。怒るか、責めるか、それだけのつもりだった。なのに出たのは、もっとずっと裸の感情だった。

 セヴリックの目が、ほんのわずかに揺れる。

「何がだ」

「全部」

 もう止まらなかった。

「ここまでして追ってこられる理由がわからない。王都も家も整えて、命令も破って、親族に何を言われてもここにいる。その全部が怖いんです。わたしには、そこまでされる理由がわからない」

 声が少し震える。

「そんなふうにされたら、逃げた意味がなくなるでしょう」

 リュゼルは両手をきつく握りしめる。

「わたしは、静かに終わりたかったのに」

 セヴリックは黙っている。

 沈黙が重い。けれどその重さが、今は少しだけありがたい。もしここで簡単に慰められたら、たぶんリュゼルはもっと傷ついていた。

 やがて彼は、低く言った。

「静かに終わらせるつもりだったことを、俺は止めたい」

 それはあまりにも率直で、あまりにも身勝手で、だからこそ返す言葉がなかった。

 静かに終わりたかった。

 たしかにそうだ。王都で、公爵夫人の顔のまま、誰にも本音を言えずに終わるのが耐えられなくてここへ来た。海の匂いに紛れて、ただのエルナとして消えていけたらと思った。その願いを、彼は真っ向から否定している。

 止めたい、と。

 言ってしまえば、またしても勝手だ。

 だがその勝手さの中に、もう義務の匂いだけではないものがあるとわかるから、リュゼルはますます苦しくなる。

「……今日は、帰ってください」

 ようやくそれだけ言う。

 拒絶というより、懇願に近い声だった。

「今、これ以上は無理です」

 セヴリックは少しだけ目を伏せた。

「わかった」

「本当に?」

「本当だ」

「召喚状も破っておいて、そんな言葉だけは素直なんですね」

 半ば自嘲みたいに言うと、彼の口元がほんのわずかに動いた。笑うというには遠い、苦い気配だけの動きだった。

「素直で済むところは、そうしたほうがいいと学んだ」

 その返しに、リュゼルはほんの少しだけ、どうしようもなく疲れた笑いをこぼしそうになった。

 学んだ。

 今さら。

 本当に今さらだ。

 けれど、その今さらの積み重ねだけでしか、もう前へは進めないのかもしれないと、頭のどこかで冷静に思ってしまう自分もいる。

「アルヴァン」

 セヴリックが後ろに声をかける。

 従弟は黙って一礼し、封書を作業台の端へ置いた。

「家の定期報告です」

 アルヴァンはリュゼルへも軽く頭を下げる。

「義姉上、こちらへ来たことを責めるつもりはありません。ただ、兄上が衝動でここにいるわけではないことだけは、お伝えしたかった」

 その言葉が、今日一番深く刺さった。

 衝動ではない。

 つまり、本気だということだ。

 それを、兄本人の言葉ではなく、従弟の口から確認させられることが、ひどく現実的で残酷だった。

 リュゼルはもう何も言えなかった。

 海燕亭の中へ戻ると、さっきまでと同じはずの匂いも光も、どこか少しだけ変わってしまったように感じた。魚の煮込みの匂い。棚に並ぶ乾いた皿。木の床に落ちる午後の光。全部そのままなのに、自分の内側だけが別の場所へ連れていかれたみたいだった。

 席へ着く気力もなく、しばらく立ったまま動けない。

 マルグリットがそっと水の入ったコップを差し出してくる。リュゼルはそれを受け取り、一口だけ飲んだ。冷たすぎない水が喉を通る。けれど胸のざわめきは消えない。

 召喚状を破棄した。

 国も家も回るように手を打っていた。

 今さら失う痛みだけ知った。

 知らないままのほうが、よほど冷徹だった。

 その全部が、頭の中で鈍く反響している。

 彼がここまでして追ってくる理由がわからない。

 わからないから怖い。

 でも、怖いだけでは済まないところまで、もう来てしまっている気もした。

 海の向こうは相変わらず青いままで、波は何事もないように寄せては返している。ノクレールは今日もやさしい。やさしい町の、魚と木の匂いに満ちた小さな宿の中で、リュゼルだけが、自分の逃げ道が少しずつ削られていくのを感じていた。

 それが、たまらなく恐ろしくて。

 それでも、彼が本当に王都を捨ててきたのだと、もう疑えなくなってしまったこともまた、同じくらい痛かった。


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