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第2話 奥様であれ、ただし黙って働け
朝は、いつも鐘の音より少し早く始まる。
まだ夜の冷えが石壁の内側に残っている時刻、東棟の高窓の向こうで空がわずかに白みはじめるころには、セスティアはもう目を覚ましていた。目覚める、というより、浅い眠りから浮かび上がるだけに近い。深く眠れたという感覚は、ここ数か月ほとんどない。寝台に入っても、身体は休み方を忘れてしまったようにこわばっていて、物音ひとつ、廊下の足音ひとつで意識が浮く。
今朝もそうだった。
まだ暗いうちに、北側の廊下を誰かが急ぎ足で通った。靴音は二人分。使用人同士が囁き交わす低い声。どこかの扉が開いて、すぐに閉まる音。その一つ一つが静かな水面へ落ちる小石のように、浅い眠りを揺らした。
セスティアは目を開け、天蓋の内側にぼんやりと落ちる薄い影を見つめた。重いカーテンの隙間から差し込む夜明け前の光は青く、寝室の家具の輪郭を冷たく浮かび上がらせていた。掛け布団の下にある自分の身体は妙に重い。首筋はこっていて、肩甲骨のあたりが鈍く痛む。指先は少し冷たいのに、まぶたの裏だけが熱を持っているようだった。
「……朝」
小さく口にすると、それだけで喉がひりついた。昨夜、帳簿庫で長く冷えたせいかもしれない。あるいは、食堂で飲み込んだ言葉が喉のどこかにまだ引っかかっているのかもしれなかった。
寝台脇の呼び鈴を鳴らすより先に、控えめなノックがした。
「奥様、起きていらっしゃいますか」
ニネッタの声だった。
「ええ、どうぞ」
扉が開く。年若い侍女は、薄い灰色の朝の光の中で小さな盆を抱えて立っていた。湯気の立つ白湯と、温めた濡れ布、それから着替えのためのドレスが腕に掛けられている。淡い青みを帯びたくすみ色の朝用ドレス。襟元に細いレースがつき、目立たないが仕立てのいいものだ。本来なら、伯爵家の女主人としてもっと華やかなものを選ぶこともできた。だがセスティアは、いつからか朝の装いに飾りを求めなくなっていた。どうせこの屋敷では、見栄えの良さも、上品さも、誰かの都合で簡単に踏みにじられる。
「お加減はいかがですか」
ニネッタが寝台脇へ盆を置きながら聞いた。
「いつも通りよ」
返事をしながら、セスティアは半身を起こした。背筋を伸ばす動きだけで、腰の奥に鈍いだるさが走る。だが表情には出さない。濡れ布を受け取り、顔にあてる。温かな湿り気が冷えた皮膚に触れ、少しだけ生き返るような心地がした。
ニネッタは掛け布団を整えながら、ちらりとこちらを見た。
「帳簿庫からお戻りになったの、かなり遅かったですよね」
「そうね」
「お休みは……」
「したわ」
嘘だった。
帳簿庫を出たのは夜半をかなり過ぎてからだ。寝台に戻っても、数字の列や署名の癖が目の裏に残って、しばらく目を閉じることができなかった。それでもセスティアは、朝のこの時間に「眠れなかった」とは言わない。言葉にした瞬間、弱さとして形を持ってしまう気がした。
ニネッタは口をつぐみ、代わりに窓辺へ歩いて厚いカーテンを少しだけ開いた。白んだ空が覗き、庭の上に冷たい薄霧が漂っているのが見えた。芝は夜露を含んで暗く沈み、噴水の縁にはうっすらと白い膜のような霜がついている。
「今日は冷えますね」
「ええ」
「朝食はお部屋へ運ばせますか」
「いいえ。居間でいただくわ。そのあと、すぐに仕事に取りかかるから」
ニネッタがわずかに眉を寄せた。
「今日も、ですか」
「今日もよ」
その一言で会話は終わった。ニネッタはもう何も言わず、淡々と支度を整える。侍女としての手つきはまだ少し拙い部分もあるが、セスティアが嫁いできたころよりずっと滑らかになった。髪を梳き、背中へ流し、緩やかに半分だけまとめる。銀の櫛が髪を通るたび、蜂蜜色の髪がさらさらと肩を滑った。鏡の中の自分は、ここしばらくでいくらか痩せたように見える。頬の線が薄くなり、目の下の影が取れにくい。青灰色の瞳の色だけが、やけに冷たく澄んでいた。
「少しだけ、薔薇水を使いますか」
「いいえ、いらないわ」
「はい」
断る声にも慣れたのか、ニネッタはすぐに引き下がる。
この屋敷の朝は早い。女主人であるセスティアが居間へ移るころには、厨房はすでに忙しく、廊下には磨き布の匂いと焼きたてのパンの香りが混ざり始めていた。けれど、その匂いの中を歩いていても、幸福な家庭の朝という感覚はない。音も匂いも整っているのに、どこか常に神経を擦る緊張が漂っている。誰かが機嫌を損ねる前に、誰かが先回りで動く空気。失敗が起きたとき、責任の押し付け先を探している空気。
居間の丸机には、すでに朝食が用意されていた。温めたパン、薄く切った果物、半熟の卵、少しのスープ。それに紅茶。量は十分だが、セスティアは最近、朝にたくさん食べられなくなっていた。空腹はあるのに、胃が食べ物を受け入れる前から縮こまる。
それでも椅子に腰かけ、ナプキンを広げ、まずはスープを口へ運ぶ。あたたかい。塩気はやや弱いが、朝にはちょうどいい。だが三口ほど飲んだところで、廊下を急ぐ足音がして、ほどなくして扉が開いた。
「奥様、失礼いたします」
家令補佐のデュエンだった。四十を少し越えた男で、痩せた身体にいつも少しきつそうな上着を着ている。礼儀は正しいが、その目元には常に計算の色がある。誰に従うべきか、誰の機嫌を優先すべきかを、瞬きの間に測っているような男だ。
「朝からどうしたの」
「本日のご確認事項でございます」
そう言って差し出されたのは、厚い書類束だった。セスティアは手を止め、受け取る。紙の端が指に少し痛い。ざっと見るだけでも、取引先からの返書案、倉庫在庫の報告、使用人勤務表の修正、来客予定表、支払い延期願い、ベルソナ個人名義の注文書まで混ざっている。
「ずいぶん多いのね」
「本来であれば昨日のうちにお通しするべきでしたが、奥様がご多忙でしたので」
その言い回しに、セスティアは視線を上げた。
ご多忙でしたので。丁寧な言葉だが、中身は違う。要するに、昨夜食堂で追い出されたあと帳簿庫へ籠もっていたことも、屋敷中の使用人たちはもう知っているということだ。どこで誰が見ているかわからない屋敷で、情報は水が滲むように広がる。
「朝食のあとに見るわ」
「ですが、旦那様が正午までにご返答を、と」
ユリゼンの名が出た瞬間、匙を持つ手がほんの少しだけ止まった。
「旦那様ご自身は」
「お目覚め前でいらっしゃいます」
「……そう」
セスティアは書類束を机の端に置いた。
まだ寝ている夫のために、彼女は朝食の席で仕事を増やされる。いかにも、この家らしい。
「ほかには」
「奥様ご確認のうえ、ご署名をいただきたい支払い命令書が三件。それから西側倉庫の鍵管理について、使用人頭同士で揉め事が」
「あとで呼んでちょうだい」
「かしこまりました」
デュエンは頭を下げたが、下がる前に一瞬だけ、机の書類とセスティアの顔を見比べた。その視線には哀れみも同情もない。ただ、仕事を押しつけるのに都合のいい相手を見る冷静さがあるだけだった。
扉が閉じる。
セスティアは紅茶を口に運んだ。少し冷めていた。朝の静けさに戻ったはずなのに、もう喉の奥は落ち着かない。
「奥様」
後ろに控えていたニネッタが、静かに呼びかけた。
「朝食の間くらいは……」
「食べるわよ」
言って、セスティアはパンを半分にちぎった。焼きたての香りがした。外は薄くぱりっとして、中はやわらかい。けれど噛んでいるうちに、味より先に義務だけが口の中に広がる。食べなければ持たない。持たなければ、倒れる。倒れれば、もっと都合よく扱われる。そういう計算で食べているだけで、美味しいと思う余地がない。
朝食を終えたあとは、息をつく間もなく執務室だった。
伯爵家の女主人用に与えられた部屋は南向きで、窓からは庭がよく見える。日の光もよく入る。壁紙は落ち着いた生成り色で、家具は明るい木目のものが揃えられていた。本来なら心休まる部屋のはずだった。だが机の上に仕事が積まれ、常に誰かが出入りし、呼び鈴が鳴り、書類が増え続けるようになってからは、ここもまた追い立てられる場所に変わっていた。
朝一番に通されたのは、洗濯室の主任女中と倉庫番だった。
「だから申し上げておりますでしょう、奥様。新しいリネンの割り振りが足りませんの。客室に二組余計に回されたせいで、使用人部屋のぶんが……」
「客室、ではなく、メルフィナ様のお部屋です」
倉庫番の男が、むっつりとした顔で言い直した。
「しかもあの部屋だけ、上質なものを二重にお求めです。洗濯の回数が多すぎて、もう追いつきません」
「そんなこと、こちらに仰られても」
主任女中が眉を吊り上げる。
「足りないものは足りないのです。毎朝、あのお部屋だけで香油の匂いが染みついて、シーツの洗いも大変ですし」
セスティアは二人の言い合いを聞きながら、机の上の勤務表と在庫帳を開いた。紙の上では、たしかに一週間前から高級リネンの使用量が急増している。しかも命令書は義母ベルソナの印で通っていた。女主人の決裁を通さずに。
「口調を慎みなさい」
静かに言うと、二人はぴたりと黙った。
「必要なのは不満のぶつけ合いではなく、解決策よ。在庫はあと何組残っているの」
「上等なものは四組だけです」
「一般用は」
「十一組」
「なら、客室用の新規入れ替えを今月は止める。補修可能なものは繕って使って。使用人部屋のぶんは一般用で補いなさい。高級リネンの追加発注は私の許可があるまで凍結します」
「ですが……」
主任女中が言いかける。
「誰かが不満を言うなら、私に通しなさい」
セスティアがそう言うと、二人は顔を見合わせ、渋々ながらも頭を下げた。
次に来たのは青果商への返書、次に馬屋の支払い延期願い、その次に料理長から来月の食材調達相談。誰も彼も「奥様にしか決められませんので」と言う。だがそれは、彼女に権限が十分にあるからではない。最終責任だけを押しつけるのに都合がいいからだ。義母は面倒なことには関わらず、ユリゼンは実務に関心がない。結果として、セスティアが全部の受け皿になる。
午前の光が窓から差し込むころには、机の端へ重ねた処理済み書類の束がもう三山になっていた。
「こちらは東街区の織物商からです」
デュエンがまた新しい封書を差し出す。
「先月ぶんのお支払いが未了だと」
「そんなはずはないわ。控えを出して」
「はい」
控えを照合すると、やはり支払い指示は通してあった。だが現金が動いていない。帳簿上では処理されているのに、実際の支払箱の記録から抜けている。
セスティアは眉を寄せた。
「金庫番を呼んで」
しばらくして現れたのは、年配の金庫番ロムだ。丸まった背をさらに縮めるように頭を下げ、汗を拭きながら立っている。
「これはどういうこと」
指し示した帳票を見て、ロムは顔色を変えた。
「わ、わたくしには……。あの、先週、臨時で金貨の持ち出しがありまして」
「誰の指示で」
「ベルソナ様でございます」
「名目は」
「客用装飾品の緊急手配、と」
まただ、とセスティアは思った。
緊急。客用。装飾品。その言葉さえ書いておけば、実際に何へ使ったかが曖昧になる。曖昧なまま通し、あとで埋める。そういう雑な帳尻合わせが、この家ではもう癖になっている。
「次からは、義母様のご指示であっても私へ写しを通しなさい」
「しかし……」
「通しなさい」
少しだけ声を強めると、ロムはびくりと肩を震わせた。
「は、はい」
男が去ったあと、セスティアは机に肘をつきたくなる衝動をこらえた。背筋は伸ばしたまま、椅子の背もたれにもたれずに座り続ける。そうしないと、怠けているように見える気がしてしまうのだ。誰も見ていなくても。
昼が近づくころ、執務室の外の廊下がにわかに騒がしくなった。軽やかな笑い声が近づいてくる。甘い香油の匂いが扉の隙間から滑り込んだだけで、誰が来たのか分かった。
案の定、ノックもそこそこに扉が開く。
「まあ、セスティア様。まだお仕事をしていらしたの?」
メルフィナだった。今日も薔薇色に近い淡い色のドレスを着ている。胸元には新しいレース、耳には真珠。背後にはベルソナがいて、扇をゆらゆらと動かしながら部屋の中を見回した。
「あら、相変わらず紙ばかり。目が悪くなるわよ」
その一言に、セスティアは立ち上がって礼を取る。
「お義母様。メルフィナ様」
「いいのよ、座ったままで」
ベルソナは言いながら、遠慮なく部屋の中央まで入ってきた。自分の屋敷だから当然だと言わんばかりの足取りだ。
「今日、仕立て屋が来るのだけれどね。メルフィナさんの冬用外套について少し相談したくて」
「外套、ですか」
「北風が冷たくなってきたでしょう。あの子は身体が弱いの。質の良い毛皮を合わせてやりたいのよ」
セスティアは机上の書類に一瞬だけ目を落とした。織物商の未払い。客室用リネンの不足。西倉庫の鍵管理。目の前にはまだ片づいていない案件が山積みだというのに、相談されるのは愛人の外套の格である。
「予算の確認をいたします」
「まあ、硬いこと」
ベルソナが肩をすくめる。
「伯爵家の体面というものがあるでしょう。みすぼらしい格好をさせるわけにはいかないのよ」
みすぼらしい。
その言葉が引っかかった。誰の格好のことを言っているのかは明白だ。メルフィナの衣装へは惜しみなく金が流れ、セスティア自身は必要最低限のものを長く手入れしながら使っている。義母の前で贅沢を口にするつもりはなかった。だが、家の金を湯水のように使っておきながら体面を語るのは、あまりに滑稽だった。
「必要額の上限をお示しいただけますか」
淡々と問うと、メルフィナが目を丸くした。
「上限、ですの?」
「ええ。支払記録に残しますから」
ベルソナの扇がぴたりと止まる。
「記録、記録って、あなたは本当にそういう言葉が好きね」
「家計を預かる以上、当然かと」
「預かっている、ねえ」
ベルソナの声が少しだけ低くなった。
「勘違いしないでちょうだい。あなたはこの家のために働いているのでしょう。家計を握って偉くなったつもりなら困るわ」
その言葉で、部屋の空気がじわりと重くなる。
メルフィナが困ったふうに義母を見上げる。
「お義母様、セスティア様もきっと、わたくしのためを思って……」
「いいのよ、あなたが庇うことはないわ」
ベルソナは優しくメルフィナの腕を撫で、次にセスティアへ視線を戻した。
「いいこと、セスティア。奥様であるなら、まず家の空気を良くすることを考えなさい。皆が気持ちよく過ごせるように整えるのがあなたの役目よ。帳簿を盾にして、人の気持ちを悪くするようでは話にならないわ」
皆、の中に自分は入っていないのだと、セスティアは静かに理解する。
この家で求められている女主人とは、決して判断する者ではない。金を見張る者でも、誤りを正す者でもない。黙って働き、黙って整え、誰かの気分を害しないように気を配り、自分が傷つくことには口をつぐむ存在だ。
奥様であれ。ただし黙って働け。
その命令が、今、ベルソナの口からはっきりと言葉になったわけではない。だが意味は寸分違わずそこにあった。
「承知いたしました」
そう答えた自分の声が、少し遠くに聞こえた。
ベルソナは満足したように扇を閉じる。
「では、外套の件はあなたに任せるわ。夕方までに見本を選んでちょうだいね」
二人はそれだけ言って去っていった。甘い香りだけが部屋に残る。
扉が閉まると、セスティアはしばらくそのまま立っていた。視界の端で、窓の外の光が少し白く揺れている。頭の奥が重く、こめかみのあたりが脈打っているのがわかる。椅子に座り直そうとして、足元が一瞬だけ不安定になった。床がほんの少し沈んだような感覚。
「奥様」
背後でニネッタが小さく息を呑んだ。
彼女はいつの間にか、お茶の盆を持って扉脇に控えていた。今の一部始終を、少なくとも声だけは聞いてしまったのだろう。顔色が悪いのは誰の目にも明らかだったらしい。ニネッタは慌てて盆を近くの小机に置き、セスティアのそばへ一歩寄った。
「お座りください」
「平気よ」
「平気ではありません」
思いのほか強い声音だった。
セスティアは少し驚いて、ニネッタの顔を見る。若い侍女は唇を引き結び、いつもよりずっと険しい表情をしていた。
「お顔が真っ白です」
「少し、立ちくらみをしただけ」
「少しではありません。手も……」
言いかけて、ニネッタはセスティアの右手を見た。
指先が、ほんのかすかに震えていた。
それは大げさに見ればわからない程度の揺れだった。だが紙にペンを置く人間の手を毎日見ている侍女なら、違いがわかる。今朝、寝台脇で白湯の器を受け取ったときにはなかった揺れだ。
セスティアは反射的に手を引こうとしたが、ニネッタは見なかったふりをしなかった。
「奥様」
今度はさっきより、ずっと静かな声だった。
「少し、休んでください」
「休んでいる暇は」
「あります」
「ないわ」
答えた途端、声が少し鋭くなった。自分でも気づく。だが引っ込める前に、ニネッタの肩がびくりと揺れた。
しまった、と思った。
怒鳴ったわけではない。けれど、この屋敷では立場の上の者が声を強めること自体に、それなりの重みがある。ニネッタが怯えたのなら、それは彼女のせいではない。セスティアの中に溜まっていた疲れが、細いところから漏れただけだ。
「……ごめんなさい」
言うと、ニネッタは目を見開いた。
「いえ、そんな」
「あなたに当たるつもりではなかったの」
「わかっています」
そう言いながらも、侍女の胸は少し速く上下していた。呼吸を整えようとしているのがわかる。
セスティアは椅子へ腰を下ろした。背もたれに頼るつもりはなかったのに、身体が先に重みを預けてしまう。首筋を押さえると、皮膚の下で熱がこもっているのがわかった。
ニネッタがすぐに茶を注ぐ。湯気とともに薬草の匂いが立つ。少し青く、すっきりした香り。ミントに似ているが、もっと苦味のある葉だ。飲めば頭の重さが少し引くかもしれない。
「これだけでも」
差し出される杯を受け取り、セスティアは一口飲んだ。温かさが舌に触れ、喉を落ちていく。だが、すぐに身体が楽になるわけではない。
「昼食は軽めのものにさせます」
「いいえ、通常通りで」
「通常通りでは持ちません」
まただ、と思った。
この子は、今日、妙に食い下がる。
だが不快ではなかった。むしろ、戸惑う。屋敷の人間はたいてい、セスティアの不調を見ても見ないふりをする。あるいは「顔色が悪い」と体面の話に置き換える。だがニネッタだけは、持ちません、と、身体の話として言う。
「どうして、そこまで言うの」
問いかけると、ニネッタは少しだけ黙った。視線が揺れる。言うべきか迷っている顔だった。
「……昨日の夜も、帳簿庫からお戻りになったとき、扉を閉める前に壁へ手をつかれていました」
セスティアは息を止めた。
「見ていたの」
「見えるつもりでは、ありませんでした」
ニネッタは慌てて首を振る。
「わたし、お茶の用意をしていて、その、廊下で。奥様がふらついて……でも、すぐに何事もなかったみたいに歩かれたから、言ってはいけないのかと思って」
「……」
「だけど、今も同じです。立ったとき、少し、足元が……」
言葉を選びながら、それでも最後まで言う。若いのに、逃げない目だった。
セスティアは杯を机に置いた。陶器が木に触れて、小さな音がする。
誰かに見られていた。倒れそうになったところを。平気な顔を作ったところを。
それは本来、恥ずかしいはずだった。惨めで、隠したいことのはずだった。けれど不思議と、今のセスティアが感じたのは羞恥よりも先に、ひどく静かな驚きだった。気づいたのだ。この屋敷で自分のふらつきに目を留めた人間が、少なくとも一人はいたのだと。
「……どうして、黙っていなかったの」
ニネッタはその問いに、しばらく答えなかった。窓の外で風が枝を揺らし、細い影が硝子の向こうを横切る。部屋の中では時計の針が小さく刻を打っていた。
やがて侍女は、ぎこちなく口を開いた。
「黙っているほうが、楽だからです」
セスティアは目を上げる。
「何か見ても、何も聞いていないふりをしていれば、叱られません。巻き込まれません。わたしみたいな者が余計な口を出すと、すぐに出過ぎだって言われます」
「ええ」
その通りだと思った。
「でも」
ニネッタは両手を強く握った。白いエプロンの布が少し皺になる。
「奥様が倒れそうなのに、誰も何も言わないのは、おかしいです」
その言葉は、装飾がなくて、真っすぐだった。
おかしい。
あまりに素朴で、だからこそ強い断定に、セスティアは一瞬だけ言葉を失う。ここでは何もかも、もっと曖昧に処理される。仕方ない。そういうもの。奥様なのだから。ご辛抱を。家のために。言葉はたくさんあるのに、誰もそれを「おかしい」とは言わない。言ってはいけないものとして、最初から棚に上げられている。
けれど、目の前の若い侍女は、それを言った。
おかしい、と。
「わたし……」
ニネッタは言いながら、声を少し震わせた。
「奥様が、いつもご自分で何とかされるのは知っています。皆さんが困ったら、すぐに呼ばれるのも。誰かの失敗を、奥様が静かに片づけているのも。でも、奥様が困っていても、皆、見ていないふりをするでしょう」
セスティアの胸の奥で、細い糸のような何かが張った。
「だから、せめてわたしは、見ていないふりをしたくありません」
その瞬間、室内の空気が少しだけ変わった気がした。
窓から入る光は相変わらず白く、机の上には未処理の書類が山のように積まれている。問題が消えたわけではない。義母の支配も、夫の無関心も、愛人への浪費も何ひとつ変わっていない。けれど、それでも確かに、たった今、部屋の中にこれまでなかったものがひとつ増えた。
味方かもしれない、と思える気配。
それはまだ頼りなく、壊れやすく、小さな灯りのようなものだった。だがゼロではない。ここにはもう、自分の震える手を見て、見なかったことにはしない人が一人いる。
セスティアはゆっくりと息を吐いた。張りつめていた胸の奥が、少しだけ緩む。
「……ありがとう、ニネッタ」
その言葉に、侍女はびっくりしたように瞬いた。
「いえ、そんな、わたしは」
「うれしかったの」
自分の口からそんな言葉が出るとは思っていなかった。
だが本当だった。嬉しい、という感情は、ここしばらく忘れていた類のものだ。礼を言われたことではない。気づかれたことだ。誰かが、自分の具合の悪さを、「怠け」でも「みっともなさ」でもなく、ただ具合の悪さとして見てくれたことが。
ニネッタは頬を少し赤くした。
「奥様……」
「ただし」
セスティアは少しだけ口元を和らげた。
「仕事を減らすことはできないわ」
「減らしてください」
「できないの」
「では、せめて増やさないでください」
思わぬ返しに、セスティアはわずかに目を見開いた。
ニネッタがこんなふうに言い返すのは珍しい。だがその必死さが、かえっておかしくて、口元にほんの少しだけ笑みが滲みそうになる。泣きたくなる夜も、冷えた皿を前に息を潜める食卓もあるのに、今この瞬間だけは、かすかな可笑しみがあった。
「増やさない、は難しいわね」
「難しくても、してください」
「命令?」
「お願いです」
セスティアは小さく息をついた。
「……努力するわ」
「本当ですか」
「ええ。本当」
約束に近い言葉を口にすると、ニネッタはようやく少しだけ表情を和らげた。だがすぐに侍女の顔へ戻り、机上の書類束へ目をやる。
「では、その代わり、わたしにできることを教えてください」
「あなたに?」
「書類の順を並べるくらいならできます。急ぎのものと、後でいいものを分けたり。お茶を切らさないことも。呼びに来た人を少し待たせることも、たぶん」
「待たせたら叱られるわよ」
「奥様が倒れるよりはましです」
きっぱり言われて、セスティアは言葉に詰まった。
この屋敷で、こんなふうに自分の不利益を少し脇へ置いてまで何かを言ってくれる人がいただろうか。少なくとも、すぐには思い出せなかった。
「……では、急ぎの返書から先に並べ替えてちょうだい」
「はい」
「あと、昼食は軽いものにして。パンとスープで十分よ」
ニネッタの顔がぱっと明るくなった。
「はい。すぐに厨房へ伝えます」
「それから」
「はい」
「誰にも、今の話はしないで」
侍女は真面目な顔で頷いた。
「もちろんです」
その返事に迷いはなかった。
ニネッタが机の書類を手際よく並べ替え始める。まだ完全には慣れていないので、封筒の向きを一度逆にしてしまったり、後で見る印を少し大きくつけすぎたりもする。だが、それでも確かに助かる。誰かが机の端に積まれた混沌へ手を添えてくれる。それだけで、部屋の中の空気まで少し整う気がした。
セスティアは新しいペンを取り、深く息を吸う。紙の匂い。薬草茶のほのかな苦味。窓から差し込む白い光。背中のだるさはまだ消えない。こめかみも重い。だが、さっきまでより手元は安定していた。
奥様であれ、ただし黙って働け。
そういう家なのだろう。この先もしばらくは変わらないかもしれない。
けれど今日、セスティアは知った。
自分がただの道具として擦り減っていくのを、黙って見過ごさない目が、まだひとつ残っている。
それは大きな救いではない。劇的に何かを変える力でもない。けれど、味方が一人いるかもしれない、という事実は、思っていたよりずっと温かかった。冷えきった屋敷の空気の中で、掌の中へ落ちてきた小さな炭火のように。
その熱を消さないように、セスティアは静かに書類へ向き直った。
今日も働く。
けれど、昨日までとは少しだけ違う。
この部屋には、少なくとも一人、自分の震える手を見てくれる人がいる。
それだけで、耐えるという言葉の意味が、ほんの少しだけ変わった気がした。
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「お姉様なんかほっとけばいいじゃない!!」
無理よ。
だって私、大公様の妻になるんだもの。
大忙しよ。