十一度離縁された無能妻ですが、妹が恋した公爵様だけは私を手放さない〜失った子の記憶を抱えた私は、今度こそ家族を守ります〜

なつめ

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第18話 夫は髪をほどく


 その夜、公爵家の寝室には雨の気配があった。

 まだ降ってはいない。けれど窓の向こうの庭は昼間より深く沈み、空の低いところに厚い雲が垂れている。風が木々の葉を揺らすたび、窓硝子の向こうで暗い緑がかすかに擦れ合った。遠くの噴水の水音はいつもより低く聞こえ、暖炉の火は小さく赤く、部屋の奥で静かに燃えていた。

 リゼルミアは寝台の端に腰かけていた。

 白い夜着の上に薄いショールを羽織り、膝の上で両手を重ねている。昼間はエルネストに言われた通り、帳簿室へは入らなかった。休む日だと決められ、イーリアに半ば見張られるようにして、庭の花を眺めたり、書庫で軽い読み物を読んだりして過ごした。

 休む。

 まだ、うまくできない。

 けれど、今日一日、何もしていないわけではなかった。昼前にはイーリアから衣装室の花飾りの分類を少しだけ教わり、午後には料理長から焼き菓子の香草について話を聞いた。どちらも仕事というほど重くはない。むしろ、リゼルミアを屋敷に慣れさせるための小さな案内だったのだろう。

 夕食後、エルネストは「今日は帳簿の話をしない」と言った。

 リゼルミアが少しだけ残念そうな顔をしたらしく、彼は目を細めた。

「昨日、十分働いた」

「でも、少しだけなら」

「休む練習も仕事だ」

 真面目な声だった。

 リゼルミアは、その言い方に少し笑ってしまった。

 休む練習。

 確かに、自分には必要なのかもしれない。

 過去の婚家では、休むことは怠けだった。体調が悪くても、眠れない夜の翌朝でも、誰かに傷つけられたあとでも、休むには理由が必要だった。理由を言えば疑われ、証明しなければならなかった。だから、休むことそのものが怖くなった。

 公爵家に来てから、リゼルミアは何度も休めと言われた。

 最初は困った。

 今も困る。

 けれど、少しずつ、休むことが罰ではないのだと知り始めている。

 寝室には、いつものように長椅子が整えられていた。

 エルネストはまだそこに座っていない。隣室で着替えている。リゼルミアは先に寝支度を終えたところだった。

 今日、イーリアは彼女の髪を緩く編んでいた。

 昼間、庭へ出る時に風で乱れにくいようにと、灰金色の髪を低い位置でまとめ、細いリボンで留めてくれた。夕方に解く予定だったが、リゼルミアが私室で少し眠ってしまったせいで、夜までそのままになっていた。

 寝る前にほどかなければ。

 リゼルミアは肩越しに自分の髪へ手を伸ばした。

 指先が結び目に触れる。リボンをほどき、編み目をゆっくり崩そうとした。けれど髪は思ったより固く絡んでいた。昼間の風と、眠った時に寝椅子の背へ押しつけたせいか、細い髪が小さな結び目を作っている。

 指でそっと引く。

 少し痛い。

 リゼルミアは息を止めた。

 もう一度、力を入れないように解こうとする。けれど、指が髪の中で迷い、細い束が絡まり、爪に引っかかった。

「……っ」

 小さな声が漏れた。

 痛い。

 大きな痛みではない。

 ただ、髪が引かれた時の鋭い痛み。

 それだけで、リゼルミアの身体は過去へ戻りかけた。

 婚家の寝室の隣にある小さな化粧室。機嫌の悪い侍女。乱暴に髪をほどかれる夜。櫛の歯が絡まり、髪が引っ張られる。痛いと言えば、侍女は笑った。

 大げさですね、奥様。

 これくらいで痛いなんて。

 じっとしていてくださいませ。余計に時間がかかります。

 夫に呼ばれているのに、支度が遅いと叱られますよ。

 別の家では、義母つきの侍女がわざと力を入れて髪を梳いた。涙が滲んでも、鏡越しに笑われた。

 綺麗にしてもらっているのに、何が不満なのかしら。

 髪くらい我慢できなければ、公爵夫人など務まりませんよ。

 公爵夫人。

 今の自分は、本当に公爵夫人なのだろうか。

 そう思った瞬間、リゼルミアの指先がまた髪に絡まった。

 解こうとして、余計に引っ張ってしまう。

 痛みが走る。

 彼女は慌てて手を離した。

 肩が小さく震える。

 その時、隣室の扉が開いた。

 エルネストが入ってきた。

 室内着に着替え、黒藍色の髪をいつもより少し緩く整えている。手には読みかけの本を持っていた。寝台の端で固まっているリゼルミアを見ると、彼はすぐに足を止めた。

「どうした」

 声は静かだった。

 リゼルミアは反射的に背筋を伸ばす。

「何でもありません」

 言ってしまってから、胸がきゅっと縮んだ。

 何でもない。

 また、いつもの癖だ。

 エルネストは近づかなかった。寝台から少し離れた場所に立ったまま、彼女の顔と髪を見ている。

「髪が絡んだ?」

 言い当てられた。

 リゼルミアは視線を落とす。

「少しだけです。自分でできます」

「痛めたのか」

「いいえ」

 即座に否定してしまった。

 その声が早すぎたせいか、エルネストの眉がかすかに動いた。

 リゼルミアは手を握った。

 痛いと言っていい。

 怖いと言っていい。

 眠れないと言っていい。

 そう教えられている。

 それなのに、言葉はまだ喉で引っかかる。

 彼女は小さく息を吸った。

「……少し、引っ張ってしまいました」

 エルネストは頷いた。

「見てもいいか」

 問いだった。

 命令ではない。

 リゼルミアは肩越しに髪を見るようにして、少し迷った。

 夫に髪を触られる。

 そのことに、身体が固くなる。

 髪は身体の一部だ。肌に近い。首筋に近い。寝室で、夜着のまま、夫に髪を触られる。そう考えるだけで、過去の寝室の記憶がざわりと動く。

 怖い。

 けれど、目の前の人はエルネストだ。

 怖いなら眠るだけでいいと言った人。

 身体の持ち主ではないと言った人。

 名前を呼ぶまで待ってくれた人。

 彼は、許可なく触れない。

 今も、見てもいいかと聞いている。

 リゼルミアは、膝の上で手を握ったまま、小さく頷いた。

「はい」

 エルネストはすぐには触れなかった。

 まず、部屋の小卓へ行き、銀の手鏡と櫛を取った。櫛はイーリアが置いていったものだった。歯の細いものと、少し粗いものがある。エルネストは粗い方を選び、次に椅子を一脚、寝台のそばではなく暖炉寄りの場所へ引いた。

「ここに座れますか。寝台より、椅子の方が怖くないと思う」

 その言葉で、リゼルミアは息を止めた。

 寝台より椅子の方が怖くない。

 なぜ分かるのだろう。

 寝台の上で髪を触られるより、椅子に座っている方が、確かに少しだけ安心できる。逃げるという言い方はおかしいかもしれないが、足が床に触れている方が、自分の身体が自分のものだと感じられる。

「……はい」

 リゼルミアは立ち上がり、椅子に座った。

 足元には柔らかな絨毯がある。暖炉の火が近く、背中にほんのり熱を感じる。エルネストは彼女の背後に立つ前に、もう一度尋ねた。

「触れる」

 リゼルミアは目を閉じそうになり、こらえた。

「はい」

 エルネストの指が、髪の表面に触れた。

 ほんの少し。

 それだけなのに、リゼルミアの肩が震えた。

 エルネストの手が止まる。

「やめるか」

「いいえ」

 リゼルミアは慌てて言った。

「驚いただけです」

 彼は少し間を置いた。

「痛かったら言え」

 低く、静かな声だった。

「怖くなっても言っていい」

 リゼルミアの喉が熱くなる。

「はい」

「言えなければ、手を上げて」

「手を」

「そうしたら止める」

 そこまで決めてくれる。

 リゼルミアは、膝の上の手を見た。

 もし怖くなったら、上げればいい。

 言葉が出なくても、止めてもらえる。

 その約束だけで、少しだけ呼吸がしやすくなった。

 エルネストは、まず指先で髪の絡まりを確かめた。

 引っ張らない。

 無理に櫛を入れない。

 髪の流れを探るように、外側からそっとほどいていく。

 リゼルミアは驚いた。

 こんなに丁寧に髪へ触れられたことが、あっただろうか。

 イーリアはもちろん丁寧だ。公爵家の侍女たちは皆、髪を引っ張らないよう気をつけてくれる。けれど夫の手となると、怖さが違った。指が髪に触れるたび、身体の奥が警戒する。

 それでも、痛くない。

 エルネストの手つきは、驚くほど静かだった。

 まず、絡まっていない部分を指で分ける。次に、細いリボンを完全に外す。ほどけた髪が肩へ落ちる時も、彼は手で受けるようにして、重みで引かれないようにした。櫛はすぐには使わない。指で小さな結び目を探し、端から少しずつ緩めていく。

 暖炉の火が小さく爆ぜた。

 リゼルミアの肩がぴくりと動く。

 エルネストの手がまた止まった。

「痛くないか」

「……はい」

「怖いだけか」

 正直に聞かれた。

 リゼルミアは、少し迷ってから答えた。

「少し」

「やめる?」

「いいえ。続けてください」

 自分でそう言えた。

 エルネストは頷き、また髪に触れた。

 夫に髪をほどかれている。

 それだけのことが、リゼルミアには大きすぎた。

 過去の寝室では、髪をほどくことも怖かった。夜会から戻ったあと、夫が不機嫌で、侍女が急いで髪を引っ張り、痛いと言えないまま涙をこらえた。別の家では、夫の愛人がリゼルミアの髪飾りを見て「地味ね」と笑い、そのあと侍女たちがわざと髪飾りを乱暴に外した。

 髪を触られることは、支配されることだった。

 整えられるのではなく、扱われること。

 飾られるのではなく、値踏みされること。

 ほどかれるのではなく、ほどかれて逃げ道をなくすこと。

 だから、怖い。

 けれど今、エルネストは彼女の髪を支配していない。

 壊さないように、痛くないように、指先でほどいている。

「ここが絡んでいる」

 彼が静かに言った。

「少し時間がかかる」

「はい」

「引っ張らないようにするが、痛ければすぐに言って」

「はい」

 何度も確認される。

 何度聞かれても、彼は面倒そうにしない。

 リゼルミアは、少しずつ肩の力を抜いた。

 櫛の歯が、髪の先の方へ入る。

 すっと通る。

 痛くない。

 次に、少し上から。

 また、すっと通る。

 髪が肩の上に柔らかく落ちる。灰金色の長い髪が夜着の白に広がり、暖炉の光を受けて淡く光った。

 エルネストは無言で梳き続ける。

 余計なことを言わない。

 髪が綺麗だとも、触れてよかったとも言わない。

 今のリゼルミアには、その沈黙がありがたかった。

 言葉で飾られたら、どう受け取ればいいか分からなくなる。夫に髪を褒められることは、まだ少し怖い。けれど、ただ丁寧に梳かれるだけなら、呼吸を整えることに集中できる。

 しばらくして、絡まりが少し緩んだ。

 エルネストの指が、結び目の端をゆっくりほぐす。

 ふっと、髪の束がほどけた。

 引っ張られる痛みはなかった。

「ほどけた」

 彼が言った。

 リゼルミアは、思わず息を吐いた。

「ありがとうございます」

「まだ少し絡んでいる。全部ほどく」

「はい」

 彼はまた丁寧に続けた。

 リゼルミアは、膝の上の手を見つめる。

 手を上げる必要はなかった。

 怖くはある。

 けれど、止めてほしいほどではない。

 夫に髪を触られているのに、身体が逃げ出そうとしない。

 それは、彼女にとって信じられないことだった。

 エルネストの指は、時々髪を分けるために首の近くへ来る。

 そのたびにリゼルミアの呼吸は少し浅くなる。

 彼はすぐに気づき、手を止める。

「首元は避ける」

「大丈夫です」

「無理しなくていい」

 そう言って、彼は髪の束を肩の前へ流し、首筋に指が触れないようにして梳いた。

 その気遣いで、また胸が痛くなる。

 彼は本当に、触れる場所を選んでいる。

 自分のために。

 リゼルミアは小さく言った。

「昔、痛いと言うと笑われました」

 声は自分でも驚くほど静かだった。

 エルネストの手が止まる。

 リゼルミアは暖炉の火を見つめたまま続けた。

「髪をほどく時、侍女がよく引っ張りました。わざとではない時もあったと思います。でも、痛いと言うと、大げさだと。奥様なのだからじっとしていてください、と。私は……痛いと言ってはいけないのだと思っていました」

 部屋が静かになる。

 外では、とうとう雨が降り始めたらしい。

 窓硝子に細い雨粒が当たる音がする。とても小さい音。暖炉の火と混ざって、夜の音になっていく。

 エルネストは、しばらく何も言わなかった。

 やがて、低く言う。

「痛いものは痛い」

 リゼルミアの目が揺れる。

「大げさかどうかは、痛がっている本人以外が決めることではない」

 その言葉は、あまりにも真っ直ぐだった。

 リゼルミアは唇を結ぶ。

 痛いものは痛い。

 そんな当たり前のことを、彼女は何度も奪われてきた。

 痛いと言えば、弱い。

 怖いと言えば、面倒。

 嫌だと言えば、妻失格。

 そうして、身体の感覚まで自分で疑うようになった。

 今、エルネストはそれを戻してくれる。

「痛かったら言え」

 彼はもう一度言った。

「髪でも、手でも、心でも」

 髪でも、手でも、心でも。

 リゼルミアの目に涙が浮かんだ。

 今夜は泣くつもりなどなかった。

 ただ髪をほどいているだけなのに。

 けれど、その「だけ」が胸に深く触れる。

「今は」

 リゼルミアは、震える声で言った。

「今は、痛くありません」

「そうか」

「少し怖いですが、痛くありません」

「ならいい」

 エルネストはそう言って、また櫛を動かした。

 ならいい。

 それだけ。

 その短い言葉が、リゼルミアの身体にゆっくり染み込んでいく。

 怖いけれど痛くない。

 触れられているけれど、乱暴ではない。

 夫が近くにいるけれど、逃げ道はある。

 それらが、ひとつずつ身体の中に新しい記憶として置かれていく。

 髪がほどける頃には、雨音が少し強くなっていた。

 窓を叩く細い音が、部屋の静けさを深くする。暖炉の火が揺れ、白い夜着の上に落ちた灰金色の髪が、火の色をかすかに映していた。

 エルネストは最後に、髪の毛先へ櫛を通した。

 すっと、引っかからずに通る。

「終わった」

 リゼルミアは、そっと髪に触れた。

 絡まりはなくなっていた。

 指が滑る。

 痛くない。

 無理に引っ張られたあと特有の、頭皮のひりつきもない。

「本当に、痛くありませんでした」

 思わず言うと、エルネストは櫛を小卓へ置いた。

「それが普通だ」

 普通。

 リゼルミアはその言葉を胸の中で繰り返す。

 痛くなく髪をほどかれることが。

 痛いと言えば止まってもらえることが。

 怖くなったら言っていいことが。

 普通。

 それを知らずにいた時間が長すぎて、リゼルミアにはその普通が奇跡のように見える。

 エルネストは少し離れた位置に戻ろうとした。

 リゼルミアは、思わず声を出した。

「あの」

 彼が振り返る。

「はい」

 リゼルミアは自分の髪を両手でそっと持った。

 言うべきか迷う。

 けれど、今夜は言いたかった。

「ありがとうございました。怖かったです。でも……嫌ではありませんでした」

 声は小さかった。

 それでも、確かに言えた。

 エルネストの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

「それはよかった」

「まだ、夫に髪を触られることに慣れたわけではありません」

「分かっている」

「でも、次に絡まったら」

 言葉がそこで止まる。

 次に。

 そんな未来を自分から口にしようとしている。

 リゼルミアは少し頬を熱くしながら、続きを言った。

「また、お願いしてもよろしいでしょうか」

 エルネストの目元が静かに和らいだ。

「もちろん」

 即答だった。

 その即答が、胸に甘く沈む。

「ただし」

 彼が続ける。

 リゼルミアは少し緊張した。

「痛かったら言うこと」

 真面目な声だった。

 リゼルミアは、少しだけ笑った。

「はい。言います」

「怖くなったら?」

「……手を上げます」

「それでいい」

 そのやり取りが、まるで小さな約束のように部屋に残った。

 エルネストは長椅子へ向かった。

 リゼルミアは寝台へ戻ろうとして、髪がほどけた背中の軽さに気づく。灰金色の髪が肩から背へ流れ、夜着の布をくすぐる。いつもなら、髪がほどけると心細くなることがあった。守っていたものを解かれたようで。

 けれど今夜は、少し違った。

 乱暴に奪われたのではない。

 丁寧にほどかれた。

 痛いかと聞かれながら。

 止める方法を渡されながら。

 その違いが、身体に残っている。

 リゼルミアは寝台に入り、布団を胸元まで引き上げた。

 足元には湯たんぽがあり、暖かい。髪は枕の上に広がり、引っ張られる感覚はない。

 エルネストは長椅子に座り、本を開いた。

 いつもの夜。

 けれど、何かが少しだけ違う。

 リゼルミアは天蓋を見上げながら、髪に触れた。

 自分の身体。

 ずっと怖かったもの。

 夫に見られ、触れられ、評価され、責められるものだと思っていたもの。

 けれど今夜、髪だけは少し違った。

 痛くないように触れられた。

 自分の許可で触れられた。

 自分が怖いと言えば止まってもらえる状態で触れられた。

 身体は、ただ奪われるものではないのかもしれない。

 そんな考えが、胸の奥に小さく生まれた。

 まだ、ほんの小さな芽だった。

 触れられることの恐怖が消えたわけではない。寝室の記憶も、過去の夫たちの声も、簡単には消えない。今夜だって、最初は肩が震えた。首元に指が近づけば、呼吸が浅くなった。

 けれど、そのたびに彼は止まった。

 それが、新しい記憶になった。

 怖くなれば止まる。

 痛ければ言える。

 髪は痛くなくほどける。

 夫の手は、乱暴でないこともある。

 リゼルミアは、その新しい記憶をそっと抱いた。

「エルネスト様」

 小さく呼ぶ。

 長椅子の方で、彼が顔を上げた。

「はい」

「髪をほどいていただいたのは、初めてではありません」

 彼は黙って聞く。

「でも、痛くなかったのは、初めてです」

 エルネストの表情が少し変わった。

 胸の内に何かを押し込めるような、静かな怒りが瞳の奥に沈む。けれど、声は穏やかだった。

「これからは、痛くない方を普通にしよう」

 リゼルミアは、目を瞬いた。

 これから。

 普通に。

「できますか」

「する」

 静かな断言だった。

 リゼルミアの胸が温かくなる。

「はい」

 彼女は頷いた。

 雨音が窓を撫でる。

 暖炉の火が小さく揺れる。

 部屋の中は、昨日より少しだけ甘く、少しだけ近かった。

 エルネストは本へ視線を戻したが、しばらくページはめくられなかった。リゼルミアはそれに気づき、少しだけ頬を緩める。

 彼も、何かを考えているのだろう。

 その横顔を見ていたかったが、眠気がゆっくり降りてきた。

 帳簿仕事を休んだ日。

 髪をほどいてもらった夜。

 痛くないと知った夜。

 リゼルミアは目を閉じた。

「おやすみなさい、エルネスト様」

「おやすみ、リゼルミア」

 いつもの言葉。

 けれど今夜は、髪の先まで温かい。

 眠りに落ちる直前、リゼルミアはほんの少しだけ、心の中で思った。

 また絡まったら、お願いしてもいい。

 その小さな望みは、寝室で生まれるにはあまりにも穏やかで、彼女自身が驚くほど甘かった。

 雨は夜更けまで降り続いた。

 けれど公爵家の寝室の中で、リゼルミアの髪はもう絡まっていなかった。

 痛みも、残っていなかった。

 ただ、丁寧にほどかれた記憶だけが、静かに彼女の中に残っていた。


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