十一度離縁された無能妻ですが、妹が恋した公爵様だけは私を手放さない〜失った子の記憶を抱えた私は、今度こそ家族を守ります〜

なつめ

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第19話 元夫の屋敷が崩れ始める


 メイヴェン子爵家の朝は、リゼルミアがいた頃より遅く始まるようになっていた。

 以前は、夜明け前には厨房に火が入り、廊下の燭台は必要な分だけ交換され、食堂の銀器は曇りなく並び、使用人たちは誰に命じられずともそれぞれの持ち場へ散っていた。料理長は朝食の人数を把握し、家令はその日の来客予定を確認し、馬車係は外出時刻に合わせて馬を整えた。

 そのすべてが、今は少しずつ遅れている。

 最初は、誰もそれを重大なことだとは思わなかった。

 奥様がいなくなった。

 十一度も離縁された女だ。

 役に立たない、陰気で、子も産めない、寝室でも可愛げのない妻。

 メイヴェン家の使用人たちは、そう囁いていた。離縁状が渡された日、彼女が小さな鞄一つで屋敷を出ていった時も、廊下の陰から笑っていた者がいる。ようやく屋敷が明るくなる。旦那様の愛人セリア様が正式に奥向きを見てくだされば、華やかになる。あの細かい女に帳簿だの備蓄だの口を出されることもない。

 だが一か月も経たないうちに、屋敷は妙な音を立て始めた。

 大きく崩れる音ではない。

 最初は、引き出しの奥で小さな金具が外れるような音だった。

 それに最初に気づいたのは、厨房の下働きだった。

「小麦粉が足りません」

 朝、料理長がパンの仕込みを始めようとした時、下働きの少女が倉庫から戻ってきて言った。

 料理長は太い眉をひそめた。

「足りない? 先週届いたばかりだろう」

「それが、三袋しかありません」

「五袋あったはずだよ」

「記録では五袋なんですけど」

 少女は戸惑った顔で帳面を見せた。

 倉庫の棚には、リゼルミアが残した小さな管理札がまだついている。小麦粉、豆、乾燥肉、塩漬け魚、香草、油、蜂蜜。それぞれの棚に、入荷日と残量を記す紙片が細い紐で吊るされていた。

 料理長はその札を見て、舌打ちした。

「あの奥様の細かい癖がまだ残ってるのかい」

 そう言いながらも、彼女は札を見るしかなかった。

 そこには確かに、五袋と書かれていた。

 字は細く、整っている。

 リゼルミアの字だった。

 五袋。

 だが実際には三袋しかない。

 料理長は倉庫の中を歩き回った。棚の奥も、箱の下も、樽の後ろも見た。見つからない。小麦粉の袋が二つ、消えている。

「誰かが別に使ったんじゃないのかい」

 料理長が苛立って言うと、下働きの少女は首を振った。

「昨日の焼き菓子で少し使いましたけど、一袋も使ってません」

「セリア様のお茶会用か」

「それでも半袋です」

 厨房に嫌な沈黙が落ちる。

 セリア。

 オルディラスの愛人。

 リゼルミアが妻だった頃から、彼女はこの屋敷の客間を我が物顔で使っていた。離縁後はさらに出入りが増え、今ではほとんど奥向きの女主人のように振る舞っている。彼女は華やかな菓子や香りの強い茶を好み、客を呼んでは小さな茶会を開いた。

 その費用がどこから出ているのか、誰も深く考えなかった。

 リゼルミアがいた頃は、必要なものはいつの間にか補充され、余分な出費はどこかで削られ、月末には帳簿が整っていたからだ。

 料理長は不機嫌な顔で言った。

「とにかく今日はパンを減らす。旦那様には白パンを出す。使用人用は粥でいい」

 下働きの少女は目を丸くした。

「またですか」

「仕方ないだろう」

「でも、昨日も使用人用は粥でした」

「小麦粉がないんだよ」

 厨房の空気が重くなる。

 リゼルミアがいた頃、使用人用の食事が続けて粗末になることはなかった。彼女は自分の食事が冷めた残り物でも、使用人全体の食事の量だけは崩さなかった。腹を空かせた使用人は働けなくなる。働けない者が出れば、屋敷全体が乱れる。それを知っていたからだ。

 だが、今その知識を覚えている者は少なかった。

 覚えていても、口にする者はいない。

 午前のうちに、次の綻びが見つかった。

 馬車係が家令室へ駆け込んできた。

「車輪の修繕代が未払いだと、工房の者が来ています」

 家令グラントは机の上に積まれた書類から顔を上げた。

 彼は五十を過ぎた男で、昔からメイヴェン家に仕えている。白髪の混じった髪をきっちり撫でつけ、普段は感情を表に出さない。だがこの数日、彼の目の下には濃い影が浮かんでいた。

「修繕代なら先月末に支払う予定だったはずだ」

「工房の者は受け取っていないと」

「帳簿を」

 グラントは支払い記録を開いた。

 馬車修繕、三月二十八日、銀貨四十枚。

 支払予定。

 支払済みの印がない。

 グラントの眉間に皺が寄る。

「なぜ印がない」

 彼は別の書類を探した。

 請求書はある。

 支払い予定表にも載っている。

 だが支払済みの控えがない。

 以前なら、リゼルミアが三日前には支払い一覧を作り、前日に確認し、当日の朝には使用人に持たせる金額と領収書の受け取り方まで書き添えていた。グラントはそれを「奥様は細かすぎる」と思っていた。だが、その細かさのおかげで支払い忘れはほとんどなかった。

 今、机の上には支払い予定表がある。

 だが誰も、それを実際の支払いに結びつけていない。

 グラントは小さく息を吐いた。

「すぐに払う。工房の者を待たせろ」

「それが」

 馬車係は言いにくそうにする。

「何だ」

「先月分だけでなく、二月の小修繕代も一部未払いだと」

 グラントの顔色が変わった。

「二月?」

 リゼルミアがまだいた時期だ。

 彼は急いで二月の帳簿を開いた。

 二月の修繕費欄には、きちんと支払済みの印がある。領収書も添付されている。だがよく見ると、小修繕の一部が別紙に回されていた。支払日が三月へ繰り越されている。理由欄には、短くこう書かれていた。

 工房都合により翌月一括。

 リゼルミアの字だ。

 つまり、彼女は繰り越しを把握していた。

 翌月一括で支払うよう、記録していた。

 そしてその翌月、彼女はいなくなった。

 誰も、その繰り越し分を見ていなかった。

 グラントは目を閉じた。

 小さなことだ。

 たかが車輪の修繕代。

 だが、工房への支払い遅れは信用を削る。馬車の修繕が遅れれば、主人の外出に影響する。主人の外出が乱れれば、取引や社交にも響く。

 細い糸が、一本切れた。

 その日の昼前には、さらに客が来た。

 今度は仕立屋だった。

 彼女は玄関広間で声を荒らげはしなかったが、顔は明らかに険しかった。応対に出た女中が慌てて家令を呼びに行く。

「セリア様のドレス代についてお話がございます」

 仕立屋の女主人は、丁寧な口調でそう言った。

 グラントは内心で嫌な予感を覚えた。

「ドレス代は先週、請求書が来ていたはずです。支払いは次の月末で」

「それでは困ります」

 仕立屋はきっぱり言った。

「お約束では、今回は即金で半額、残りを月末でした。セリア様が急ぎでとおっしゃったため、こちらも特別に職人を回しましたのに」

 グラントは眉をひそめる。

「そのような約束は、私は聞いておりません」

「セリア様の侍女から、旦那様のご許可を得ていると」

 グラントは額に手を当てた。

 またか。

 セリアは最近、自分の侍女を使って勝手に注文を出している。香水、菓子、衣装、髪飾り、客間の花。彼女は「旦那様が許した」と言えば通ると思っている。そして実際、オルディラスは彼女に甘く、あとから聞いても「そのくらいいいだろう」と言う。

 リゼルミアがいた頃は、こうした注文が勝手に膨らまないよう、彼女が必ず間に入っていた。

 華やかな衣装を注文するなら、支払日を分ける。

 香水を買うなら、同月の客間花代を抑える。

 菓子茶会を開くなら、その週の来客費に計上する。

 セリアはそれを「貧乏くさい」と笑い、オルディラスは「女同士で細かく揉めるな」と言っていた。

 今、その細かさがなくなった。

 仕立屋は控えを差し出した。

 金額を見て、グラントは唇を引き結んだ。

 高い。

 予想の倍近い。

 しかも、支払予定が重なっている。今日は馬車工房、明日は香水商、来週にはワイン商。厨房の小麦粉も補充しなければならない。

 グラントは低く言った。

「旦那様に確認いたします。少々お待ちください」

 仕立屋は礼をしたが、その目は冷たかった。

「こちらも商売です。これ以上支払いが遅れるようでしたら、今後のお仕立てはお受けできません」

 その言葉は、玄関広間に重く残った。

 メイヴェン家の信用が、またひとつ傷ついた。

 昼食の席で、オルディラスは不機嫌だった。

 食堂には白いクロスがかかっていたが、端には小さな皺が残っている。花瓶の花は昨日のままで、少ししおれていた。スープはぬるく、パンは硬い。オルディラスはスプーンを一口運んだだけで顔をしかめた。

「何だ、このスープは」

 料理長が控えめに答える。

「申し訳ございません。厨房の手配に少々乱れが」

「毎日それだな」

 オルディラスはスプーンを皿に置いた。銀の音が食堂に響く。

「リゼルミアがいなくなっただけで、なぜこうも屋敷が乱れる」

 その言葉に、食堂の空気が一瞬止まった。

 彼自身は苛立ちで口にしただけだった。

 しかし、使用人たちには刺さった。

 その通りだったからだ。

 リゼルミアがいなくなっただけ。

 そう、屋敷の者たちは思っていた。

 だが実際には、その「だけ」で多くのものが止まり始めている。

 セリアはオルディラスの右隣に座っていた。

 リゼルミアがいた頃、オルディラスの隣はセリアの席になり、リゼルミアは遠い端に座らされていた。今はリゼルミアの席そのものが消え、食卓は一見すっきりしている。セリアは淡い薔薇色のドレスを着て、香水をたっぷりまとっていた。

「そんなに怒らないで、オルディラス様。奥向きは少しずつ整えればよろしいのですわ」

 彼女は甘い声で言った。

「リゼルミア様は、少し神経質すぎましたもの。屋敷の皆も、今は自由にやり方を変えているだけでしょう?」

 オルディラスは不機嫌に彼女を見た。

「自由にした結果が、ぬるいスープか」

 セリアは少し唇を尖らせた。

「私を責めるのですか?」

「そうは言っていない」

「だって、私はこの屋敷を明るくしようとしているのに。お客様を呼んだり、新しいドレスを仕立てたり、お部屋に花を増やしたり」

「その支払いのことで、家令が朝から騒いでいる」

 セリアは目を逸らした。

「あの家令が大げさなのですわ。お金の話ばかり。リゼルミア様みたい」

 その名が出た瞬間、オルディラスの眉が動いた。

 リゼルミア。

 つい最近まで自分の妻だった女。

 十一人目の夫である自分から離縁状を渡され、抵抗もせず、泣きもせず、ただ署名した女。

 子を産めない女。

 寝室で可愛げのない女。

 笑わず、甘えず、いつも帳簿ばかり見ていた女。

 あの日、彼は彼女を追い出して清々すると思っていた。

 ところが今、屋敷のあちこちから彼女の影が出てくる。

 倉庫の札。

 支払い予定表。

 備蓄記録。

 繰り越しの明細。

 客間の花代を抑えるための小さなメモ。

 使用人の交代表。

 取引先への礼状の下書き。

 彼女は目立たなかった。

 だが、屋敷の隙間という隙間に、細い糸を通していた。

 その糸が抜けた途端、布がほつれ始めている。

 オルディラスは苛立った。

 認めたくなかった。

 自分が役立たずだと捨てた女が、実は屋敷を支えていたなど。

 そんなことを認めるくらいなら、屋敷の者たちが無能になったと考える方がまだ楽だった。

 食後、家令グラントが執務室へ来た。

 彼は数枚の書類を持っていた。

 表情は厳しい。

「旦那様。至急確認いただきたいことがございます」

 オルディラスは椅子に沈み込んだまま、苛立たしげに言った。

「また支払いか」

「支払いだけではございません」

 グラントは机の上に書類を並べた。

「まず、馬車工房への修繕代が二か月分、未処理です。うち一部は奥様が繰り越し記録を残しておられましたが、その後の支払いが行われておりません」

「奥様ではなく、リゼルミアだ。もういない」

 オルディラスが言うと、グラントは一瞬黙った。

 その沈黙が妙に重かった。

「では、前奥様が」

「呼び方はどうでもいい。続けろ」

 グラントは続けた。

「仕立屋への支払いが予定より大きく増えています。セリア様の衣装代です。加えて香水商、菓子職人、花屋への支払いも重なっています」

「セリアが勝手に注文したのか」

「セリア様の侍女は、旦那様の許可があると」

「俺は細かい金額まで聞いていない」

「その確認をなさっていたのが、前奥様です」

 グラントの声は、いつもより少し硬かった。

 オルディラスは不快そうに眉をひそめる。

「何が言いたい」

「屋敷の支出管理、取引先への支払い、備蓄、使用人配置。これらは、前奥様が毎日整えておられました」

 その言葉で、室内の空気が張った。

 オルディラスは椅子から身を起こす。

「今さら、あの女を褒めるのか」

「事実でございます」

 グラントは目を伏せずに言った。

「奥様がすべて整えておられました」

 その言葉は、執務室の壁に重く当たった。

 オルディラスの顔が強張る。

「すべて、だと」

「はい。もちろん、私ども家令や各部門の者も仕事をしておりました。しかし、前奥様はその間をつないでおられました。支払い予定が重ならないように。備蓄が切れないように。使用人同士の不満が溜まらないように。取引先へ礼状が遅れないように」

 オルディラスは机を指で叩いた。

 苛立ちの音が、こつ、こつ、と響く。

「なら、お前たちは何をしていた」

「旦那様」

「リゼルミア一人いなくなった程度で乱れるなら、お前たちが無能なのだろう」

 グラントの表情がわずかに動いた。

 だが、彼は感情を抑えた。

「私どもの不手際もございます。ですが、前奥様が担っていた量が大きかったことも事実です」

「だったら、代わりを立てればいい」

「簡単ではございません」

「なぜだ」

「前奥様は、帳簿だけでなく、人の動きも見ておられました。誰がどの仕事で疲れているか。どの使用人同士が衝突しやすいか。どの取引先が支払い日を厳しく見るか。どの商会が値上げの前に兆しを出すか。そうした細かな情報を、毎日の中で拾っておられました」

 細かな情報。

 また、細かい。

 オルディラスの中で苛立ちが膨らむ。

 リゼルミアはいつもそうだった。

 食卓で、帳簿の数字が合わないと言う。

 客間の花代が増えていると言う。

 セリアのドレス代が月末の支払いと重なると言う。

 使用人の食事を減らしすぎると不満が出ると言う。

 彼にとって、それはすべてうるさい小言だった。

 今、それが正しかったとでも言うのか。

 オルディラスは認めたくなかった。

 絶対に。

「つまり、お前はあの女が有能だったと言いたいのか」

 グラントは静かに答えた。

「はい」

 短い返事だった。

 オルディラスの顔に怒りが走る。

「ずいぶんとはっきり言うな」

「申し訳ございません。しかし、今は感情より事実を見なければ、屋敷の混乱は広がります」

「感情だと?」

「はい」

 グラントは書類を一枚差し出した。

「このままでは来月の支払いが圧迫されます。セリア様の支出を抑え、取引先への支払い順を組み直し、備蓄を早急に補充しなければなりません」

 オルディラスは書類を見た。

 細かい数字が並んでいる。

 支払い予定、滞納、繰り越し、補充必要額。

 目が滑る。

 リゼルミアなら、これを一枚にまとめ直していた。どこを先に払うべきか、何を削るべきか、どこへ詫び状を出すべきか、赤字で印をつけていた。オルディラスが見ても分かるように。

 いや。

 彼はそこで考えるのをやめた。

 またリゼルミアを思い出している。

 気に入らない。

 彼女は捨てた女だ。

 戻ってくるべき女だ。

 自分の前で謝り、屋敷を整え直すべき女だ。

 オルディラスは書類を机に投げた。

「リゼルミアを戻せばいい」

 グラントが沈黙した。

 その沈黙が、今までで一番重かった。

「旦那様」

「何だ」

「前奥様は、すでにヴァルクレイド公爵家へ嫁がれました」

「知っている」

「公爵夫人でございます」

「知っていると言っている」

 オルディラスは苛立って立ち上がった。

 窓の外では、庭師が生垣を整えている。だが、どこか手が遅い。リゼルミアがいた頃は、庭師の予定も細かく組まれていた。今は、どの花壇を優先するかで朝から言い合いになっていた。

 屋敷の全部が、自分に向かってリゼルミアを思い出せと言っているようで腹立たしかった。

「公爵夫人だろうが何だろうが、あの女は元は俺の妻だ」

「元、でございます」

 グラントの声は静かだった。

 オルディラスは鋭く振り返る。

「お前、何が言いたい」

「離縁状をお渡しになったのは旦那様です」

「だから何だ」

「前奥様は抵抗なさいませんでした。署名し、屋敷を出ていかれました」

「そうだ。だから、話は早い」

 オルディラスは唇を歪めた。

「あの女は命じれば従う。今までもそうだった。俺が呼べば戻る」

 グラントは、深く眉を寄せた。

「戻られないと思います」

「なぜだ」

「公爵家に迎えられているからです」

「公爵が同情で拾っただけだろう」

 オルディラスは吐き捨てるように言った。

「十一度も離縁された女を、まともな男が本気で欲しがるわけがない。あの公爵も一時の哀れみで浮かれているだけだ。リゼルミアの本当の使い道を分かっているのは、この屋敷だ」

「旦那様」

「何だ」

「そのお言葉は、前奥様へ使うべきものではありません」

 グラントの声がわずかに強くなった。

 オルディラスは目を細める。

「お前、誰に仕えている」

「メイヴェン家に仕えております。だから申し上げています。前奥様を便利な管理役として戻そうと考えるのは、危険です」

「便利だと?」

 オルディラスは鼻で笑った。

「実際、便利だったんだろう? お前が今そう言った。あの女がすべて整えていたと」

「それは事実です。しかし、前奥様はもうこの家の方ではございません」

「なら再婚すればいい」

 あまりにも簡単に言った。

 グラントの顔から血の気が引く。

「旦那様」

「何だ、その顔は」

「再婚、でございますか」

「そうだ」

 オルディラスは椅子の背に手を置いた。

「公爵家など長く続くものか。リゼルミアは妻として面白みがない。公爵もじきに飽きる。そうなれば、あの女はまた居場所を失う。俺が手を差し伸べれば戻るだろう」

 言いながら、彼の中で考えが形になっていく。

 悪くない。

 むしろ都合がいい。

 リゼルミアが公爵家で少しでも評価されているなら、その評判ごと取り戻せばいい。彼女が有能だと分かった以上、ただの離縁された女ではない。家を整える女。帳簿を見る女。黙って働く女。寝室では退屈だったが、屋敷の運営には使える。

 そして、もし公爵が彼女を大事にしているなら。

 奪い返すことは、少し面白い。

 自分が捨てた女が他の男に守られている。

 それを考えると、胸の奥が不快にざらついた。

 愛ではない。

 後悔でもない。

 ただ、自分の所有物だったものが他人の手にあることへの苛立ちだった。

 だがオルディラスは、それを別の言葉に変えることにした。

「俺は、少し早まったのかもしれない」

 グラントは黙っている。

「離れてみて分かった。リゼルミアは確かに地味で、可愛げもなく、女としてはつまらない。だが、屋敷には必要だった」

 必要。

 その言葉を口にすると、少し都合がよかった。

 必要だった。

 愛していた、とまではまだ言わない。

 だが必要だったなら、呼び戻してもおかしくない。

 セリアには華やかさがある。だが屋敷を整える力はない。金を使うだけだ。リゼルミアは逆だった。華やかさはない。だが金を整える。なら、二人の役割を分ければよい。

 セリアは愛人のままでもいい。

 リゼルミアは妻として戻せばいい。

 以前と同じ。

 いや、以前より都合がいい。彼女は一度公爵家に嫁いだ。戻れば、どれほどありがたいか思い知るだろう。今度こそ、もっと従順に働くかもしれない。

 オルディラスは机の上の紙を引き寄せた。

「手紙を書く」

 グラントの顔が強張った。

「誰へでございますか」

「リゼルミアへ」

「おやめください」

 即座だった。

 オルディラスは眉を跳ね上げる。

「家令の分際で命じるのか」

「命じてはおりません。進言でございます」

「進言なら聞かん」

 オルディラスはペンを取った。

 だが、書き出しで止まった。

 リゼルミアへ。

 いや、それでは軽い。

 リゼルミア。

 元妻へ。

 違う。

 今は公爵夫人だ。

 だが、公爵夫人と呼ぶのは腹立たしい。

 彼はペン先を紙に当てたまま、しばらく考えた。

 結局、書き始めた。

『リゼルミア

 急ぎ、話がある。

 メイヴェン家の状況について、君に確認したいことが多い。君が残した帳簿や備蓄記録について、不明点が出ている。すぐに返事を寄越すように。』

 そこまで書いて、何かが足りないと思った。

 命令だけでは、今の彼女は動かないかもしれない。

 公爵家の空気に浮かれているなら、少し柔らかくする必要がある。

 オルディラスは唇を曲げた。

 面倒だ。

 だが、戻すためなら仕方ない。

 彼は続きを書いた。

『君がいなくなり、屋敷が落ち着かない。

 考えてみれば、君はこの家で多くを担っていたのだろう。私も、少し言い過ぎたところがあったかもしれない。』

 少し。

 言い過ぎたところ。

 それ以上は書きたくなかった。

 謝罪の形を取りながら、実際には謝らない文面。彼にとって、それで十分だった。

『一度、会って話したい。

 君にとっても悪い話ではないはずだ。』

 そこまで書いて、彼は満足げに息を吐いた。

 グラントは青ざめた顔で見ていた。

「旦那様。その手紙は、ヴァルクレイド公爵家へ送るおつもりですか」

「他にどこへ送る」

「旦那様のお立場を悪くします」

「リゼルミアに話を聞くだけだ」

「公爵夫人に、元夫が直接そのような文を送ることが問題になります」

 オルディラスは苛立った。

「なら、正式な見舞いの形にすればいい」

「見舞い?」

「婚礼の祝辞を兼ねて」

 彼は手紙を見直した。

 祝辞。

 それらしい言葉を足せばいい。

『公爵家での生活はどうだ。

 君は慣れない場所では無理をする癖がある。身体を壊していないか、少し気にかかっている。』

 書きながら、オルディラスは自分の文章に少し酔った。

 気にかかっている。

 いい言葉だ。

 リゼルミアはこういう言葉に弱いだろう。これまで散々冷たくされてきた女だ。少し気遣えば、胸を揺らすに違いない。

 彼女はいつも、寂しそうだった。

 それを面倒だと思っていた。

 だが今なら、使える。

 少し優しくすれば、戻ってくるかもしれない。

 グラントは、もはや説得が難しいと悟ったようだった。

「旦那様。せめて、正式な使者を立てる前に文面をご再考ください」

「お前は心配性だな」

「心配しております」

「リゼルミアは俺の妻だった女だ」

「今は違います」

「何度も言うな」

 オルディラスは手紙を畳んだ。

「これはまず、下書きだ。すぐには出さん」

 グラントは少し安堵した。

 だが、オルディラスの目を見て、その安堵はすぐに薄れた。

 彼はもう考えている。

 どうすればリゼルミアを呼び戻せるか。

 どうすれば公爵家から引き離せるか。

 どうすれば、再びメイヴェン家の帳簿机に座らせることができるか。

 反省ではない。

 悔いでもない。

 ただ、失った便利なものを取り戻したいだけだ。

 その日の夕方、メイヴェン家ではまた小さな騒ぎが起きた。

 使用人同士が廊下で言い争ったのだ。

 原因は洗濯室の人手不足だった。リゼルミアがいた頃は、夜会の翌日や客が泊まった翌朝には、洗濯室へ一時的に人を回す指示が出ていた。今はそれがない。結果、仕事が偏り、若い女中が倒れかけた。

 別の女中が怒った。

「前はこんなことなかったのに」

 その一言で、廊下の空気が凍った。

 前。

 リゼルミアがいた頃。

 誰もはっきり言わなかったが、皆が同じことを思った。

 前は、もっと回っていた。

 前は、食事が減らなかった。

 前は、支払いで怒鳴られる商人が来なかった。

 前は、セリアの茶会が増えても、どこかで帳尻が合っていた。

 前は。

 その言葉が、屋敷中に沈み始めた。

 夜、オルディラスは一人で執務室にいた。

 セリアは不機嫌になり、自室へ戻っている。支払いの件でオルディラスが小言を言ったからだ。彼女は泣きそうな顔をして「私が悪いのですか」と言ったが、今日はその涙を見る余裕がなかった。

 机の上には、リゼルミア宛ての下書きがある。

 オルディラスはそれをもう一度読んだ。

 少し弱い。

 そう思った。

 リゼルミアを動かすには、何が必要だろう。

 命令。

 それだけでは足りないかもしれない。

 同情。

 彼女はそういうものに慣れていない。

 謝罪。

 軽いものなら書ける。

 そして、愛。

 オルディラスは鼻で笑った。

 愛していた。

 そう書けば、女は揺れるのではないか。

 リゼルミアは愛されたことがない顔をしていた。だから、自分が少しでもその言葉を与えれば、すがってくるかもしれない。

 だが、今すぐその言葉を書くのは早い。

 切り札は後でいい。

 まずは、屋敷の混乱を理由に呼び出す。

 帳簿を見せる。

 彼女はきっと、数字の乱れを放っておけない。

 あの女はそういう性分だ。

 細かく、陰気で、役立たずのくせに、帳簿の前では妙に生き生きしていた。

 オルディラスは、そこでふと記憶を思い出した。

 離縁状を渡した日。

 リゼルミアは署名する前に、帳簿棚を一度だけ見た。

 あの時の目。

 自分ではなく、帳簿棚を見た。

 そのことが、今になって妙に腹立たしかった。

 彼女は、自分に縋らなかった。

 泣いて許しを乞わなかった。

 ただ、帳簿棚を見た。

 この家の支払い、使用人配置、取引先対応、備蓄管理。

 その全部を置いていくことを、気にしていたのかもしれない。

 では、戻せる。

 オルディラスはそう思った。

 この屋敷が乱れていると知れば、彼女は放っておけない。

 自分が傷つけた女を心配しているわけではない。

 彼は、彼女の習性を利用しようとしていた。

 窓の外では、夜の庭が荒れていた。

 手入れの遅れた花壇の端で、しおれた花が暗い風に揺れている。廊下の燭台は一本切れたままになっていた。誰も交換に気づかなかったのだろう。

 オルディラスはそれを見て、また苛立った。

「まったく」

 彼は低く呟いた。

「リゼルミアがいれば、こんなことにはならなかった」

 その言葉には、感謝も、後悔もなかった。

 あるのは、失った道具への不満だけだった。

 そして、その不満はやがて、都合のよい熱へ変わっていく。

 取り戻せばいい。

 戻せばいい。

 公爵家で何をしていようと、彼女はもともと自分の妻だった。

 そう考えながら、オルディラスは手紙の下書きを机の引き出しへしまった。

 鍵をかける。

 その鍵の音が、静かな執務室に小さく響いた。

 メイヴェン家の屋敷は、その夜も少しずつ崩れ続けていた。

 厨房では小麦粉の袋が足りず、洗濯室では人手が足りず、玄関には未払いを抱えた商人たちの気配が残り、使用人たちは互いに不満を溜め、セリアは新しいドレスの支払いに頬を膨らませている。

 そして屋敷のどこにも、リゼルミアはいなかった。

 彼女の細い字で書かれた古い管理札だけが、あちこちに残っている。

 それはまるで、崩れ始めた屋敷に残された小さな骨のようだった。

 誰も見ようとしなかった骨組み。

 失って初めて、屋敷は自分の立ち方を忘れていたことに気づき始めていた。

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