白い結婚十年目、ようやく離縁できると思ったのに 〜冷酷公爵は今さら私を手放さない〜

なつめ

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第三十一話 王都の夜会



 王都へ戻る馬車の中で、イゼルディナは一度も窓の外へ手を伸ばさなかった。

 北の別邸を発った朝、雪解けの土地はまだ薄く白かった。納屋の前には村人たちが立ち、ハンナはいつもより少しだけ背筋を固くし、エウラは最後の荷の紐を自分の手でもう一度確かめていた。温室の北列には仮の内張り布が下がり、棚の上の小さな苗は冷えに負けずに立っていた。

 あそこはもう、ただの避難先ではない。

 そう思えたからこそ、王都へ戻ることは怖かった。

 怖いのは、義母オルタシアの顔ではない。親族たちの視線でも、女たちの扇の陰の囁きでもない。もっと厄介なのは、自分がまた「公爵夫人」としてしか見られない場所へ足を踏み入れることだった。北の別邸では、イゼルディナは自分の手で土を見て、水を見て、帳簿を見て、必要なものを決めることができた。役目はあっても、呼吸は自分のものだった。

 王都は違う。

 王都では、息の吸い方ひとつにまで誰かの目がつく。

 馬車は街道の泥を抜け、整った石畳へ入るにつれ揺れを細かくした。冬を越えたばかりの王都は、表通りの石がまだ白く冷たい。広場の噴水は動いているが、水飛沫に春の軽さはない。屋敷が連なる大通りを抜け、今夜の夜会が開かれる王立迎賓館へ近づくと、窓の外にはすでに灯りの列が見えた。

 春の大夜会。

 王都の有力家門が一堂に会し、冬の終わりと春の始まりを告げる夜。音楽も、舞踏も、献杯も、すべてが豪奢に整えられる。だが今夜、その光の下で本当に問われるのは、礼服や宝石ではなく、帳簿の数字と、誰がどこまで嘘をついたかだ。

 それを思うと、指先が少しだけ冷えた。

「奥様」

 向かいに座るエウラが、そっと呼ぶ。

 イゼルディナは顔を上げる。

「お顔色は十分でございます」

 それは慰めではなく、確認の言葉だった。
 戦場へ出る女の顔が崩れていないことを、長く仕えた侍女が確かめるための。

「ありがとう」

 そう返してから、イゼルディナは膝の上へ置いていた左手をそっと握る。薬指の白い痕は、今夜も手袋の下にある。指輪は戻していない。戻さないまま、この夜会へ出ることを自分で選んだ。

 理由は簡単だ。
 今夜の自分は、従順な公爵夫人の顔で立つのではない。
 名を潰そうとした相手へ、自分の名前で立ち返すために来たのだ。

 馬車が止まる。

 外では、先に下りた護衛の靴が石を打つ音がする。扉が開かれ、冷えた夜気が細く入り込む。迎賓館の高い階段の上には、すでに無数の灯りがともっていた。白い石壁、真鍮の燭台、磨かれた床、扉の向こうから漏れる弦楽の音。王都の夜は、痛いほど完璧だった。

 そして、その階段の下にセヴェリオンが立っていた。

 彼は先に別便で王都へ入っていた。今夜の準備、帳簿の原本、監査役補佐、礼拝堂会計係、代官所側の証言、ミュリエンヌの証言書。そのすべてを、公の場で出せる形へ整えるためだ。

 黒い礼装。銀灰のタイ。外套は階段の下で侍従へ預けたのだろう。冷たい夜気の中で、その姿だけがひどく輪郭を持って見えた。彼はイゼルディナが馬車を下りるのを見て、一歩だけ近づく。だがその動きは、今までのような当然の支配ではなく、彼女がどうするかを待つ種類のものだった。

「寒い」

 低く言う。

「平気よ」

 短く返す。
 だが、今夜の彼の表情がいつもの夜会前とは違うことには気づいていた。

 社交の顔ではない。
 母の前へ出る息子の顔でもない。
 帳簿を握り、切るべきものを今夜切る覚悟を固めた男の顔だ。

 彼は腕を差し出した。

 以前なら、命令に近い当然さでそうしただろう。
 今は違う。
 差し出したまま、何も言わない。

 イゼルディナはほんの一拍だけそれを見て、それから自分の手を重ねた。

 許したわけではない。
 でも、今夜は隣に立つと決めたから。

     *

 迎賓館の大広間へ入った瞬間、空気が変わった。

 ざわめきは止まらない。
 だが、その流れが一瞬だけこちらへ向いたのがわかった。

 王都の女たちは、噂を聞いた時の顔を隠すのが上手い。驚きも、好奇心も、悪意も、まず扇の陰とまつ毛の角度で処理する。けれど完全には隠しきれない。今夜の彼女たちの目は、「離縁前に別邸へ引いた公爵夫人」が戻ってきたこと、しかも公爵自らの腕を取って現れたこと、その二つに一瞬では足りないほど強く反応していた。

 天井から落ちる無数の灯り。
 磨かれた床。
 流れる弦楽。
 宝石の反射。
 香油と花の匂い。

 その華やかさの真ん中で、イゼルディナは妙に冷静だった。

 見られている。

 けれど今夜は、見られるためだけにここへ来たのではない。
 見せるために来たのだ。
 帳簿と、名前と、十年間の事実を。

 正面奥、義母オルタシアはすでに中央寄りの位置を陣取っていた。淡い金糸を多く使った濃紫のドレス。首元には大粒の宝石。いつも以上に「公爵家の母」として威容を整えた姿。周囲にはラヴェル伯爵夫人、シェスティ侯爵未亡人、そのほか古い親族筋の女たちが薄い笑みを浮かべて寄っている。

 その輪が、イゼルディナの姿を見た瞬間にわずかに硬くなった。

 オルタシアだけは、笑みを崩さなかった。
 さすがだった。

「まあ」

 扇を持つ手をわずかに上げ、まるで久しぶりの帰還を喜ぶ母の顔をしてみせる。

「戻っていらしたのね、イゼルディナ」

 その一声だけで、大広間の耳のいくつかがさらにこちらへ向く。

 イゼルディナは立ち止まり、礼をとった。

「ええ、義母様」

 声は静かに、しかしよく通るように。

「名を呼ばれているのに、欠席のままでは失礼かと思いましたので」

 扇の向こうで、ラヴェル伯爵夫人の目がわずかに細まる。
 オルタシアはまだ笑みを保ったままだ。

「それは殊勝なこと。北の別邸は、よほどお忙しかったようね。いろいろと」

 最後の二語に、甘い毒が混じる。
 いろいろと。
 その曖昧さの中へ、資金の流用も、若い文官も、好きなだけ入れられる。

 だが今夜、イゼルディナはその曖昧さの中へ立つつもりはなかった。

「ええ」

 彼女はまっすぐ答えた。

「いろいろと忙しゅうございました」

 そこまで言って、一拍置く。

「別邸の補修も、村の種芋の腐敗への対応も、若い文官との用水路の調整も、すべて帳簿と立会人のもとで」

 大広間の空気が、目に見えぬほど静かに止まる。

 オルタシアの笑みが、ほんのわずかに固まった。

 イゼルディナは、そのまま続ける。

「今夜は、そのあたりもきちんとご説明できるかと存じます」

 セヴェリオンは、隣で何も言わない。
 だが彼の沈黙は、以前のような逃避ではなかった。
 彼女が前へ出るのを邪魔せず、その一言一言に必要な重さを添える沈黙だった。

 オルタシアは扇を閉じた。

「まあ」

 今度の声には、先ほどより少しだけ温度が落ちる。

「夜会は説明の場ではなくてよ」

「今夜は、そうなります」

 答えたのはセヴェリオンだった。

 低く、よく通る声。

 周囲のざわめきがさらに引く。
 それだけでわかる。
 皆、この夜会に何か起きると気づいている。

「春の献杯の前に」

 セヴェリオンは広間の中央へ視線を向けた。

「公爵家として、訂正すべき話がある」

 その一言は、もはや個人的な会話ではなかった。
 広間全体へ向けられた、公の声だ。

     *

 春の大夜会では、舞踏の前に短い挨拶がある。

 冬を越えた慈善事業の報告、寄付の謝辞、主だった家門の名の確認。普段なら、それは社交の一部でしかない。花と音楽と酒の前に置かれる、薄い儀礼だ。

 だが今夜、その儀礼の場がそのまま戦場へ変わった。

 中央の一段高い場所へ、灯りが集まる。
 弦楽が一度止む。
 人々は自然と半円を作る。

 セヴェリオンはそこへ立った。
 イゼルディナも隣へ進む。
 半歩遅れでも、一歩後ろでもない。
 まさに隣。

 その立ち位置を見た時、オルタシアの目が初めてはっきりと冷えたのを、イゼルディナは見た。

 そしてさらに、その後ろからミュリエンヌが進み出る。

 ざわめきが走る。
 義母の輪にいるはずだった女が、今はイゼルディナ側の光の中へ立つ。
 それだけで、女たちの喉は乾くだろう。

 セヴェリオンは、広間全体を見た。

「今夜、王都で流れている話について訂正する」

 その声には、一切の飾りがなかった。

「北方別邸への資金流用、及び私の妻イゼルディナと若い文官との私的な関係を仄めかす言説についてだ」

 女たちの扇が、いくつか同時に止まる。
 あまりにも直截だからだ。
 普通、こういう場では誰も噂を正面から言わない。
 だからこそ、わざとそれを言葉にされた時、人は逃げ場を失う。

「結論から言う」

 セヴェリオンは続ける。

「その話は虚偽だ」

 短い。
 だが断ち切る力があった。

「別邸での補修、村への物資移送、雇用、用水調整、そのすべては当主である私の承認のもとで行われた。
 記録も、立会いも、支出内訳も揃っている」

 彼が後ろへ合図すると、ベルンフリートが一歩進み出た。
 老執事長の手には、封をした紙束がある。
 監査役補佐、礼拝堂会計係、代官所、村側立会人の証言控え。
 それを見ただけで、広間の中の何人かの顔色がわずかに変わる。

「さらに」

 セヴェリオンの声が、今度は少し低くなる。

「本邸側の帳簿精査の結果、別邸名目の陰で動かされた使途不明金が確認された。
 重複計上された補修費、実数と合わぬ購入費、理由欄のない特別手当。
 その原本はすでに保全済みだ」

 ざわめきが起きる。
 今度は小さくない。

 資金流用の噂が、まるごと跳ね返ったのだ。
 別邸に流したとされた金が、実は本邸側から不明瞭に動いていた。
 しかもそれを「別邸名目」で。

 オルタシアの周囲にいた女たちの顔が、白くなっていく。ラヴェル伯爵夫人の扇は止まり、シェスティ侯爵未亡人の唇から色が引く。自分たちがただ噂を食べていただけのつもりでいたのに、帳簿と原本と監査役補佐の名が出た時点で、それはもう社交話では済まない。

 オルタシアはそこで、ようやく一歩前へ出た。

「セヴェリオン」

 その声音はまだ高貴だった。
 だが冷たい。

「公の場で母を疑うの」

「疑いではない」

 セヴェリオンは即座に返す。

「確認された事実だ」

「事実ですって? 誰がそれを」

「私が見た」

 そしてその次に、彼は隣のイゼルディナを見た。

「そして、妻が見抜いた」

 その一瞬だけ、広間の光が変わったように感じた。

 イゼルディナは息を吸う。
 ここだ、と直感する。
 ただ彼の後ろで立っていてはいけない場所。

 一歩進み出る。
 視線が一斉に集まる。
 けれど、もう怯えなかった。

「別邸の帳簿と、本邸の出納簿、倉庫の出庫簿、門番日誌、給金台帳、贈答控えを横に並べれば、一目でわかることです」

 イゼルディナの声は、広間に澄んで響いた。

「別邸には届いていない補修費が、本邸では別邸名目で計上されていました。
 出庫されていない蝋燭と茶葉の購入額も、本邸側にだけ存在していた。
 理由欄のない特別手当も、噂の広がりと同時期に」

 ここまで来ると、もう誰も「まあ、偶然では」などとは言えない。
 帳簿の種類が多すぎる。
 交差させた線が具体的すぎる。

「若い文官との噂についても同様です」

 イゼルディナは続ける。

「用水路調整のための面会であり、代官所の補佐官、侍女、別邸管理者が同席していました。
 記録も残っています。
 ですから、これは噂ではなく、意図的に作られた中傷です」

 広間がひどく静かだった。

 人は、ここまで具体的なことを、ここまで落ち着いて言われると、かえって動けなくなる。

 そこへ、ミュリエンヌが進み出る。

「そしてもう一つ」

 彼女の声音は高くない。
 だがよく通る。

「私がセヴェリオン様の恋人であった、という長年の噂も虚偽です」

 女たちの息が止まる。

 オルタシアの視線が、初めてミュリエンヌへ刃のように向いた。

「ミュリエンヌ」

「私は義母様の近くに置かれ、家の内情を探るために使われていました」

 彼女は、もう怯まない。

「便利な女として。
 噂の恋人であるほうが都合がよかったので、長く曖昧にしてきたことは認めます。
 でも、恋人であったことは一度もありません」

 その言葉は、王都社交界の中で長く育てられてきた一つの柱を、真下から折る音だった。

 ラヴェル伯爵夫人の扇が、手から少し滑る。
 シェスティ侯爵未亡人は目を逸らす。
 周囲の親族たちは、初めて自分の足元を見た。

 義母の輪は、もう輪ではなくなっていた。

     *

 オルタシアは、それでも立っていた。

 さすがだとイゼルディナは思う。
 ここまで追い詰められても、簡単には崩れない。
 長年、公爵家の母として人を見下ろし、切り捨て、笑みで隠してきた女の矜持と執念が、その背筋をまだ折らせない。

「ずいぶんと」

 彼女は、ゆっくりと言った。

「出来すぎた芝居ね」

 最後の抵抗。
 証拠も証言も、全部芝居だと言い切ることで逃げようとする。

 だがその言葉が落ちた瞬間、セヴェリオンは一歩前へ出た。

 その横顔を、イゼルディナはたぶん一生忘れないだろうと思った。

 母を見る顔ではなかった。
 親族をかばう顔でもない。
 ただ、切り離すべきものを切る当主の顔だった。

「芝居ではない」

 低く、鋭く言う。

「母上」

 その二文字が、広間をさらに静める。

「あなたは今日をもって、本邸の会計、客人選定、贈答管理、侍女配置のすべてから外れる」

 ざわめきが爆ぜる。

 公の場で。
 しかも春の大夜会の真ん中で。
 当主が、母であるオルタシア公爵夫人を家の実務から切り離すと宣言したのだ。

「セヴェリオン!」

 オルタシアの声が初めて乱れた。

「母であっても庇わない」

 彼は言う。

「この家の名を使って虚偽を流し、帳簿を歪め、妻の名誉を潰そうとした以上、なおさらだ」

 その一言に、イゼルディナの胸の奥が熱くなった。

 庇わない。
 公の場で。
 母であっても。

 それは、今までのセヴェリオンなら出来なかったことだ。
 出来なかったというより、選ばなかったこと。

 今、それを選んだ。

 オルタシアは何か言おうとした。
 だがその瞬間、彼はさらに広間全体へ向き直る。

「そして」

 声が、広く響く。

「この家を十年支えたのは、妻イゼルディナだ」

 その一言で、時間が止まった。

 イゼルディナは、心臓が一度だけ強く打つのを感じた。

 十年。
 支えた。
 妻イゼルディナ。

 たったそれだけの言葉なのに、自分の名前がこれほどまっすぐ光の中へ出されたことが、今まであっただろうか。

「帳簿も、寄付も、領地報告も、使用人の整理も、社交も、慈善も」

 セヴェリオンは続ける。

「この家が、私が見ないふりをしていた歪みを抱えながら、それでも崩れずに立っていたのは、妻が整え続けたからだ」

 広間の空気が、少しずつ変わる。

 女たちの目が変わる。
 男たちの姿勢が変わる。
 慈善院監督役が顔を上げる。
 礼拝堂会計係が、机越しに何度か頷く。
 ベルンフリートはただ静かに目を伏せていたが、その目元には長く仕えてきた者だけの重い肯定があった。

「役立たずと侮られた女ではない」

 セヴェリオンの声は、もう揺れていなかった。

「この家の冬を越させ、恥を表へ出さず、必要なところへ金を流し、無駄を削り、人を使い、壊れたところを継いできたのは、妻イゼルディナだ。
 私ではない。
 まして、ここで嘲る者たちでもない」

 その言葉が広間へ落ちるたび、イゼルディナは自分の足の裏が床へ沈み込むのを感じた。

 ずっと日の当たらない場所で尽くしてきた。
 それは自分で知っていた。
 帳簿も、厨房も、温室も、寄付名簿も、自分がどれだけ手を入れてきたかは、自分が一番よく知っていた。

 けれど、その功績が今、こんなふうに公の場の光の下へ引き出されるとは思っていなかった。

 快感、というのはこういうものなのだろう。

 甘くはない。
 泣き崩れるような救いでもない。
 むしろ、長く冷えていた指先へ急に血が戻る時の痛みに近い。
 痛いのに、たまらなく生きている感じがする。

「イゼルディナ」

 セヴェリオンが、今度は隣の彼女を見た。

「私は、この十年の功を妻の名でここに示す」

 その言葉とともに、彼はほんのわずかに身体を横へ引く。

 前へ出るためではなく。
 彼女自身が立つための余白を作るように。

 味方なら隣に。
 そう言ったあの日の形が、今ようやく公の場でできあがった。

 イゼルディナは一歩、前へ出る。

 大広間の灯りが頬へ落ちる。
 視線はまだ痛いほど集まっている。
 けれど、もう怖くはなかった。

「公爵家の帳簿は、これより監査へ回します」

 彼女は言う。

「私の名に流された噂についても、同じく記録と証言で返答いたします。
 感情ではなく、事実で」

 その声音は静かだったが、広間の隅までよく通った。

「それでもなお、噂のほうを好む方がいらっしゃるなら、どうぞ。
 ただし、その時はご自分の名前でお受け取りくださいませ」

 最後の一文で、女たちの顔色がまた変わる。

 噂は、匿名の泥だから強い。
 だが自分の名前で受け取れと言われた瞬間、それは急に重くなる。

 ラヴェル伯爵夫人が目を逸らし、シェスティ侯爵未亡人は扇を下げた。
 ミュリエンヌは黙って立ち、ベルンフリートは監査役補佐へ紙を渡す。

 そしてオルタシアだけが、まだその場に立っていた。

 だがもう、彼女の周囲には誰もいなかった。

 ほんの少し前まで、義母の輪だったものは、もう空気だけを残して崩れている。
 味方の顔をしていた女たちは、今はみな、自分の裾を汚さぬ距離へ下がっていた。

 それが、ざまあだった。

 誰かが泣くことでも、叫ぶことでもなく、ただ光の中で輪がほどけていく。
 帳簿の数字に負けて、上品な微笑みの下から床が抜ける。
 その滑稽さが、ひどく気持ちよかった。

     *

 弦楽が戻るまでに、少しだけ時間が必要だった。

 誰もすぐには踊れなかった。
 誰もすぐには笑えなかった。
 王都の春の大夜会は、その夜、帳簿と証言によって一度完全に止まったのだ。

 イゼルディナは、その静止の真ん中に立っていた。

 日の当たらない場所で尽くしてきた十年。
 白い結婚。
 義母の侮辱。
 別邸。
 種芋。
 温室。
 使途不明金。
 噂。
 ミュリエンヌの証言。
 そして、今この瞬間。

 全部が一本の線になって、自分の背の後ろへまっすぐ伸びている気がした。

 その線があったから、今ここに立てている。

 セヴェリオンが隣にいる。
 前ではなく、後ろでもなく。
 そのことも、今はちゃんとわかる。

 許したわけではない。
 癒えたわけでもない。
 けれど今夜、ようやく光の中で、自分のしてきたことが名前と共に置かれた。

 それで十分だとは言わない。
 だが、この夜に関してだけは、それが頂点だった。

 日の当たらない場所で積み上げた功績が、ようやく表へ出る。
 その快感は、涙よりももっと静かで、もっと深く胸の芯を熱くした。


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