姉の代用品のまま結婚するくらいなら、修道院へ行きます

なつめ

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第7話 王宮に咲かない花


 王宮の正門をくぐったとき、イゼルダは自分の胸の内側で、何かがひどく静かに強ばるのを感じた。

 朝の光はすでにしっかりと石畳の上へ落ちていた。王都の屋敷街のどこよりも広い前庭は、夜明けの冷たさをわずかに残しながらも、整え抜かれた威厳に満ちている。幾重にも刈り込まれた植え込み。白く磨かれた手すり。中央へ向かってまっすぐ伸びる石の道。その奥にそびえる王宮本棟は、晴れた空の色をそのまま映したような青灰色の屋根を重ね、窓ガラスの一枚一枚が朝の陽を受けて眩しく光っていた。

 大きい、というより、正しい形をした場所だとイゼルダは思った。

 余計なものを許さない建物。そこに立つ人間の姿勢や声の高さまで、自然と選ばせてしまうような空気がある。田舎の古い修道院の静けさとは違う。こちらの静けさは、人の気配を消しているのではなく、すべてを秩序のうちに押し込めている静けさだった。

 馬車が止まる。御者が手綱を引く音。衛兵の靴が石を打つ乾いた音。扉が開き、朝の空気が中へ流れ込んだ。

 イゼルダは膝の上でぎゅっと手を組んだまま、一度だけ目を閉じる。

 修道院の門前からここまで、結局自分は王弟オドランの提案を拒まなかった。いや、拒めなかったのかもしれない。けれど、それを弱さだとは思いたくなかった。あのとき差し出されたのは、逃げ道でも甘言でもなく、自分の意志を持ったまま考えるための猶予だったからだ。

 王宮へ来ることにしたのは、誰かに押し切られたからではない。

 少なくとも、そうでありたい。

 そう胸の中で言い聞かせながら、イゼルダは手提げの取っ手を握り直した。ロザリオはその中にしまってある。毛布はすでに返してしまったが、膝に残る温かさだけはまだ消えていなかった。

「どうぞ」

 馬車の外から、低い声がする。オドランだ。

 イゼルダは顔を上げた。扉の向こうでは、彼が先に降りたあとでこちらへ手を伸ばすでもなく、ただ一歩だけ脇に立っていた。補助が必要なら支える、だが勝手には触れない。そんな距離の取り方だった。

「ありがとうございます」

 彼女は小さく礼を言い、裾を踏まないよう気をつけながら馬車を降りた。革靴の底が王宮の石畳を踏んだ瞬間、土の道とは違う硬さが足裏を伝ってくる。白く乾いた石の感触。ここがもう、モンティエール伯爵家の外でも、修道院の手前でもない場所なのだと、身体のほうが先に理解した。

 門前にはすでに数人の従者が控えていた。表情をほとんど動かさず、だが視線の端で確実に彼女を見ている。その視線は露骨ではない。けれど、知らない顔が王弟の馬車から降りてくれば、見るのが当然という程度にははっきりしていた。

 王宮に入る前から、もう見られている。

 その事実に、イゼルダは背筋を伸ばした。怯えたように見えてはならない、という意地にも似たものが自然に身体を支える。王宮の門をくぐる前からそれでは、この先やっていけるはずがない。

 オドランはそんな彼女をちらりと見たが、何も言わなかった。ただ歩き出す速度を、彼女が遅れずついていける程度にわずかに落とす。それだけの配慮が、かえって彼らしいと思えた。

 王宮の回廊は、外から見るよりもずっと冷たく、そして明るかった。

 高い天井。白い石柱。磨き上げられた床には、長い窓から差す光が帯のように落ちている。足音は吸われるように静かで、会話の声も必要以上に響かない。けれど静かすぎるわけでもなかった。遠くで紙をめくる音、誰かが扉をノックする音、銀の盆が軽く触れ合う音。それらが重なり合って、この巨大な場所がすでに朝の仕事を始めているのだと知らせていた。

 イゼルダは歩きながら、どうしても視線の気配を感じずにはいられなかった。

 すれ違う女官たちが、ふと動きを止める。従者が一礼する際、目線がほんの一瞬だけ彼女に落ちる。年かさの侍女が、王弟の後ろを歩く見知らぬ女の姿を見て、表情を変えないまま視線だけで意味を持たせる。

 それらはどれも露骨な好奇心ではない。王宮で露骨なのはむしろ無作法なのだろう。だからこそ、微妙な視線がいっそう鋭く感じられる。

 王弟付きの女官たちが控える一角へ案内された時、その視線はさらに濃くなった。

 王弟の私室に近い控えの間は、貴婦人の応接室ほど華美ではないが、働く場としては驚くほど整っていた。壁には書架が並び、机は複数置かれ、それぞれに筆記具や封蝋、整理用の箱がきちんと揃えられている。窓辺には小さな花瓶が一つあり、白い花が数輪だけ挿してあった。控えめだが、誰かが毎朝欠かさず替えているのだと分かる清潔さだった。

 その部屋の中にいた女官たちは、イゼルダが入ってきた瞬間、誰も大きくは動かなかった。だが、空気だけがわずかに変わる。

 机の脇にいた栗色の髪の女官がペンを持つ手を止めた。書架の前で目録を確かめていた痩せた女が、一度だけ顔を上げた。窓辺で花瓶の水を替えていた若い侍女は、明らかに驚いたように目を見張ったあと、すぐに顔を伏せた。

 この沈黙の正体が何なのか、イゼルダには分かった。

 歓迎ではない。
 拒絶ともまだ言いきれない。
 けれど、突然現れた「説明を必要とする存在」への測るような視線だ。

 オドランはその空気に気づいていないはずがないのに、表情ひとつ変えなかった。

「紹介します」

 低くよく通る声が、部屋の空気をまっすぐに整える。

「しばらく私のもとで文書整理と女官教育の補佐を務めてもらう、イゼルダ・モンティエール嬢です」

 補佐を務めてもらう。

 その言い方に、イゼルダはほんの少しだけ救われた。預かったとか、保護したとか、そういう曖昧な立場ではなく、役目の名を先に置いてくれたからだ。

 けれど、女官たちの表情がすぐにやわらぐことはなかった。

 最初に口を開いたのは、三十代半ばほどに見える女だった。栗色の髪をきっちりとまとめ、濃紺の女官服を隙なく着こなしている。目元に柔らかさはあるが、その柔らかさをどう使うかを自分で選べる人の顔だ。

「セルマ・ラヴィエと申します。王弟殿下付きの女官長を仰せつかっております」

 声音は丁寧だった。非礼はない。けれど、歓迎のぬくもりもない。その中間にきちんと立つ声だった。

「モンティエール嬢」

 そう呼ばれ、イゼルダは一礼した。

「突然のご挨拶となりまして、失礼いたします。イゼルダ・モンティエールです」

「お噂は、少し」

 セルマは微笑んだ。

 その微笑みが、イゼルダにはかえって冷たく感じられた。王宮まで来て早々、「噂」という言葉を聞くとは思っていなかったからだ。

「家を出られたとか」

 室内の空気が、ほんの少しだけ張る。

 若い侍女がさっと目を伏せ、痩せた女官が書類を持つ指に力を入れたのが見えた。誰も直接そこへ触れないだろうと期待していたわけではない。だが、初対面でさらりと出されると、さすがに胸の奥に小さな棘が刺さる。

 イゼルダはほんの一呼吸だけ間を置いた。その一呼吸が、自分の顔から余計な色を消してくれるまで待つ。

「はい」

 それから静かに答えた。

「事情がございまして」

 セルマの眉がごくわずかに上がる。もっと狼狽えたり、言い訳を並べたりすると思っていたのかもしれない。だがイゼルダには、ここで必要以上に事情を説明するつもりはなかった。事情がある。だからここにいる。それ以上でも以下でもない。

「そうでしたか」

 セルマはそれ以上追及しなかった。だが、問わずとも十分に意味を通した顔ではあった。

 オドランがそのやりとりの終わりを見て、短く言う。

「セルマ。モンティエール嬢には、まず今日一日の流れを見てもらう。その後、文書棚と目録の状態を確認してもらえ」
「承知しました、殿下」

 その一言で部屋の空気が少しだけ仕事の方向へ戻る。やはりこの人は、個々の感情の揺れを無理に抑え込むのではなく、仕事の名で整えるのだとイゼルダは思った。

 オドランはイゼルダへ視線を向ける。

「無理はしないでください。今朝はほとんど休めていないでしょうから」
「……はい」

 それだけを残し、彼はすぐに隣の執務室へ入っていった。扉が閉まると同時に、控えの間の空気がまた少し変わる。王弟がいる時は表へ出さないものが、扉一枚隔てただけで薄く形を取りはじめる。

 若い侍女が花瓶を持ったまま、ちらちらとこちらを見る。痩せた女官は書類を持って棚へ向かったが、その肩には明らかな硬さがあった。セルマだけが、表情をほとんど変えない。

「では、こちらへ」

 彼女は部屋の奥の机へ案内した。

「王弟殿下のお言葉の通り、まずは文書整理の状況をご覧いただきます。女官教育のほうは午後から」

「承知しました」

 机の上には、封を切られた書簡の束と、目録、仕分け箱が三つ置かれていた。箱にはそれぞれ、要返信、保留、記録済みと細い字で札が掛けられている。見たところ、雑然としているわけではない。だが細部に迷いが残っているのが分かった。記録済みに入るはずのものが要返信側へ寄っていたり、保留箱の中に、明らかに判断待ちではなく記録漏れのものが混ざっていたりする。

 誰かが怠けた結果ではない。むしろ、忙しさの中で誰もが最低限は保っているからこそ、細かい綻びだけが放置されているのだろう。

 イゼルダは一枚、目録を手に取った。紙質は上等だが、使い込まれていて端が少し柔らかい。細い字で日付と差出人が並び、その横に返答日や担当の印が書かれている。几帳面な人間が作ったのだと分かる目録だ。だが途中から記載の仕方が揺れている。忙しい日が続いたのか、複数人で同じ役目を分け合ったのか。

「……目録の書き手が途中で変わっておいでですね」

 イゼルダが思わずそう言うと、セルマがわずかに眉を上げた。

「お気づきになりますか」
「はい。こちらの印の癖が、七日ほど前から変わっています。返答済みの記号も、それ以前は丸印だけですが、途中から二重丸と一本線が混ざっておりますので」

 若い侍女が小さく息を呑むのが聞こえた。痩せた女官も、書架の前で手を止めている。

 セルマだけが、冷静な顔のまま答えた。

「ええ。病で一人欠けまして、その間だけ二人で分担しておりました」
「そうでしたか。ではその時期の分だけでも、記号の意味を書き足しておいたほうが後から混乱なさらないかと」

 イゼルダは目録をめくりながら言った。

「一本線は、おそらく下書き済みの意味でお使いなのですよね」
「……その通りです」
「でしたら、その線だけがある状態の書簡は、要返信と保留の間に仮箱を作って一時的に分けたほうが見やすいかと存じます。いまのままですと、他の方が見た際に返答済みと誤認されるかもしれません」

 部屋が静まり返る。

 イゼルダはそこでようやく、自分が喋りすぎたのではないかと気づいた。初日で、しかもまだ正式に何もしていないうちから口を出すのは出過ぎた真似だったかもしれない。

「申し訳ありません」

 反射的にそう言いかけたところで、セルマが先に口を開いた。

「いえ」

 その声には、先ほどまでとは少し違う硬さがあった。完全にやわらいだわけではない。だが、ただ噂を見る目ではなく、目の前の相手が何をできるかを測る声になっている。

「続けてください」

 イゼルダは一瞬、目を瞬いた。それから小さく頷き、目録と箱の位置を見比べながら、気づいたところを一つずつ挙げていった。

 仕分け箱の位置が逆光になっていて札が読みにくいこと。返答文の控えを取る紙の綴じ順が日付順と差出人順で混在していること。封蝋の色で緊急度を分けているなら、目録にも同じ印を入れたほうが、後から探しやすいこと。使う人が一人なら分かることでも、二人三人と手が変わるなら、分かるつもりを前提にしないほうがいいこと。

 話しているうちに、指先が自然と動いていた。これは慣れていることなのだと、自分でも分かる。伯爵家の書類はここまで整然とはしていなかったが、そのぶん誰が何をどこへ置いたかを覚え、後から探しやすいよう並べ直すのは、昔からいつの間にか自分の役目になっていた。

 若い侍女が思わずといった様子で口を挟む。

「あの、こちらの札も……少し文字が薄れていて」

「ええ」

 イゼルダはその方を見た。十七か十八くらいだろうか。頬にまだ幼さが残る。自分が話しかけられるとは思っていなかったのか、彼女は少しだけ目を丸くした。

「でしたら、いま書き換えてしまったほうがよろしいでしょうね。たぶん急いで作られたのだと思いますが、毎日見るものほど、少しの見づらさが疲れになりますから」

 侍女は戸惑いながらも、こくりと頷いた。痩せた女官が小さく咳払いをしてから、別の書類束を差し出す。

「では、こちらもご覧になりますか。ここ数日の接遇記録ですが、記録係が二人おりまして、どうしても書き方が揃わないのです」

 その声には、試す色と、わずかな期待が混じっていた。

 イゼルダは受け取り、紙の束をめくる。確かに、片方は出来事を簡潔にまとめ、もう片方は会話の細部まで書き残す癖がある。このままでは後から読み返す際に、必要な情報が記録によってばらつく。

「それぞれ長所はございますが……」

 彼女はゆっくりと言った。

「書き残すべき項目を先に決めてしまえば、個人差は減るかと。来訪者の名、時刻、用件、返答、次の動き、その五つを固定して、その下に特記だけ自由記述になさっては」

 痩せた女官が目を細める。否定ではない。考える時の目だ。

「それなら、新しい者にも教えやすいかもしれませんね」
「はい。最初に形を与えておくと、書く側も楽になります」

 楽になります。

 その言葉を口にしたとたん、イゼルダは少しだけ胸が痛んだ。自分はずっと、人が楽になるように、場が荒れないように、誰かが恥をかかないように整えてきた。けれどそれはいつも、本人の名ではなく、自然にそうあるべきものとして消費されてきた。

 今は違う。
 今は、聞かれて答えている。
 必要だから見てほしいと、そう頼まれたうえで。

 午前はあっという間に過ぎた。

 文書棚の並びを確認し、目録の癖を読み、返答文の控えの取り方を見直し、接遇記録の型を整える。途中、セルマが紅茶を持ってこさせたが、イゼルダは一口飲んだだけで机に戻った。夢中だったのだと思う。あるいは、目の前の仕事に集中していないと、自分へ向けられる視線の意味ばかり考えてしまいそうだったのかもしれない。

 それでも、朝より空気が変わっているのは分かった。

 花瓶を替えていた若い侍女、リネットと名乗ったその娘は、もう露骨に戸惑った目では見てこない。痩せた女官のミレーユは、必要な書類をこちらへ寄せる時にためらわなくなった。セルマだけは依然として表情を大きく変えなかったが、それでも指示の口調に棘はない。少なくとも、役に立つかどうかも分からない厄介な客人としてではなく、ひとまず仕事をさせてみる相手として見ているのは確かだった。

 昼前、オドランの執務室へ使いの者へ渡す文書をまとめて届けることになった。

 イゼルダが束ね直した書簡は、もともと急ぎの返答と記録済みが混ざっていたものだ。封蝋の色、差出人、要件を見直して順を整え、別の紙に一覧を書き添えてある。セルマがそれを確かめ、ほんの一瞬だけ目を上げた。

「これを、そのまま殿下へ」

「はい」

 イゼルダは書類を受け取り、隣室の扉をノックした。

「入れ」

 低い声が返る。朝、修道院の門前で聞いたのと同じ声だ。だが今は、仕事の空気の中に置かれているぶん、もっと平坦で、もっと遠い響きにも聞こえる。

 扉を開けると、執務室は想像していたよりも簡素だった。広さはある。だが壁の装飾は最低限で、机は大きく、窓辺には報告書と思われる束が整然と積まれている。王弟の席というより、仕事をする人間の部屋だと感じた。

 オドランは机に向かっていた。深い青の上着の袖を少しだけ上げ、片手で書類を押さえながら何かに目を通している。陽が高くなり、窓から入る光が彼の横顔を白く照らしていた。

「失礼いたします」

 イゼルダは扉の内側で一礼した。

「セルマ様より、整理済みの文書をお届けに参りました」

「こちらへ」

 机の手前に歩み寄り、書類束を差し出す。オドランは手を止めて受け取り、添えられた一覧を一瞥した。その視線は速いが、流し見ではない。必要な箇所だけを確実に拾う人の目だ。

「……もうそこまで整えたのですか」

 独り言のような低さでそう言い、彼は一覧の紙をもう一度見た。イゼルダは少しだけ戸惑う。褒められるようなことをしたつもりはない。ただ、混ざっているのが気持ち悪くて整えただけだ。

「重複している記録が少しございましたので、照らし合わせてまとめました」

「分かりやすい」

 それだけ言うと、オドランは元の書類を横へ置き、一覧を一番上へ重ね直した。

「助かった」

 たった一言だった。

 本当に、それだけだった。

 大げさな称賛でもない。笑顔もない。声色もいつもと変わらない。王弟として、あるいは上に立つ者として、必要な礼を短く返しただけなのだろう。外から見れば、それ以上でも以下でもない一言だった。

 なのに、そのたった一言が、イゼルダの胸へ不意打ちみたいに落ちた。

 助かった。

 ありがとうでもない。偉いでもない。気が利くでもない。
 助かった。

 その言葉は、彼女がしたことが確かに役に立ったと、ただそれだけを真っ直ぐ示していた。相手の都合を先回りして動いた結果を、当然と流されず、軽くも重くもなく、必要な働きとして受け取られた。

 それだけのことが、どうしてこんなにも胸に沁みるのだろう。

 一瞬、返事が遅れた。

「……いえ」

 ようやく出た声は、少しかすれていた。自分でも分かる。そんなつもりはなかったのに、喉の奥が急に熱くなっていた。

 オドランはその変化に気づいたのかどうか分からない。ただ、必要以上にこちらを見つめることはせず、次の書類へ手を伸ばした。

「午後は接遇の補助に入ってもらう予定です」
「承知しました」
「疲れたら無理はしないでください」
「はい」

 それ以上の会話はなかった。イゼルダは一礼して執務室を出た。扉を閉めた瞬間、胸の奥がじわじわと熱くなる。別に泣くようなことではない。助かったと言われただけだ。それだけで泣くなんて、自分でも可笑しいと思う。けれど、もし今ここで誰かに優しくされたら、本当に涙が出てしまいそうだった。

 だから深く息を吸い、控えの間へ戻った。

 午後は接遇の補助に回った。王弟付きの女官の仕事は想像していた以上に細かかった。訪問の時間の記録、待たせる相手の順序、茶器の選定、長く話す相手と短く済む相手の見極め、必要な書類の先回り。どれも目立たないが、誰かが誤ればすぐに支障が出る仕事ばかりだ。

 セルマは午後のあいだ、イゼルダをわざと忙しい場所へ立たせたのだろう。最初はただ見ていろという態度だったのが、途中からは「こちらを持って」「次の部屋へ伝えて」「その返答は保留の札を」と、小さな指示が次々に飛んでくるようになった。

 イゼルダはその一つひとつを受け、動いた。

 ある貴族の夫人が予定より早く到着した時には、部屋が整うまでの数分を無駄に待たせないよう、別の控え室へ案内して茶を先に出した。若い女官が緊張で返答を噛んだ時には、言葉を取らずに横から自然な形で補い、恥をかかせずに済ませた。訪問者の書簡に返答を求める印が抜けているのを見つけた時には、セルマへ一言告げたうえで目録へ印を入れた。

 それらはすべて小さなことだ。誰かが気づかなければ流れていく程度の、小さな綻び。けれど、そういう綻びを拾うのは、イゼルダにとって呼吸に近かった。

 日が少し傾き始めた頃には、朝のあの微妙な視線は、部屋の中でかなり薄れていた。

 なくなったわけではない。もちろん、完全な歓迎に変わったわけでもない。王宮の女官たちはそこまで単純ではないだろう。噂は消えないし、家から出てきた令嬢だという見方も、まだ消えていない。

 けれど、少なくとも「何も知らない厄介な娘」ではなくなっていた。

 リネットが書類を持ってきた時、ほんの少しだけ頬を上気させて言った。

「あの、モンティエール様……いえ、イゼルダ様。この一覧の作り方、後で教えていただけますか」

 その言い直しに、イゼルダは目を瞬いた。

 モンティエール様。ではなく、イゼルダ様。

 名で呼ばれたこと自体に、胸が小さく揺れる。姉の影でも、伯爵家の次女でもなく、この部屋の中で自分の名前を持つことが、まだこんなにも新しい。

「ええ、もちろん」

 そう答えると、リネットはほっとしたように微笑んだ。その笑みは朝の戸惑いよりずっと人らしく、若かった。

 夕方、ようやく一日の大きな流れが落ち着くと、セルマが机の上を整えながら、イゼルダへ言った。

「初日からよく動かれましたね」

 褒めているのか、ただ事実を述べているのか、微妙な調子だった。だがイゼルダには分かった。これは朝の「お噂は少し」とは違う声だ。少なくとも今は、仕事を見た上で話している。

「お役に立てたならよろしいのですが」
「立っております」

 セルマは紙を揃えながら、さらりと言う。

「正直に申し上げれば、私は今朝、殿下のお考えが読めませんでした」
「……」
「ですが、文書棚の前で気づかれたことも、接遇の補い方も、たしかに見事でした」

 見事、と言われるとさすがに気恥ずかしい。イゼルダは少しだけ視線を伏せた。

「慣れていただけです」
「慣れだけではできないこともございますよ」

 セルマはそこでようやく、ほんの少しだけ笑った。

 その微笑みは、朝のものとは違っていた。柔らかくはない。けれど、自分の前で仕事をした相手へ向ける、現実的な信頼の入口みたいな笑みだった。

「少なくとも、王宮に咲かない花を飾りとして置く気ではなかったのだと、いまは分かりました」

 その言い回しに、イゼルダは小さく目を見開いた。

 王宮に咲かない花。

 それはたぶん、自分のことなのだろう。家から逃げた令嬢。噂になりやすく、視線を集めるだけで、実のない飾りもののような存在。朝の時点で、彼女たちはきっとそういう警戒を抱いていたのだ。

「……朝は、そう思われていたのですね」

 口にすると、セルマは少しだけ肩を竦めた。

「王弟殿下のそばに、説明もなく若い令嬢が現れれば、そう思う者がいても不思議ではありません」

「たしかに」

 イゼルダは苦笑に近いものを浮かべた。自分でもそう思う。もし逆の立場なら、同じように構えるだろう。

「ですが」

 セルマは机の上の最後の紙を揃え、まっすぐ彼女を見る。

「花ではなく、人でした」

 その言葉は不思議と優しく聞こえた。褒め言葉のようでもあり、訂正のようでもある。花ではなく、人。見た目で置かれるものではなく、役目を持つ人間。

 イゼルダは言葉を返せず、小さく頭を下げるだけで精一杯だった。

 その夜、与えられた部屋へ案内された時、窓の外はもう夕闇に沈み始めていた。

 王弟付きの補佐役として使うには十分すぎるほど整った部屋だった。広すぎはしないが、一人で過ごすには静かでちょうどよい。寝台、書き物机、小さな暖炉、衣装箱。窓辺には水差しと花のない花瓶が置かれている。花がないのが、逆にありがたかった。今日はもう、見た目のための飾りを眺める気分ではなかったからだ。

 扉が閉まり、ようやく本当に一人になる。

 その瞬間、身体のあちこちに溜まっていた疲れが一気に戻ってきた。靴を脱ぐと足先がじんと痛み、肩には重いものが乗っているようだった。寝台に腰を下ろすと、マットレスが静かに沈む。屋敷を出てからずっと、どこか地面の上にしかいなかった気がする。修道院の門前の石畳も、王宮の回廊の床も、控えの間の硬い椅子も。こうしてやわらかな場所に腰を下ろした途端、今日一日がどれだけ長かったかを身体が思い出した。

 手提げからロザリオを取り出す。銀の十字を掌に乗せると、朝より少しだけ温かく感じた。暖炉に火は入っていないのに、部屋の中の空気は冷えすぎていない。きっと壁が厚いのだろう。

「助かった……」

 小さく口にしてみる。

 その一言だけで、また胸がじわりと熱くなる。朝から何度も呼吸するみたいに仕事をした。そのひとつひとつに、いちいち言葉が返るわけではない。むしろ返らないことのほうが多かった。けれど、あの短い一言が、全部をまとめて報われたような顔をして胸へ落ちた。

 助かった。

 それは、やって当然ではないという意味だった。
 いて当然でも、代わりに動いて当然でもないという意味だった。
 あなたがしたから助かったのだという、たったそれだけの肯定だった。

 こんなことで、と自分では思う。けれど、こんなことだからこそ沁みるのかもしれない。人は、大きな愛の言葉よりも、自分のしたことがちゃんと相手へ届いたと分かる一言のほうに、深く救われる時がある。

 窓の外で風が鳴った。王宮の高い壁に沿って流れる夜風の音は、伯爵家の屋敷で聞くものより少し乾いている。遠くで衛兵の交代の合図らしい金属音が一度だけ響き、すぐに消えた。

 イゼルダはロザリオを両手で包み込む。

 ここはまだ、安心しきれる場所ではない。視線もある。噂もある。今日一日だけで全てが変わるわけではない。明日になれば、また別の目で見られるかもしれない。家から逃げた令嬢という立場も、簡単には消えない。

 それでも。

 今日、与えられた書類を整え、接遇の補助をし、必要な言葉を必要なだけ返し、最後に「助かった」と言われた。

 たったそれだけで、王宮に咲かないはずだった花が、花ではなく人としてここにいてよいのかもしれないと、ほんの少しだけ思えた。

 イゼルダはゆっくりと目を閉じる。

 屋敷を出た夜のこと。修道院の白い門。王弟の馬車。朝の冷たい空気。すべてが遠いのに、まだ身体の中に残っている。けれど、その残り香の中に、今日は新しいものが混じっていた。

 必要とされる仕事の手触り。
 名前で呼ばれる感覚。
 代わりではない居場所の、かすかな輪郭。

 それはまだ、土に根を張ったものではない。吹けば飛ぶほど細い。けれど確かに、ここにある。

 王宮に咲かない花だと思われてもいい。
 花ではなく人だと、仕事が少しずつ教えてくれるなら。

 そう思いながら、イゼルダは寝台の端に座ったまま、ようやく深く息を吐いた。


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