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第13話 選ばれなかった女ではなく
王宮へ来てから十日ほどが過ぎたころ、イゼルダはようやく、この場所の朝の匂いと音の並び方を自分のものとして覚えはじめていた。
まだ完全に馴染んだわけではない。王宮の回廊は相変わらず白く広く、朝の光は容赦なく石床を照らし、そこを行き交う人々は誰もが自分の役目を知っている顔をしている。けれど、最初の頃のように、そのすべてに押しつぶされそうになることは減った。
どの扉がどのくらい重いか。
どの時間帯にどの廊下が混みやすいか。
セルマが指先で机を二度叩く時は、急ぎの書類が来る合図だということ。
ミレーユが唇の端だけを少し上げる時は、厄介な来客が去ったあとの安堵だということ。
リネットが盆を持つ手元にわずかに力を入れている時は、まだ自分で処理しきれない緊張を抱えているということ。
そういう小さなことを、イゼルダは一つずつ覚えていった。
覚えていったというより、気づいてしまうというほうが近いかもしれない。人の表情の薄い揺れや、言葉にならない気配を拾うことは、昔から身体に染みついていた。姉の機嫌を損ねないために。母が何を望んでいるかを先に察するために。父の怒りがどこへ向くかを読むために。
その癖が、いまは別のかたちで役立っている。
朝の控えの間で、イゼルダは目録をめくりながら、ふとペン先を止めた。来客記録の欄に、同じ名が二度、微妙に違う綴りで書かれている。たった一字。けれど、その一字の違いは後で必ず混乱を生む。
「ミレーユ様」
呼ぶと、書架の前にいた痩せた女官が顔を上げる。
「こちらの綴りですが、三日前の記録と違っております。こちらが正式なお名前かと」
「……ああ」
ミレーユは紙を受け取り、目を細めた。
「またか。新しく来た筆記係の子ね」
「たぶん、耳で覚えたまま書いてしまわれたのだと思います」
「その子を呼ぶ前に、前後の控えも見てもらえますか」
「はい」
そうしたやりとりが、いまでは自然に行われるようになっていた。
最初の頃なら、イゼルダが指摘するたび、相手は一瞬だけ「どうしてそこまで見ているのか」とでも言いたげな顔をした。だがいまは違う。むしろ、どこかで誰かが細かな綻びを拾ってくれることに、控えの間の空気が少しずつ慣れてきている。
その変化は、書類整理だけではなかった。
昼前、女官見習いたちの書式確認をしていた時のことだ。若い見習いの一人が、返答文の控えに日付を書き入れる手元を二度も迷わせている。隣にいる別の見習いは、そういう時にいつも少しだけ早口になる。先に終えたい焦りが、声へにじむのだ。
「そこは」
早口の子が言いかけたところで、イゼルダは机の上へ別の紙を差し出した。
「順番を一度、声に出して読んでみましょうか」
「え……」
「差出人、到着日、返答日、控え番号。その順で」
戸惑いながらも、見習いの少女は小さく読み上げる。そうすると、自分が迷っていたのは日付の書き方ではなく、控え番号を先に振る癖が抜けていないせいだとすぐに気づいたらしい。頬を赤くして「失礼しました」と頭を下げる。
「よいのです」
イゼルダは静かに言う。
「間違える前に分かれば、誰も困りませんから」
隣で見ていたセルマは、そのやりとりを最後まで口を挟まずに見ていた。そして見習いたちが去ったあと、目録を束ねながらぽつりと言う。
「あなたは、人が詰まる前に気づくのが上手いですね」
「……そうでしょうか」
「ええ。叱るほうが早い場面もあります。けれど、あの子たちは叱られる前に整えてもらったほうが、次から崩れません」
イゼルダは何と返していいか分からず、小さく頭を下げるだけにした。昔から、誰かがつまずく前に手を添えることはしてきた。だがそれは家の中では、たいてい「気が利く」で終わった。褒めているように聞こえて、実際には便利さの延長でしかない言葉だった。
ここでは違う。
上手いですね。
崩れません。
助かります。
そんなふうに、行動の結果がそのまま言葉になる。
たったそれだけの違いが、思いのほか深く沁みる。
その日も、午前の仕事がひと段落した頃、オドランが控えの間へ現れた。
執務の合間なのだろう。深い紺の上着の袖を少しだけ上げたまま、片手に文書を持っている。いつも通り表情は大きく動かない。それでも、彼が部屋へ入るだけで控えの間の空気はきりりと整う。誰かが慌てるわけではないのに、不思議と全員の背筋がわずかに伸びるのだ。
「セルマ」
「はい、殿下」
「南棟から回ってきた報告書ですが、数字の欄が一枚抜けています。昨日の分と照らし合わせたい」
「ただいま」
セルマが書架へ向かう前に、イゼルダは手元の控えを見比べてすぐに気づいた。南棟の報告は、昨日の時点で二枚目の綴じ位置がずれていたのだ。そのせいで、今朝目録へ移す際、別綴じへ入ったままになっている。
「殿下」
イゼルダが声をかけると、オドランがこちらを見る。
「昨日の控えなら、たぶんこちらにございます。綴じ違いが一つありましたので、別綴じへ避けております」
「……そうでしたか」
「はい」
立ち上がって書類箱から取り出し、差し出す。オドランは受け取り、ぱらりと目を通した。
「助かりました」
短い声だった。
それだけなのに、やはり胸のどこかが小さく熱くなる。もう何度目か分からないその反応に、自分でも困る。慣れればいいのかもしれない。だが、慣れてしまうのも惜しい気がした。助かった、と言われるたび、自分がここで呼吸していてよいと少しだけ思えるのだから。
オドランは書類を閉じ、そこでふとイゼルダを見た。
「午後の来客ですが」
「はい」
「三件目は少し長くなります。あなたは途中で外してかまいません」
セルマとミレーユがごくわずかに視線を上げる。イゼルダもまた一瞬、返事が遅れた。
「わたくしが、ですか」
「ええ」
「ですが、記録は」
「最初の応答だけ取れれば十分です。あとの詰めはセルマがやる」
「……承知しました」
その指示が特別扱いなのか、単なる配置の最適化なのか、その場では分からない。だが、イゼルダにはすぐに思い当たることがあった。三件目の来客は、王都でも噂好きで知られる侯爵夫人だ。表向きは上品で、だが会話の端々に細い針を潜ませる人。先日、イゼルダをアデルリーヌと取り違えた婦人とは別だが、同じ系統の空気を持つ相手だった。
つまりオドランは、最初からそこまで見て配置を決めている。
苦手な場では、必ず逃げ道が用意されている。
それに気づいた瞬間、胸の奥がまた妙に落ち着かなくなった。
午後、その来客は予想通り長引いた。
最初は慈善催しの後援について。次に王都の夏季滞在について。さらに話題はぐるりと回り、結局は「最近の王宮の空気」へ滑っていく。侯爵夫人の笑い方が少し甘くなった時点で、イゼルダは察した。もうすぐ、あの話になる。
「そういえば」
夫人は扇を唇の前で軽く揺らした。
「最近は控えの方々もずいぶん華やかになられて」
その視線が、控え位置にいるイゼルダへ流れる。軽いようでいて、確実に引っかけてくる視線だ。
その瞬間、オドランは夫人の言葉の終わりにかぶせるように紙を一枚差し出した。
「こちらの予算配分ですが」
「まあ、殿下は本当にお仕事熱心で」
「必要なことです」
淡々とした応答。扇の向こうで夫人の目が一度だけ笑いきらずに止まる。イゼルダはその間に、セルマの視線を受けてごく自然に控え位置を下がった。あらかじめ用意された出口へ、誰にも気づかれない速度で滑り出す。それがいまの自分にはもう出来る。
廊下へ出た時、ようやく肩の力が抜けた。
背後の扉の向こうでは、まだ会話が続いている。だが、自分がそこにいなくてはならない理由はもうない。必要な記録は取った。あとはセルマがいる。ならば、下がってよいのだ。
そう思えることが、少し前の自分にはまだ難しかった。最後までそこに立たなければ、役目を放り出したように感じていたからだ。けれどいまは違う。必要なところまで行き、不要な傷を負わずに退くこともまた、働くということの一部なのだと、オドランの配慮が少しずつ教えている。
その日の夕方、控えの間の隅で、リネットと別棟から来た若い侍女が小声で話しているのを、イゼルダは偶然聞いてしまった。
偶然、と言っても、王宮の控えの間というのは思ったほど広くない。誰かが声を潜めても、完全には消えない。まして、その言葉に自分の話題が含まれていれば、耳は勝手に拾ってしまう。
「……本当に?」
「ええ。南棟でも噂になってるの。王弟殿下が」
「まさか」
「だって、あそこまで近くに置くのは初めてでしょう」
イゼルダの指先が、机の上の紙を揃える手を一瞬止める。
近くに置く。
その言い方だけで、何の話か分かった。
王弟妃候補。
ここ数日、社交界で自分の名と王弟の名が並べて囁かれ始めているらしい、ということは、セルマから遠回しに聞いていた。最初は冗談めいた噂だと思った。王弟が若い女をそばへ置けば、そういう話が立つのはある意味当然なのだろう。しかも相手が家から出てきた令嬢で、身分だけは申し分ないとなれば、余計に勝手な物語を作りやすい。
だから否定した。心の中で何度も。そんなはずはない、と。自分は補佐役だ。文書整理と女官教育の補佐として、役目を与えられている。それ以上でも以下でもない。
だが、女官たちの囁きは、頭では分かっていても胸の奥に妙な波を立てる。
「殿下が、あんなふうに名でお呼びになることも」
「そう、そこよ。あれが一番」
「しかも、お茶のことまで気にして」
「この前なんて、侯爵夫人の時もさりげなく下げさせて……」
イゼルダは息を止めた。
そこまで見られているのか。
見られているのだろう。当然だ。王宮は人の出入りも視線も多い。自分が気づかないところで、仕事の流れも、ちょっとした言葉も、誰かの中で意味を持って積もっていく。
「でも、イゼルダ様ご自身はそういうつもりじゃないわよね」
「もちろん。でも、殿下のほうはどうかしら」
「まさか」
「だって、あんなふうに近くに置くの、本当に初めてだもの」
リネットの相手の声は、ただの噂好きの甘い響きではなかった。好奇心もある。けれど、王宮に長くいる者だからこそ知っている事実も含まれている。あそこまで近くに置くのは初めて。つまり、オドランが誰かへそうした距離を取るのを、彼女たちは見たことがないのだ。
イゼルダは紙を揃え終え、わざとらしくならない程度の音を立てて書架のほうへ歩いた。二人はそこで初めて彼女の気配に気づいたのか、はっとしたように口をつぐむ。リネットの頬がみるみる赤くなった。
「イ、イゼルダ様」
「この控え、上段へ戻しておきますね」
穏やかにそう言って、イゼルダは紙束を棚へ収めた。何も聞かなかったふりをする。そのくらいの余地は自分にも相手にも必要だ。
けれど、胸の内ではざわめきが止まらない。
自分が誰かに選ばれる立場として見られている。
それも、社交界の噂話としてだけではなく、王宮内の人々の目の中でも。
そのことに、まったく慣れない。
選ばれなかった女。
その意識は、思っていた以上に深く、自分の中へ根を張っていたのだと、いまさら分かる。姉が選ばれ、自分は代わりだった。姉に届いた好意の余りものが自分へ回る。あるいは、姉の都合で空いた場所へ自分が押し込まれる。そういう形でしか「選ばれる」ことを知らない。
だから、誰かの第一候補として、自分が人の視線の中へ置かれることが、怖いほど現実味を持たない。
その夜、イゼルダはどうしても落ち着かず、いつもより遅くまで机に向かっていた。女官見習いたちの記録の見直しを終え、返答文の控えも整えたのに、部屋へ戻る気になれない。自室へ戻れば、一人になってしまう。そうすると、昼の囁きがまた頭の中で繰り返されるのが分かっていた。
やがて控えの間の人の気配も少しずつ薄くなり、セルマが最後の確認を終えて机の上を整えはじめる。ミレーユは先に下がり、リネットも今夜の当番ではないからと一礼して去っていった。
そこへ、オドランが執務室から出てきた。
今日は夜まで書類が多かったらしい。目元に微かな疲れがある。けれど、その疲れは鈍く沈む種類ではなく、長く張っていた弦が少しだけ緩んだような疲れだった。
「まだ残っていたのですか」
低い声が落ちる。
イゼルダははっとして立ち上がった。
「申し訳ありません。目録の見直しが少しだけ」
「少しだけ、ではなさそうですね」
そう言われて初めて、机の上に広げた紙の量が自分でも目に入った。確かに、少しだけ、とは言い難い。
「……はい」
素直に認めると、オドランは近づきすぎない距離で立ち止まった。セルマは何も言わず、最後の書類束を抱えて静かに部屋を出ていく。扉が閉まると、控えの間にはイゼルダとオドランだけが残された。
夜の控えの間は昼間よりずっと静かだった。灯りは必要な分だけ落とされ、窓の外はもう深い藍色に沈んでいる。机の上に置かれた小さなランプの明かりが紙の端を照らし、その光の輪の中にだけ二人がいるように思えた。
「何かありましたか」
オドランは単刀直入に訊いた。
大丈夫ですか、ではない。泣かせるような声音でもない。ただ、何かあったのなら言えるだけ言え、というような問い。
イゼルダは一瞬、どう返すべきか迷った。王宮内の噂を、本人へそのまま告げるのはみっともない気もした。自意識過剰に聞こえるかもしれない。そういうことを気にしている時点で、どこか浮き足立っているようで情けない。
けれど、黙っていても彼の目はおそらく誤魔化せない。
「……女官たちの間で」
イゼルダはゆっくりと言った。
「殿下のお名前と、わたくしのことが」
「噂になっている」
「はい」
オドランは驚かなかった。むしろ、当然その程度は把握している顔だった。そのことが少しだけ悔しくもあり、同時に妙に安心でもある。
「それで、落ち着かないのですね」
「……否定はいたしました」
「ええ」
「けれど」
そこで言葉が詰まる。何と言えばいいのだろう。自分が「誰かに選ばれる側」として見られることが怖い、などと。そんなことを口にしたら、ひどく子どもじみて聞こえるのではないか。
だが、オドランは待っていた。急かさず、埋めず、こちらが言葉を探すのを静かに待つ。
「……慣れないのです」
結局、いちばん正直な言葉が出た。
「わたくしが、そういうふうに見られることに」
「そういうふうに」
「選ばれる側の女として、です」
言ってしまうと、頬の内側が少し熱くなった。羞恥に近い。けれど、口にしたことでようやく自分の戸惑いの輪郭がはっきりする。そうだ、自分は慣れないのだ。姉の代わり、家の都合、余りもの。そういう形ではなく、「誰かが選ぶ相手」として見られることに。
オドランは少しだけ目を細めた。だが笑うでも、軽くあしらうでもなく、ただ確認するように言う。
「あなたは、選ばれる時はいつも何かの代わりだった」
「……はい」
あまりに正確な言い当て方に、イゼルダは小さく息を呑む。
「ですから、正面から自分へ向けられる視線が、まだ自分のものだと感じられない」
「……ええ」
頷いた瞬間、胸が少しだけ苦しくなった。見抜かれている。しかも、責められることなく。
オドランは机の端へ軽く手を置いた。
「噂は止められません」
静かな断定だった。
「王宮でも社交界でも、人は勝手に意味をつけます。私が何をしようと、あなたがどう否定しようと、それはゼロにはならない」
「はい」
「ですが」
そこで一度だけ間が置かれる。
「だからといって、あなたが『選ばれなかった女』であり続ける必要もない」
イゼルダは顔を上げた。
その言葉は、あまりにも真っ直ぐだった。慰めではなく、断定として置かれる。選ばれなかった女であり続ける必要はない、と。
必要はない。
そんなふうに言われたことがあっただろうか。これまでの人生で、自分はたしかにそういう立場だった。姉に選ばれた客人の横で笑う妹。姉へ向けられた縁談の代わりに差し出される次女。そういう立場しか与えられなかった。だから、もうそれを自分の本質のように思い込んでいたのかもしれない。
「……必要は、ない」
イゼルダはほとんど独り言のように繰り返した。
「ええ」
オドランは頷く。
「噂がどうあれ、あなたがここにいる理由は、あなたが役目を果たしているからです」
「……」
「それ以上でも、それ以下でもない」
その言葉に、イゼルダは胸の奥が少しずつ静まっていくのを感じた。そうだ。噂が何であれ、自分はここで働いている。書類の不備を整え、人の綻びを察し、必要な場面で前へ出て、不要な傷を負う前には退く。その一つひとつの積み重ねが、自分をここへ立たせている。
そこへ、別の視線が勝手に意味を足してくる。
それは止められない。
けれど、自分までそれに飲まれる必要はない。
「それでも」
イゼルダは小さく言う。
「もし、本当に誰かに選ばれることがあるとしたら……わたくしは、まだどうしてよいか分からない気がします」
そこまで口にしてから、しまったと思った。ずいぶん率直すぎる。自分でも少し驚くほど、思っていることがそのまま出てしまった。だがオドランは、変に気色ばむことも、甘い意味へ取ることもなく、ただ一瞬だけ沈黙してから答えた。
「分からなくていい」
その言葉が、夜の控えの間に静かに落ちる。
「いま無理に答えを作る必要はありません」
「……」
「慣れないなら、慣れないままでいい」
「ですが」
「ただ、自分を卑下する理由にはしないでください」
イゼルダは息を止めた。
自分を卑下する理由にはしないでください。
それは命令ではない。けれど、いまの彼女には命令より深く響いた。王宮内で少しずつ評価が上がっていることも、仕事ぶりを認められていることも、頭では分かっていた。それでもどこかで、「所詮は代わりだった自分」が顔を出す。噂ひとつで、すぐにそこへ引き戻されそうになる。
だがいま、彼はそこへ線を引いた。
選ばれなかった過去があったとしても。
それを、いまの自分を貶める理由にするな、と。
イゼルダは何か返そうとして、言葉を見失った。胸の奥が熱く、でも痛いわけではない。むしろ、長く固まっていたものが少しだけ解ける時の熱に近い。
「……はい」
ようやく出た返事は、驚くほど小さかった。
オドランはそれ以上、言葉を足さなかった。ただ机の上の紙束を見て、
「今日はもう終わりです」
とだけ言う。
「明日の朝でも間に合います」
「ですが」
「間に合います」
その言い方が、やはり少しだけ優しいのだとイゼルダは思った。断定なのに、追い詰めない。線を引くのに、逃げ道も同時に残していく。
イゼルダは紙を揃え、机の上を整えた。部屋を出る前、ふと窓の外を見る。王宮の中庭は夜の青に沈み、いくつかの窓だけが金色に光っている。その静けさの中で、自分の胸にもまだ小さなざわめきが残っていた。
噂は消えないだろう。
たぶん、これからしばらくはもっと増える。
王弟妃候補。
選ばれた女。
王弟が近くに置く娘。
そういう言葉は、勝手に人のあいだを歩いていく。
けれど、その言葉の前に、自分の役目も名前も消えるわけではない。いまはまだ、その二つを同時に抱えることに慣れないだけだ。
選ばれなかった女ではなく。
少なくとも、いまはそう呼ばれ続けるだけの自分ではない。
部屋へ戻り、灯りをつけると、机の上に自分の名前でまとめた目録の控えが置いてある。誰の代わりでもない、自分の字。自分の判断。自分の整え方。
イゼルダはその紙へそっと指を触れた。
薄い紙の手触りはいつも通りだ。けれど今日は、その一枚が妙に確かなものに思えた。これがいまの自分だと、そう言えるものがここにある。
窓の外で風が鳴る。
遠くで衛兵の靴音が規則正しく続く。
イゼルダは静かに目を閉じた。
まだ慣れない。
誰かに選ばれる立場として見られることにも。
それを、自分が完全には拒みきれずに動揺することにも。
けれど、少なくとももう、自分を「選ばれなかった女」だけで閉じ込めておくつもりはなかった。
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