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第14話 代用品に未練を持つ男
その日の午後、控えの間へ届いた来客名簿を見た瞬間、イゼルダは指先の温度が一度に失われるのを感じた。
上質な紙に、今日の面会予定が整った字で並んでいる。王妃付きの女官長から回ってきた控えを、セルマがいつものように机の端へ置き、必要なものだけを抜き出していく。その一番下、今日の後半にねじ込まれるように記された一行。
セヴラン・ド・ロシュフォール侯爵令息。
目で読んだはずなのに、一瞬、意味が入ってこなかった。けれど次の瞬間には、喉の奥が乾き、胸の奥に細い針のような痛みが走る。あまりにも見覚えのある名前だったからだ。見覚えがあるどころではない。ここ数か月、いやここ数年、イゼルダの人生の端々へずっと不快な影を落としていた名前だった。
ロシュフォール侯爵家嫡男、セヴラン。
最初にその男がアデルリーヌへ熱を上げた時、周囲はこぞって「良縁だ」と言った。家格、年齢、見た目、受けのよい物腰。表向きの条件はどこにも不足がない。アデルリーヌ自身も最初は曖昧に笑ってかわしていたが、母はそれを「照れ」だと思い、父は「娘に興味を示す侯爵家」を歓迎した。
けれどイゼルダだけは、最初からあの男の目が好きではなかった。
好意そのものが嫌だったわけではない。人が人を好くことまで嫌うほど、自分はひねくれていないつもりだった。だがセヴランの目は、誰かを大切に見つめる目ではない。ほしい品を棚の向こうに見つけた時の、あの光り方をしていた。表面は柔らかく、声もよく整えられているのに、目の奥だけがじっと相手を値踏みして、自分の手元へ置いた時の形を先に想像している目だ。
その男が、王宮へ。
イゼルダは名簿へ視線を落としたまま、自然に呼吸を整えようとした。だが、ほんのわずかに肩が強ばったらしい。セルマが紙束を持ち上げる手を止めた。
「どうしました」
いつもの低い声だった。驚かせないように、だが見逃しもしない声音。
「……ロシュフォール侯爵令息が」
イゼルダは名簿のその一行を指した。自分の声が思った以上に平板に聞こえる。平板にしていないと、余計なものが滲みそうだった。
セルマは名を見て、わずかに目を細めた。
「ええ。急な申し出ですが、殿下が通されました」
「殿下が」
「名目は、先日の慈善催しに関する寄付品の追加打診と、王都南区の倉庫管理についての進言だそうです」
名目。そういう言い方をする時のセルマは、大抵その「名目」をそのまま信じていない。
イゼルダは紙から目を離した。心臓はまだ落ち着かない。だが、取り乱して見せることだけはしたくなかった。ここで動揺を露わにすれば、セヴランという名がまだ自分の心を強く支配していると認めることになる。それはあまりに癪だった。
「……では、わたくしは席を外したほうが」
「いいえ」
答えたのはセルマではなかった。
執務室へ続く扉が開き、オドランが姿を現したのだ。深い紺色の上着に、今日は銀灰の刺繍が控えめに入っている。午後の光を受けても冷たさを失わない色だ。いつものように大きな表情はない。けれどイゼルダは、その目がすでに状況を把握している目だと分かった。
「席を外す必要はありません」
彼はそのまま控えの間へ数歩進み、イゼルダの手元の名簿へちらりと視線を落とした。
「あなたが避けて回る理由はない」
「ですが」
「向こうがどういうつもりで来ようと、ここは王宮です」
言い方は静かだった。けれど、その静けさの中に明確な線が引かれている。この場所の主導権はロシュフォールにはない、と。少なくとも、ここではそうなのだと。
イゼルダは唇を閉じた。たしかに、その通りだ。ここは伯爵家の食堂ではない。セヴランが気安くにじり寄ってきて、姉へ向けていた熱をそのまま自分へ被せてくることを、誰も止めない場所ではない。そう頭では分かっている。分かってはいても、身体は昔の記憶を先に思い出す。春の夜会で、秋の園遊会で、冬の礼拝帰りで。あの男の視線が、いつもアデルリーヌへ向きながら、時折こちらの輪郭まで舐めるように確かめていたことを。
「イゼルダ」
低く名前を呼ばれ、イゼルダは顔を上げた。
「無理に同席させるつもりはありません」
「……」
「ですが、逃げる必要もない」
「……はい」
返事はできた。胸の奥のざわつきはまだ消えない。それでも、その一言で足元の床が少しだけ固くなった気がした。
面会の場は、大広間ではなく中規模の応接室だった。王弟が対外的な打ち合わせに使う部屋の一つで、窓が二つ、暖炉が一つ、長椅子が向かい合わせに置かれている。華やかではないが、だからこそ要件以外のものが浮きやすい部屋だった。寄付や倉庫管理について話すには十分。だが、私的な思惑を隠して持ち込むには、少しだけ空気が近すぎる。
セルマが書類を整え、イゼルダはその少し後ろで控えの位置へ立つ。いつもの仕事だ。目録を持ち、必要なら差し出し、必要でなければ壁際へ退く。それだけのこと。そう自分に言い聞かせながらも、手のひらが少しだけ湿っているのを自覚する。
やがて扉が開き、セヴランが入ってきた。
相変わらずよく整った男だった。
柔らかな茶金の髪は丁寧に撫でつけられ、顎の線も服の仕立ても隙がない。王宮へ上がるにふさわしい節度を守った装いで、香りも以前より控えめだ。おそらく意図的にそうしている。今日は「熱心な求婚者」ではなく、「王宮へ進言に来た侯爵令息」として見られたいのだろう。だが、それでもイゼルダには分かる。目の奥の粘り気だけは何も変わっていない。
セヴランはまずオドランへ深く礼を取り、挨拶を済ませた。声は滑らかで、言葉選びもそつがない。倉庫管理の報告についても、慈善催しの寄付の追加についても、外から見れば何一つおかしなところはない。王弟相手に失礼なく、媚びすぎもせず、名家の嫡男として十分な礼節を備えている。
けれど、その会話の端で、彼の視線が何度かこちらへ滑った。
ほんの一瞬ずつだ。だが分かる。書類の流れを追うふりをしながら、イゼルダの立ち位置を確かめている。以前のようにあからさまではない。だからこそ不快だった。王宮という舞台では、彼もまた上手に手を隠してくる。
寄付品の話が一段落し、倉庫の帳簿についてもオドランが短く確認を終えたところで、セヴランはほんの少しだけ声音を和らげた。
「……実は」
そう切り出す。やはり来た、とイゼルダは思った。
「もう一つ、私的なお願いがございます」
「私的なことをここへ持ち込むつもりなら、お断りします」
オドランの返答は早かった。冷たくも高圧的でもない。だが、その一言で部屋の温度が少し下がる。線を引く声だった。
セヴランはごく自然な苦笑を浮かべた。
「ごもっともです。ですが、私にとっては、どうしても見過ごせないことでしたので」
「見過ごせないこと」
「はい」
その視線が、今度こそまっすぐイゼルダへ向く。
「イゼルダ嬢の件です」
呼ばれた瞬間、胸の奥に冷たいものが走る。彼が自分の名前を口にするたび、昔の不快が皮膚の下に蘇る。けれどもう、あの頃のように目を逸らしてやり過ごすつもりはなかった。
オドランは椅子に深く腰を下ろしたまま、指先だけを組んだ。
「彼女は今、私の補佐役です」
「承知しております。だからこそ、ご挨拶だけでもと思いまして」
「何のために」
「誤解があったままでは、あまりに残念です」
誤解。
その言葉に、イゼルダの胸の中で小さく何かが鳴る。怒りというより、呆れに近い音だった。
セヴランはゆるやかにこちらへ向き直る。視線の置き方があまりに丁寧で、だからこそ作られていると分かる。彼は昔からそうだった。乱暴なことはしない。あくまで優雅に、相手が拒みづらい形で踏み込む。
「イゼルダ嬢」
呼ばれても、イゼルダは答えなかった。無視ではない。ただ、必要な返事をするべきかどうかを自分で選ぶために一拍置いたのだ。
「先日は……いや、あれ以前から、あなたには不快な思いをさせてしまったかもしれません」
セヴランは続ける。
「ですが、私としては、あなたに対して誠実でありたいと思っております」
「……誠実」
イゼルダはようやく口を開いた。声は驚くほど平らだった。自分でも少し驚く。もっと冷たくなるか、逆に揺れるかと思っていたのに。
「ええ」
セヴランは頷く。
「最初の話がアデルリーヌ嬢から始まったことは事実です。ですが、それは家同士の打診として自然な流れだったというだけで、私は何も、あなたを軽んじていたわけではありません」
「……」
「むしろ、あなたにはあなたの良さがあると、前から思っておりました」
その言葉に、イゼルダは初めて、はっきりと胸の内で線が繋がるのを感じた。
来る。
この男はこれから、自分が何を「良さ」と見ていたのかを語る。
そしてその中には、きっと一つも、自分自身を人として見た言葉などない。
案の定、セヴランは続けた。
「あなたは控えめで、場を乱さない。感情的にならず、家のために動ける方だ。実際、これまでずっと、モンティエール家の内でも外でも、よく立ち回ってこられたのでしょう」
「……」
「そういう穏やかさは、妻として非常に得難い美点です。華やかさばかりが女の価値ではありません」
穏やかさ。
場を乱さない。
家のために動ける。
妻として得難い美点。
言葉が並ぶたび、イゼルダの中ではっきりしていく。
この男が見ているのは、やはり便利さだ。
欲しかった華やかな女は手に入らない。なら、その輪郭に少し似ていて、なおかつ従順で、場を保ち、自分の家にも恥をかかせない女で代えればよい。そういう計算が、あまりにも綺麗な言葉の下に透けて見える。
「あなたが誤解しているようなら、ここで訂正したい」
セヴランはさらに声を柔らかくした。
「私は決して、あなたを誰かの代わりとして迎えるつもりではありません」
「……では、何として迎えるおつもりでしたか」
イゼルダは静かに問うた。
問い返されるとは思っていなかったのか、セヴランの目が一瞬だけ止まる。だがすぐに形のよい微笑みを作り直した。
「将来の侯爵夫人として」
「それは立場です」
イゼルダは言った。
「わたくし自身を、何として見ておられたのかをお聞きしております」
部屋の空気が、そこで確かに変わった。セルマは何も言わないが、視線だけが鋭くなる。オドランもまた動かない。ただ、その静けさがむしろ場のすべてを見ていることを知らせていた。
セヴランはわずかに息をつき、話し方を変えた。甘さを少し減らし、理性的な男を演じる声音へ。
「あなたは聡明で、忍耐強い。家庭を支えるには十分な資質をお持ちだ」
「……」
「私も若かった。アデルリーヌ嬢のような繊細さに心惹かれていた時期があったのは認めます。だが結婚というのは、それだけでは成り立たない」
「ええ」
「最終的に必要なのは、家を守り、夫を支え、余計な波を立てない安定だ。あなたにはそれがある」
イゼルダは、そこでようやく確信した。
この男は、何一つ分かっていないのだと。
分かろうとしたことすらないのだと。
アデルリーヌへ向けていた欲望を「若さ」と呼び、自分へ向ける打算を「現実」と呼ぶ。そのどちらにも、自分たち姉妹の意志はない。ただ彼にとって、手に入れたいものと、家に据えるのに都合のよいものが、偶然同じ家にいたというだけだ。
彼が求めているのは自分ではない。
姉に届かなかった欲望の、形だけ整えた代替だ。
「……そうですか」
イゼルダは言った。もう、自分の声が震えていないことが分かる。
「ようやく、よく分かりました」
「でしたら」
「いいえ」
その「いいえ」は、驚くほどすっと出た。
セヴランの口元がわずかに止まる。
「わたくしは今、誤解しておりません」
「イゼルダ嬢」
「誤解があったのだとしたら、それはむしろわたくしの側でしょう」
イゼルダはまっすぐ彼を見た。
「あなたが少しは、わたくし自身を見ておられるのかもしれないと」
「見ている」
「いいえ」
そこで初めて、イゼルダの声に微かな硬さが入った。
「あなたが見ておられるのは、欲しかったものの代わりに、手元へ置いておくのにちょうどよい女です」
「それは言い過ぎだ」
「そうでしょうか」
セヴランの表情が、初めて目に見えて崩れた。やわらかな微笑みの輪郭が少しだけ鋭くなり、目の奥に苛立ちが浮く。けれどそれでも声量を変えないあたりが、この男のずるさだった。
「私は現実的な話をしているだけだ。結婚には家同士の釣り合いも、夫婦としての相性もある」
「相性」
イゼルダは繰り返した。
「わたくしが場を乱さず、従順で、家のために動けることが、ですか」
「従順という言い方はしていない」
「ですが意味は同じでしょう」
セヴランはそこで初めて、少しだけ身を乗り出した。
「あなたは感情的になっている」
「そうではありません」
イゼルダは静かに言う。
「ようやく冷静になれただけです」
「……」
「あなたは、アデルリーヌお姉様を望んでおられた。それが叶わないと分かったあとで、似た輪郭を持ち、しかも自分の都合に合わせて動く妹なら、家としても収まりがよいと思われた。それだけです」
部屋の中の空気が薄く張り詰めた。
セヴランは微笑みを消しきれずにいる。消したら負けだと思っているのだろう。だがその笑みはもはや薄い膜に過ぎず、その下には明確な不快と怒りが透けていた。
「あなたは、私をひどく悪く解釈している」
「解釈ではありません」
イゼルダは答える。
「あなたの言葉が、そう言っています」
「私は君に不自由をさせるつもりはない」
「不自由かどうかの問題ではございません」
言ってから、自分でも驚くほど胸の内が澄んでいた。もう怖くないわけではない。だが怖さよりも、目の前の男がどれほど整った言葉を並べても、その中心にあるものが見えてしまったことのほうが大きかった。
「わたくしは、お姉様ではありません」
「……」
「そして、お姉様に届かなかったものの代わりにもなるつもりはありません」
その言葉が落ちた瞬間、セヴランの目の奥がはっきりと曇った。
ああ、とイゼルダは思う。図星なのだ。彼は今まで、自分の欲望をそんなふうに言葉にされたことがなかったのだろう。上手に飾り、理屈で塗り、家の都合と現実論で包んでしまえば、誰もその中心を名指しにできないと思っていたのだ。
「……誰にそう吹き込まれた」
低くなった声が、初めて本音に近づく。
「王宮は君に何を」
「誰にも吹き込まれておりません」
イゼルダは言い切った。
「わたくしが、自分で見たことです」
「自分で」
「ええ。あなたの目も、言葉も、昔から」
そこまで口にした時だった。
「もう十分でしょう」
静かな声が、会話の真ん中へ割って入った。
オドランだった。
彼は最初からそこにいた。椅子に深く腰を下ろし、必要以上に介入せず、だがすべてを聞いていた。そして今、その一言だけで場の主導権を一瞬で奪い返す。
セヴランがはっとしたように顔を向ける。
「殿下、私はただ」
「私的な誤解を解くつもりが、彼女へ自説を押しつける場になっているようですが」
「押しつけではなく、説明です」
「彼女は十分に理解している」
オドランの声は低く、驚くほど穏やかだった。だがその穏やかさの中に、これ以上一歩も踏み込ませないという硬さがある。
セヴランはわずかに眉をひそめた。
「殿下は、彼女を誤った方向へ」
「ロシュフォール」
名で呼ぶでもなく、爵位でもなく、家名だけを落とす。その呼び方だけで、温度が一段下がる。
「ここは王宮です。あなたの未練を整理する場ではない」
未練。
その一語に、セヴランの顔が明確に変わった。整えていた仮面が、ごく薄くひび割れる。怒りか、羞恥か、それとも図星を刺された苛立ちか。たぶんその全部だろう。
オドランはそれ以上彼へ時間を与えなかった。
「本日の要件は終わっています。セルマ、ロシュフォール令息を」
「承知しました」
セルマがすぐに一歩前へ出る。完璧な角度の一礼。礼儀を尽くしているのに、その実、退室以外の選択肢を与えない所作だ。
セヴランはなおも何か言いたげだった。イゼルダのほうへ視線を向ける。そこには、さっきまでの滑らかな優雅さはほとんど残っていない。代わりにあるのは、手に入ると思っていたものがするりと指のあいだを抜けた時の、不機嫌な欲望の色だった。
その色を見ても、イゼルダはもう怯まなかった。
彼が欲しかったのは、自分ではない。
そのことが、これ以上なくはっきり分かったからだ。
セヴランは結局、何も言えないままセルマに伴われて部屋を出ていった。扉が閉まる。空気が少しだけ戻る。ずっと部屋の隅に張っていた妙な圧が、ようやくほどけた。
イゼルダは気づかないうちに、ずっと手のひらを強く握っていたらしい。爪が食い込んだあとが残っている。けれど、不思議と震えてはいなかった。
「イゼルダ」
オドランが呼ぶ。
「はい」
「こちらへ」
その声に逆らう理由はなかった。イゼルダは一歩、二歩と歩み寄る。気を張っていたぶん、足の感覚が少し遅れて戻ってくる。オドランは立ち上がり、扉のほうを見ずに言った。
「セルマが戻るまで、隣へ」
「……はい」
それは「この部屋から出ましょう」という意味だった。会話を終えたばかりの空気の中へ立ち尽くさせないために、さっさと場所を変える。彼らしいやり方だとイゼルダは思う。慰める前に、まず息のしやすい場所へ連れ出す。
隣の小さな控え室へ入ると、そこには窓際に一脚だけ椅子が置かれ、小卓の上に水差しがあった。おそらく女官たちが控えるための部屋なのだろう。簡素だが静かで、いまのイゼルダには十分だった。
「座ってください」
オドランは言う。今回は命令口調でも、気遣いを隠した言い方でもない。ただ必要なこととして。
イゼルダは椅子へ腰を下ろした。そこで初めて、自分が思っていた以上に消耗していたことに気づく。背中の力が抜ける。肺の奥まで、ようやくまともに息が入る。
オドランは水差しから杯へ水を注ぎ、卓へ置いた。
「……ありがとうございます」
受け取って口をつけると、冷たすぎない水が喉を通る。その感覚だけで、ようやく生きている心地がした。少し前まで、言葉の刃の応酬の中で呼吸していたのだと思うと、自分でも可笑しいくらいだ。
「すみません」
ふと、そんな言葉が出た。
「王宮で、ああいう」
「謝る必要はありません」
オドランは即座に言った。
「あなたは何も悪くない」
「ですが」
「彼が持ち込んだ」
短い断定。揺るがない。
イゼルダは杯を持ったまま目を伏せた。その言葉がありがたかった。ありがたすぎて、少し危ういと思うほどに。
「……ようやく、分かりました」
ぽつりとこぼす。
「何が」
「わたくしが、あの人に対してずっと感じていた気持ち悪さの正体が」
オドランは急かさない。視線だけで先を促す。
「最初は、お姉様に向ける目が嫌なのだと思っていました。あまりに熱っぽくて、持ち方が乱暴で」
「ええ」
「でも、今日あらためて聞いて、分かったんです。あの人は、最初から誰も見ていなかったのだと」
イゼルダはゆっくりと言葉を選んだ。
「お姉様も、わたくしも、ただ自分の手元へ置いた時に都合のいい形でしか見ていなかった」
「……」
「お姉様には届かなかった。だから、輪郭が少し似ていて、しかも自分に従うほうを選ぶ。それだけだったのだと」
言葉にすると、胸の奥に残っていた最後の曖昧さまでほどけていく。
代用品に未練を持つ男。
それがセヴランだった。
欲しかった女そのものではなく、その周囲にこぼれた輪郭と便利さに未練を持つ男。だから、あれほど綺麗な言葉を並べても中心が空っぽなのだ。
「……はい」
オドランの返答は短い。だがその短さが、かえって彼も同じものを見ていたのだと分からせる。
「あなたがそれを自分で見切れたのなら、それで十分です」
「十分」
「ええ。今後、彼が何を言っても、その本質を見失わずに済む」
それは慰めではなく、事実だった。だからこそ、イゼルダは少しだけ肩の力を抜けた。
「殿下は、最初からそうご覧になっていたのですね」
訊くと、オドランはほんのわずかに目を細めた。
「ある程度は」
「だから、すぐに」
「ええ」
会話へ割って入った理由を、彼は説明しない。だが、その説明のなさがかえってよかった。余計な英雄ぶりを見せない。ただ、必要な時に止めた。それだけだ。
「ありがとうございました」
今度の礼は、先ほどより素直に出た。オドランは頷くだけだった。
「今日はもう、あなたは控えに戻らなくていい」
「ですが仕事が」
「セルマとミレーユで足ります」
「……」
「戻っても、いまは集中しづらいでしょう」
あまりにも正確な指摘だった。イゼルダは苦笑に近い息をこぼす。
「はい」
「部屋へ戻って休みなさい」
「……そういたします」
椅子から立ち上がると、足元はもうさっきほど頼りなくなかった。痛みが消えたわけではない。けれど、痛みの正体がはっきりしたぶん、前よりずっとましだった。
扉の前で一礼しようとした時、オドランが不意に言った。
「イゼルダ」
「はい」
「あなたは代わりではありません」
その一言が、静かな部屋へ深く落ちた。
先ほど自分で口にしたはずの言葉なのに、彼の声で改めて言われると、まるで傷口へ清水を落とされるような感覚がある。冷たくて、少し痛くて、でも確かに澄む。
「……はい」
返した声は、ごく小さかった。
それでもオドランは十分だと分かったように、何も言い足さない。
イゼルダはそのまま部屋を出た。回廊の空気は静かだった。午後の光が、長い窓から床へ白く落ちている。さっきまであの部屋で息を詰めていたのが嘘みたいに、王宮の中は整っていて、冷たくて、いつも通りだった。
けれど、自分の中では一つ、はっきり終わったのだと分かる。
セヴランが何を見ている男なのか。
自分がその目にどう映っていたのか。
そして、もうその目に意味を決めさせなくていいのだということが。
部屋へ戻る道すがら、イゼルダは深く息を吸った。石の匂い。遠くで鳴る靴音。どこかの部屋で紙をめくる音。王宮のいつもの気配が、今日は少しだけ優しく感じる。
代用品に未練を持つ男の言葉では、もう揺れない。
そう思えたのは、たぶん初めてだった。
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