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第16話 この手は、もう差し出さない
その知らせは、昼の光がいちばん白くなる頃に届いた。
王宮の回廊には、午前の面会がひと通り終わったあとの、わずかに緩んだ静けさがあった。窓の外では春の風が庭木の若葉を揺らし、白い石床には細かな影が揺れている。控えの間の中では、ミレーユが午前中に届いた文書の控えをまとめ、リネットが茶器を下げ、セルマは午後の来客名簿へ最後の追記をしていた。
イゼルダは机に向かい、南棟から回ってきた報告書の数字の揺れを整えていた。紙の上に並ぶ数字の列は、それだけ見ていれば感情を持たない。だからありがたかった。数字は父の怒りも、母の嘘も、姉の涙も知らない。ただ合っているか、ずれているか、それだけでいい。そういう無機質な整いを見ている時だけ、心が少し静かになる。
その時、控えの間の扉が、いつもより強めに叩かれた。
ノック自体は礼儀の内に収まっていた。だが、その速度と間の詰め方に、急ぎ以上の圧があった。リネットが小さく肩を揺らし、セルマは顔を上げる。ミレーユは手を止めたが、目だけを扉へ向ける。
「何ですか」
セルマが声をかけると、扉の向こうから従者の低い声が返った。
「至急。モンティエール伯爵閣下が、王弟殿下へお取次ぎをと」
イゼルダの指先から、ペン先の感触が一瞬消えた。
モンティエール伯爵閣下。
つまり、父だ。
胸の奥で何かが重く落ちる。落ちたその重さが、じわじわと身体の中へ広がっていく。来るかもしれないとは思っていた。母の手紙が一度きりで終わるはずがないことも、静養中という嘘がいつまでも通るとは家が考えていないことも、頭では分かっていた。だが、実際に王宮へ父が来たと聞くと、それは予想とは別の形で現実になる。
父が、自分を取り戻しに来た。
その事実だけで、指先が冷えた。
「お一人ですか」
セルマが問う。
「従者を二名お連れです。ですが、お取次ぎの願いはご本人から」
セルマはわずかに黙った。それからイゼルダのほうを見た。何も言わない。だが、その目の中に「大丈夫ですか」と「いま決めるのはあなたではない」の両方が含まれているのが分かる。
イゼルダは返事をしなかった。できなかったのではない。ただ、この瞬間に何か言えば、声がひどく硬くなってしまいそうだったからだ。
セルマはすぐに立ち上がり、隣の執務室へ向かった。扉がノックされ、低い会話が二言三言。そう長くはかからない。オドランは判断が速い。
戻ってきたセルマは、従者へ短く指示を伝えた。
「応接室第二へお通しして。殿下が向かわれます」
扉の向こうで返事があり、足音が遠ざかる。
室内に再び静けさが落ちた。だが、それはさっきまでの白い静けさではない。何か大きなものがすぐ近くへ来ている時の、薄く張った静けさだった。
セルマはイゼルダの机のそばまで来る。
「イゼルダ様」
「……はい」
自分でも驚くほど、声が細い。
「無理にお出になる必要はありません」
その一言に、イゼルダはまっすぐ顔を上げた。
無理に出る必要はない。
たしかにそうだ。王宮にいる以上、父が「返してほしい」と言ったからといって、娘がすぐ出ていかなければならないわけではない。オドランが会い、必要があれば追い返すこともできるだろう。実際、彼ならそうする力がある。
けれど、胸の奥で別のものが立ち上がっていた。
また隠れるのか。
また誰かに前へ立ってもらい、自分は奥で息を潜めるのか。
それで、この先ずっと、父が差し出してくる「戻れ」の手から、本当に自由でいられるのか。
怖い。もちろん怖い。父の声も、目も、よく知っている。怒りを抑えた時ほど、その言葉がどれほど人を押し潰すかも知っている。けれど、知らないから怖いのではない。知っているからこそ、いつかもう一度、その前に立たなければならないことも分かっていた。
「……いいえ」
イゼルダはゆっくりと言った。
「出ます」
「イゼルダ様」
「いま出なければ、たぶん、ずっと」
言い切る前に喉が詰まりそうになる。けれど、飲み込まずに続けた。
「ずっと、父の声に追いつかれる気がします」
セルマはしばらく黙っていた。それから、ほんの少しだけ頷く。
「殿下へお伝えします」
「ありがとうございます」
セルマが再び執務室へ入っていく。リネットは青ざめた顔で立ったままだったが、何も言わなかった。ミレーユはそっとインク壺の蓋を閉める。そういう小さな音ばかりが、やけに大きく聞こえる。
イゼルダは立ち上がった。
足元は思ったほど震えていなかった。いや、震えているのだろう。けれどその震えが、逃げたいからなのか、やっと向き合う時が来たからなのか、自分でもよく分からなかった。机の端へ手をつくと、木の硬さが掌へ返る。その感触が、辛うじて自分を現実へ繋いでくれる。
数息のあと、執務室の扉が開いた。オドランが出てくる。今日は外向きの応接に出る予定がなかったのか、いつもよりやや簡素な装いだ。それでも、立つだけで空気が変わるのは変わらない。彼はイゼルダを見るなり、すぐに状況を理解した目になった。
「行くのですね」
問いではなく確認だった。
「はい」
イゼルダは答える。
「お父様がいらしたなら、わたくしも」
「途中で嫌になったら、席を立っていい」
低い声がすぐに返る。
「最後まで立つ必要はありません」
「……はい」
「ただ」
オドランはそこで少しだけ間を置いた。
「今日は、あなたの意思をあなた自身の口で言う機会にしたほうがいい」
イゼルダは息を止めた。
それは、背中を押す言葉だった。庇うでもなく、無理強いでもなく、今日という場の意味をまっすぐ示す言葉。あなたが言う機会にしたほうがいい。つまり彼もまた、これがいつか必要な場面だと分かっているのだ。
「……はい」
今度は、少しだけ声に芯が入った。
応接室第二は、王弟が外からの客と対面するための部屋の中では比較的小さい。だからこそ、そこにいる人間の声や視線の圧が、逃げずに届く。大広間のような見栄えはないが、その分だけ嘘や飾りが壁に吸われず、その場に残る。
扉の前まで来ると、イゼルダは一度だけ立ち止まった。胸の鼓動が早い。呼吸も浅い。だが、それら全部がまだ身体の中に収まっているうちに、オドランが小さく言う。
「大丈夫です」
その「大丈夫」は、結果を約束する言い方ではなかった。父が怒らないとも、傷つかないとも言わない。ただ、ここで言葉を発するだけの力はあなたにある、とでもいうような、低く静かな響きだった。
イゼルダは頷き、扉が開くのを待った。
室内へ入った瞬間、父の姿が目に入る。
モンティエール伯爵は、昔から変わらず、ひどく整った男だった。年齢は重ねている。けれど背筋は曲がらず、衣服の乱れもない。深い褐色の上着に黒の手袋。顎の線は厳しく、目元にはいつも通り感情を削ぎ落とした硬さがある。怒っている時ほど声を荒げず、むしろ平坦になる人だ。そのことを、イゼルダはよく知っていた。
父は、オドランが入ってきた時にはすでに立っていた。王弟への礼は完璧だった。無礼はない。だが、その礼の奥に焦燥と怒りが詰まっていることくらい、娘には分かる。
「殿下」
父は低く言う。
「突然のお願いにもかかわらず、お時間を賜りまして感謝いたします」
「用件は聞いています」
オドランは応接椅子の一方へ腰を下ろした。だが、イゼルダには座れとは言わなかった。立つか、座るか、自分で選べということなのだろう。彼女はオドランの斜め後ろ、しかし隠れはしない位置へ立った。
その姿を見た瞬間、父の目がはっきりと変わった。
驚きではない。怒りでもない。その前に、まず「所有物が本来いるべきでない場所にある」と見た時の、あの冷たく硬い目だった。
「……イゼルダ」
父が娘の名を呼ぶ。
その二音だけで、幼い頃から身体に刻まれた緊張が一気に蘇る。
だが、イゼルダは目を逸らさなかった。
「お久しぶりです、お父様」
礼を尽くした声で返す。声量も、角度も、間も、すべて昔から身体に入っている形通り。けれど、中身はもう違うはずだと、自分に言い聞かせる。
父はイゼルダを数秒見たあと、すぐオドランへ向き直った。
「まず申し上げたい。娘がこちらにご迷惑をおかけしたこと、心よりお詫びいたします」
その言葉に、イゼルダは胸の奥がひどく冷えるのを感じた。
やはりそうだ。
無事だったか、ではない。
心配していた、でもない。
最初に来るのは、家の失態としての謝罪。
「その上で」
父は続ける。
「娘を返していただきたい」
娘を。
返していただきたい。
その口ぶりがあまりにも自然で、あまりにも迷いがなくて、イゼルダは一瞬だけ息を忘れた。愛情から戻れと言う声音ではない。落としたもの、持ち出されたもの、本来あるべき場所へ戻されるべきもの。そういうものに向ける、静かで強い要求の声。
自分は、この人にとって、やはり所有物なのだ。
頭では何度も理解していたことだった。母の手紙でも、縁談の話でも、それは十分すぎるほど示されていた。それでも、実際に父の口から「返していただきたい」と言われると、その事実は新しい刃として刺さる。
オドランは表情を変えなかった。
「理由は」
「未婚の娘が家を飛び出し、外部の庇護下に入るなど、本来あってよいことではありません」
父の声は平坦だ。だから余計に冷たい。
「家の内で話し合うべきことを、娘が感情に任せて持ち出した。それだけのことです。お恥ずかしい限りですが、教育の不行き届きは父親である私の責です。ですから、責任をもって連れ帰ります」
「連れ帰る」
「はい」
父は一切ためらわずに頷く。
「ロシュフォール侯爵家との話もございます。家格も釣り合い、先方も受け入れる意向を崩しておりません。ここで娘が王宮にいるなどという状態を長引かせれば、双方にとって傷になります」
「双方」
オドランが小さく繰り返す。その低い声に、父の目がわずかに細まる。
「モンティエール家とロシュフォール家、双方です」
「イゼルダ本人は、そこに含まれないのですか」
「娘は我が家の一員です」
父の返答はあまりにも早かった。
「娘個人の感情より、家としての責務を優先するのは当然でしょう」
「当然」
オドランの声は動かない。だがその静かさの奥に、あの冷たい怒りの片鱗がわずかに覗く。イゼルダはそれを感じながら、同時に、いまは自分が口を開かなければならないのだとも分かっていた。
このままでは、また父が自分の輪郭ごと「家」に回収してしまう。
「お父様」
イゼルダの声は、思ったよりもちゃんと出た。
父の視線が再びこちらへ向く。その目には、さっきよりはっきりした苛立ちがあった。娘は黙っていればよい。そういう目だ。
「わたくしは、戻りません」
言い切った瞬間、室内の空気が確かに変わった。
父の顔は大きくは崩れない。だが、目元だけがぐっと硬くなる。怒鳴る人なら、まだ分かりやすいのに。この人はいつだって、怒りを狭く深く沈める。
「それは、お前が決めることではない」
低い声が落ちる。
「決めます」
イゼルダは答えた。喉が痛い。けれど、止まらなかった。
「もう決めたのです」
「家を捨てるつもりか」
「家を捨てるのではありません」
「ならば何だ」
「わたくしの人生を、わたくし抜きで決められることを拒んでいるだけです」
父の眉間に深い皺が寄る。
「王宮に置いてもらっているだけで、大層なことを言うようになった」
「置いていただいているのではなく、働いております」
「同じことだ」
「違います」
言い返した瞬間、自分でも驚いた。けれど、それ以上に、もう驚いている場合ではなかった。
「わたくしはここで、補佐役として働いております。殿下のご厚意に甘えて隠れているのではありません」
「言葉を飾るな」
「飾ってはおりません」
父の口元がわずかに歪む。あれは、真正面から言い返されることへの怒りだ。娘が、次女が、しかも人前で。
「お前が何を思い込んでいるのか知らんが」
父の声はさらに低くなる。
「モンティエール家の娘である限り、お前の立場は家が決める。勝手な理屈で外へ出て、それが通ると思うな」
「勝手ではございません」
「勝手だ」
「わたくしは」
イゼルダは一度だけ息を吸った。
「必要な時だけ差し出される手は、もう取りません」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが切り替わった。
必要な時だけ差し出される手。
姉の代わりがいる時だけ向けられる視線。
家の体面が危うい時だけ求められる従順。
縁談の駒が欲しい時だけ「娘」と数えられる立場。
全部、それだった。
だからもう取らない。
もう、その手に自分の人生を乗せない。
父の顔が、そこで初めてはっきり変わった。
怒りが表へ出たのだ。大きく声を荒げるわけではない。けれど、目の奥がひどく冷え、口元から余計な理性が削がれる。怒鳴らない人が本気で怒った時の、あの恐ろしい顔。
「何を言っている」
低すぎる声だった。
「お前は、誰の金で育った」
「……」
「誰の名で社交界へ出た」
「……」
「誰が、お前にいまの立場を与えた」
一つずつ落ちる言葉が、昔ならそれだけでイゼルダの背中を丸めさせたはずだった。恩知らず。感謝が足りない。家がなければ何者でもない。父のそうした論理は、何度も何度も彼女の口を塞いできた。
けれど今は、痛みながらも分かる。
これは、愛情の言葉ではない。
所有の確認だ。
育てた。与えた。だから返せ。従え。
そう言っているだけだ。
「お前のような娘が」
父の目が細くなる。
「自分ひとりの意志で立っているつもりになるな」
その一言は、鋭く、そして残酷だった。だがイゼルダは、そこで初めて不思議なほど静かになった。
ああ、この人は最後までそうなのだ、と分かったからだ。
自分が働いていることも。
自分の意志でここへ立っていることも。
これから何かを選ぼうとしていることも。
何一つ、見ようとはしない。
だからこそ、ここで引いてはいけないのだと、逆にはっきりした。
「では」
イゼルダはまっすぐ父を見た。
「お父様にとって、わたくしは何なのですか」
父の表情が一瞬だけ止まる。
「モンティエール家の娘だ」
「それは立場です」
「……」
「お父様は、わたくしを一人の人間として見たことがございますか」
応接室の空気が静まり返る。
父は答えない。答えないのではない。そんな問いを、これまで一度も受け取ったことがない顔だった。娘がそんなことを問うなど、想定していない顔。
「お姉様が無理な時だけ、わたくしへ手を伸ばし」
イゼルダは続ける。
「家の都合が悪くなると、娘だと仰って」
「イゼルダ」
父の声が鋭くなる。
「黙りなさい」
「もう黙りません」
「お前」
「わたくしは、もう」
喉が震える。けれど、それでも言い切る。
「都合のよい時だけ差し出される手を、家族のものだと信じて取るほど、幼くはありません」
父が一歩、踏み出した。
それだけで空気が揺れる。昔なら反射的に後ずさっていた。けれど今日、イゼルダは動かなかった。膝の奥はたしかに震えている。心臓も痛いほど速い。けれど、足だけは床へついたままだった。
「殿下」
父が初めて、オドランへ向き直る。声音には怒りがはっきり滲んでいた。
「ご覧の通り、娘はたいへん混乱しております。ここに置いていただけばいただくほど、余計な考えを吹き込まれる」
「吹き込んではいません」
オドランが言う。
「本人が考えたことです」
「娘がこんな口を利くわけがない」
「そう思っていたのは、あなた方だけでしょう」
静かな声だった。だが、その静かさの下には、底の深い冷気がある。父はそれに気づいたのか、一瞬だけ言葉を失った。王弟としての権威だけではない。自分の目の前で、娘の意志を頭から否定したことへの、明確な怒りがそこにあった。
「彼女は戻らないと言っている」
オドランは続ける。
「それが答えです」
「未婚の娘が、勝手に」
「未婚だから何だ」
その一言は短かった。だが父を黙らせるには十分だった。
「あなたがここへ来て最初に求めたのは、娘の無事の確認ではなく、所有物の返還だ」
「……!」
「それで愛情を語るつもりなら、ずいぶん都合がいい」
父の顔が、ついにあからさまに歪んだ。怒りだ。王弟相手でなければ、とっくに怒鳴っていただろう。だが怒鳴れない。その窮屈さが、かえって室内の空気をさらに冷たくする。
「……よろしい」
父は低く吐き捨てた。
「ここで言葉を重ねても無駄なようだ。だが、イゼルダ」
再び娘の名を呼ぶ声には、先ほどまでとは違う硬い決意があった。
「お前が何を勘違いしていようと、モンティエール家との縁が切れることはない。いずれ後悔する時が来る」
「そうかもしれません」
イゼルダは答えた。
「ですが、それでも戻りません」
父の目が凍る。
「そうか」
その二文字に、どれほどの怒りが詰まっているのか、イゼルダには十分すぎるほど分かった。けれど、もうそれに折れたくなかった。怖い。いまでも怖い。父の怒りを浴びて平気になったわけではない。ただ、その怖さよりも、自分で口にした「戻りません」のほうが大きくなっていた。
父はオドランへ向けて礼を取った。形だけは完璧だった。だが、その礼は感謝ではなく、怒りを辛うじて押し込めた皮一枚だ。
「お時間をいただき、感謝いたします」
そう言いながらも、目は一切笑っていない。
オドランは頷くだけだった。
「セルマ」
扉の外で控えていた女官長が、すぐに入ってくる。
「お見送りを」
「かしこまりました」
父は最後にもう一度だけイゼルダを見た。その視線には怒りも軽蔑もあった。だが、それ以上に「まだ自分の手から完全には離れていない」と信じている目があった。だからこそ、その目を見ても、イゼルダの胸は逆に静かだった。
もう、その手は取らない。
父が去り、扉が閉まる。
その瞬間、イゼルダは全身から力が抜けそうになるのを感じた。けれど膝を折る寸前で、ぐっと堪える。いま崩れたら、さっきまで立っていた自分が遠のいてしまいそうだった。
「……座って」
オドランの声が低く落ちる。
今度は逆らわなかった。近くの椅子へ腰を下ろした瞬間、足の裏から背中まで、遅れて震えが走る。手が冷たい。唇の内側も乾いている。けれど、不思議と涙は出なかった。
「水を」
オドランが差し出した杯を受け取る。指先がわずかに触れそうになり、すぐに離れる。その距離の取り方が、いまはありがたかった。触れられたら、たぶん張っていたものが切れていただろうから。
一口飲む。水が喉を通る。その時になって初めて、自分がどれほど呼吸を詰めていたのか分かった。
「……お見苦しいところを」
そう言うと、オドランはすぐに首を横に振った。
「見苦しくはない」
「ですが」
「よく言った」
短い一言。
それだけで、また胸の奥が熱くなる。
「震えておりました」
「ええ」
「怖かったです」
「分かっています」
分かっています。
その返事に、ようやく、ようやく少しだけ肩の力が抜けた。強くあれと言われない。怖がるなとも言われない。震えていたことも、怖かったことも、見られていて、それでも「よく言った」と言われる。そのことが、たまらなく救いだった。
「……でも」
イゼルダは杯を持ったまま、少しだけ笑った。笑うというより、口元がやわらいだだけに近い。
「ちゃんと言えました」
「ええ」
「もう、差し出される手は取りませんと」
「ええ」
オドランの目元がほんの少しだけ和らぐ。その変化は小さいのに、はっきりと分かる。
「それで十分です」
応接室の外では、また王宮のいつもの気配が戻り始めていた。遠くの足音。女官の低い声。どこかで閉まる扉の音。さっきまでの対峙が、この巨大な建物の中ではただの一室の出来事に過ぎないように思える。けれど、イゼルダにとっては違った。
今日、自分は父の前に立ち、戻らないと宣言した。
必要な時だけ差し出される手は、もう取らないと言った。
その言葉はもう、誰にもなかったことにはできない。
胸の奥で、まだ震えは残っている。だがその震えの下には、確かなものもあった。
ようやく自分の手で、自分の人生の端を掴んだのだという感覚が。
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