捨てられた花嫁は没落公爵と未来を簿に刻む

なつめ

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第42話 ルヴァン伯爵家、崩れる


 ルヴァン伯爵家の朝は、以前より静かになっていた。

 それは上品な静けさではない。

 整えられた屋敷が持つ、余裕ある沈黙でもない。

 人の気配が薄くなった家にだけ漂う、空気の抜けたような静けさだった。

 玄関ホールの大理石はまだ磨かれている。壁には先祖の肖像画がかかり、階段の手すりにも金の飾りが残っている。けれど、花瓶には花がない。燭台の銀はくすみ、客間の暖炉には火が入っていない。廊下を歩く使用人の足音も、以前よりずっと少なかった。

 辞めた者がいる。

 給金が遅れ、黙って去った者もいる。

 まだ残っている者たちは、目立たぬように働いていた。余計なことを聞かず、余計なものを見ず、いつ自分の給金が支払われるのかだけを胸の奥で数えながら。

 朝食室には、オデット・ルヴァンが座っていた。

 白い食卓布は敷かれている。銀食器も並べられている。だが、パンは以前より小さく、果物皿には林檎が二つだけ。紅茶の香りも薄い。贅沢に慣れた舌なら、茶葉の質が落ちていることにすぐ気づいただろう。

 オデットは、その薄い紅茶をひと口飲み、すぐにカップを置いた。

「ひどい味ね」

 給仕の少女が肩を震わせる。

「申し訳ございません」

「謝れば茶葉が戻るの?」

 冷たい声。

 だが、以前のように人を支配する強さはない。

 声の底に苛立ちと焦りが混じっている。

 少女は深く頭を下げ、何も言わずに下がった。

 オデットは、首元へ手をやった。

 そこにあるはずの重い宝石の感触がない。

 今日は、真珠の耳飾りも、サファイアのブローチも身につけていなかった。身につけられなかったのだ。宝石商からの支払い催促が届いている。いくつかはまだ伯爵家の品として保持しているが、担保扱いになりかけているものもある。

 差し押さえ。

 その言葉を考えるだけで、オデットの胸には冷たい怒りが湧く。

 ルヴァン伯爵夫人の宝石が、債権者の手に渡るなどあり得ない。

 あり得ないはずだった。

 それなのに、今は請求書が食卓の横に積まれている。

 宝石商。

 仕立屋。

 馬車職人。

 貸家管理人。

 茶葉商。

 花屋。

 それらの請求書は、以前ならミレーヌが黙って整理していた。どこへ支払うべきか、どの支払いを先延ばしできるか、どこに交渉すべきか、どの出費が無駄か。彼女は陰気に帳簿を見つめ、誰にも褒められず、けれど家の支払いを滞らせないようにしていた。

 オデットは、当時それを当然だと思っていた。

 嫁なのだから。

 持参金を持ってきたのだから。

 伯爵家へ入った女なのだから。

 家のために金を動かすのは、当然だと。

 だが、ミレーヌがいなくなって初めて分かった。

 伯爵家は、彼女の金だけでなく、彼女の目に寄りかかっていたのだ。

 廊下から荒い足音が近づいてくる。

 ギスランだった。

 彼は朝食室へ入るなり、椅子を乱暴に引いた。

 顔色が悪い。

 目の下には影があり、髪は整えているが、以前のような優雅さはない。上着は上等だが、袖口の糸が少し緩んでいる。小さなほころび。けれど、そういう小さなほころびこそ、家の傾きをよく示す。

「また催促が来た」

 ギスランは紙束を食卓へ投げた。

 皿が小さく鳴る。

 オデットの眉が跳ねた。

「食卓に投げないでちょうだい」

「そんなことを言っている場合ですか」

「伯爵家の品位を失うほうが先に家を潰すわ」

「品位で請求書が払えますか」

 二人の間に、鋭い沈黙が落ちた。

 以前なら、オデットが一言でギスランを黙らせただろう。

 だが、今はギスランにも余裕がない。

 彼は椅子へ座り、請求書を一枚掴んだ。

「馬車職人が、支払いがなければ次の修理は断ると」

「馬車を修理しないなど、どうやって外へ出るの」

「その馬車代を誰が払うのです」

「あなたが何とかしなさい」

「何とかするために、ミレーヌを戻そうとしている」

 その名前が出た瞬間、部屋の空気がさらに濁った。

 オデットは唇を引き結ぶ。

「戻っていないじゃない」

「だから手を打つんです」

「手紙は?」

「返事は弁護士からだけです」

 ギスランは苦々しく吐き捨てた。

「すべてレヴィ弁護士経由。直接の返事はなし。面会にも応じない」

「あなたが舞踏会で余計なことを言うからでしょう」

 オデットの声が鋭くなる。

「持参金のことなど、あの場で言う必要がありましたか。おかげで、ロザリーへの送金だの、真珠だの、茶会費だの、いらぬ噂が広まったではありませんか」

「いらぬ噂ではない。あれはミレーヌが」

「あなたが火をつけたのよ」

 オデットは苛立ちを隠さなかった。

「人前で言えば、女は怯えると思ったのでしょう。けれど、あの女は弁護士を呼んだ。封筒を渡した。あなたはそこで、信用を落とした」

 ギスランの顔が赤くなる。

「母上まで私を責めるのですか」

「責められることをしたからです」

 オデットの手が、首元へまた伸びる。

 そこに宝石はない。

 それが彼女の苛立ちをさらに深くした。

「ロザリーは?」

 ギスランは返事をしなかった。

 オデットの目が細くなる。

「まさか、まだ連絡が取れないの?」

「……貸家を引き払った」

「何ですって」

「昨日、管理人から連絡が来た。荷物をまとめて出ていったそうです」

 オデットは絶句した。

 ギスランは、さらに紙を一枚出す。

「手紙が残っていた」

 彼はそれを母へ渡した。

 ロザリーの字は、美しく、しかし急いでいた。

 ギスラン様。

 もう私に手紙を送らないでください。

 貸家は出ます。

 あなたが私にくれた言葉のうち、書面に残ったものはすべて弁護士へ預けました。

 真珠の首飾りについても、必要があれば証言します。

 私は贅沢を楽しみました。

 そのことまでなかったとは言いません。

 けれど、あなたの家の金繰りのために、私の宝石まで差し出すつもりはありません。

 私はあなたの妻ではありません。

 もちろん、金庫でもありません。

 さようなら。

 ロザリー。

 オデットは読み終えると、手紙を握り潰しそうになった。

「何て女」

「裏切ったんです」

 ギスランの声には、怒りと焦りが混ざっている。

「ミレーヌに続いて、ロザリーまで」

「裏切らせるようなことをしたのでしょう」

 オデットが冷たく言うと、ギスランは立ち上がりかけた。

「母上」

「座りなさい。怒鳴れば金が出るの?」

 その一言で、ギスランは黙った。

 金。

 すべてはそこに戻る。

 ルヴァン伯爵家は、見栄と格式で覆われた家だった。

 だが、その下には穴があった。

 ミレーヌの持参金がその穴を一時的に塞ぎ、さらに彼女の母の遺産を狙うことで延命しようとしていた。だが、彼女が離縁を申し出て、証拠を集め、公爵家へ移り、弁護士を通して対抗し始めたことで、穴はむき出しになった。

 そこへ、ギスランの浪費。

 オデットの茶会費。

 愛人への支払い。

 未払いの請求書。

 社交界での信用失墜。

 商人たちは、空気を読むのが早い。

 ルヴァン家の支払いが滞ると聞けば、すぐに条件を変える。

 掛け払いは断られ、前払いを求められ、古い付き合いの店でさえ態度が硬くなった。

 信用は、金貨より早く失われる。

 ミレーヌがかつて思った通り、社交界の噂も金貨より速い。

 今、その両方がルヴァン家を追い詰めていた。

「最後の手段があります」

 ギスランは低く言った。

 オデットは顔を上げる。

「何をするつもり」

「ミレーヌの財産返還訴訟を起こします」

 オデットは一瞬、目を見開いた。

「財産返還?」

「彼女は持参金をルヴァン家へ入れた。婚姻中の財産は家の運営に使われるべきものです。離縁協議中に財産を持ったまま公爵家へ移ったことで、ルヴァン家は損害を受けた。そう主張する」

「通るの?」

「通すしかない」

 ギスランは吐き捨てた。

「訴訟を起こせば、少なくとも彼女に圧力をかけられる。公爵家も醜聞を嫌がるでしょう。和解金を出すかもしれない」

 オデットは少し黙った。

 計算している顔だった。

 訴訟そのものが勝てるかどうかより、相手に圧力をかけられるか。

 社交界に、ミレーヌの財産問題をさらに広められるか。

 公爵家が面倒を避けるため、金を出す可能性はあるか。

 そのような考えが、オデットの目の奥で動いている。

「でも、あの女には証拠があるのでしょう」

「証拠など」

 ギスランは言いかけて、止まった。

 ある。

 それは分かっていた。

 愛人への送金。

 真珠の首飾り。

 義母の浪費。

 婚姻契約違反。

 証書探索。

 舞踏会でレヴィ弁護士に渡された封筒。

 その中身はまだ正式には開示されていない。だが、十分な量があることは想像できた。

 それでも、ギスランは引けなかった。

 引けば、終わる。

 ミレーヌが戻らない。

 ロザリーも離れた。

 母の宝石も危うい。

 商人たちの信用も落ちた。

 このままでは、伯爵家の虚飾が保てない。

 ならば、最後にミレーヌへ手を伸ばすしかない。

 彼女が持っている金へ。

 彼女が公爵家で得た信用へ。

 彼女自身へ。

「訴訟を起こします」

 ギスランはもう一度言った。

「彼女に、ルヴァン家を捨てた代償を払わせる」

 その言葉に、オデットはすぐには答えなかった。

 やがて、静かに言った。

「弁護士を呼びなさい」

「はい」

「ただし」

 彼女の目が冷える。

「こちらの帳簿を見せるなら、不要なものは先に処分しておきなさい」

 ギスランは頷いた。

 だが、その時点で彼は分かっていなかった。

 不要なものを処分しようにも、ミレーヌはすでに写しを持っている。

 伯爵家の虚飾は、内側から剥がれ始めていた。

 同じ頃、ヴァルクレア公爵家では、穏やかな午前が進んでいた。

 帳簿室の窓からは、冬の光が薄く差している。暖炉には火が入り、机の上にはボーヴェ商会との契約書、個人資産管理および契約独立性確認書の草案、修道院への布見本送付記録が整えられていた。

 ミレーヌは、エルネストと向かい合い、確認書の文面を読み返していた。

 昨日の朝、二人で作った草案だ。

 レヴィ弁護士へ回す前に、最後に表現を整えている。

「この『エルネスト・ヴァルクレアは、ミレーヌ・オルヴェイユの個人資産に関与しない』という表現ですが」

 ミレーヌは指で条文を示した。

「広すぎるかもしれません」

「広いほうがいいのではないか」

「たとえば、私が資産管理について相談したい場合まで排除されるように読めます」

「なるほど」

 エルネストはすぐに頷いた。

「では」

「『本人の依頼なく、管理、使用、担保提供、投資判断その他これに類する行為へ関与しない』にしましょう。相談は別です」

「そうしよう」

 彼はペンを取り、修正を書き加えた。

 その手元を見ると、昨日の会話を思い出す。

 君のものは君のものだ。

 その言葉は、今もミレーヌの胸に残っている。

 そして、今こうして条文になりつつある。

 恋の翌朝に個人資産の確認書を作る二人。

 普通とは違うのかもしれない。

 だが、ミレーヌにはこれでよかった。

 むしろ、これがよかった。

 甘い言葉だけでは足りない彼女に、エルネストは形をくれる。

 その形は、鎖ではなく、境界線だった。

 守るための線。

 並んで立つための線。

 ミレーヌが条文に視線を落としていると、扉が叩かれた。

 入ってきたのはバスティアンだった。

 手には書簡の盆。

 顔が少し硬い。

「ミレーヌさん、エルネスト様。レヴィ弁護士から急ぎの書簡です」

 ミレーヌとエルネストは、同時に顔を上げた。

 バスティアンが盆を差し出す。

 封蝋はレヴィ弁護士事務所のものだった。

 エルネストが受け取り、ミレーヌへ視線を向ける。

「開けるか」

「はい。ここで」

 封を切る。

 中には、短い文面と、別紙が数枚入っていた。

 エルネストが読み上げる前に、ミレーヌは自分で文面を追った。

 ミレーヌ様、エルネスト閣下。

 ルヴァン伯爵家側にて、ミレーヌ様の持参金および個人財産について、返還請求または損害補填請求の訴訟を検討しているとの情報が入りました。

 正式な訴状は未提出ですが、相手方弁護士より非公式な照会あり。

 主張骨子は以下の通りです。

 一、ミレーヌ様の持参金は婚姻によりルヴァン伯爵家の運営に供されるべき財産であった。

 二、ミレーヌ様が離縁協議中に当該財産を保持し、ヴァルクレア公爵家へ移ったことで、ルヴァン伯爵家に損害が生じた。

 三、ミレーヌ様は伯爵家に対し、相当額の返還または補填を行うべきである。

 上記について、当方の見解は明確です。

 婚姻契約上、ミレーヌ様の母君からの遺産および特定管理財産は、ミレーヌ様個人の管理財産です。

 持参金についても、使途制限および記録義務があり、ルヴァン伯爵家側には複数の違反疑いがあります。

 すでにお預かりしている証拠により、反論は可能です。

 むしろ、相手方の請求は、伯爵家側の不正使用、契約違反、名誉毀損を明確化する契機となる可能性があります。

 至急、証拠原本および追加証言について確認したく、午後に伺います。

 レヴィ。

 ミレーヌは、最後まで読んだ。

 胸は、驚くほど静かだった。

 もちろん、嫌な感情はある。

 また財産。

 また返還。

 また自分のものを、相手が自分のものだと言い出す。

 だが、今朝まで確認していた内容が、偶然にもそのまま盾になっていた。

 君のものは君のものだ。

 エルネストの言葉が蘇る。

 ミレーヌは、ゆっくり書簡を机に置いた。

「来ましたね」

 声は落ち着いていた。

 バスティアンは心配そうに彼女を見た。

「大丈夫ですか」

「はい」

 今回は、その言葉は嘘ではなかった。

「嫌ではあります。ですが、予想できないことではありませんでした」

 エルネストの表情は、冷えていた。

「最後の手段に出たか」

「そうですね」

 ミレーヌは、別紙を確認する。

 相手方の主張骨子。

 持参金。

 損害。

 返還。

 補填。

 どれも、舞踏会でギスランがほのめかした言葉と同じ方向を向いている。

「伯爵家は、資金繰りが相当悪化しているのでしょう」

 ミレーヌは言った。

「おそらく、商人への支払い、ロザリー様への貸家関係、宝飾品、馬車維持費。複数の支払いが滞っています」

「ロザリーは離れたそうだ」

 エルネストが言った。

 ミレーヌは顔を上げる。

「情報が?」

「レヴィから昨日、別件で聞いた。貸家を引き払ったらしい」

「そうですか」

 ミレーヌは、少しだけ目を伏せた。

 ロザリー。

 かつて、自分の持参金で買われた真珠を身につけていた女。

 贅沢を楽しみ、ギスランに結婚を匂わされ、最後には金を求められた女。

 彼女が離れた。

 そのことに、勝利の喜びはなかった。

 むしろ、ひとつの仕組みが崩れたのだと感じる。

 妻から吸い上げ、愛人へ与え、次に愛人からも求める。

 その輪が、ひとつ切れた。

「ロザリー様の証言は、必要になるかもしれません」

「レヴィが確認しているはずだ」

「はい」

 ミレーヌは書類を揃えた。

「証拠を出しましょう」

 バスティアンがすぐに立ち上がった。

「小箱をお持ちしますか」

「はい。第一証拠箱と、ロザリー様関係の控え箱をお願いします。それから、婚姻契約書の写し、持参金管理条項、母の遺産証書の写しも」

「分かりました」

 バスティアンは慌てずに動いた。

 以前なら、こういう知らせが来れば帳簿室は混乱したかもしれない。

 しかし今は違う。

 証拠は分類されている。

 写しもある。

 原本の保管場所も決まっている。

 封筒ごとに番号が振られ、支出記録は日付順に並んでいる。

 ミレーヌが泣く代わりに書き続けてきたもの。

 夜、自室で小さな帳簿へ残してきたもの。

 それが、今、静かに立ち上がる。

 エルネストは、その様子を見ていた。

「君は、本当に準備していたんだな」

 ミレーヌは、小さく頷いた。

「泣く代わりに書いていましたから」

 その言葉に、エルネストの表情が少し痛む。

「今は」

「はい?」

「今は、泣いてもいい」

 ミレーヌは、少しだけ驚いた。

 エルネストは続けた。

「書くこともできる。泣くこともできる。どちらかだけでなくていい」

 その言葉が、胸にやわらかく触れた。

 ミレーヌは少し考えて、首を横に振った。

「今は、書きます」

「分かった」

「泣くなら、後で」

「その時は茶を用意させる」

「ヨランドさんが蜂蜜を増やしますね」

「間違いなく」

 ほんの少し、二人の間に笑いが生まれた。

 重い知らせの中でも、笑える。

 それが今のミレーヌには不思議だった。

 午後、レヴィ弁護士が到着した。

 彼はいつも通り黒い礼装に身を包み、表情を大きく崩さなかった。だが、書類鞄はいつもより厚く、目の奥には仕事の刃のような鋭さがあった。

 帳簿室には、ミレーヌ、エルネスト、レヴィ、バスティアンが揃った。ヨランドは隣室に控え、必要な茶と軽食、そして追加の紙を用意していた。

 机の上には証拠が並ぶ。

 婚姻契約書。

 持参金管理条項。

 母の遺産証書。

 ルヴァン家での支出一覧。

 義母オデットの茶会費、宝石、仕立て代。

 ギスランの馬車維持費。

 愛人ロザリーへの送金。

 真珠の首飾り領収書。

 貸家支払い記録。

 ギスランの手紙。

 ロザリーの証言。

 使用人証言。

 私室で証書を探られた日の記録。

 舞踏会でのギスラン発言記録。

 それらは、ただの紙束ではなかった。

 伯爵家の虚飾を、一枚ずつ剥がす刃だった。

 レヴィは、一つずつ確認していった。

「まず、相手方の第一主張。持参金は伯爵家運営に供されるべき財産であった」

 彼は婚姻契約書を開いた。

「反論。持参金の一部は婚姻生活維持に充てられるが、使用には記録義務および夫婦双方の確認が必要。特定管理財産および母君の遺産は、ミレーヌ様個人の管理財産。伯爵家側に包括的使用権はありません」

 ミレーヌは頷いた。

「はい」

「第二主張。ミレーヌ様が財産を保持したまま公爵家へ移ったことで、ルヴァン家に損害が生じた」

 レヴィの声が少し低くなる。

「反論。ルヴァン家の資金繰り悪化は、ミレーヌ様の財産保持ではなく、伯爵家側の浪費、愛人関係支出、支払管理不備、信用低下によるもの。むしろ、ミレーヌ様の財産から不適切に支出された疑いがあります」

 エルネストの目が冷える。

 バスティアンが黙々と清書する。

「第三主張。返還または補填」

 レヴィは、真珠の首飾り領収書を取り上げた。

「こちらは逆です。返還請求を受ける立場は、むしろルヴァン伯爵家でしょう」

 部屋の空気が、静かに引き締まった。

 レヴィは続ける。

「愛人への送金、宝飾品、茶会費、馬車維持費。これらの中には、ミレーヌ様の個人資産または管理対象資産から流出した疑いが強いものがあります。こちらは返還請求および損害補填の反訴を検討できます」

 反訴。

 ミレーヌは、その言葉を静かに受け止めた。

 ギスランが最後の手段として起こそうとした訴えは、逆に伯爵家の不正使用を明らかにする道になる。

 まるで、虚飾の布を引っ張ったつもりが、下地ごと剥がれるように。

 レヴィは書類を整えた。

「こちらから先に通知を出します」

「内容は」

 エルネストが尋ねる。

「相手方の不当請求に対する拒絶。婚姻契約上の財産区分確認。ルヴァン伯爵家側による不適切支出の疑い。正式訴訟を起こす場合、こちらは反訴および証拠開示請求を行う旨」

「証拠開示請求」

 ミレーヌが繰り返す。

「はい。相手方の帳簿、支払記録、宝飾品購入記録、貸家関連支払い、ロザリー様関係の支出。これらを開示させます」

 それは、伯爵家が最も嫌がることだろう。

 ルヴァン家が守ってきた見栄。

 上品な食卓。

 宝石。

 茶会。

 愛人の貸家。

 それらの裏にある支払いの流れが、表へ出る。

 伯爵家の虚飾が、一枚ずつ剥がれていく。

 ミレーヌは、指先を机の上でそっと重ねた。

 嬉しいわけではない。

 だが、怖くもない。

「お願いします」

 彼女は言った。

「ただし、必要以上に相手を侮辱する文面にはしないでください」

 レヴィが頷く。

「承知しております。事実と法的主張に限ります」

「はい」

「ミレーヌ様らしいですね」

 レヴィが静かに言った。

 ミレーヌは少しだけ目を伏せた。

「私は、相手を笑いたいわけではありません」

「分かっています」

「ただ、私のものを奪われたままにはしません」

 エルネストが、ミレーヌを見た。

 その視線は静かで、深い。

 レヴィは一礼した。

「そのための手続きを進めます」

 その日の夕方、レヴィ弁護士は証拠の写しを持って帰った。

 原本は、引き続きヴァルクレア公爵家の鍵付き保管箱へ戻された。バスティアンが一つずつ番号を確認し、ヨランドが立ち会った。

 ミレーヌは最後に、自分の小さな帳簿を手に取った。

 第一話の頃から使っている、細い帳簿。

 嫁いだ日から、彼女が泣く代わりに書き続けてきたもの。

 表紙は少し擦れ、端も柔らかくなっている。

 そこには、ルヴァン家での支出が記されていた。

 夫の新しい馬車代。

 義母の茶会費。

 妹への贈り物らしき不明金。

 真珠の首飾り。

 愛人宅への送金。

 証書探索の日付。

 離縁を申し出た日の記録。

 ひとつひとつが、当時の彼女には痛みだった。

 今も痛みであることに変わりはない。

 だが、それらはただの傷ではなくなった。

 証拠になった。

 力になった。

 ミレーヌは、帳簿を胸に抱えた。

 エルネストがそばに立っていた。

「それが、始まりの帳簿か」

「はい」

「重いな」

「はい」

 物理的には軽い。

 だが、彼の言う重さは別のものだ。

「でも、持てます」

 ミレーヌは言った。

「今は」

 エルネストは静かに頷いた。

「ああ」

 彼は手を伸ばしかけ、止めた。

 ミレーヌはそれを見て、小さく頷いた。

 触れてもいいという合図。

 エルネストは、彼女の背にそっと手を添えた。

 抱きしめるというほど強くはない。

 ただ、支えるように。

 ミレーヌは、その温度を受け取った。

 夜、彼女は個人の帳簿を開いた。

 今日の記録も長くなる。

 王暦三七二年、霜月六日。

 ルヴァン伯爵家、当方の持参金および個人財産について、返還請求または損害補填請求の訴訟を検討しているとの情報あり。

 相手方主張。

 一、持参金は伯爵家運営に供されるべき財産。

 二、当方が財産を保持したままヴァルクレア公爵家へ移ったことで、伯爵家に損害。

 三、返還または補填請求。

 当方側反論。

 婚姻契約上、母の遺産および特定管理財産は当方個人の管理財産。

 持参金使用には記録義務と制限あり。

 ルヴァン家側に、不適切支出、契約違反の疑い。

 愛人ロザリーへの送金、真珠の首飾り、義母オデット様の浪費、馬車維持費、貸家支払い等の証拠あり。

 レヴィ弁護士、相手方が訴訟へ進む場合、反訴および証拠開示請求を検討。

 ミレーヌは、そこでペンを止めた。

 ルヴァン伯爵家、崩れる。

 そう書くのは簡単だ。

 実際、崩れ始めている。

 けれど、それは一日で屋敷が瓦解するようなものではない。

 もっと静かで、もっと嫌な崩れ方だ。

 宝石が一つ、担保に近づく。

 請求書が一枚、期限を過ぎる。

 愛人が去る。

 商人が前払いを求める。

 母と息子が食卓で責め合う。

 社交界の視線が変わる。

 虚飾の布が、一枚ずつ剥がれていく。

 ミレーヌは、続きを書いた。

 備考。

 伯爵家の崩壊を喜びとして扱わないこと。

 ただし、当方の財産と名誉を守るため、必要な手続きは進める。

 虚飾が剥がれていくのは、当方のせいではない。

 隠していた支出、浪費、契約違反が、証拠により明らかになるだけである。

 さらに一行。

 私はもう、伯爵家の穴を塞ぐ金ではない。

 私は私の金を持つ。

 私は私の証拠を持つ。

 私は私の名前で手続きに立つ。

 ペンを置く。

 小箱を開ける。

 帳簿をしまう。

 鍵をかける。

 かちり。

 その音は、静かで確かだった。

 窓の外には、王都の夜が広がっている。

 ルヴァン伯爵家では、今ごろまだ灯が消えていないかもしれない。ギスランは弁護士と話し、オデットは宝石箱を開け、どれを隠し、どれを出すべきか考えているかもしれない。

 だが、ミレーヌはもう、その家の灯を気にして眠れない妻ではない。

 彼女はヴァルクレア公爵家の一室で、自分の帳簿に記録を残し、自分の鍵で閉じた。

 伯爵家の虚飾は、剥がれていく。

 その下に何が残るのかは、彼ら自身が見るべきものだ。

 ミレーヌは静かに灯を落とした。

 胸元の鍵が、暗がりの中で小さく冷たく光る。

 その冷たさは、今夜も彼女を落ち着かせてくれた。


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