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第27話 若主人の怒り
アドリアンが《メゾン・ノワール》へ現れたあの日のあと、店の空気は表向きこそいつも通りに戻ったものの、エリアーヌの胸の内側には、まだ薄く硬いものが残っていた。
傷ついた、というのとは少し違う。
むしろ逆で、ようやく言うべきことを言えたあとの静けさに近かった。
あの家で自分が何だったのか。
何を軽んじられ、何を当然のように差し出し続けていたのか。
そしてもう、そこへは戻らないのだということ。
それらを初めて、自分の言葉で外へ向けて言い切った。
それ自体は間違っていなかったと思う。
思うのに、身体のどこかはまだ、あの場の張りつめを覚えていた。
人目のある店先で、元夫へ向けて声を乱さず言葉を置く。
できてしまえば、あっけないくらいに静かなものだった。
けれどその「あっけなさ」は、楽だったという意味ではない。
終わったあとで、指先がわずかに冷えていることに気づき、夜になってから胸の奥がじわじわと熱を持つ。
そういう遅れてくる疲れが、たしかにあった。
ラウルもオディールも、そのことについて多くは聞かなかった。
オディールはいつも通りだった。
むしろいつも以上に余計な慰めをよこさず、「昼の茶、濃くしといたよ」とか、「その針箱、元の場所へ戻しな」とか、仕事の流れの中へそのまま自分を置いてくれる。それがありがたかった。
ラウルは、もっと静かだった。
あの日のあと、彼は表向きの調子をほとんど変えなかった。
注文票の確認を頼む声も、布の相談を持ちかける声も、冬市後の受注の流れを整理する時の落ち着いた手つきも、以前と同じだ。
けれど、エリアーヌが店先へ出る時や、表通りへ短い届け物に行く時だけは、以前よりわずかに視線が深くなる。気づかれない程度に、だが、たしかに見ている。必要ならすぐに動けるように。
それを「守られている」と感じることに、エリアーヌはまだ少し慣れていなかった。
守られる、という言葉にはどこか弱い側に置かれる響きがあって、そこへ素直に身を預けるのはまだ少し怖い。
けれどラウルのそれは、押しつけがましくない。
ただ、こちらの動きと意思を確かめながら、必要な時だけ一歩近くにいる。
だから、苦しくはなかった。
その数日後の午後だった。
空は冬らしく曇りがちで、けれど雪の気配まではまだない。
表通りの石畳は乾いているが、風の冷たさが頬へ刺さる日だった。
《メゾン・ノワール》の店内は、昼過ぎの客足が少し落ち着いたところで、束の間のゆるい静けさに包まれていた。
窓辺では、冬市のあと増えた注文に合わせて、色見本の束を少し入れ替えているところだった。
濃紺、青灰、渋い葡萄色、深い炭色。
どれも以前よりよく出るようになった色だ。
若い娘へ向けた明るい花色の反物は、相変わらず必要な分はあるが、以前のように一番前へ置かれることは少なくなった。
エリアーヌは、年配の夫人から預かった古いショールの縁を確認していた。細い刺繍のほつれを直す前に、どこまで糸を拾えるか見ておく必要がある。視線を布の端へ落とし、針先でそっと糸の流れを探る。そういう集中が必要な仕事をしている時は、自分の心の騒ぎを少し忘れられる。
戸口の鈴が鳴ったのは、その時だった。
からん、と乾いた音。
いつもの来客の音だ。
エリアーヌは視線を上げる前に、ラウルが帳場の向こうで「いらっしゃいませ」と声をかけるのを聞いた。
だが次の瞬間、その声の温度がほんの少しだけ変わる。
「……何か御用ですか」
エリアーヌは針を持つ指を止めた。
顔を上げる。
そこに立っていたのは、アドリアンだった。
前回のように柔らかな微笑を作ってはいない。
今日は外套の襟を立て、少しだけ急いできたような顔をしている。
頬の色はよくない。
目の下の影も前より濃い。
それでも、店へ入る前に最低限の体裁だけは整えたのだろう。髪は撫でつけられ、手袋もきちんと揃っている。
だが、その整え方に余裕がない。
何かを決めて来た顔だ。
エリアーヌの胸の奥が、ひやりと冷える。
同時に、少しだけ苛立ちに似たものも湧いた。
なぜ、また来るのだろう。
しかも、よりによって店へ。
オディールは奥にいたが、戸口の気配ですぐに察したのか、向こうで椅子を引く音がした。
ラウルはすでに帳場の前へ立ち、アドリアンとのあいだに静かな距離を作っている。
まだ塞いではいない。
だが、これ以上無遠慮に奥へ入るなら止める、という立ち方だった。
「エリアーヌに」
アドリアンが言う。
まっすぐではあるが、抑えた声だ。
「少しだけ話がある」
ラウルは答えない。
代わりに、ちらりとこちらを見た。
その一瞬で十分だった。
どうするかを決めるのは自分だ。
前へ出るか、出ないか。
追い返すか、話すか。
その判断を、彼はまずこちらへ委ねている。
エリアーヌは立ち上がった。
怖くないわけではない。
だが、ここでラウルに全部任せるのも違うと思った。
前回、自分は言うべきことを言った。
なら今回も、まずは自分で拒むべきだ。
「ご用件は、ここで」
静かにそう言う。
アドリアンは一瞬だけ、唇の端を強張らせた。
「外へ出てくれ」
「いいえ」
「少しでいい」
「私には、そうする理由がありません」
店の中の空気が少し張る。
奥から出てきたオディールは、もう完全に何も言わず様子を見ていた。
店先にいた若い客が一人、空気の異様さに気づいて、布見本を持つ手を止めている。
帽子屋の使いの娘も、入口の脇で立ち尽くしたままだ。
アドリアンはそれらの視線を意識している。
しているが、それでも今日は引かないつもりなのだろう。
頬の筋がわずかに硬くなる。
「この前の話だけでは足りない」
「足りる足りないは、あなたではなく私が決めます」
エリアーヌがそう返すと、アドリアンは一歩だけ前へ出た。
大きな動きではない。
だが、距離を詰めようとしたのは明らかだ。
その瞬間、ラウルがその間へ滑るように入った。
派手ではない。
勢いよく肩を掴むでもなく、腕を振り払うでもない。
ただ、あまりにも自然に、しかしはっきりと、エリアーヌの前へ立つ。
「ここまでです」
声は低かった。
いつもの落ち着いた声よりさらにひとつ温度が下がっている。
アドリアンがラウルを睨む。
「君に話しているんじゃない」
「彼女が断っています」
ラウルは一歩も退かなかった。
背中越しでも分かるほど、その肩は硬い。
普段、仕事の場では滑らかに人と距離を取る男が、いまは意識してそこへ立っている。
怒っているのだ。
しかも、珍しく露骨に。
エリアーヌはその背中を見ながら、息を止めていた。
怒鳴っているわけではない。
殴りかかるでもない。
それなのに、空気がひどく張っている。
「どいてもらえるかな」
アドリアンの声も低くなる。
苛立ちを抑えた男の声だ。
「こちらは元夫婦の話だ」
「彼女が話したくないと言っている」
ラウルの答えは短い。
そこに一切の揺れがない。
「それ以上を押し通すなら、元夫だろうが何だろうが関係ありません」
その一言で、店の空気がさらに一段、冷えた。
アドリアンの眉が跳ね上がる。
自分がこんなふうに真正面から止められるとは思っていなかったのだろう。
しかも、若い仕立て屋の男に。
その屈辱が、顔に出た。
「何様のつもりだ」
吐き捨てるような声。
だがラウルは、そこでも少しも声を荒げなかった。
「この店の人間です」
淡々とした返答だった。
「そして、彼女の意思を無視するなら、客でも容赦しない」
その言い方に、エリアーヌの胸の奥が強く打たれた。
守る。
そういう場面なら、もっと分かりやすく激昂する男もいるのだろう。
怒鳴るとか、腕を掴むとか、自分のものを奪われるみたいな顔をするとか。
だがラウルは違う。
怒っている。はっきりと。
けれどその怒りの向きは、自分を「守る所有物」として扱う方向ではない。
彼が怒っているのは、エリアーヌの意思が無視されていることに対してだ。
それが、何よりも強く伝わった。
「彼女の意思を無視するなら」
その一言が、まるで胸の中の深い場所へ真っ直ぐ落ちる。
守られている。
そう感じるのに、同時に「尊重されている」ともはっきり分かる。
自分の気持ちが基準なのだ。
元夫かどうかも、客かどうかも、その前では優先されない。
それは、エリアーヌにとってほとんど初めてのことだった。
アドリアンは一瞬、言葉を失った。
そして次の瞬間には、ラウルの肩越しにエリアーヌを見ようとする。
「君は」
その声に、エリアーヌはようやく口を開いた。
「ラウル」
名前を呼ぶ。
ラウルは振り返らないまま、わずかに肩だけでこちらの気配を受けた。
「もう十分です」
エリアーヌが言うと、彼の背中の緊張がほんの少しだけ緩んだのが分かった。
全部を引き受けて前へ出るつもりだったのだろう。
けれど、そこで止めるのもまた、自分の意思で選ばせるために必要なのだと理解したのかもしれない。
エリアーヌは一歩だけ前へ出た。
ラウルの背に隠れたままではなく、その横へ並ぶように。
アドリアンの目が動く。
まるで、それが予想外だったとでも言うように。
「私は、もう一度言います」
エリアーヌの声は静かだった。
「あなたと話すつもりはありません」
店の中の誰にも聞こえる声。
だが、決して大声ではない。
その静けさの方が、むしろ動かしがたかった。
「ここは私の働く場所です。あなたの都合で、何度も押しかけられる場所ではありません」
アドリアンは言い返そうとする。
だが、その前にオディールが低く口を挟んだ。
「聞こえなかったのかい」
老女主人の声は、年嵩の女らしい低さで、店の空気をさらに冷やした。
「うちは仕立て屋だ。色恋の揉め事を見世物にする場所じゃないよ」
その一言で、アドリアンは完全に孤立した。
店の中には客もいる。
若い娘も、年配の夫人も、帽子屋の使いもいる。
誰一人、彼の側へ立つ気配はない。
むしろ空気ははっきりと、彼の無遠慮さを冷たく見ていた。
そうして初めて、アドリアンはこの場が自分にとって不利だと悟ったらしい。
顔の色が変わる。
怒りと屈辱がせめぎ合い、だがここで怒鳴ればさらに自分の首を締める。
そのことくらいは、まだ分かるのだろう。
「……失礼した」
噛みしめるようにそう言い、彼は踵を返した。
戸口の鈴が強く鳴る。
冷たい外気がひとしきり流れ込み、アドリアンの外套の裾だけが視界の端に残って、それもすぐに消えた。
扉が閉まる。
その瞬間、店の中へ落ちた静けさは、さっきまでの緊張とは違うものだった。
ひどく張りつめていた糸が、ようやく少し緩んだ時の静けさ。
エリアーヌはその場に立ったまま、ゆっくりと息を吐いた。
気づけば、自分でも分からないうちに息を浅くしていたらしい。
指先が少し冷たい。
だが、胸の内側は妙に温かかった。
ラウルがそこでようやく振り向いた。
その目には、まだ怒りの名残があった。
けれどそれ以上に、こちらを確かめるような色がある。
「大丈夫ですか」
問いは短い。
だが、その中には、どう感じたかを決めるのはあなたです、という余白がちゃんとある。
エリアーヌはすぐには答えられなかった。
守られた。
そう感じる。
でもそれだけではない。
もっと深いところで、自分の意思の方を先に置かれたことが、胸を強く打っていた。
「……はい」
ようやくそう返す。
「大丈夫です」
今度の「大丈夫」は、さっきまでのものとは違った。
無理に整えた言葉ではなく、本当に自分で選んで出した言葉だと、自分でも分かる。
オディールが奥から鼻を鳴らした。
「ったく。冬の客は布だけ買っていきゃいいのにね」
その物言いに、張りつめていた店の空気が少しだけほぐれる。
夫人の一人が、遠慮がちに咳払いをしてから、手にしていた見本布へ視線を戻した。
「……先ほどの続きなのだけれど」
そう、何事もなかったように話題を戻してくれる。
その優しさに、エリアーヌは少しだけ救われる。
ラウルは一度だけ深く息をつき、それから何事もなかった顔へ戻ろうとした。
だがエリアーヌは、その横顔に残るわずかな硬さを見逃さなかった。
あんなふうに、露骨な怒りを見せるのは初めてだった。
そしてその怒りが、自分を「奪われそうなもの」としてではなく、「意思を無視された人」として扱うところから来ていたことが、まだ胸の中で静かに響いている。
その日の仕事を終え、店を閉めたあとのことだった。
オディールは先に二階へ上がり、「今日はいつもより火を強めときな」とだけ言い残して引っ込んだ。表の雨戸はもう閉められ、外の冷気は戸口の隙間から薄く入り込むだけになっている。暖炉の前で薪が小さく鳴り、店の中には火と布と木の匂いが満ちていた。
エリアーヌは、片づけ終えた見本布を棚へ戻していた。
ラウルは帳場でその日の控えを整えている。
昼間の騒ぎのあとだから、何かひとこと言うべきだと分かっている。
けれど、どこから言えばいいのかが分からない。
「ラウル」
結局、名前を呼ぶことから始めた。
彼はすぐに顔を上げる。
その目は、昼間の怒りをもう表には残していなかった。
ただ、静かにこちらを見る。
「……今日は、ありがとうございました」
その一言を言うだけで、胸の奥が少しだけ熱くなる。
守ってくれてありがとう。
そう言うのは簡単だ。
けれど、今日、自分が感じたものはそれだけではなかった。
ラウルは小さく首を振る。
「礼を言われることでは」
「いえ」
エリアーヌはそこで、ちゃんと続けた。
「守っていただいたことだけではなくて」
ラウルがわずかに目を細める。
続きを待っている。
「……私の気持ちの方を先に見てくださったことが、嬉しかったんです」
言った瞬間、自分でも少しだけ驚いた。
こんなふうに、まっすぐ口にするつもりではなかった。
けれど、いちばん正確なのはその言葉だった。
「守られた、というより……尊重されているのだと、初めてちゃんと分かりました」
店の静けさの中で、その言葉は思ったより深く響いた。
ラウルはすぐには返事をしなかった。
暖炉の火が、小さくひとつ鳴る。
やがて彼は、少しだけ視線を落としてから言った。
「それ以外の怒り方は、したくなかったので」
その一言に、エリアーヌの胸がまた静かに打たれる。
殴るでもなく。
奪うでもなく。
自分のものに触れようとしたから怒るのでもなく。
ただ、自分の意思を無視されたことに怒った。
それがどれほど大きな違いなのか、エリアーヌは今日、ようやく身をもって知ったのだ。
「……あなたは、すごく怒っていましたね」
少しだけ苦く笑いながらそう言うと、ラウルもまた、わずかに口元を緩めた。
「ええ。かなり」
「珍しいです」
「自分でも、そう思います」
その言い方がおかしくて、エリアーヌは思わず小さく笑った。
笑ってから、ふと、その笑いの中に緊張だけではない温かさが混じっていることに気づく。
昼間はあれほど張りつめていたのに、いまはその張りつめが少しずつほどけている。
ラウルはそこで、少しだけ真面目な顔へ戻った。
「ただ」
「はい」
「また同じことがあれば、今日より先に止めます」
その低い声に、エリアーヌは胸の奥が熱くなるのを感じた。
脅しではない。
誇示でもない。
ただ、そうするのが当然だという静かな決意。
「……はい」
それしか返せなかった。
でも、その一言にはたぶん、守られることへの感謝と、尊重されたことへの安堵と、そして何より、そう言ってくれる相手をもっと好きになってしまう怖さが全部混じっていた。
店の中にはまだ、冬の冷気と暖炉の温度が同時にある。
その中で、エリアーヌはひとつはっきり分かったことがあった。
誰かが前へ出てくれる時、それが自分を弱いものとして抱え込むためではなく、自分の意思を守るために向けられたものなら、そこには安心だけではなく、深い敬意がある。
今日、ラウルが見せた怒りは、まさにそういう怒りだった。
そしてそのことが、エリアーヌの心をまたひとつ、静かに、だが確実に動かしていた。
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