王妃失格と呼ばれた私を、敵国の王だけが抱きしめた

なつめ

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後日談 夏のはじまり、家になる


 夏のはじまりは、春よりも分かりにくい。

 春は、雪の終わりや芽吹きや、市場へ並ぶ菜の色で気づける。だが初夏は、もっと静かに王宮へ入ってくる。朝の風がほんの少しだけ湿りを含み、窓を開けた時に流れ込む匂いが、土と若葉だけではなく、まだ青い果実の皮みたいな匂いを混ぜ始める。廊下の石床は昼になると冬ほど冷たくなく、夕方の温室では火鉢の熱がなくても十分に過ごせるようになっている。

 そして何より、夜咲草の匂いが少しだけ薄くなる。

 花が弱ったわけではない。夜の冷えがやわらぎ、空気そのものが匂いを受け止めるようになっただけだ。冬の夜には胸の奥へまっすぐ落ちてきた香りが、今はもっと穏やかに、寝室や回廊へと広がっていく。

 そんな季節になっていた。

 本編の冬から、もう半年ほどが過ぎている。

 王宮の一角、温室に近い東南の小さな棟に、リュゼリアのための執務室兼休憩部屋が設えられたのは、春の終わり頃だった。王妃としての書類が増え、北棟と東翼の行き来だけでは収まりきらなくなったから、というのが表向きの理由だ。だが実際には、もっとはっきりした意図があったのだと、リュゼリアは今では分かっている。

 ただの「王妃の執務室」ではなく、彼女がちゃんと息をつける部屋にすること。

 それが、最初から前提にされていた。

 部屋は広すぎない。大きな執務室のような威圧はなく、かといって私室ほど閉じてもいない。南向きの窓が二つ。片方を開ければ温室へ続く回廊の緑が見え、もう片方からは庭の低木と、その向こうに広場へ続く石畳が見える。午前の陽が机へきれいに落ちる位置に大きな机があり、その横には帳簿と手紙を分けるための棚が据えられている。壁際には長椅子と小卓。疲れた時に茶を飲み、あるいはただ黙って息をつくための場所だ。窓辺にはいつも何かしらの鉢が置かれていて、季節ごとに温室から移される若い葉が部屋の匂いを少しずつ変えていく。

 そして、机の右端には、夜咲草の小さな鉢が今も変わらずある。

 夜半のためだけではない。昼のあいだは目立たず、ただ細い葉を揺らしているだけだ。けれどその存在があるだけで、この部屋は「仕事をする場所」でありながら、同時に「怖くなくていい場所」でもあるのだと、どこかで身体が覚えている。

 その朝も、リュゼリアはそこで帳簿を見ていた。

 窓の外には薄い夏の光。蝉にはまだ早い。けれど遠くで水を撒く音がして、庭師たちが初夏の剪定に入ったのだと分かる。机の上には、王都外縁へ回す薬草の配分表、北棟から来た夏前の塩保管に関する照会、南の村から届いた井戸の補修願い、そして民からの手紙が三通並んでいる。

 一通は、春の流行病の時に子どもが熱を出した家からだった。今は元気に畑を走り回っていて、初めて採れた豆を王妃へ送りたいがどうすればよいか、と書いてある。もう一通は、冬越し袋の配分の時に世話になった老女からで、「今年は寝具の湿りが少なく済んだ」と、やや不揃いな字で書いてあった。もう一通は、あまり達筆でない若い女の手紙で、自分も侍女見習いになりたいのだが、帳簿の字を習うには何から始めればよいか、と問うている。

 そういう手紙を読むたび、リュゼリアは胸の奥に小さな熱が灯るのを感じる。

 感謝されたいわけではない。
 褒められたいわけでもない。
 けれど、自分のしてきたことが、暮らしの中でちゃんと生きているのだと分かるのは、やはり静かにうれしい。

 机の端に置いた筆を取り、返事の要点だけを先に小紙へ書きつける。豆は北棟を通さず、温室近くの小棟へ届けてもらえばよいこと。寝具の湿りについては、夏前に干し方の簡単な手引きを配るつもりだということ。侍女見習いを目指すなら、まず数字を綺麗に書くより、数字をごまかさずに書くことを覚えなさいということ。

 そうしていると、扉が二度、控えめに叩かれた。

「どうぞ」

 入ってきたのはミレシュカではなく、北棟の若い文官だった。まだ二十代の半ばほどで、以前なら王妃の前で肩に余計な力の入っていた男だ。今はその緊張が少し薄れ、必要な言葉を必要な順で並べられるようになってきている。

「王妃殿下」
「ええ」
「塩袋の件で、北棟より追加の確認が」
「見せて」
「はい」

 差し出された紙には、海沿いから運ばれてきた粗塩の一部に、例年より湿りが残りやすいこと、そのため保管布をいつもの厚布ではなく一段薄いものへ替えるべきではないかという提案が書かれていた。数字は綺麗だ。だがそのまま受け取れば、また別のところで傷みが出ると、リュゼリアは読む前からほとんど分かった。

「薄い布へ替えると、今度は夏の熱で結露が出るわ」
「……」
「厚みの問題ではなく、結びの位置を変えて」
「はい」
「下へ薄板を一枚」
「薄板、ですか」
「ええ。床の湿りが一番先に上がるから」
「……」
「あと、袋の口を完全に閉じないで」
「閉じない」
「隙間を少しだけ残すの」
「……」
「熱が籠もると、今度は内側からやられるわ」

 若い文官は熱心に書きつけている。その姿を見ると、少し前まではこういう細部の話を、王妃が口にすること自体が珍しいと思われていたのだろうと今さらながら分かる。だが今の彼に、その違和感はもうほとんどない。王妃が生活と国を知っていることが、王宮の中でちゃんと日常になってきている。

「それと」
 リュゼリアは続けた。
「配分表の数字だけ綺麗でも意味がないの」
「はい」
「現物を見て」
「……」
「匂いと、袋の口と、床の湿りまで見るように」
「承知しました」

 文官が下がると、部屋はまた静かになった。

 風が少しだけ入る。
 夜咲草の葉が揺れる。
 帳簿の紙が柔らかく鳴る。

 リュゼリアは筆を置き、長椅子の方へ目をやった。まだ午前だ。休むには早い。けれどこの部屋には、そういう「早い遅い」で息を止めなくていい空気がある。執務室という名のもとに、ただ机へ縫い付けられる場所ではないからだ。

 昼を過ぎると、温室からエレナが若い鉢を二つ持ってきた。

「王妃殿下」
「何かしら」
「温室の南棚を空けましたので」
「ええ」
「代わりに、こちらを」
 ひとつは細い豆の若葉。もうひとつは、初夏の終わりに小さな青花を咲かせる草だという。
「ここへ?」
「よろしければ」
「ええ、もちろん」

 鉢が窓辺へ置かれると、部屋の匂いがまた少し変わる。若い緑の匂いだ。温室の中だけの香りではなく、ここがもう温室から切り離された「仕事部屋」ではなくなっていることの証みたいな匂い。

「最近」
 エレナが控えめに言う。
「王妃殿下のお部屋は、よく人が来るようになりましたね」
「そうね」
「皆、安心するのでしょう」
「私のところへ来ると?」
「ええ」
 エレナは少しだけ笑った。
「書類が戻ってくるのが早いから、という声もありますけれど」
「それは現実的ね」
「とても」
「でも」
「……」
「息をつきに来る顔も、多いのです」

 その言葉に、リュゼリアは少しだけ目を伏せた。

 息をつきに来る。
 それは、この部屋が自分だけのためではなく、働く者たちにとっても「詰めすぎないで済む場所」になり始めているということなのだろう。厳しさがないわけではない。帳簿の数字は誤魔化させないし、配分の理由はきちんと聞く。だが、間違えた時にすぐ「失格」の烙印を押す空気がない。たぶんそれが、人をここへ寄せるのだ。

「いいことね」
 リュゼリアは静かに言った。
「はい」
「あなたは?」
「私も」
 エレナは少しだけ躊躇ってから言う。
「ここへ来ると、少し肩の力が抜けます」
「……そう」
「はい」
「なら、よかった」

 よかった、と口にしてから、リュゼリアはその言葉が少し前の自分ならどれほど不思議に思えただろうと考えた。王妃の部屋へ人が息をつきに来る。そんなこと、アルヴェリアではあり得なかった。王妃の部屋は、値踏みされ、監視され、役目を果たせているかを見られる場所でしかなかったからだ。

 夕方近くなると、さすがに肩が少しだけ張ってくる。

 夏前の配分表は、冬のそれより数が多い。冬は何が足りないかがはっきりしている。だが夏前は、足りるものと傷むものと、増やした方がよいものが入り混じる。塩、布、水桶、草の干し方、幼い子の寝台、畑仕事の合間の湯の回し方。ひとつずつは小さい。だが重なると、どこの家も暮らしの手間がじわじわ増える。

 リュゼリアは最後の帳簿を閉じると、自然に立ち上がった。

 温室へ行こうと思ったのだ。
 疲れたから逃げるのではない。
 もう温室は、逃げ場というより、日常の続きになっている。帳簿を閉じたあとに、若い葉の匂いを吸いに行く。花の様子を見て、棚の並びを確かめて、帰りに次の日の小さな相談を一つだけ持ち帰る。そういう流れが、最近の彼女の一日の中へ自然に組み込まれていた。

 回廊を抜け、温室の扉を開く。

 中はもう、火鉢の熱に頼らなくても十分にあたたかい。硝子越しの光は夕方の金を少し含み、棚の上の若葉はひとつひとつ違う緑を持っている。奥の棚では、春の終わりの白花がまだいくつか残り、その手前では初夏の小さな青花が咲き始めていた。

 リュゼリアは、その青花の鉢の前で立ち止まる。

 そうしていると、後ろで回廊の足音がした。

 低く、無駄のない足音。
 その響きを、もう聞き違えることはない。

「また来たの」
 振り返らずに言うと、背後から低い声が返る。
「来るだろうと思っていた」
「私が?」
「ああ」
「どうして」
「顔に出ていた」
「またそれ」
「事実だ」

 ゼルヴェインが来るのは、もう珍しいことではない。

 王としての用を終えたあと、当然のようにこの小棟へ寄り、机の上へ自分の書類を一つ置いていく時もあれば、特に何も言わずに長椅子へ腰を下ろし、リュゼリアが仕事を終えるまで同じ部屋にいる時もある。何かを相談することもあれば、本当にただそこにいるだけの時もある。

 それがいまでは、二人のあいだの「普通」になっていた。

「北棟から帰ってきた」
 ゼルヴェインが言う。
「長かったの?」
「やや」
「厄介?」
「そうでもない」
「そう」
「お前の方は」
「今日も少しだけ厄介だったわ」
「少しだけか」
「少しだけ」

 そう言いながら、リュゼリアは長椅子へ座った。ゼルヴェインも、その少しあとに隣へ腰を下ろす。触れ合いすぎない、けれど離れすぎもしない距離。それがもう、二人の間では何より自然になっている。

 しばらく、温室の匂いの中で黙っていた。

 それから、リュゼリアはぽつりと口にした。

「ここ」
「何だ」
「私の部屋なのね」

 何でもない拍子だった。

 本当に、何でもない。
 今までなら、そんなこと、いちいち言葉にしなかっただろう。ただ心のどこかで思って、でも次の書類か次の相談に流されて、それで終わったはずだ。

 けれどその日は、ふとそれが言葉になった。

 執務室兼休憩部屋。
 温室に近く、帳簿と鉢があり、手紙が届き、人が息をつきに来て、王が帰ってくる部屋。

 ここは、私の部屋なのね。

 ゼルヴェインは一拍だけ黙った。

 そして短く言った。

「違う」

 その一言に、リュゼリアの胸がほんのわずかに強ばる。

 違う。

 昔の記憶は、こういう時にまだ一瞬だけ顔を出す。足りないのか。何か勘違いしていたのか。まだ自分には早いのか。そういう反射が、完全に消えたわけではない。

 けれど次の瞬間、ゼルヴェインは当たり前みたいな声で言った。

「お前の家だ」

 その言葉は、あまりにも静かで、だからこそ深かった。

 家。

 部屋ではなく。
 一時の居場所でもなく。
 王妃だから与えられている空間でもなく。

 家。

 リュゼリアは息をするのを忘れたみたいに、しばらく動けなかった。胸の奥のどこか、ずっと古いところへ、その一語がまっすぐ落ちていくのが分かる。

 家。

 生まれた場所は、家ではなかった。
 嫁いだ王宮も、家ではなかった。
 東翼の客室は、最初は避難先であり、少しずつ居場所になっていったけれど、それでもどこかで「仮の場所」の感覚が残っていた。

 けれど今、この人は、それを家だと言った。
 あまりにも当然みたいに。
 説明も飾りもなく。

「……家」
 リュゼリアはようやく繰り返す。
「そうだ」
「……」
「お前の部屋であり」
「……」
「執務室であり」
「……」
「温室に逃げる前の場所でもある」
「逃げてないわ」
「昔はそうだった」
「……今は違う」
「知っている」

 そのやり取りに、リュゼリアは少しだけ目を閉じた。

 家。
 その言葉を、自分が受け取っていいのだろうか。
 そう思う自分がまだいる。
 けれどもう、そのためらいの方が少しずつ薄くなっているのも分かる。

 ゼルヴェインは彼女の沈黙を急かさなかった。
 ただ隣に座り、同じ温室の匂いを吸っている。

 家。
 その言葉は、痛いくらいにあたたかかった。

 夜になり、仕事を完全に終えて東翼へ戻る頃には、庭の空気もずいぶんやわらいでいた。

 王宮の灯りが窓ごとにともり、回廊には初夏の夜の湿りが少しずつ入ってくる。東翼の寝室では、夜咲草の匂いがもういつものように待っているだろう。ミレシュカが茶を整え、寝具を軽くして、窓辺の風の通りを少しだけ変えているはずだ。

 リュゼリアは回廊を歩きながら、もう一度「家」という言葉を胸の中でなぞった。

 王妃になったのではない。
 ようやく、生きる場所を自分のものにしたのだ。

 その実感は、戴冠の時より静かで、けれどもっと深かった。

 東翼の扉の前で、リュゼリアが少し先へ歩く。
 ゼルヴェインは一度だけ足を止め、後ろで侍従から小さな書簡を受け取っていた。北棟からの急ぎではないらしい。彼が短く返事をし、侍従が一礼して下がる。その何でもない光景を、リュゼリアは扉の内側から振り返って見た。

 そして、気づいた時には、もう口にしていた。

「おかえり」

 無意識だった。

 意識して選んだ言葉ではない。
 王に向かって言うべきかどうかを考えたわけでもない。
 ただ、その人が一日の用を終えてこちらへ戻ってきたのを見た時、自然に出た。

 そのたった一言で、時間が止まったように感じた。

 ゼルヴェインは、扉のところで足を止めたままこちらを見る。

 驚いたのかどうかは分からない。彼はそういう感情を派手に顔へ出す人ではない。けれど、目の奥の熱が一瞬だけ深くなるのを、リュゼリアは見た。

「……ああ」
 低い声。
「ただいま」

 その返事が胸へ落ちた瞬間、リュゼリアはやっと、自分が何を言ったのかを本当の意味で理解した。

 おかえり。
 ただいま。

 それは王と王妃の挨拶ではない。
 一緒に暮らす者同士の言葉だ。
 帰る場所を共有する者同士の言葉だ。

 失格と呼ばれた女は、
 いまでは何のためらいもなく、
 この国を帰る場所と呼べた。

 それがどれほど大きなことか。
 誰かに説明されなくても、もう分かる。

 王妃になったのではない。
 ようやく、生きる場所を自分のものにしたのだ。


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