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第三話:「過去の失敗」という亡霊
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得体の知れない、しかしどこか憎めない同居人、モフ様との奇妙な共同生活が始まって、早くも数日の時間が流れていた。白くてふわふわな毛玉のようなその生き物は、まるでずっと昔からこの部屋の主であったかのように堂々と振る舞い、私の日常に当たり前のように溶け込んでいた。
あの日、忘れもしない初対面の夜にモフ様から授けられた「怒りの感情を手なずけるための呪文」。それ以来、私は胸の内に「ムカッ」という名の黒い棘が突き刺さるのを感じるたびに、「私は今、一体何から自分自身を守ろうとしているのだろう?」と、意識的に自問する癖をつけるように努めていた。
たとえば、満員電車で無理やり割り込んできた人に肘で押された朝。以前の私なら、舌打ちの一つでもして、その日一日中、不快な気分を引きずっていただろう。しかし、今は違う。ぐっとこみ上げる怒りの手前で、立ち止まる。「私は今、何を守ろうとしている?」。その問いは、ささくれた心を静かに内側へと向かわせる。答えは、私の「パーソナルスペース」という名の小さな縄張りであり、「尊重されるべき」というささやかなプライドだった。そう気づくと、怒りは不思議と形を変えた。割り込んできた彼もまた、遅刻という恐怖から自分を守ろうと必死だったのかもしれない。そう思うだけで、黒い棘はすうっと毒気を抜かれ、ただの出来事として車窓の風景に溶けていくのだ。
またある時は、後輩が提出した書類に単純なミスを見つけた時。以前なら、「どうしてこんな簡単なことを見落とすの」と、苛立ちを含んだ声で指摘してしまっていたかもしれない。だが、今はまず自問する。「私は、何を守ろうとしている?」。それは、「完璧でなければならない」という私自身の強迫観念であり、「先輩としての威厳」という名の、脆い鎧だった。その鎧の存在に気づけば、後輩への言葉は自然と柔らかくなる。「ここの数字、もう一度確認してみようか。私もよく間違えるんだ」。そう言うと、後輩は恐縮しながらも、どこかほっとしたような表情を見せるのだった。
もちろん、すぐに答えが見つかる日ばかりではない。感情の濁流に足を取られ、あっという間に流されてしまう日もまだまだ多い。それでも、この新しい習慣は、私の世界の見え方をほんの少しずつ、しかし確実に変えつつあるような気がしていた。灰色に見えていた通勤路のアスファルトに、可憐な花が咲いていることに気づいたり、いつもと同じ自販機のコーヒーが、やけに味わい深く感じられたり。世界は何も変わっていない。変わったのは、それを受け取る私の心の解像度なのかもしれなかった。
そんなある日の、昼下がりのことだった。午後の穏やかな日差しがオフィスに差し込み、キーボードを叩く音だけがリズミカルに響く中、営業部の鈴木部長が、その大きな体を揺すりながら私のデスクへとやってきた。
「相川さん、ちょっといいかな」
穏やかだが、芯のある声。その声に、私の背筋は反射的にぴんと伸びた。
「は、はい!なんでしょうか!」
緊張で声が裏返らなかっただろうか。先日の、あの忌まわしい失敗の記憶が、冷たい水滴となって背中を伝う。心臓がトクンと重く、嫌な音を立てたのが自分でもわかった。鈴木部長は、そんな私の緊張には気づかぬ様子で、人の良さそうな笑顔を浮かべて続けた。
「急ぎで申し訳ないんだがね。来週から始まるウェブキャンペーンのバナー広告、何パターンかお願いできるかな。クライアントからの要望は、この資料にまとめてある。相川さんの、あの柔らかいテイストのデザインが、今回のキャンペーンのイメージにぴったりだと思ってね」
. . . 私の、柔らかいテイスト。その言葉は、乾いた心に染み渡るはずの、嬉しい響きを持っていた。しかし、今の私には、それがむしろ重圧となってのしかかる。
「……はい!承知いたしました!」
なんとか絞り出した声は、自分でも驚くほど硬かった。部長から渡された資料は、数ページの簡単なものだった。ターゲット層、キャッチコピーの候補、使用してほしいキーカラー。要点は簡潔にまとめられており、決して無茶な要求が並んでいるわけではない。普段の、いや、ほんの一週間前の私であったなら、きっと胸を躍らせていただろう。いくつかのアイデアがすぐに頭に浮かび、ラフスケッチを描く手が止まらなくなるような、そんな心躍る仕事のはずだった。
なのに。
真っ白なデジタルキャンバスを前にした私の頭の中に、あの日の光景が、まるで古びたフィルム映画のように、何度も何度も繰り返し再生される。
(また、失敗したらどうしよう)
一週間前。私は、ある重要なコンペのメインビジュアルを担当していた。何日も徹夜して練り上げたデザイン。自分では最高の出来だと思っていた。しかし、クライアントの反応は鈍かった。「うーん、悪くはないんだけど、ちょっとイメージと違うかなあ」。曖昧な言葉でがっかりした表情を隠そうとする、その気遣いが、かえって私の心を抉った。
その直後だった。すっと前に出た先輩の田中さんが、まるで魔法のように、私のデザインに数カ所手を入れた。配色を微調整し、タイポグラフィを差し替えただけ。それなのに、デザインは息を吹き返したように輝きを増し、クライアントは「ああ、これです!素晴らしい!」と満面の笑みを浮かべた。賞賛を浴びる田中さんと、その横で立ち尽くす私。誰にも聞こえないように「ありがとうございます」と呟いた、自分の情けない声。
その一連の記憶が「失敗の亡霊」となって、私の思考にべったりと張り付いている。アイデアが生まれるはずの脳の領域を、その冷たい手でぎゅっと握りつぶし、創造の泉を堰き止めているのだ。
. . . 手が、鉛のように重い。マウスを握る指が、石のように動かない。白いキャンバスは、ただただ無慈悲にその白さを見せつけてくるだけで、何も描けない。時間だけが、カチ、カチ、とPCの時計表示を変えていく。焦れば焦るほど、思考は空回りし、頭の中は真っ白なノイズで満たされていく。周囲の同僚たちが集中して仕事を進める音が、私だけが取り残されているのだという事実を突きつけてくるようで、耳を塞ぎたくなった。
結局、その日は一枚の線すら描くことができないまま、私は重い、重い足取りでタイムカードを押した。夕暮れの街は、家路を急ぐ人々の活気で溢れているというのに、私の周りだけが真空であるかのように、音が遠かった。
. . .
自室のドアを開け、パチンと照明のスイッチを入れる。途端に、目に飛び込んできたのは異様な光景だった。部屋の中央に、私が愛用しているクッションというクッションが、大小さまざまに積み上げられ、さながら小さな要塞、あるいはお城のようなものが築かれている。そして、そのてっぺん、最も高い位置にあるクッションの上に、主であるモフ様がふんぞり返るようにして鎮座していた。
「おかえり、美希。どうした、今日は一段と顔色が悪いではないか。まるで成仏できん亡霊にでも取り憑かれたかのようじゃのう」
その声は、いつも通りのんきで、どこか芝居がかった古風な口調だった。しかし、その言葉は的確に私の現状を射抜いていた。
「……ただいま、モフ様」
か細く返事をすると、まるでそれ以上言葉を紡ぐ気力も残っていないかのように、私はその場にへたり込みそうになった。
「ほう、図星か。どれ、このわしに見せてみよ。お主に取り憑いたのは、一体どんな亡霊じゃ?」
軽口を叩きながらも、その丸い瞳は真剣に私を見据えている。私は、吸い寄せられるように、今日の出来事をぽつり、ぽつりと話し始めた。鈴木部長に新しい仕事を頼まれたこと。それが、本来なら喜ぶべき仕事であること。それなのに、一週間前の失敗が頭から離れず、何も思いつかなかったこと。情けなくて、悔しくて、自分が嫌になったこと。
言葉にするうちに、堪えていた感情が堰を切ったように溢れ出しそうになる。私はそれを必死に飲み込みながら、途切れ途切れに説明を終えた。
私の話を黙って聞き終えたモフ様は、クッションの城からひらりと、猫のような身軽さで床に飛び降りた。そして、短い足でてちてちと歩き、おもむろに冷蔵庫へと向かう。小さな体で「んー」と唸りながら器用に冷蔵庫のドアを開けると、中を物色し始めた。そして、取り出したのは、私が昨日、一週間頑張った自分へのささやかなご褒美として買っておいた、とっておきのプレミアムプリンだった。
「こらっ!モフ様、それは私のプリン!」
思わず叫ぶと、モフ様は「まあ、待て」と片手(のようなもの)をひらひらさせて私を制した。そして、テーブルの上にプリンを置くと、器用にもその前足でぺりぺりと蓋を開けてみせた。甘く、香ばしいカラメルの匂いがふわりと部屋に広がる。
モフ様は、スプーンを手に取り、私にこう尋ねた。
「美希よ。これは、なんじゃ?」
「プリンでしょ!お願いだから返して!」
私の悲痛な叫びにも、モフ様は「うむ」と一つ頷くだけ。そして、つやつやと輝くプリンの表面に、ためらいなくスプーンを突き立てた。ぷるん、と心地よい抵抗感と共にすくい上げられた一口分を、ぱくりと自分の口に運んでしまう。
そして、もう一度、私に尋ねた。
「では、これは、なんじゃ?」
「……少し、食べられたプリン」
不満を隠しきれない声で答えると、モフ様はまた「うむ」と頷いた。そして、今度は驚くべきスピードで、ぷるん、ぷるんと小気味よい音を立てながら、残りのプリンをあっという間に平らげてしまったのだ。
空になったプラスチックのカップを、モフ様はことんと私の目の前のテーブルに置く。そして、その丸い瞳でじっと私を見つめて、静かに言った。
「では、美希よ。昨日、このプリンを買った時の『お主』は、今、どこにおる?」
「え……?」
予期せぬ質問に、私は言葉を失った。昨日、仕事帰りに少し浮かれた気分でコンビニに立ち寄り、「明日これを食べよう」と楽しみにしていた私。その私は、今どこにいるというのだろう。
「昨日、楽しみにプリンを買ったお主も、一週間前に仕事で失敗して落ち込んだお主も、もうこの世界のどこにもおらんのじゃよ」
モフ様は、空になったカップを前足で軽くつついた。
「万物は、川の流れのようなものじゃ。古代の賢人も言うておったじゃろう、『同じ川に二度入ることはできぬ』と。全ては常に移ろい、変化し、同じ場所に留まることは決してない。水が絶えず流れていくように、お主という存在もまた、一瞬たりとも同じではない。昨日のお主と、今日のお主は、細胞のレベルから見ても、経験という観点から見ても、厳密には違う人間なんじゃ。それなのに、お主は『失敗した、一週間前の私』という、とうに流れ去ってしまった過去の亡霊を、必死で川の中から掴みあげて、『これが私だ!これこそが今の私なのだ!』と、強く強く抱きしめておる。だから、しんどいんじゃよ。重いじゃろう、その亡霊は」
過去の、亡霊。
それを、私が、抱きしめている。
その言葉が、まるで巨大な鐘を打ち鳴らされたかのように、私の頭の芯にガン、と重く響いた。視界がぐらりと揺れる。そうだ。私は、自分で自分の額に「私は失敗する人間だ」という焼き印を押しつけていた。過去の、たった一度の、もう過ぎ去った出来事を、今の自分の全てであるかのように、それが自分の本来の姿であるかのように思い込んで、自ら動けなくなっていたんだ。田中さんの完璧なフォローも、クライアントのがっかりした顔も、全てはもう過去の映像だ。それなのに、私はその古いフィルムを、何度も何度も自分の心の中で上映し続けていたのだ。
モフ様は、私の表情の変化を見て取ったのか、さらに言葉を続けた。
「一週間前に『失敗したお主』は、もういない。プリンが食われてなくなったのと同じじゃ。目の前におるのは、鈴木部長という男から新しい仕事を信頼して依頼された、『今のお主』じゃ。さあ、どうする?」
その問いかけに導かれるように、私は、そっと自分の両手を見つめた。デスクで、あれほど重く、冷たく、こわばっていた指先。でも、それは「失敗した私の手」じゃない。これから、何か新しいものを生み出すことができる、「今の私の手」なんだ。そう思った瞬間、まるで血が巡り始めたかのように、指先にじんわりとした温かさが戻ってくるのを感じた。
そして、ふっと、霧が晴れるように、頭の中に一つのデザインが浮かび上がった。派手さはない。奇をてらったものでもない。でも、鈴木部長が渡してくれた資料に書かれていたクライアントの要望を、一つ一つ誠実に拾い上げ、丁寧に形にした、優しい色合いのバナー広告。ターゲットである女性たちが、思わずクリックしたくなるような、穏やかで心に寄り添うデザイン。
「……描ける、かも」
か細く、しかし確かな手応えを伴って、言葉が漏れた。私は、まるで初めてペンを持つ子供のように、少し震える手でデスクの上のペンタブレットを握った。
あの「失敗の亡霊」は、まだすぐそばにいるかもしれない。部屋の隅の暗がりで、じっと私を見ているかもしれない。でも、今の私には、もうその亡霊と無理に戦う必要はないのだとわかった。戦うから、囚われる。ただ、そこにいることを認め、そして「あなたは過去のあなた。私は今の私」と心の中で線を引けばいい。今の自分にできることを、ただ、ひたむきにやればいいんだ。
カリカリ、カリカリ。デジタルペンがタブレットの上を走る、心地よい摩擦音だけが、静まり返った部屋に響き渡る。それは、絶望の音ではなく、再生の音だった。
その様子を、クッションの城の麓から、モフ様が満足そうに眺めていた。その表情は、まるで全てを予見していた賢者のようでもあり、愛しい我が子の成長を見守る親のようでもあった。
「うむ。今の『お主』は、なかなか良い顔をしておるぞ。まあ、わしがお主のとっておきのプリンを食ってやったおかげかのう」
したり顔でそう宣うモフ様に、私はペンを走らせながら、思わず笑みがこぼれた。
「それとこれとは話が別! 明日、絶対に倍にして返してもらうからね!」
私の抗議の声は、ほんの少しだけ、明るく、そして力強く部屋の空気を震わせていた。もう、あの鉛のような重さはどこにもなかった。
あの日、忘れもしない初対面の夜にモフ様から授けられた「怒りの感情を手なずけるための呪文」。それ以来、私は胸の内に「ムカッ」という名の黒い棘が突き刺さるのを感じるたびに、「私は今、一体何から自分自身を守ろうとしているのだろう?」と、意識的に自問する癖をつけるように努めていた。
たとえば、満員電車で無理やり割り込んできた人に肘で押された朝。以前の私なら、舌打ちの一つでもして、その日一日中、不快な気分を引きずっていただろう。しかし、今は違う。ぐっとこみ上げる怒りの手前で、立ち止まる。「私は今、何を守ろうとしている?」。その問いは、ささくれた心を静かに内側へと向かわせる。答えは、私の「パーソナルスペース」という名の小さな縄張りであり、「尊重されるべき」というささやかなプライドだった。そう気づくと、怒りは不思議と形を変えた。割り込んできた彼もまた、遅刻という恐怖から自分を守ろうと必死だったのかもしれない。そう思うだけで、黒い棘はすうっと毒気を抜かれ、ただの出来事として車窓の風景に溶けていくのだ。
またある時は、後輩が提出した書類に単純なミスを見つけた時。以前なら、「どうしてこんな簡単なことを見落とすの」と、苛立ちを含んだ声で指摘してしまっていたかもしれない。だが、今はまず自問する。「私は、何を守ろうとしている?」。それは、「完璧でなければならない」という私自身の強迫観念であり、「先輩としての威厳」という名の、脆い鎧だった。その鎧の存在に気づけば、後輩への言葉は自然と柔らかくなる。「ここの数字、もう一度確認してみようか。私もよく間違えるんだ」。そう言うと、後輩は恐縮しながらも、どこかほっとしたような表情を見せるのだった。
もちろん、すぐに答えが見つかる日ばかりではない。感情の濁流に足を取られ、あっという間に流されてしまう日もまだまだ多い。それでも、この新しい習慣は、私の世界の見え方をほんの少しずつ、しかし確実に変えつつあるような気がしていた。灰色に見えていた通勤路のアスファルトに、可憐な花が咲いていることに気づいたり、いつもと同じ自販機のコーヒーが、やけに味わい深く感じられたり。世界は何も変わっていない。変わったのは、それを受け取る私の心の解像度なのかもしれなかった。
そんなある日の、昼下がりのことだった。午後の穏やかな日差しがオフィスに差し込み、キーボードを叩く音だけがリズミカルに響く中、営業部の鈴木部長が、その大きな体を揺すりながら私のデスクへとやってきた。
「相川さん、ちょっといいかな」
穏やかだが、芯のある声。その声に、私の背筋は反射的にぴんと伸びた。
「は、はい!なんでしょうか!」
緊張で声が裏返らなかっただろうか。先日の、あの忌まわしい失敗の記憶が、冷たい水滴となって背中を伝う。心臓がトクンと重く、嫌な音を立てたのが自分でもわかった。鈴木部長は、そんな私の緊張には気づかぬ様子で、人の良さそうな笑顔を浮かべて続けた。
「急ぎで申し訳ないんだがね。来週から始まるウェブキャンペーンのバナー広告、何パターンかお願いできるかな。クライアントからの要望は、この資料にまとめてある。相川さんの、あの柔らかいテイストのデザインが、今回のキャンペーンのイメージにぴったりだと思ってね」
. . . 私の、柔らかいテイスト。その言葉は、乾いた心に染み渡るはずの、嬉しい響きを持っていた。しかし、今の私には、それがむしろ重圧となってのしかかる。
「……はい!承知いたしました!」
なんとか絞り出した声は、自分でも驚くほど硬かった。部長から渡された資料は、数ページの簡単なものだった。ターゲット層、キャッチコピーの候補、使用してほしいキーカラー。要点は簡潔にまとめられており、決して無茶な要求が並んでいるわけではない。普段の、いや、ほんの一週間前の私であったなら、きっと胸を躍らせていただろう。いくつかのアイデアがすぐに頭に浮かび、ラフスケッチを描く手が止まらなくなるような、そんな心躍る仕事のはずだった。
なのに。
真っ白なデジタルキャンバスを前にした私の頭の中に、あの日の光景が、まるで古びたフィルム映画のように、何度も何度も繰り返し再生される。
(また、失敗したらどうしよう)
一週間前。私は、ある重要なコンペのメインビジュアルを担当していた。何日も徹夜して練り上げたデザイン。自分では最高の出来だと思っていた。しかし、クライアントの反応は鈍かった。「うーん、悪くはないんだけど、ちょっとイメージと違うかなあ」。曖昧な言葉でがっかりした表情を隠そうとする、その気遣いが、かえって私の心を抉った。
その直後だった。すっと前に出た先輩の田中さんが、まるで魔法のように、私のデザインに数カ所手を入れた。配色を微調整し、タイポグラフィを差し替えただけ。それなのに、デザインは息を吹き返したように輝きを増し、クライアントは「ああ、これです!素晴らしい!」と満面の笑みを浮かべた。賞賛を浴びる田中さんと、その横で立ち尽くす私。誰にも聞こえないように「ありがとうございます」と呟いた、自分の情けない声。
その一連の記憶が「失敗の亡霊」となって、私の思考にべったりと張り付いている。アイデアが生まれるはずの脳の領域を、その冷たい手でぎゅっと握りつぶし、創造の泉を堰き止めているのだ。
. . . 手が、鉛のように重い。マウスを握る指が、石のように動かない。白いキャンバスは、ただただ無慈悲にその白さを見せつけてくるだけで、何も描けない。時間だけが、カチ、カチ、とPCの時計表示を変えていく。焦れば焦るほど、思考は空回りし、頭の中は真っ白なノイズで満たされていく。周囲の同僚たちが集中して仕事を進める音が、私だけが取り残されているのだという事実を突きつけてくるようで、耳を塞ぎたくなった。
結局、その日は一枚の線すら描くことができないまま、私は重い、重い足取りでタイムカードを押した。夕暮れの街は、家路を急ぐ人々の活気で溢れているというのに、私の周りだけが真空であるかのように、音が遠かった。
. . .
自室のドアを開け、パチンと照明のスイッチを入れる。途端に、目に飛び込んできたのは異様な光景だった。部屋の中央に、私が愛用しているクッションというクッションが、大小さまざまに積み上げられ、さながら小さな要塞、あるいはお城のようなものが築かれている。そして、そのてっぺん、最も高い位置にあるクッションの上に、主であるモフ様がふんぞり返るようにして鎮座していた。
「おかえり、美希。どうした、今日は一段と顔色が悪いではないか。まるで成仏できん亡霊にでも取り憑かれたかのようじゃのう」
その声は、いつも通りのんきで、どこか芝居がかった古風な口調だった。しかし、その言葉は的確に私の現状を射抜いていた。
「……ただいま、モフ様」
か細く返事をすると、まるでそれ以上言葉を紡ぐ気力も残っていないかのように、私はその場にへたり込みそうになった。
「ほう、図星か。どれ、このわしに見せてみよ。お主に取り憑いたのは、一体どんな亡霊じゃ?」
軽口を叩きながらも、その丸い瞳は真剣に私を見据えている。私は、吸い寄せられるように、今日の出来事をぽつり、ぽつりと話し始めた。鈴木部長に新しい仕事を頼まれたこと。それが、本来なら喜ぶべき仕事であること。それなのに、一週間前の失敗が頭から離れず、何も思いつかなかったこと。情けなくて、悔しくて、自分が嫌になったこと。
言葉にするうちに、堪えていた感情が堰を切ったように溢れ出しそうになる。私はそれを必死に飲み込みながら、途切れ途切れに説明を終えた。
私の話を黙って聞き終えたモフ様は、クッションの城からひらりと、猫のような身軽さで床に飛び降りた。そして、短い足でてちてちと歩き、おもむろに冷蔵庫へと向かう。小さな体で「んー」と唸りながら器用に冷蔵庫のドアを開けると、中を物色し始めた。そして、取り出したのは、私が昨日、一週間頑張った自分へのささやかなご褒美として買っておいた、とっておきのプレミアムプリンだった。
「こらっ!モフ様、それは私のプリン!」
思わず叫ぶと、モフ様は「まあ、待て」と片手(のようなもの)をひらひらさせて私を制した。そして、テーブルの上にプリンを置くと、器用にもその前足でぺりぺりと蓋を開けてみせた。甘く、香ばしいカラメルの匂いがふわりと部屋に広がる。
モフ様は、スプーンを手に取り、私にこう尋ねた。
「美希よ。これは、なんじゃ?」
「プリンでしょ!お願いだから返して!」
私の悲痛な叫びにも、モフ様は「うむ」と一つ頷くだけ。そして、つやつやと輝くプリンの表面に、ためらいなくスプーンを突き立てた。ぷるん、と心地よい抵抗感と共にすくい上げられた一口分を、ぱくりと自分の口に運んでしまう。
そして、もう一度、私に尋ねた。
「では、これは、なんじゃ?」
「……少し、食べられたプリン」
不満を隠しきれない声で答えると、モフ様はまた「うむ」と頷いた。そして、今度は驚くべきスピードで、ぷるん、ぷるんと小気味よい音を立てながら、残りのプリンをあっという間に平らげてしまったのだ。
空になったプラスチックのカップを、モフ様はことんと私の目の前のテーブルに置く。そして、その丸い瞳でじっと私を見つめて、静かに言った。
「では、美希よ。昨日、このプリンを買った時の『お主』は、今、どこにおる?」
「え……?」
予期せぬ質問に、私は言葉を失った。昨日、仕事帰りに少し浮かれた気分でコンビニに立ち寄り、「明日これを食べよう」と楽しみにしていた私。その私は、今どこにいるというのだろう。
「昨日、楽しみにプリンを買ったお主も、一週間前に仕事で失敗して落ち込んだお主も、もうこの世界のどこにもおらんのじゃよ」
モフ様は、空になったカップを前足で軽くつついた。
「万物は、川の流れのようなものじゃ。古代の賢人も言うておったじゃろう、『同じ川に二度入ることはできぬ』と。全ては常に移ろい、変化し、同じ場所に留まることは決してない。水が絶えず流れていくように、お主という存在もまた、一瞬たりとも同じではない。昨日のお主と、今日のお主は、細胞のレベルから見ても、経験という観点から見ても、厳密には違う人間なんじゃ。それなのに、お主は『失敗した、一週間前の私』という、とうに流れ去ってしまった過去の亡霊を、必死で川の中から掴みあげて、『これが私だ!これこそが今の私なのだ!』と、強く強く抱きしめておる。だから、しんどいんじゃよ。重いじゃろう、その亡霊は」
過去の、亡霊。
それを、私が、抱きしめている。
その言葉が、まるで巨大な鐘を打ち鳴らされたかのように、私の頭の芯にガン、と重く響いた。視界がぐらりと揺れる。そうだ。私は、自分で自分の額に「私は失敗する人間だ」という焼き印を押しつけていた。過去の、たった一度の、もう過ぎ去った出来事を、今の自分の全てであるかのように、それが自分の本来の姿であるかのように思い込んで、自ら動けなくなっていたんだ。田中さんの完璧なフォローも、クライアントのがっかりした顔も、全てはもう過去の映像だ。それなのに、私はその古いフィルムを、何度も何度も自分の心の中で上映し続けていたのだ。
モフ様は、私の表情の変化を見て取ったのか、さらに言葉を続けた。
「一週間前に『失敗したお主』は、もういない。プリンが食われてなくなったのと同じじゃ。目の前におるのは、鈴木部長という男から新しい仕事を信頼して依頼された、『今のお主』じゃ。さあ、どうする?」
その問いかけに導かれるように、私は、そっと自分の両手を見つめた。デスクで、あれほど重く、冷たく、こわばっていた指先。でも、それは「失敗した私の手」じゃない。これから、何か新しいものを生み出すことができる、「今の私の手」なんだ。そう思った瞬間、まるで血が巡り始めたかのように、指先にじんわりとした温かさが戻ってくるのを感じた。
そして、ふっと、霧が晴れるように、頭の中に一つのデザインが浮かび上がった。派手さはない。奇をてらったものでもない。でも、鈴木部長が渡してくれた資料に書かれていたクライアントの要望を、一つ一つ誠実に拾い上げ、丁寧に形にした、優しい色合いのバナー広告。ターゲットである女性たちが、思わずクリックしたくなるような、穏やかで心に寄り添うデザイン。
「……描ける、かも」
か細く、しかし確かな手応えを伴って、言葉が漏れた。私は、まるで初めてペンを持つ子供のように、少し震える手でデスクの上のペンタブレットを握った。
あの「失敗の亡霊」は、まだすぐそばにいるかもしれない。部屋の隅の暗がりで、じっと私を見ているかもしれない。でも、今の私には、もうその亡霊と無理に戦う必要はないのだとわかった。戦うから、囚われる。ただ、そこにいることを認め、そして「あなたは過去のあなた。私は今の私」と心の中で線を引けばいい。今の自分にできることを、ただ、ひたむきにやればいいんだ。
カリカリ、カリカリ。デジタルペンがタブレットの上を走る、心地よい摩擦音だけが、静まり返った部屋に響き渡る。それは、絶望の音ではなく、再生の音だった。
その様子を、クッションの城の麓から、モフ様が満足そうに眺めていた。その表情は、まるで全てを予見していた賢者のようでもあり、愛しい我が子の成長を見守る親のようでもあった。
「うむ。今の『お主』は、なかなか良い顔をしておるぞ。まあ、わしがお主のとっておきのプリンを食ってやったおかげかのう」
したり顔でそう宣うモフ様に、私はペンを走らせながら、思わず笑みがこぼれた。
「それとこれとは話が別! 明日、絶対に倍にして返してもらうからね!」
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ただの人間、野上良は名家であるグリモワール家の次男に転生したが、その次男には名家の人間でありながら、汚点であるが、兄、姉、母からは愛されていたが、父親からは嫌われていた
お花畑な母親が正当な跡取りである兄を差し置いて俺を跡取りにしようとしている。誰か助けて……
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我が家にはおまけがいる。それは俺の兄、しかし兄はすべてに置いて俺に勝っており、俺は凡人以下。兄を差し置いて俺が跡取りになったら俺は詰む。何とかこの状況から逃げ出したい。
扱いの悪い勇者パーティを啖呵切って離脱した俺、辺境で美女たちと国を作ったらいつの間にか国もハーレムも大陸最強になっていた。
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勇者パーティから“手柄横取り”でパーティ離脱した俺に残ったのは、地球の本を召喚し、読み終えた物語を魔法として再現できるチートスキル《幻想書庫》だけ。
辺境の獣人少女を助けた俺は、物語魔法で水を引き、結界を張り、知恵と技術で開拓村を発展させていく。やがてエルフや元貴族も加わり、村は多種族共和国へ――そして、旧王国と勇者が再び迫る。
だが俺には『三国志』も『孫子』も『トロイの木馬』もある。折伏し、仲間に変える――物語で世界をひっくり返す成り上がり建国譚、開幕!
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