2 / 12
第二話:「怒り」の仮面の下にあるもの
しおりを挟む
翌朝、私はスマートフォンのアラーム音で、深い眠りの底から無理やり引きずり出された。デジタルで合成された軽快なメロディが、静まり返ったワンルームの部屋に無機質に響き渡る。その音は、まるで昨夜からの重苦しい現実を否応なく突きつけてくる宣告のようだった。
重く、まるで鉛を含んだかのようなまぶたをゆっくりと持ち上げる。指先でごしごしとこすってみるが、視界を覆う乳白色の靄は晴れない。ぼんやりと見上げた天井の、ありふれた白い壁紙の模様が、ゆらゆらと歪んで見える。時間の感覚が曖昧で、自分が今どこにいて、何をしようとしていたのか、すぐには思い出せなかった。
(……夢、だったのかな)
昨夜の出来事が、脳裏に断片的に蘇る。それはあまりにも現実離れしていて、まるで質の悪いファンタジー映画のワンシーンのようだった。疲弊しきった心が、救いを求めて見せた都合のいい幻だったのかもしれない。そう考えた方が、よほど理に適っている。しゃべるヌイグルミ、モフ様、そして自らを神と名乗る、そのふてぶてしい態度。ありえない、そんなことが現実にあるはずがない。
そう自分に言い聞かせようとすればするほど、思考は別の方向へと滑り落ちていく。夢であってほしいと願う一方で、もしあれが夢だったとしたら、私に残されるのは、何の救いもない、ただただ惨めな現実だけだ。その事実に気づくと、昨日の会議室で味わった屈辱と悔しさが、冷たい泥水のようにじわじわと胸の内に広がってくるのを感じた。
「やっぱりムカつく……」
喉の奥から、自分でも驚くほど低く、掠れた声が漏れた。
昨日、プロジェクトの定例会議で、上司に投げつけられた言葉が耳の奥で反響する。「君の企画書は、熱意は買うけど、具体性に欠けるんだよな」。その言葉自体は、ビジネスの場ではありふれた指摘に過ぎないのかもしれない。だが、その言い方には、私の数週間にわたる努力を鼻で笑うかのような、冷ややかな響きがまとわりついていた。
そして、追い打ちをかけるように差し出された、後輩の田中さんの企画書。彼女の、あの悪気の一切感じられない、むしろ先輩を助けてあげましたとでも言いたげな、完璧な笑顔。彼女の用意した「B案」は、私の企画の弱点を的確にカバーし、クライアントが求めていたであろう要素を完璧に盛り込んでいた。鮮やかで、的確で、そして、残酷なまでに優秀だった。
思い出すだけで、腹の底から黒く、熱い感情がマグマのようにせり上がってくる。それは単なる怒りという言葉では表現しきれない、嫉妬と自己嫌悪と焦燥感がどろどろに混じり合った、醜悪な塊だった。どうして、私だけがこんな目に。どうして、私の頑張りはいつも空回りするのだろう。
そんな暗い思考の渦に沈みかけていた、その時だった。
「お主、朝から随分と難しい顔をしておるのう。眉間に深い谷を刻んで、せっかくの器量が台無しじゃぞ」
その声に、私の心臓は文字通り、喉から飛び出しそうなくらい激しく跳ね上がった。全身の血が逆流し、指先が一瞬で氷のように冷たくなる。聞き覚えのある、しかしこの部屋に存在するはずのない、年寄りじみた、それでいて妙に張りのある声。
恐る恐る、ぎこちない動きで声のした方へ視線を向ける。ベッドの脇に置いた、雑誌やリモコンが雑然と積まれたローテーブルの上。そこに、それはいた。
ちょこんと、しかし妙な貫禄を持って座ったモフ様が、つぶらな黒い瞳で私の顔をじっと見つめていた。陽の光を浴びて、そのクリーム色の毛並みはふわりと輝いて見える。そして、極めつけに、その短い手のひらには、なぜか一本の黒々とした「かりんとう」が、まるで王の持つ笏のように、恭しく握られていた。
「ゆ、ゆ、夢じゃ……なかった……!」
絞り出した声は情けなく震え、裏返っていた。現実が、私の最後の希望的観測を粉々に打ち砕いた瞬間だった。
「何を朝っぱらから寝ぼけたことを言っておる。それより、この家の常備かりんとうは、ちと黒糖のパンチが足りんのう。次はもう少しこう、ガツンとくるやつを頼むぞ、美希」
モフ様はそう言うと、握っていたかりんとうを、カリリ、と小気味よい音を立ててかじった。そのあまりに堂々とした態度、あまりに俗世的な要求に、私の恐怖や混乱は一瞬で吹き飛んだ。
「なんでそんなに初対面から偉そうなのよ!」
思わず、心の底からのツッコミを入れてしまった。しかし、その言葉を発したことで、私は目の前のこの超常的な光景が紛れもない現実なのだと、認めざるを得なかった。私の、そこそこ平穏で、そして悩みに満ち満ちた一人暮らしは、昨日という日をもって、劇的な終わりを告げたのだ。このしゃべるぬいぐるみ、いや、神様によって。
重いため息が、部屋の空気を揺らす。諦めにも似た感情を抱えながら、私はのろのろとベッドから這い出した。カーテンを開けると、灰色のビル群の隙間から、夏の気配を帯びた朝日が差し込んでくる。その光は、私の混沌とした心とは裏腹に、やけに明るく、希望に満ちているように見えた。
クローゼットから適当な服を取り出して着替え、洗面所へと向かう。その後ろを、短い足でトコトコと、小さな足音を立てながらモフ様がついてくるのが気配で分かった。まるで雛鳥が親鳥の後を追うようだが、その存在感は親鳥どころか、猛禽類に匹敵するほどのプレッシャーを放っている。
冷たい水で顔を洗い、歯ブラシに歯磨き粉を乗せた、まさにその時だった。
「美希よ」
足元から、再びその声がした。見下ろすと、モフ様が私のスリッパのすぐ横で、上目遣いにこちらを見上げている。
「昨日の話の続きじゃ」
「昨日の…?」
口をゆすぎながら、怪訝な顔で聞き返す。昨日はあまりに衝撃的なことばかりで、まともな会話をした記憶があまりない。
「『怒り』の話じゃよ。お主は今も、昨日の会議室での出来事を思い出しては、腹の底でムカムカとした炎を燃やしておるじゃろ」
図星だった。それも、ど真ん中の、完璧な図星だった。
歯を磨く単調な動きを繰り返しながらも、私の頭の中では、昨日の会議室の光景が、悪夢のようにエンドレスで再生されていた。上司の冷たい視線、クライアントのがっかりした溜息、そして田中さんの、あの輝くような笑顔。それらがワンセットになって、私の心を何度も何度も抉ってくる。
「当たり前でしょ。あんな理不尽な態度をとられたら、誰だって怒るに決まってるじゃない」
私は、少し苛立った声で言い返した。まるで、自分の感情が正当なものであることを、この小さな神様に証明したかったのかもしれない。
「ふむ。では、その『怒り』とは、一体なんじゃろうな」
モフ様はそう言うと、洗面台の隅に置いてあった、空のマグカップを、短い手でコンコン、と軽く叩いた。その乾いた音が、やけに大きく響く。
「怒りという感情はのう、鍋のフタのようなものじゃ」
「鍋のフタ?」
意味が分からず、私は眉をひそめた。
「そうじゃ。考えてみよ。鍋の中身、例えばカレーでもシチューでもよいが、それがぐつぐつと激しく煮えたぎると、どうなる?」
「どうって…フタが蒸気で持ち上がって、カタカタ鳴るでしょ」
「うむ。その、蒸気の圧力に耐えきれず、カタカタと音を立てて暴れるフタ。それが『怒り』という感情の正体なんじゃ。じゃがな、美希。本当に大切なのは、そのフタがなぜ暴れておるのかではない。そのフタの下で、一体何がそんなにも激しく煮え立っておるのか。それを知ることこそが、肝要なんじゃよ」
モフ様の言葉が、まるで清らかな水が染み込むように、すとんと胸に落ちてきた。今まで考えたこともなかった視点だった。怒りは、ただそこにある感情だと思っていた。原因があって、結果として怒りが生まれる。そんな単純な図式でしか、捉えていなかった。
「フタの下…」
私は、その言葉をゆっくりと反芻した。鍋と、フタと、ぐつぐつと煮えたぎる中身。その光景が、ありありと目に浮かぶようだった。
「お主、昨日、後輩の田中さんにあの『B案』を出された時、最初に感じたのは、本当に『怒り』だったかの?」
モフ様は、私の心の最も深い場所を覗き込むように、静かに問いかけた。
「そうよ。当然でしょ。私が必死で考えた案を否定された直後に、横からしゃしゃり出てきて…!」
私は、反射的にそう答えた。あの時の感情は、紛れもなく怒りだったはずだ。カッと頭に血が上り、顔が熱くなる、あの感覚。
「ほんの、コンマ1秒前じゃ。ほんの僅かな、瞬きの間。その怒りという激しい感情がこみ上げてくる、その直前。お主の心に、冷たい針のように、チクリと刺さったものは、なんじゃった?」
コンマ1秒前…。
その言葉に、私は動きを止めた。歯ブラシを口にくわえたまま、洗面台の鏡に映る自分の顔を見つめる。必死に、あの瞬間の記憶を巻き戻す。スローモーションで、コマ送りで、自分の心の動きをトレースしていく。
クライアントたちが、私のプレゼンテーションを聞き終えた後の、あの失望を隠せない、微妙な表情。
上司が、冷ややかに、まるで値踏みするかのように私を見た、あの視線。
そして、私の企画書が、何週間も心血を注いだあの紙の束が、一瞬にして何の価値もないものだと突きつけられた、あの瞬間。
田中さんが、颯爽と、そして完璧なタイミングで「実は、別案も用意しておりまして」と切り出した、あの声。
そうだ。あの時、田中さんのB案が提示され、皆がそれに賛同の意を示した、その瞬間。私の心に最初に吹き荒れた嵐は、怒りではなかった。
「……あ」
声にならない声が、漏れた。
怒りじゃ、なかった。
最初に感じたのは、「(私の頑張りは、一体何だったんだろう。全部、無駄だったんだ…)」という、深い、深い、悲しさ。
次に感じたのは、「(なんて、情けないんだろう。後輩に、こんな形で助けられるなんて…)」という、身を縮めるような、惨めさ。
そして、最後に心を支配したのは、「(このままじゃ、私はこの会社に必要ないのかもしれない…)」という、足元が崩れ落ちるような、得体の知れない怖さ。
そうだ。私は、悲しくて、惨めで、怖かったんだ。それが、私の心の真実だった。そのどうしようもなく柔らかく、脆い感情の奔流に耐えきれなくなった時、私は初めて「怒り」という感情に飛びついたのだ。
その事実に思い至った瞬間、視界が急速に滲んでいくのを感じた。涙が、また、頬を伝って流れ落ちる。でも、それは昨日、枕を濡らした悔し涙とは、少しだけ色が違って見えた。昨日のは、燃えるような、しょっぱい涙だった。今日のは、凍てついた心をそっと溶かしていくような、温かい涙だった。
「その通りじゃ」
私の心の内をすべて見透かしたかのように、モフ様が、いつになく優しい声で言った。
「悲しい、惨め、怖い。そういった感情は、一次感情と呼ばれる。それはあまりに繊細で、柔らかく、傷つきやすい。むき出しのままでは、心が壊れてしまうこともあるほどじゃ。だからお主の心は、自分自身を守るために、『怒り』という二次感情の、硬い、硬いヨロイを、とっさに身に着けたんじゃよ」
怒りのヨロイ…。
その言葉は、まるで魔法のように、私のこれまでの人生の様々な場面を解き明かしてくれた。
言われてみれば、そうだ。悲しい顔や怖い顔をして、自分の弱さをさらけ出すよりも、眉を吊り上げて怒った顔をしている方が、自分が強く見える気がする。これ以上、誰にも傷つけられないように。これ以上、惨めな自分を見なくて済むように。他人に、そして自分自身にさえも、弱さを悟られないように、私は無意識のうちに怒りの仮面を被り、ヨロイを纏っていたのだ。
些細なことでイライラしたり、他人の言動をすぐに攻撃だと感じてしまったりしていたのも、すべてはこのヨロイのせいだったのかもしれない。
「怒ること自体は、決して悪ではない。先ほども言うた通り、それは心の大切な防衛本能じゃからの。問題なのは、そのヨロイを着ていること自体に無自覚なことじゃ。そのヨロイを着たままでは、フタの下で本当は何が煮え立っているのか、永遠にわからんままじゃよ。そして、同じ理由で、何度も何度も、お主は新しいヨロイを着込むことになる。ヨロイはどんどん厚く、重くなり、やがてお主自身を動けなくしてしまうじゃろう」
私は、もう一度、洗面台の鏡に映る自分を見た。
目の下には、寝不足を物語るうっすらとしたクマができていて、髪もボサボサだ。間違いなく、ひどい顔。でも、その瞳の奥にある「本当の気持ち」に、ほんの少しだけ触れることができた気がした。鏡の向こうにいるのは、ただ怒りっぽくて扱いにくい私ではなく、悲しくて、惨めで、怖がっている、小さな女の子だった。
「では、モフ様…私は、これからどうすればいいの…?」
か細い声で尋ねる私に、モフ様はこともなげに答えた。
「簡単じゃよ」
そう言うと、モフ様は、一体どこから取り出したのか、新しいかりんとうを手にしながら、得意げに言った。
「次に『ムカッ』としたら、一度、心の中で立ち止まるんじゃ。深呼吸を一つするくらいの、ほんの少しの間でいい。そして、こう自分自身に問うてみるがよい。『のう、ワタシよ。今、ワタシは、一体何から自分を守ろうとしておるんじゃ?』と。…さて、話はここまでじゃ。もうすぐ、朝の連ドラが始まる時間での」
モフ様はそれだけ言い放つと、くるりと踵を返し、リビングのテレビの前へとトコトコと移動し、一番見やすい特等席に陣取ってしまった。その切り替えの早さに、私は呆気にとられたが、不思議と心はさっきよりもずっと軽くなっていた。
怒りの仮面の下にある、私の本当の心。
それはきっと、私が思っているよりもずっと弱くて、繊細で、そして優しいのかもしれない。
その心の声に耳を澄まし、それを見つけるための、長くて、そして少しだけ楽しみな一日が、今、始まろうとしていた。窓から差し込む朝の光が、昨日までとは少しだけ違って、私の未来を照らしているように感じられた。
重く、まるで鉛を含んだかのようなまぶたをゆっくりと持ち上げる。指先でごしごしとこすってみるが、視界を覆う乳白色の靄は晴れない。ぼんやりと見上げた天井の、ありふれた白い壁紙の模様が、ゆらゆらと歪んで見える。時間の感覚が曖昧で、自分が今どこにいて、何をしようとしていたのか、すぐには思い出せなかった。
(……夢、だったのかな)
昨夜の出来事が、脳裏に断片的に蘇る。それはあまりにも現実離れしていて、まるで質の悪いファンタジー映画のワンシーンのようだった。疲弊しきった心が、救いを求めて見せた都合のいい幻だったのかもしれない。そう考えた方が、よほど理に適っている。しゃべるヌイグルミ、モフ様、そして自らを神と名乗る、そのふてぶてしい態度。ありえない、そんなことが現実にあるはずがない。
そう自分に言い聞かせようとすればするほど、思考は別の方向へと滑り落ちていく。夢であってほしいと願う一方で、もしあれが夢だったとしたら、私に残されるのは、何の救いもない、ただただ惨めな現実だけだ。その事実に気づくと、昨日の会議室で味わった屈辱と悔しさが、冷たい泥水のようにじわじわと胸の内に広がってくるのを感じた。
「やっぱりムカつく……」
喉の奥から、自分でも驚くほど低く、掠れた声が漏れた。
昨日、プロジェクトの定例会議で、上司に投げつけられた言葉が耳の奥で反響する。「君の企画書は、熱意は買うけど、具体性に欠けるんだよな」。その言葉自体は、ビジネスの場ではありふれた指摘に過ぎないのかもしれない。だが、その言い方には、私の数週間にわたる努力を鼻で笑うかのような、冷ややかな響きがまとわりついていた。
そして、追い打ちをかけるように差し出された、後輩の田中さんの企画書。彼女の、あの悪気の一切感じられない、むしろ先輩を助けてあげましたとでも言いたげな、完璧な笑顔。彼女の用意した「B案」は、私の企画の弱点を的確にカバーし、クライアントが求めていたであろう要素を完璧に盛り込んでいた。鮮やかで、的確で、そして、残酷なまでに優秀だった。
思い出すだけで、腹の底から黒く、熱い感情がマグマのようにせり上がってくる。それは単なる怒りという言葉では表現しきれない、嫉妬と自己嫌悪と焦燥感がどろどろに混じり合った、醜悪な塊だった。どうして、私だけがこんな目に。どうして、私の頑張りはいつも空回りするのだろう。
そんな暗い思考の渦に沈みかけていた、その時だった。
「お主、朝から随分と難しい顔をしておるのう。眉間に深い谷を刻んで、せっかくの器量が台無しじゃぞ」
その声に、私の心臓は文字通り、喉から飛び出しそうなくらい激しく跳ね上がった。全身の血が逆流し、指先が一瞬で氷のように冷たくなる。聞き覚えのある、しかしこの部屋に存在するはずのない、年寄りじみた、それでいて妙に張りのある声。
恐る恐る、ぎこちない動きで声のした方へ視線を向ける。ベッドの脇に置いた、雑誌やリモコンが雑然と積まれたローテーブルの上。そこに、それはいた。
ちょこんと、しかし妙な貫禄を持って座ったモフ様が、つぶらな黒い瞳で私の顔をじっと見つめていた。陽の光を浴びて、そのクリーム色の毛並みはふわりと輝いて見える。そして、極めつけに、その短い手のひらには、なぜか一本の黒々とした「かりんとう」が、まるで王の持つ笏のように、恭しく握られていた。
「ゆ、ゆ、夢じゃ……なかった……!」
絞り出した声は情けなく震え、裏返っていた。現実が、私の最後の希望的観測を粉々に打ち砕いた瞬間だった。
「何を朝っぱらから寝ぼけたことを言っておる。それより、この家の常備かりんとうは、ちと黒糖のパンチが足りんのう。次はもう少しこう、ガツンとくるやつを頼むぞ、美希」
モフ様はそう言うと、握っていたかりんとうを、カリリ、と小気味よい音を立ててかじった。そのあまりに堂々とした態度、あまりに俗世的な要求に、私の恐怖や混乱は一瞬で吹き飛んだ。
「なんでそんなに初対面から偉そうなのよ!」
思わず、心の底からのツッコミを入れてしまった。しかし、その言葉を発したことで、私は目の前のこの超常的な光景が紛れもない現実なのだと、認めざるを得なかった。私の、そこそこ平穏で、そして悩みに満ち満ちた一人暮らしは、昨日という日をもって、劇的な終わりを告げたのだ。このしゃべるぬいぐるみ、いや、神様によって。
重いため息が、部屋の空気を揺らす。諦めにも似た感情を抱えながら、私はのろのろとベッドから這い出した。カーテンを開けると、灰色のビル群の隙間から、夏の気配を帯びた朝日が差し込んでくる。その光は、私の混沌とした心とは裏腹に、やけに明るく、希望に満ちているように見えた。
クローゼットから適当な服を取り出して着替え、洗面所へと向かう。その後ろを、短い足でトコトコと、小さな足音を立てながらモフ様がついてくるのが気配で分かった。まるで雛鳥が親鳥の後を追うようだが、その存在感は親鳥どころか、猛禽類に匹敵するほどのプレッシャーを放っている。
冷たい水で顔を洗い、歯ブラシに歯磨き粉を乗せた、まさにその時だった。
「美希よ」
足元から、再びその声がした。見下ろすと、モフ様が私のスリッパのすぐ横で、上目遣いにこちらを見上げている。
「昨日の話の続きじゃ」
「昨日の…?」
口をゆすぎながら、怪訝な顔で聞き返す。昨日はあまりに衝撃的なことばかりで、まともな会話をした記憶があまりない。
「『怒り』の話じゃよ。お主は今も、昨日の会議室での出来事を思い出しては、腹の底でムカムカとした炎を燃やしておるじゃろ」
図星だった。それも、ど真ん中の、完璧な図星だった。
歯を磨く単調な動きを繰り返しながらも、私の頭の中では、昨日の会議室の光景が、悪夢のようにエンドレスで再生されていた。上司の冷たい視線、クライアントのがっかりした溜息、そして田中さんの、あの輝くような笑顔。それらがワンセットになって、私の心を何度も何度も抉ってくる。
「当たり前でしょ。あんな理不尽な態度をとられたら、誰だって怒るに決まってるじゃない」
私は、少し苛立った声で言い返した。まるで、自分の感情が正当なものであることを、この小さな神様に証明したかったのかもしれない。
「ふむ。では、その『怒り』とは、一体なんじゃろうな」
モフ様はそう言うと、洗面台の隅に置いてあった、空のマグカップを、短い手でコンコン、と軽く叩いた。その乾いた音が、やけに大きく響く。
「怒りという感情はのう、鍋のフタのようなものじゃ」
「鍋のフタ?」
意味が分からず、私は眉をひそめた。
「そうじゃ。考えてみよ。鍋の中身、例えばカレーでもシチューでもよいが、それがぐつぐつと激しく煮えたぎると、どうなる?」
「どうって…フタが蒸気で持ち上がって、カタカタ鳴るでしょ」
「うむ。その、蒸気の圧力に耐えきれず、カタカタと音を立てて暴れるフタ。それが『怒り』という感情の正体なんじゃ。じゃがな、美希。本当に大切なのは、そのフタがなぜ暴れておるのかではない。そのフタの下で、一体何がそんなにも激しく煮え立っておるのか。それを知ることこそが、肝要なんじゃよ」
モフ様の言葉が、まるで清らかな水が染み込むように、すとんと胸に落ちてきた。今まで考えたこともなかった視点だった。怒りは、ただそこにある感情だと思っていた。原因があって、結果として怒りが生まれる。そんな単純な図式でしか、捉えていなかった。
「フタの下…」
私は、その言葉をゆっくりと反芻した。鍋と、フタと、ぐつぐつと煮えたぎる中身。その光景が、ありありと目に浮かぶようだった。
「お主、昨日、後輩の田中さんにあの『B案』を出された時、最初に感じたのは、本当に『怒り』だったかの?」
モフ様は、私の心の最も深い場所を覗き込むように、静かに問いかけた。
「そうよ。当然でしょ。私が必死で考えた案を否定された直後に、横からしゃしゃり出てきて…!」
私は、反射的にそう答えた。あの時の感情は、紛れもなく怒りだったはずだ。カッと頭に血が上り、顔が熱くなる、あの感覚。
「ほんの、コンマ1秒前じゃ。ほんの僅かな、瞬きの間。その怒りという激しい感情がこみ上げてくる、その直前。お主の心に、冷たい針のように、チクリと刺さったものは、なんじゃった?」
コンマ1秒前…。
その言葉に、私は動きを止めた。歯ブラシを口にくわえたまま、洗面台の鏡に映る自分の顔を見つめる。必死に、あの瞬間の記憶を巻き戻す。スローモーションで、コマ送りで、自分の心の動きをトレースしていく。
クライアントたちが、私のプレゼンテーションを聞き終えた後の、あの失望を隠せない、微妙な表情。
上司が、冷ややかに、まるで値踏みするかのように私を見た、あの視線。
そして、私の企画書が、何週間も心血を注いだあの紙の束が、一瞬にして何の価値もないものだと突きつけられた、あの瞬間。
田中さんが、颯爽と、そして完璧なタイミングで「実は、別案も用意しておりまして」と切り出した、あの声。
そうだ。あの時、田中さんのB案が提示され、皆がそれに賛同の意を示した、その瞬間。私の心に最初に吹き荒れた嵐は、怒りではなかった。
「……あ」
声にならない声が、漏れた。
怒りじゃ、なかった。
最初に感じたのは、「(私の頑張りは、一体何だったんだろう。全部、無駄だったんだ…)」という、深い、深い、悲しさ。
次に感じたのは、「(なんて、情けないんだろう。後輩に、こんな形で助けられるなんて…)」という、身を縮めるような、惨めさ。
そして、最後に心を支配したのは、「(このままじゃ、私はこの会社に必要ないのかもしれない…)」という、足元が崩れ落ちるような、得体の知れない怖さ。
そうだ。私は、悲しくて、惨めで、怖かったんだ。それが、私の心の真実だった。そのどうしようもなく柔らかく、脆い感情の奔流に耐えきれなくなった時、私は初めて「怒り」という感情に飛びついたのだ。
その事実に思い至った瞬間、視界が急速に滲んでいくのを感じた。涙が、また、頬を伝って流れ落ちる。でも、それは昨日、枕を濡らした悔し涙とは、少しだけ色が違って見えた。昨日のは、燃えるような、しょっぱい涙だった。今日のは、凍てついた心をそっと溶かしていくような、温かい涙だった。
「その通りじゃ」
私の心の内をすべて見透かしたかのように、モフ様が、いつになく優しい声で言った。
「悲しい、惨め、怖い。そういった感情は、一次感情と呼ばれる。それはあまりに繊細で、柔らかく、傷つきやすい。むき出しのままでは、心が壊れてしまうこともあるほどじゃ。だからお主の心は、自分自身を守るために、『怒り』という二次感情の、硬い、硬いヨロイを、とっさに身に着けたんじゃよ」
怒りのヨロイ…。
その言葉は、まるで魔法のように、私のこれまでの人生の様々な場面を解き明かしてくれた。
言われてみれば、そうだ。悲しい顔や怖い顔をして、自分の弱さをさらけ出すよりも、眉を吊り上げて怒った顔をしている方が、自分が強く見える気がする。これ以上、誰にも傷つけられないように。これ以上、惨めな自分を見なくて済むように。他人に、そして自分自身にさえも、弱さを悟られないように、私は無意識のうちに怒りの仮面を被り、ヨロイを纏っていたのだ。
些細なことでイライラしたり、他人の言動をすぐに攻撃だと感じてしまったりしていたのも、すべてはこのヨロイのせいだったのかもしれない。
「怒ること自体は、決して悪ではない。先ほども言うた通り、それは心の大切な防衛本能じゃからの。問題なのは、そのヨロイを着ていること自体に無自覚なことじゃ。そのヨロイを着たままでは、フタの下で本当は何が煮え立っているのか、永遠にわからんままじゃよ。そして、同じ理由で、何度も何度も、お主は新しいヨロイを着込むことになる。ヨロイはどんどん厚く、重くなり、やがてお主自身を動けなくしてしまうじゃろう」
私は、もう一度、洗面台の鏡に映る自分を見た。
目の下には、寝不足を物語るうっすらとしたクマができていて、髪もボサボサだ。間違いなく、ひどい顔。でも、その瞳の奥にある「本当の気持ち」に、ほんの少しだけ触れることができた気がした。鏡の向こうにいるのは、ただ怒りっぽくて扱いにくい私ではなく、悲しくて、惨めで、怖がっている、小さな女の子だった。
「では、モフ様…私は、これからどうすればいいの…?」
か細い声で尋ねる私に、モフ様はこともなげに答えた。
「簡単じゃよ」
そう言うと、モフ様は、一体どこから取り出したのか、新しいかりんとうを手にしながら、得意げに言った。
「次に『ムカッ』としたら、一度、心の中で立ち止まるんじゃ。深呼吸を一つするくらいの、ほんの少しの間でいい。そして、こう自分自身に問うてみるがよい。『のう、ワタシよ。今、ワタシは、一体何から自分を守ろうとしておるんじゃ?』と。…さて、話はここまでじゃ。もうすぐ、朝の連ドラが始まる時間での」
モフ様はそれだけ言い放つと、くるりと踵を返し、リビングのテレビの前へとトコトコと移動し、一番見やすい特等席に陣取ってしまった。その切り替えの早さに、私は呆気にとられたが、不思議と心はさっきよりもずっと軽くなっていた。
怒りの仮面の下にある、私の本当の心。
それはきっと、私が思っているよりもずっと弱くて、繊細で、そして優しいのかもしれない。
その心の声に耳を澄まし、それを見つけるための、長くて、そして少しだけ楽しみな一日が、今、始まろうとしていた。窓から差し込む朝の光が、昨日までとは少しだけ違って、私の未来を照らしているように感じられた。
21
あなたにおすすめの小説
神眼の鑑定師~女勇者に追放されてからの成り上がり~大地の精霊に気に入られてアイテム作りで無双します
すもも太郎
ファンタジー
伝説級勇者パーティーを首になったニースは、ギルドからも放逐されて傷心の旅に出る。
その途中で大地の精霊と運命の邂逅を果たし、精霊に認められて加護を得る。
出会った友人たちと共に成り上がり、いつの日にか国家の運命を変えるほどの傑物となって行く。
そんなニースの大活躍を知った元のパーティーが追いかけてくるが、彼らはみじめに落ちぶれて行きあっという間に立場が逆転してしまう。
大精霊の力を得た鑑定師の神眼で、透視してモンスター軍団や敵国を翻弄したり、創り出した究極のアイテムで一般兵が超人化したりします。
今にも踏み潰されそうな弱小国が超大国に打ち勝っていくサクセスストーリーです。
※ハッピーエンドです
クラス転移で無能判定されて追放されたけど、努力してSSランクのチートスキルに進化しました~【生命付与】スキルで異世界を自由に楽しみます~
いちまる
ファンタジー
ある日、クラスごと異世界に召喚されてしまった少年、天羽イオリ。
他のクラスメートが強力なスキルを発現させてゆく中、イオリだけが最低ランクのEランクスキル【生命付与】の持ち主だと鑑定される。
「無能は不要だ」と判断した他の生徒や、召喚した張本人である神官によって、イオリは追放され、川に突き落とされた。
しかしそこで、川底に沈んでいた謎の男の力でスキルを強化するチャンスを得た――。
1千年の努力とともに、イオリのスキルはSSランクへと進化!
自分を拾ってくれた田舎町のアイテムショップで、チートスキルをフル稼働!
「転移者が世界を良くする?」
「知らねえよ、俺は異世界を自由気ままに楽しむんだ!」
追放された少年の第2の人生が、始まる――!
※本作品は他サイト様でも掲載中です。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
お花畑な母親が正当な跡取りである兄を差し置いて俺を跡取りにしようとしている。誰か助けて……
karon
ファンタジー
我が家にはおまけがいる。それは俺の兄、しかし兄はすべてに置いて俺に勝っており、俺は凡人以下。兄を差し置いて俺が跡取りになったら俺は詰む。何とかこの状況から逃げ出したい。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
帰って来た勇者、現代の世界を引っ掻きまわす
黄昏人
ファンタジー
ハヤトは15歳、中学3年生の時に異世界に召喚され、7年の苦労の後、22歳にて魔族と魔王を滅ぼして日本に帰還した。帰還の際には、莫大な財宝を持たされ、さらに身につけた魔法を始めとする能力も保持できたが、マナの濃度の低い地球における能力は限定的なものであった。しかし、それでも圧倒的な体力と戦闘能力、限定的とは言え魔法能力は現代日本を、いや世界を大きく動かすのであった。
4年前に書いたものをリライトして載せてみます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる