過労死したので来世は平穏に暮らしたい。なのに、うっかり英雄になってしまい、東では国を救った元悪役令嬢が俺の噂をしていた。

Gaku

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第七部 救世主の「日常」と、皇帝の「遊戯」

第1話:『最弱の王と、朝食のバグ』

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 その朝、世界はいつものように、穏やかな光と共に幕を開けるはずだった。

 初夏の風が、ユグドラシル王国の王城の窓を優しく叩いている。レースのカーテンがふわりと膨らみ、その隙間から射し込む陽光が、部屋の中を舞う小さな塵(ちり)を黄金色に染め上げていた。
 遠くからは小鳥のさえずりが聞こえ、王都の目覚めを告げる教会の鐘の音が、重厚な余韻を残して空気に溶けていく。
 庭園からは、露に濡れた若草の匂いと、咲き誇る白薔薇の甘やかな香りが漂ってくる。平和だ。絵画のように完璧で、退屈なほどに平和な朝だった。

 そんな至福の朝、国王の寝室にある巨大な天蓋付きベッドの中で、一人の男が死にそうな顔で呻(うめ)いていた。

「……体が……鉛のように、重い……」

 ユウキである。
 かつて指先一つ、デコピン一発で神話級のドラゴンを消し飛ばし、大陸を震撼させた「魔王」としての力は、もうない。
 今の彼は、ただの二十代前半の、虚弱な人間に過ぎなかった。
 布団を跳ね除(の)けようとして、腕に力が入らず、情けなくシーツに沈み込む。

「はぁ……はぁ……。布団が、俺を離してくれない……」

 それは物理的な拘束ではなく、単なる筋力不足と、圧倒的な怠惰(たいだ)の引力だった。
 『管理者権限』の凍結。それが何を意味するのか、ユウキは身をもって知ることになった。それは単に魔法が使えなくなることではない。
 階段を三段登れば息が切れ、少し走れば脇腹が痛み、夜ふかしをすれば翌朝には顔がむくむ。
 つまり、普通の「生身の人間」になったのだ。

「……くっ、これが『スローライフ』の代償か。健康管理という新たなタスクが発生するとは……計算外だ」

 ユウキは震える手でサイドテーブルの水差しを掴み、コップに水を注ぐ。喉を通る冷たい水の感覚だけが、彼が生きていることを実感させてくれた。
 前世での社畜時代、過労で倒れそうになった朝の感覚がフラッシュバックする。
 思い通りにならない体。
 これが、仏教で言うところの『苦(ドゥッカ)』――つまり「ままならなさ」というやつだ。
 自分の体ですら、自分のものではない。ただの借り物のスーツのように、言うことを聞いてくれない。

「……起きるか」

 ユウキは覚悟を決めて、ベッドから這(は)い出した。
 重力という名の見えない鎖(くさり)に抗(あらが)いながら、一歩を踏み出す。
 朝日が眩(まぶ)しい。
 平和な一日が始まる。そう、信じていた。

 ***

 王城の食堂は、朝から戦場のような活気に包まれていた……はずだった。

「兄貴ィッ! おはようございやすッ!!」

 ドワーフのボルガが、食堂の扉が壊れんばかりの大声で挨拶をしてくる。その声の振動だけで、ユウキの三半規管が悲鳴を上げた。
 テーブルには、すでに騎士のガンツと妖精のピクシーが着席している。

「我が王よ! 顔色が優れませんな! まるで三日煮込んだポトフの野菜のようですぞ!」
「やかましいわ、ガンツ。……おはよう」
「ケッ、若いの。また夜中までコソコソやってたのかい? 色気のない顔しやがって」

 ピクシーが空になった酒瓶を抱えてゲラゲラと笑う。
 いつものメンバーだ。騒がしくて、面倒くさい、愛すべき連中。
 ユウキが重い足取りで席に着くと、厨房の扉が勢いよく開かれ、灼熱の熱気と共に「彼」が現れた。

「待たせたな、ユウキ。今日の朝食は、我が料理人人生の集大成だ」

 炎の竜人、イグニスである。
 彼は真剣な眼差(まなざ)しで、恭(うやうや)しく盆をテーブルに置いた。
 そこに乗っているのは、炊きたての白米。黄金色に輝く味噌汁。そして、桐(きり)の箱に鎮座する、一個の生卵。

「究極の、卵かけご飯だ」

 イグニスが低い声で宣言する。
 ただの卵かけご飯に、なぜここまで荘厳(そうごん)な雰囲気を纏(まと)わせることができるのか。

「この卵は、朝日を浴びて一番最初に鳴いた鶏(にわとり)から採取したものだ。殻の硬度、黄身の弾力、白身の粘度……すべてにおいて完璧なバランスを保っている」
「あー、はいはい。いただきます」

 ユウキは気のない返事をしながら、卵を手に取った。
 コン、コン。
 器の縁(ふち)で殻を叩き、親指で割れ目を開く。
 とろりとした透明な白身と、濃厚なオレンジ色の黄身が、重力に従って白米の上に落下する――その瞬間だった。

 ピタリ。

 卵の中身が、空中で止まった。
 テーブルの上、高さ十センチの空間に、生卵の中身が静止している。まるで、そこだけ時間が凍りついたかのように。

「……は?」

 ユウキの手が止まる。
 イグニスが目を見開く。

「な、なんだと……!? 物理法則を無視するほどの……弾力だというのか!?」
「いや違うだろイグニス。どう見てもおかしいだろ」

 ユウキが指で空中の黄身をつつこうとするが、指先は何もない壁に阻まれたように触れることができない。
 硬いのではない。「そこにあるのに、干渉できない」のだ。

「……おい、窓の外」

 ピクシーが酒瓶を落とし、震える指で窓を指差した。
 全員の視線が、食堂の大きな窓に向けられる。
 そこに広がっていたのは、爽やかな初夏の青空ではなかった。

 ザザッ、ザザッ。

 空が、明滅(めいめつ)している。
 鮮やかな「青」だった空が、数秒ごとに毒々しい「紫」に変わり、その境界線がノイズのように走っている。
 美しい風景画の上から、子供が乱暴に紫色の絵の具をぶちまけたような、不気味な景色。
 さらに、空の裂け目のような紫色の空間から、巨大な「何か」が一瞬だけ覗(のぞ)いた。
 それは、雲よりも巨大な、無機質な「眼球」のように見えた。

「な、なんだあれは……! 空が、腐っているのですか!?」

 ガンツが椅子を蹴倒して立ち上がる。
 その時、食堂に給仕のメイドが入ってきた。ポットを持った彼女は、異変に気づく様子もなく、笑顔でユウキに近づいてくる。

「おはようございます、ユウキ様。お茶はいかがですか」
「あ、ああ。頼む」
「おはようございます、ユウキ様。お茶はいかがですか」
「……え?」
「おはようございます、ユウキ様。お茶はいかがですか」

 メイドの動きが、不自然に繰り返されていた。
 一歩進んでは、カクンと体が震え、また同じ位置に戻って同じセリフを吐く。
 まるで、傷ついたレコード盤が同じフレーズを永遠に奏でるように。
 彼女の瞳には光がなく、ただプログラムされた役割を遂行するだけの、がらんどうの人形に見えた。

「ひぃっ!? な、なんだこいつ! 気持ち悪いぞ!」

 ボルガが斧(おの)を構える。
 ユウキは、静止した卵と、点滅する空、そして壊れたラジオのように繰り返すメイドを交互に見て、深くため息をついた。
 頭痛がする。
 平和な日常? スローライフ?
 そんなものは、この世界の「仕様」には含まれていないらしい。

「……『諸行無常(しょぎょうむじょう)』ってやつだな」

 ユウキは呟く。
 すべてのものは移ろいゆく。永遠に続く日常なんてない。形あるものは壊れ、システムはいつか破綻(はたん)する。
 それが世界の真理だと知ってはいたが、まさか朝食の卵かけご飯でそれを悟ることになるとは。

「ユウキ様ッ!!」

 食堂の扉が乱暴に開かれ、リリアとアレクシスが転がり込んできた。
 二人の顔色は蒼白だ。

「大変ですわ! 王城内の魔力濃度(マナ・フィールド)が異常な数値を示しています! 空間の座標がズレ始めていますの!」
「はぁ、はぁ……。城の東側廊下が、ループ構造になっています。何度歩いても、同じ壺(つぼ)の前、同じ壺の前……これは、極めて非合理的な空間ねじれ現象、すなわち……」

 アレクシスが眼鏡を押し上げ、絶望的な声で言った。

「世界が、処理落ち(ラグ)を起こしています」

 ***

 城の中庭に出ると、事態はさらに深刻だった。
 美しかった薔薇(ばら)の花壇は、半分が灰色のブロック状の物体に置き換わっている。
 そして、空間の裂け目から、奇妙な獣たちが這い出してきていた。
 狼(おおかみ)のようだった。
 だが、それは生物としての狼ではない。
 体が角張っていて、毛並みの質感がない。まるで積み木か、作りかけの粘土細工のような、のっぺりとした灰色の狼たち。
 関節がありえない方向に曲がり、カカカカッという乾燥した音を立てて迫ってくる。

「グルルルル……」

 その咆哮(ほうこう)もまた、獣の声ではなく、金属を擦(こす)り合わせたようなノイズ音だった。

「なんだこいつら! 斬っても手応えがねえぞ!」

 ボルガが戦斧を振り下ろすが、狼の体は霧のように斧をすり抜け、直後に実体化して牙を剥(む)く。
 物理的な干渉が不安定なのだ。

「聖なる光よ! ……くっ、魔法が発動しない!?」

 ガンツが剣を掲げるが、光は明滅して消えてしまう。
 世界の法則そのものが、不安定に揺らいでいる。
 狼の一匹が、無防備なユウキに向かって跳躍した。

「ユウキ!」

 イグニスが飛び込もうとするが、距離がある。
 ユウキの目の前に、角張った牙が迫る。
 死。
 その予感に、ユウキの心臓が早鐘を打つ。
 だが、不思議と恐怖は薄かった。
 彼の脳裏に浮かんだのは、かつて読んだ古い経典の一節だ。

 ――実体などない。すべては現象に過ぎない。

(こいつらは、生き物じゃない。ただの『現象』だ)

 ユウキは動かなかった。逃げようとしても、今の鈍った体では間に合わない。
 代わりに、彼は「観(み)た」。
 恐怖という色眼鏡を外し、ありのままの事実だけを観察する。
 狼の動き。
 跳躍の角度。
 その軌道は、あまりにも直線的で、機械的だった。
 まるで、「そう動くこと」しか許されていないかのように。

「……右だ」

 ユウキは一歩だけ、左に身を沈めた。
 狼の牙が、ユウキの髪を数本切り裂いて、空(くう)を通過していく。
 予測通り。
 こいつらの動きには「意志」がない。単純なルールの反復だ。

「みんな、聞け! こいつらは生き物じゃない! 目を見るな、足を見ろ!」

 ユウキの声が、混乱する戦場に響き渡る。
 力のない、ただの青年の声。だが、そこには不思議な説得力があった。

「攻撃の前に、必ず三回、小刻みにステップを踏む! それが合図だ!」
「なんですと!?」
「リリア、魔法を撃つな! 空間に固定しろ! こいつらの座標をズラすだけでいい!」
「む、無茶言いますわね! ……でも、やってみます!」

 リリアが杖を振るい、狼の足元の空間を歪(ゆが)ませる。
 単純な突進しかできない狼たちは、バランスを崩して次々と転倒し、お互いに衝突してノイズとなって消滅していく。

「ボルガ、ガンツ! 倒れたやつの『影』を叩け! 本体じゃなくて、地面の影だ!」
「影!? わけわかんねえが、信じるぜ兄貴ィッ!」

 ボルガが地面の影に向かって斧を叩きつける。
 すると、本体の狼が「ギャッ」という電子音のような悲鳴を上げて砕け散った。
 本体の判定がズレていることを見抜いたのだ。

 ユウキは、戦場の指揮者のように立ち尽くしていた。
 左手首が熱い。
 見ると、袖口から覗く手首に、黒い線で描かれた奇妙な紋様――バーコードのような痣(あざ)が浮かび上がっていた。
 痛くはない。だが、それが「お前は管理される側の存在だ」と告げているようで、不愉快だった。

「……はぁ、はぁ。片付いたか」

 最後の狼がノイズとなって消え、庭園に静寂が戻る。
 ユウキはその場にへたり込んだ。
 膝が笑っている。心臓がうるさい。冷や汗が背中を伝う。
 これが、力なき者の戦いか。
 かつてのように、力任せにねじ伏せることはできない。
 相手を観察し、法則を見抜き、因果の流れを読み解く「知恵」だけが武器だ。

「ユウキ様! ご無事ですか!」

 駆け寄ってくる仲間たち。
 メイドたちも正気に戻ったのか、呆然と立ち尽くしている。
 だが、空の色はまだおかしい。
 紫色の亀裂の向こうから、あの巨大な視線が、じっとこちらを見下ろしているのを感じる。

 ユウキは空を見上げ、苦々しく笑った。

「……やれやれ。人生ってのは、どうしてこうも、思い通りにいかない(一切皆苦)のかね」

 スローライフは、またもお預けだ。
 世界というシステムが、音を立てて軋(きし)み始めている。
 それを直せるのは、あるいは壊せるのは、この理不尽な世界で唯一「外側の理屈」を知る自分しかいない。

「……しゃーない。やるか」

 ユウキは膝についた土を払い、立ち上がる。
 その背中は少し丸まっていて、やる気のかけらも感じられなかったが、瞳の奥だけは、静かに、そして鋭く光っていた。
 それは、膨大なバグと無理難題を前にした、熟練の技術者(エンジニア)のような、諦めと覚悟が入り混じった目だった。

「とりあえず、イグニス」
「なんだ」
「卵かけご飯、作り直しな」
「……承知した」

 世界が壊れかけていても、まずは腹ごしらえだ。
 最弱の王の、最高に面倒くさい一日が、こうして始まったのである。

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感想 67

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みんなの感想(67件)

トム
2025.09.06 トム

数多のファンタジー作品がある中で、本作の主人公ユウキのキャラクターは際立って異質です。彼は正義感に燃えるわけでも、野心があるわけでもなく、ただひたすらに「面倒くさい」と感じ、早く帰って寝たいと願っている。しかし、その手には世界を覆すほどの絶大な力が秘められている。このアンバランスさが、彼の行動すべてを予測不可能で面白いものにしています。彼の「デコピン」は、単なる物理的な破壊行為ではなく、既存の価値観や権力構造そのものへの強烈なアンチテーゼです。英雄たちが築き上げてきた秩序を、やる気のない男があっさりと塗り替えてしまう。そんな常識破りな展開が、私たち読者に新しい価値観と自由な発想の面白さを教えてくれました。

解除
なの
2025.09.06 なの

息を呑むような美しい情景描写から始まり、緊張感あふれる外交戦、そして予想の斜め上を行く破天荒なクライマックスまで、一瞬たりとも目が離せない、極上のエンターテイメント作品でした。テンポの良い文章と、魅力的なキャラクターたちの掛け合いが心地よく、ページをめくる手が止まりません。特に、シリアスとコメディの緩急の付け方が絶妙で、読者を飽きさせない工夫が随所に凝らされています。伝説の始まりを予感させるラストは、壮大な物語への期待感を煽り、読後には「早く続きが読みたい!」という強い興奮が残りました。難しいことを考えずに、ただ物語の世界に浸って楽しめる、まさに王道の面白さが詰まった一作です。

解除
papa
2025.09.06 papa

本作は、ファンタジーの形式を借りて、現代社会にも通じる「権威」や「建前」の虚しさを痛烈に風刺しているように感じました。中身のない会話を交わす貴族たち、自らの権威を誇示するためだけに歴史を捏造する帝国、そして論理が通じなくなると暴力に訴える皇帝。これらの姿は、現実世界の形骸化した会議や権力者の横暴を彷彿とさせ、非常に滑稽です。そんな欺瞞に満ちた空間を、ユウキの「やる気のないデコピン」という、権威とは最も無縁な行為が破壊してしまう構図は、最高の皮肉でありカタルシスです。本当に強いもの、本質的な価値とは何かを、ユーモアたっぷりに問いかけてくる、示唆に富んだ物語でした。

解除

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