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第四部:偽りの英雄と本物の絆
第四十六話:穏やかなる日々の、小さな亀裂
しおりを挟むアルバ公爵との戦いから、数ヶ月が過ぎた。
まるで悪夢のような戦乱が、最初からこの世界に存在しなかったかのように、ロゼンベルグとユグドラシルの間には、奇妙で、しかし確かな平穏が流れていた。
初夏の陽光は、まるで腕利きの職人が磨き上げた銀食器のように、一点の曇りもなくロゼンベルグ王城の庭園に降り注いでいる。手入れの行き届いた芝生は目に鮮やかな緑の絨毯となり、その上で、名前も知らない小さな白い花々が、はにかむように咲いていた。
城のテラスでは、一人の王女と一人の王が、優雅なティータイムを過ごしている。
……過ごしている、はずだった。
「だから、なぜ嫌なのですか!国家間の物流、安全保障、文化交流の観点から、両国の関係性を明文化し、盤石なものとすることに、何か不利益でも?」
ソフィア・フォン・ロゼンベルグは、完璧な所作でティーカップをソーサーに戻しながら、完璧な微笑みの下に、般若のような表情を隠していた。風が彼女の美しい金髪を優しく揺らし、手ずから淹れた紅茶からは、ベルガモットの爽やかな香りが立ち上っている。その一つ一つの動き、風景の構成要素のすべてが、一枚の美しい絵画のように完成されている。
だが、その完璧な絵画の中で、たった一つ、致命的な染みが存在した。
「うーん……なんていうかさ、『じょーやく』って言葉の響きが、もう、ダメなんだよな」
リクライニングチェアに深く深く、これ以上ないというほど深く身を沈めた男――ユグドラシルの王、ユウキは、うつらうつらとしながら、人生のすべてを拒絶するかのような声で呟いた。
「あのさ、分かるかな。週明けの月曜、朝九時からの全体朝礼みたいな響きなんだよ、条約って。偉い人が前に立って、ありがたいんだか何だかよく分からない、退屈な話を延々と聞かされて、最後にハンコとか押させられるんだろ?前世のトラウマが……うっ、頭が……」
「前世は存じませんが、あなたのそのトラウマと我が国の未来を天秤にかけるのは、いささか理不尽ではありませんこと?」
ソフィアのこめかみの血管が、ピクリと微かな痙攣を起こす。
彼女がこの数週間、不眠不休で練り上げた、両国の未来を左右するであろう重要な外交案件。それが今、目の前の男の「月曜朝礼が嫌だ」という、あまりにも矮小で、あまりにも個人的な理由によって、塵芥のように扱われている。
この男、ユウキ。西の果てに突如として現れた多種族国家ユグドラシルの王。たった一人で山脈を消し去り、大陸最強の騎士団を無力化し、世界のパワーバランスを根底から覆した、規格外の存在。
その実態は、面倒事を回避するためなら、地球の裏側まで逃げかねない、究極の面倒くさがり屋だった。
ソフィアは、心の奥底から沸き上がってくる深いため息を、かろうじて紅茶と共に飲み下した。
その、ある意味で平和なテラスの片隅では、別の種類の、しかし同じくらいどうでもいい戦いの火蓋が切られていた。
「ぬんっ!どうだガンツ殿!我が王女の平和を願うこの右腕の力が、貴殿の忠誠心を上回っているのではないかな!」
「うおおおっ!何を言うかカエルス殿!我が王の安眠を妨げる者は分子レベルで消滅させるこの剛腕が、砕けぬとでもお思いか!」
ロゼンベルグ王国最強の騎士カエルスと、ユグドラシルが誇る騎士団長ガンツ。二人の筋肉自慢は、「どちらの主君の護衛がより優れているか」という、永遠に答えの出ないテーマを掲げ、なぜか腕相撲で決着をつけようとしていた。
ミシミシ、と音を立てて軋むのは、ドワーフ族が作った樫のテーブルだ。二人の額から流れ落ちる汗が、テーブルの上に小さな水たまりを作っている。その凄まじい気迫は、まるで最終決戦に挑む勇者のようだが、議題は「どっちの主君が好きか」という、小学生レベルのそれである。
そして、その筋肉の祭典のすぐ隣では、もう一つの、凡人には到底理解できない超次元的な戦いが繰り広げられていた。
「……つまり、ユウキ殿がロゼンベルグ王城に現れた際の時空間転移。その際に観測されたエネルギー残滓は、既存のいかなる量子論の枠組みにも収まらない!このパラドックスをどう説明する!」
「だから、それはあなたの観測モデルが、いまだ三次元空間という古典的な檻に囚われているからですわ、アレクシス先生。十一次元超ひも理論におけるブレーンワールド間のトンネリング現象と仮定すれば、すべての計算式は、ほら、このように美しく収束しますのよ」
ロゼンベルグの頭脳である天才学者アレクシスと、ユグドラシルのマッドサイエンティストであるリリア。二人は、一枚の羊皮紙を挟んで、一瞬の瞬きすら惜しむかのように、超高速の議論を交わしていた。彼らの口から飛び出す言葉は、ソフィアですら半分も理解できない。それはもはや議論ではなく、互いの脳内に直接、数式と概念を叩きつけ合う、知性の殴り合いのようだった。
常人には呪文の詠唱にしか聞こえない言葉の応酬の中、二人の目だけが、獲物を見つけた肉食獣のように爛々と輝いている。
ソフィアは、目の前で同時多発的に繰り広げられるカオスな光景を眺めながら、もう一度、今度は諦めの境地で、紅茶を一口すすった。
腕力自慢のエージェントは、単純な「忠誠心」というルールに従って、ただひたすらに力をぶつけ合う。
知性自慢のエージェントは、「知的好奇心」というルールに従って、世界の真理を探求する。
そして、究極の省エネを信条とするエージェントは、「面倒事は避ける」という至上のルールに従って、現実から逃避しようとしている。
それぞれが、それぞれの単純な動機で動いているだけなのに、全体として、誰も設計していない、奇妙で、騒々しくて、そして、なぜか少しだけ愛おしい、一つの調和(?)が生まれている。
まるで、この国そのものみたいだわ。
そう思った時、ソフィアは、自分の心の奥底に、別の種類の、もっと冷たくて重い澱が沈んでいることに気づいた。
(静かすぎる……)
帝国も、聖教会も、そして、あの忌まわしいアルバ公爵も。
まるで、最初からこの世界に存在しなかったかのように、完全に沈黙している。
この完璧すぎる平穏。それは、あまりにも都合が良く、あまりにも不自然だった。
まるで、これから訪れる巨大な嵐が、息を潜めて力を溜めている、ほんの束の間の静けさのように。
ソフィアは、この幸福な光景に満ち足りた気持ちを感じながらも、その裏側にある、見えない何かの気配に、無意識に身構えていた。
思い通りにならないことこそが、苦しみの本質。ならば、この、すべてが思い通りに進んでいるかのように見える完璧な平和もまた、形を変えた、微細で根源的な不安の種なのかもしれない。
彼女は、言いようのない胸騒ぎを振り払うように、目の前の、最も分かりやすくて、最も厄介な問題に意識を戻した。
「ユウキさん」
「んー?」
「では、こうしましょう。もし、あなたがこの条約に調印してくださるなら、ユグドラシルでしか採れないという幻の香辛料『太陽の涙』を、ロゼンベルグ王家のルートで、毎月十キロ、あなた個人のためにお届けすることを、お約束しますわ」
「……なんだと?」
リクライニングチェアから、ギョロリとした目がソフィアに向けられる。その目は、先ほどまでの眠たげな光とは明らかに違う、欲望に満ちた肉食獣の光を放っていた。
『太陽の涙』。それは、ユグドラシルが誇る竜族の料理長イグニスが、「これさえあれば、究極の麻婆豆腐が完成するのに」と、ここ数ヶ月、毎日ユウキの耳元で嘆き続けている、伝説のスパイスだった。
「イグニスが、泣いて喜ぶだろうな……」
「ええ、きっと。それに、ボルガさんのための『命のエール』の原料となる特殊な麦も、優先的に回しましょう」
「なんと……!」
「リリアさんの研究室には、最新の魔導観測儀を……」
「乗った!」
ユウキは、バネ仕掛けのようにリクライニングチェアから跳ね起き、ソフィアの目の前に差し出された羊皮紙に、瞬時にサインを書き殴った。
そのあまりにも見事な手のひら返しに、ソフィアは完璧な微笑みを浮かべながら、内心、この国の未来は本当に大丈夫なのだろうかと、別の種類の不安を感じずにはいられなかった。
***
その頃、大陸の北。
灰色の雲が、一年中、鉛のように空に張り付いている、グランツ帝国。
その玉座の間は、人の感情というものが、生まれつき欠落しているかのように、冷たく、静まり返っていた。
玉座に座る皇帝ジークハルトの顔には、かつて大陸の覇者として君臨した威厳の光は、もはやない。ユウキという規格外の存在に、絶対的な自信とシステムを粉々に打ち砕かれた彼の瞳には、ただ失意の闇が広がっているだけだった。
その、時が止まったかのような空間に、一つの影が、音もなく滑り出るように現れた。
「陛下、お嘆きになることはありません」
声の主は、アルバ公爵。
かつてソフィアに敗れ、ロゼンベルグから追放されたはずの男だった。しかし、彼の表情には敗者の屈辱など微塵もなく、むしろ、これから始まる舞台の脚本を読み終えた劇作家のような、底知れない愉悦に満ちていた。
「世界は、退屈な平和よりも、刺激的な物語を求めているのです。人々が心から渇望し、熱狂し、涙するような、分かりやすい物語を」
アルバは、まるでチェスの駒を置くように、玉座の前に広げられた巨大な大陸地図の上に、一つの、白く輝く騎士の駒を、ことり、と置いた。
その駒が置かれたのは、大陸の中央、どこの国にも属さない、中立地帯だった。
「さあ、始めましょう。混沌の王と、偽りの王女によって乱されたこの世界を救う、たった一人の救世主の物語を」
アルバの目が、愉悦に細められる。
「世界が待ち望んだ、本物の『英雄』による、救済の物語を」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、静寂の中に溶けて消えた。
ロゼンベルグのテラスに降り注ぐ柔らかな陽光とは対極の、冷たく、計算され尽くした悪意。
ソフィアが感じていた漠然とした不安が、大陸の影で、確かな形を持って、今、静かに産声を上げた。
世界の歯車が、再び、きしみを上げて回り始める。
二人の転生者のささやかな平穏を求める願いなど、まるで意に介さないかのように。
より巨大で、より残酷な物語へと。
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