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第四部:偽りの英雄と本物の絆
第五十三話:ユウキ、初めての『おつかい』
しおりを挟む聖剣がデコピンで粉砕されたという、歴史の教科書のどこを探しても載っていないであろう事件から数日。ユグドラシルには、嘘のような平穏が戻っていた。あの熱狂も、敵意も、不安も、まるで真夏の夜の夢だったかのように、初夏の穏やかな風の中に溶けて消えてしまったかのようだ。
そして、その平穏の中心地である城のテラスでは、一人の男が、これ以上ないほど完璧なスローライフ環境を構築し、至福の時間を満喫していた。
「……んぅ……」
リクライニングチェアの角度は、身体への負担を最小限にしつつ、木漏れ日を最も効率的に浴びられる黄金比率に設定されている。柔らかな日差しが瞼を温め、心地よい風が頬を撫でていく。遠くで聞こえるドワーフたちのリズミカルな鍛冶の音は、もはやユウキにとって極上のヒーリングミュージックと化していた。完璧だ。完璧すぎる。これこそが、俺が過労死の果てに手に入れた理想郷(アヴァロン)。
ユウキは、うつらうつらと意識を手放しかけていた。前世で、徹夜続きのプロジェクトの最終日に、オフィスの床で段ボールを枕にして寝た時の、あの絶望的な眠りとは違う。これは、生命の尊厳が完全に守られた、文化的な眠りだ。もう誰にも邪魔はさせない。たとえ英雄が来ようが、魔王が来ようが、俺の安眠権を侵害する者は分子レベルで分解してやる……。
そんな、極めて平和的かつ物騒な決意を胸に、ユウキが本格的な睡眠の第一段階に移行しようとした、その時だった。
さらり、と。一陣の風が吹き、一羽の、空の色をそのまま写し取ったかのような美しい青い鳥が、音もなくテラスの柵に舞い降りた。その鳥は、まるで訓練されているかのように、ユウキの胸元めがけてふわりと飛び立つと、くちばしに咥えていた一通の手紙を、そっと彼の胸の上に落とした。そして、任務を完了した優秀な配達員のように、一鳴きもせずに飛び去っていった。
「…………」
胸の上の、手紙のわずかな重みで、ユウキはゆっくりと目を開けた。
美しいクリーム色の封蝋には、見覚えのあるロゼンベルグ王家の紋章が刻まれている。差出人は、火を見るより明らかだった。
「……また面倒事か」
ユウキは、休日出勤を告げる上司からのチャット通知を開く時のような、心の底からの憂鬱と共に、のろのろと封を切った。
手紙に綴られていたのは、インクの香りも気品あふれる、流麗な筆跡だった。それは、間違いなくソフィアの字を完璧に模倣した、リリアの偽造の賜物であった。
『親愛なるユウキへ
先の事件では、あなたの力に助けられ、心から感謝しています。
けれど、私たちの戦いはまだ終わってはいません。世界の真実を解き明かし、アルバ公爵の作り上げた偽りの物語を完全に終わらせるため、私たちは今、決定的な証拠を必要としています。
大陸の中央にそびえる聖教会総本山。その大聖堂の地下深くには、『聖なる泉』と呼ばれる泉が湧き出ていると伝えられています。聖教会の奇跡の源泉とも言われる、その水。その成分を分析することができれば、きっと、真実への大きな一歩となるはずです。
しかし、かの地は大陸一の警備を誇る鉄壁の要塞。この困難な任務を遂行できるのは、あなたの他に誰もいません。
どうか、私たちの未来のために、あなたの力を貸してはいただけないでしょうか。
追伸:くれぐれも、ご無理はなさらないでください。あなたの身に何かあれば、私は……。
ソフィアより』
ユウキは、手紙を三度読み返した。
そして、その手紙をくしゃくしゃに丸めて、遠投のフォームで投げ捨てたい衝動に、激しく駆られた。
「……なんで俺が、他国の水汲みなんかしなきゃいけないんだ」
心の底からの、偽らざる本音だった。
手紙に書かれた美辞麗句の一つ一つが、彼の前世のトラウマを的確に抉ってくる。
『世界の真実を解き明かすため』だと? 聞こえはいいが、要するに「会社の未来のため」と言ってサービス残業を強いるのと同じ手口だ。
『あなたの他に誰もいません』だと? 聞いたことがある。死ぬほど聞いたことがあるぞ、そのセリフ! 金曜の夜、退社間際に「田中君、すまない!この案件、君しかいないんだよ!」と言って、分厚いファイルを押し付けてきた、あの田中部長の顔が、ソフィアの美しい顔と二重写しになった。幻覚と幻聴のコンボで、ユウキは軽いめまいを覚える。
そもそも、これは俺の仕事じゃない。管轄外だ。俺はユグドラシルの王であって、ロゼンベルグの便利屋ではない。これは明らかに越境業務であり、追加手当と代休の確約なしには、到底受け入れられるものではない。労働基準監督署はどこだ。いや、この世界にそんな気の利いた組織は存在しない。なんてこった。異世界は、前世以上にブラックな環境だったのか……!
ユウキは頭を抱え、本気で断るための百通りの言い訳を考え始めた。「重要な瞑想の時間に入った」「持病の仮病が再発した」「我が国に古くから伝わる『何もしない儀式』の最中である」……。
しかし。
彼の脳裏に、ふと、ある光景が浮かんだ。
王城のテラスで、真剣な表情で国の未来を語りながら、慣れた手つきで紅茶を淹れる、あの少女の横顔。
彼女が淹れる紅茶は、不思議と落ち着く味がした。前世で飲んでいた、ティーバッグの出がらしのような紅茶とは全く違う、本物の味が。
ユウキは、もう一度、手紙の最後の一文に目をやった。
『あなたの身に何かあれば、私は……』
その後に続く言葉を、彼は想像する。
そして、もし自分がこの頼みを断ったとして、ソフィアが、アレクシスやカエルスあたりに無茶な潜入を命じ、万が一、何かあったとしたら。
その報告を聞いた時、自分はどう思うだろうか。
(……あの紅茶が、もう飲めなくなるのか)
それは、確かに、少し困る。
非常に、困る。
あのテラスで、静かに紅茶を飲みながら、ぼーっと過ごす時間。それは、ユウキのスローライフにおいて、昼寝に次ぐ重要な要素となりつつあった。それが失われるのは、彼の人生のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)を著しく損なう事態だ。
(……あいつに何かあったら、寝覚めが悪いしな)
結論は、出た。
動機は不純極まりない。世界の平和のためでも、ソフィアのためですらない。全ては、己の快適なスローライフと、上質な睡眠環境を維持するため。
ユウキは、この世の終わりのような、深くて長いため息を一つ吐くと、しぶしぶ、億劫そうに、重い腰を上げた。
その夜。
月明かりが、白亜の巨大な建造物群を幻想的に照らし出していた。
聖教会総本山。
大陸の信仰の中心にして、その権威の象徴。高さ五十メートルはあろうかという城壁に囲まれ、壁には魔力を感知し、侵入者を焼き尽くすという古代ルーン文字の結界が、淡い光を放ちながら明滅している。その上では、純白の鎧に身を包んだ聖騎士団の兵士たちが、寸分の隙もなく巡回を行っている。
まさに、大陸一の鉄壁の警備。神の領域を侵す不届き者を、決して許さぬという強い意志の表れだった。
そんな、荘厳で、緊張感に満ちた光景の中に。
一人の男が、まるで近所のコンビニにでも散歩に行くかのような、気の抜けた足取りで現れた。ユウキである。
「うへぇ、壁、たっか…」
見上げるのも首が痛くなるほどの城壁を前に、彼は面倒くさそうに呟くと、その場で軽く屈伸をした。そして、「よっと」という、運動不足のサラリーマンが発するような掛け声と共に、地面を軽く蹴った。
彼の身体は、重力など存在しないかのように、ふわりと宙を舞い、五十メートルの城壁を、まるで道端の段差を越えるかのように、音もなく飛び越えた。
城壁の内側に着地した彼の目の前には、淡く光る魔法結界が、まるで光のカーテンのように広がっていた。
「へぇ、なんか光ってるな。虫除けか?」
ユウキは特に気にするでもなく、その光のカーテンの中を、ずかずかと通り抜けていく。彼が通り過ぎた瞬間、結界は一瞬だけ、まるで接触不良を起こした蛍光灯のように、チカチカと頼りなく点滅したが、すぐに元の光に戻った。結界自身、何が通り過ぎたのかを認識できなかったのだ。
巡回中の聖騎士たちの警備網も、彼にとっては無いも同然だった。
彼の目には、聖騎士たちの動きや思考が、まるで未来予知のように見えている。
(お、そこの二人組、あと十秒で世間話を始めて注意が逸れるな)
(あっちの見張り台の奴は、恋人のことを考えてて、上の空だ)
(こいつは、あと五秒でくしゃみをするから、その隙に通ればいい)
まるで、完璧な攻略本を片手に、初見のゲームをプレイしているかのようだった。権威も、警戒も、彼の目には映っていない。ただ、「目的地までの最短ルート」という、無機質な情報だけが見えているのだ。
ユウキは、まるで最初からそこに道があったかのように、誰にも気づかれることなく、警備網の隙間をスイスイと縫って、大聖堂の中心部へと進んでいった。
目的の『聖なる泉』は、大聖堂の地下深く、厳かな静寂に包まれた空間に存在した。
天井から差し込む月光が、泉の水面を神秘的に照らし出し、水が滴る音だけが、神聖な空間に響き渡っている。
「へぇ、ここか」
ユウキは、その荘厳な雰囲気にも全く心を動かされることなく、腰にぶら下げていた、どこにでも売っているような普通の水筒を取り出した。そして、泉のほとりにかがみ込むと、ちゃぷちゃぷと音を立てながら、無造作にその「聖水」を汲み始めた。
水筒を満タンにすると、彼は満足そうに蓋を閉め、さっさと踵を返した。滞在時間、約三十秒。史上最も効率的で、最も気の抜けた潜入作戦だった。
帰り道、彼は大聖堂へと続く参道で、夜遅くまで明かりの灯っている一軒の売店を見つけた。
そこには、手書きの、温かみのある看板が掲げられていた。
『総本山名物! 食べればご利益! 聖なるメロンパン』
「……ほう」
ユウキは少しだけ興味を惹かれ、店主に声をかけた。
「おじさん、これ一つ」
「あいよ、三銅貨ね」
ごく普通の、どこにでもあるやり取り。彼は焼きたてでまだ温かいメロンパンを受け取ると、再び夜の闇へと姿を消した。
数分後。
聖教会総本山の、最も高い尖塔の屋根の上。
ユウキはそこに腰掛け、まるで特等席で夜景でも楽しむかのように、眼下に広がる街の灯りをぼんやりと眺めていた。
そして、お土産として買ったメロンパンを、一口、大きくかじった。
サクサクとしたクッキー生地の食感と、ふんわりとしたパンの優しい甘さが、口の中に広がる。
彼は、咀嚼しながら、夜空に浮かぶ月を見上げて、静かに、一言だけ呟いた。
「……普通のメロンパンだな」
その呟きは、これから白日の下に晒されるであろう、壮大な『奇跡』の正体を、何よりも雄弁に物語っていた。
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