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第二章

13. 大人

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「痛くない? 大丈夫?」

 優しい声が、聞こえる。
 それは、体を開かれる前に必ず尋ねられる合言葉のような質問だった。
 さんざん慣らされた体は、その言葉を聞くだけで、期待に奥の熱を燻らせる。

 ブラインド越しに月明かりが部屋を照らす中、長い指先がベッドに沈む俺のルームウェアのボタンを一つずつ外してゆく。
 彼と色違いで揃えたリネンのシャツは、柔らかく簡単にはだける。けれど、曝け出されてゆく体とは裏腹に、心は奥底に沈むような感覚だった。

 熱い唇が、耳元を擽りながら囁く。



「ねぇ、やめようか」



 なにを?



 声にすらならない息が零れた。
 驚きで目を見開く俺の隣に、早川もぽすんと沈んだ。

「さっき、何か言いかけたでしょ?」
「……なんでもないって」
「本当?」
「……ほんと」

 月明かりの下で、射抜くようにこちらを見つめるヘーゼルの瞳から目を逸らす。
 誤魔化すように彼の胸元に額をくっつければ、握りしめていた拳を彼の手に押し開かれた。手のひら同士が隙間なく触れ合い、じんわりとしたぬくもりが広がる。

「今日はこのまま寝ようか」
「……するの、やめるってこと?」
「そう。今日だけ特別。喉も治ったみたいだし、代わりに子守唄でも歌ってもらおうかな。それとも、しりとりでもする?」
「ふはっ、何それ」

 場にそぐわない急な提案に、思わず噴き出す。すると、長い指が乱れた前髪を梳かすように優しく触れた。


「君が嫌がることはしたくないんだよ」


 それは小さな声だった。
 でも、確かに俺の鼓膜を揺らした。

 はっと息を呑むと、柔らかく微笑む唇がゆっくりと頬に触れる。
 そのまま瞼を下ろせば、その口付けは唇へと落とされた。

「んっ、……ふ、ぁ」

 耐えきれず溢れた声は、自分のものとは思えない程に甘ったるい。
 何度か角度を変えながら、長いようで短いキスは早川が離れたことで簡単に終わった。
 微かに濡れた彼の唇は、どもまでも艶やかで目が離せない。


「ほら、おやすみしようね」


 まるで子供をあやすような言葉だった。
 燻る体の熱に火をつけたのは彼なのに、大人の余裕を見せつけるような姿に、どうしようもなく焦燥に駆られる。

 肌けたボタンを直そうとする手を、俺は気がつけば止めていた。


「嫌じゃないから。

 ……もっと、してほしい」


 膨れ上がった欲望を口にすれば、ヘーゼルの瞳は嬉しそうに細められた。

 熱に浮かされた唇が、再度絡まってゆく。


 溺れてる。


 溺れさせられている。


 優しすぎる甘い毒に。


 もしかしたら、すべて彼の手のひらで踊らされているだけなのかもしれない。


 そう分かっている筈なのにやめられない。

 
 俺は、この熱を手放すのが怖いんだ。
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