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3. 兄が襲来

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「玲さん、ちょっとお話があるのですけれど」
「…………入っても構わない」

 異様に返答までの間が長かったことには何も言うまい。玲のオタク活動を鏡花はまだ知る気にはなれなかった。ゆっくり扉を開けると、玲が椅子ごとこちらへ体を向けていた。心なしか不機嫌そうに鏡花を見ている。

「お仕事中でしたか? てっきり宝石を見つめているかと思ってましたわ」
「……それもやりはしたが、今は仕事中だった」

 探るように目をじっと見つめたが、どうやら本当らしい。机の上に置かれた書類を鏡花は遠目で窺う。内容はなんとなく理解したが、その話よりも優先すべき話がある。

「私は玲さんの宝石タイムを邪魔する気はないですわ。自室に引きこもっている間は部屋を訪れることもいたしません。ですが、代わりに条件があります」
「条件?」

 条件と言う言葉に玲が少し身構える。やはり「悪女」という噂を知っているからだろうか、などと鏡花は頭の片隅で考えた。

「はい。一日数十分で構わないので、お話するお時間を頂きたいです」
「そんなことでいいのか?」
「ええ。十分ですわ」

 はっきりと言ってのけると、玲は少々驚いたようではあったが「了解した」と頷いた。玲は鏡花がどんな気持ちでこの婚約話を受け取っているのか分かりかねていることだろう。おそらく鏡花が婚約に対し特に強い期待を抱いていないことは気が付いているだろうが、多少の罪悪感はあるのではないか。むしろ、罪悪感がないとなると、かなり困るが。その多少の罪悪感を利用すれば、わがままは少しくらいなら許されると踏んだ。それでいて、鏡花は謙虚な条件を提示した。理由は単純で、鏡花の目下の目標は「玲と適度な距離感で過ごしつつ宝石の情報を得ること」だからだ。
 孫がほしいと騒ぐ父を騙せるのはせいぜい一年が限度だろう。夫婦となっていなくても一年音沙汰なければ勘の鋭い父は気がついてしまうはずだ。そうしたら百貨店の夢も遠くなる。だから早く情報がほしい。かといって「邪魔をしないでほしい」という玲の願いを同時に叶えるのにはこれが最適だった。それに、必要以上に関わらなければこの別邸でも素の自分で過ごせて楽かも、と思ったのだ。

「今日はもう遅くなりますし、明日からで十分なのですが、一つお聞きしても?」

 そう尋ね、鏡花は目線で「その机の上の書類は何?」と問いかける。内容はわかってはいるが教えてくれるかどうかが鍵なのだ。玲は鏡花の視線を追うと書類を手に取って、鏡花に差し出す。遠目で見た書類が眼前に突き出されて鏡花は拍子抜けしてしまう。

「これは明後日訪ねる取引先についての書類だ。おそらく上質のサファイアが手に入るだろうと思う」

 そう言う玲は少し上機嫌だ。答えてくれないだろうと思っていた鏡花は少し面食らった。予想以上に玲は宝石の話になると警戒心がゼロになるらしい。宝石以外の会話は淡々としている印象だったので、まだまだ前途多難ではあるが。警戒心がなくなっているついでに、鏡花はさらに踏み込む。

「よろしければ、私もついていっても?」
「ああ、得意先ではあるし貴女を紹介しておいた方がいいだろうから、構わない」
「ありがとう。楽しみです」

 想像以上に良い滑り出しだ。思わず鏡花は笑みが溢れそうになる。だが、ボロを出すのは良くない。経営者たるもの慎重に行動すべきなのだ。口角をほんのわずかに持ち上げて淑女らしく振舞う。

「では、また明日。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」

 頭を下げて、扉を閉める。完全にドアが閉まったのを確認した。ここで初めて鏡花は大きくガッツポーズを取ったのだった。


 ***

 荷物共に使用人たちも到着した次の日の朝はなんだか変にそわそわしていた。それもそのはずで白羽家にとっては急な婚約、さらには急な同棲なのだから。新しい環境にそわそわするのも無理はない。玲には夕方にでも会いに行けばいいわ、と鏡花は自室で庶務を片付けていた。そんなわけで鏡花は今部屋でのびのびと普段着で髪もおだんごに結っている。

「お嬢さま!」
「あら、どうしたの、かよ」

 かよは普段使用人棟にいることになっている。それもこれも両家の使用人たちに勘付かれては困るからだ。ちなみに「2人きりで過ごしたいので」と言い訳したのだがあっさり承諾されすぎて驚いた。なので、鏡花は不意に現れたかよに少々戸惑っている。かよには折を見て話すつもりではいるが、まだ昨日の今日で鏡花自身も上手く環境になじめていない。

「お嬢さま、深月さまが訪ねていらしてますよ」
「…………お兄さまが?」
「応接間で妹に会わせろぉって喚いてるので早く行ってあげてくださいませ」

 鏡花は溜息まじりに立ち上がると、応接間へと向かったのだった。応接間の扉の向こうからは面倒くさそうな兄の独り言が漏れ聞こえていた。

「鏡花ぁ!」

 応接間の扉を開けると、兄の深月が擦り寄る勢いで近づいてきた。せっかくの美青年もこれでは台無しである。

「お兄さま、今日から海外市場の方へ行かれるのでしょう? わざわざ婚約したくらいで騒がないでよ」
「大問題なんだけど!」
「……で、何しにきたの?」
「鏡花はお兄ちゃんが会いに来るのが嫌なのかい?」
「そうは言ってないわよ」

 攻防を繰り広げていると、それすらも嬉しいのか深月はニンマリと嬉しそうに笑う。
 はじめの頃、鏡花が自分が白羽家を継ぐべきだ、と考えていた9割の理由がこの兄の性格にある。ただでさえ面倒くさい性格をしているのに海外の方にも出向くようになったからか、より一層距離感が近くなっている気がする。鏡花と同じ紺色の髪を緩く結って、英国紳士のような服装を身に纏う姿はさながら美青年にふさわしいのだけれど。

「鏡花が普段着を着てるってことは、もう心を開いたってことなんだね……で、その鏡花の意中の彼は一体どこかな」
「ええと、玲さんはお仕事をしてるわ」
「義兄が来てるんだから挨拶に来てくれても良いのに」
「お、大きな仕事があるからって日中はあまり会えないのよ。お兄さま、私も引っ越したばかりでやることが多くて忙しいのだけれど」

 兄との会話は少し苦手だ。探るような視線が痛いし、鏡花のやり口を知っているだけあって身内にそれを繰り出すのはどうもうまく行かない。お願い早く帰って、と心の中で念じていると、まさに予想外すぎる、それも最悪のタイミングで階段を降りてくる音が聞こえた。鏡花は頭を抱える。深月は品定めをするような――野性味あふれる――目でその人物を捉えた。先手を打ったのは深月だった。

「はじめまして。鏡花の兄の深月と申します。この度は鏡花と婚約してくださってありがとう」
「お兄さまでしたか。碧澄玲と申します。お会いできて嬉しいです。今お茶を淹れますね」

 初めに噛み付いた深月に玲も応戦する。鉄壁すぎる2人の笑顔はまさしく商人の笑顔、といったような感じだ。手づからお茶を淹れるらしい。戸棚から茶葉を選別し始める。お茶なんて出したら兄は何時間でも居座るわ、と鏡花は玲を目で制すが、玲は淡々と準備をしていく。気がつかないのか、商人としてのプライドなのか、玲はお茶を、しかも高級玉露を注いだ。そうして始まった腹の底の見えない会話を繰り広げる2人を鏡花は無心で聞いていたのだった。


「……彼はいいひとだね。お兄ちゃん今日は大人しく引き下がるよ」
「今日はじゃなくて、これからもずっと引き下がってて頂戴」

「つれないなあ」と呟いた深月を押し出すように見送り、鏡花は深く息を吐き出した。ひとまず嵐は去った。鏡花はくるりと斜め後ろに立っていた玲を見上げる。少し頬を膨らませているのだが、玲はそんなことは気にならないようで、少しだけ笑みをたたえた。

「面白い方だな」
「全然面白くないわよ……もう、お兄さまに高級玉露を出さなくてもいいのに」
「まあまあ。貴女の兄を邪険に扱っては婚約者失格だろう?」

 そういうところだけはしっかりしてるのね、と肩をすくめると、玲は急に鏡花をじっと見つめた。その視線に居た堪れなくなって鏡花は「なんですか」とジト目で返した。

「ああ、普段はそんな服なんだなって思って。昨日着ていたのも貴女のような女性にしか似合わないと思ったが、袴も似合うんだな」
「…………あ」

 そう言われ、鏡花はようやく自分が普段着で玲と対峙していたことに気がついた。珍しい失態を犯してしまったと悔やんでいると、時差でその頬が赤く染まる。そんな鏡花にお構いなく玲は続ける。

「それに、髪も結っている方が似合っている。ストレートなら無理に巻かない方がいい」
「……あなたって相当無自覚なのね」
「? 自覚はある。本当に思ったから言っているだけだが」
「…………人たらし」

 自室に引っ込んでいく玲の背に精一杯の嫌みごとをぶつけたが、不覚にも顔が赤くなってしまったのはなんだか悔しい。
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