tomari〜私の時計は進まない〜

七瀬渚

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第1章/居場所を探して(Tomari Katsuragi)

15.まだ終わらないらしい

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 前を歩く千秋さんの姿を見つめながら、こんなに縦長な人だっただろうかと思っていた。

 この人は多分、日本人男性の平均的な身長と比べても高い方なのだ。180は超えていると思う。それでいて痩せ型。
 しかも今日は薄紫色のシャツに濃いグレーのカッチリとしたベスト、下は黒のスラックスという組み合わせ。だから尚更全体が締まって見えるのだろうな。以前からフォーマル寄りな服装を好んでいる印象があったが、ここまで身体のラインがあらわれる服を着ていたことはなかったように思う。
 そして更に、休憩に出るタイミングで持ってきたグレーの厚手ストールを首から下げているから、ますます縦ラインが強調されているという訳か。

「ここでいいかな」

「はい」

「あの……僕の顔に何かついてたり、する?」

「いえ、何も」

「そ、そう。なら良かった」

 ぎこちなく視線を逸らした彼の頬が再び染まる。

 いけない。また凝視し過ぎてしまったか。イメージチェンジをした人に会うとどうしても細部まで見たくなってしまうのだが、そういえば子どもの頃にも同級生をじろじろ見過ぎて相手を不機嫌にさせてしまったことがあったな。気を付けなければ。

 少し冷たくなった風が吹き付ける。
 だけど何故だろう、今はこれくらいがちょうどいい。

 千秋さんが選んでくれた場所は三階にあるテラスだった。
 このビルはなかなかお洒落な構造をしていて、確か同じような場所が五階にもある。

 高い柵の手前まで歩いたところで千秋さんは指を組み、腕ごと勢いよく前へ伸ばす。細く唸っているのが聞こえた。
 その姿勢のまま、柔らかな微笑みを私の方へと傾けた。

「ごめんね、付き合わせちゃって。一面壁に囲まれた閉鎖的な空間にいるとどうしても息が詰まっちゃうんだ」

「わかりますよ。リニューアルの準備のときもそんな感じでしたよね」

「そうそう、みんな悪気はないんだけど空気がピリピリしてきちゃうこともあってさ。でもやらなきゃいけないことが山積みで。だからスタッフにもちゃんと気分転換してって言ってあるんだ。こういうときちょっと外に出てみると都会の空気でさえ美味しく感じるよ」

 都会、か。この人はてっきり都会育ちだと思っていたけど案外そうでもないのだろうか。
 一年間一緒に働いたくらいじゃまだお互い知らないことの方が多いのだろうな。当たり前なのだが。

「あのね、トマリ」

「はい」

「あっ、ごめん! 桂木さん」

 慌てて訂正する彼に少し苛立つ。今更にも程があるだろう。
 だからつい、ぶっきらぼうな口調で言ってしまったのだ。

「いいですよ、どっちでも」

「え?」

「千秋さんが呼びやすい方でいいです。もう上司と部下じゃないんですから」

 言葉を用いて壁を作ってみせる。
 あなたはこれを破る覚悟はあるの。あったらあったで困るけれど。

 待つ、というほど長い沈黙ではなかっただろうに、やけに緊張の伴う数秒が過ぎた。


「そう。それなら良かった。前に“トマリ”という名前の意味、教えてくれたじゃない? 僕それが凄く気に入ったからつい名前の方で呼ぶ癖がついちゃって」

 表情の乏しい私だってさすがに感情が表に出てしまっているだろうに、この人は気付いていないのだろうか。
 それとも空気を和ませようと徹底的に明るく振る舞うタイプなのだろうか。

「素敵だと思ったんだ、本当に。僕は名前負けしてる方だからちょっと羨ましかったくらい」

 羨ましい? 名前負け?

 二つの言葉が私を内側から大きく揺らす。耐える身体に力がこもる。
 うつむいた姿勢のまま、思った。

 何処が。あなたは、あなたという人は誰よりも前を見据えているだろう。目的を見失わず、周囲と比べて一喜一憂することもなく、ひたむきに努力してきたから今があるのではないのか。

 誰もあなたに追いつけない。夢中な人は強いから。あなたほど名前通りに生きている人はいないだろう。
 それなのに……!

 とげを出す程度じゃ甘かったかも知れない。そんな気持ちで見上げた。

 だけど射抜くつもりで放った視線は、彼の不意打ちによって呆気なく弾かれる。

「ねぇ、もしかしてお花見行ってきたの?」

 問いかけは聞こえているのに内容が頭に入ってこない。
 ゆっくりとあらわれた変化に見入ってしまう。

 そう、これだと思い出す。
 細めたタレ目の下にぷっくりと涙袋が浮かび上がる。照れているかのように頬を染める。眉根が少し寄った困り顔のような笑い方。無防備に開いた口元は抑えきれない気分の高揚を表しているかのよう。
 やんちゃ盛りな少年と思春期の少女の笑顔を足して二で割ったみたい。

 ミステリアスで大人な雰囲気の彼が不意に出してくるこのギャップは、見る者を痺れさせ、動きを封じる麻酔のようなものなのだ。

 頬に当たる風の感触だけがやけにリアルに感じられる。


「千秋さん……」


 まぁでも……


 前の職場のスタッフたちからも“色気が凄い”と言われていた人だ。これがデフォルトなのだろうと理解している。
 だから私にはそう長く効かないのだがな。

「千秋さん、話が脱線してます」

「あっ、はい。ごめんなさい」

 これでも優しく言った方だ。この人は最初から本題に触れてなどいないのだから。



――ごめんね。

 短いその言葉が届いたのは数分くらい経った頃。
 口調は落ち着いているものの、感情から先に零れてしまうのがこの人らしい。

「退職したばかりの君にあんなメッセージを送ってしまって。困らせてしまったよね」

「いえ……」

 こういうとき、そんなことないですよとフォローしたくはなるのだが。

「まぁ、そうですね」

 リアクションに困ったのは事実である。私は嘘が苦手なのだ。

 ちらり、と横目で見上げると、うつむき加減の千秋さんの口元はちょうど厚手のストールに隠れていてどんな表情をしているのかよくわからない。
 だけどなんだか元気がなさそうだ。本当のところ、メッセージを受け取ったときからそんな予感がしていたのだ。

 直視できず視線を前へ戻す。なんだろう、胸がチクチク痛い気がする。


「あのときの僕はきっと疲れていて適切な言葉選びが出来なかったんだと思う。だから本当にごめん。あの言葉は忘れ……」

「嫌です」


「え……?」

「あっ……」


 千秋さんがこちらを向いたのがわかった。
 でも私は自分の言葉に驚き、動けないまま。

 嫌って。嫌ってどういうことだ。
 自分で言っておきながら何故戸惑っているのだ。おかしいだろう。

「トマリ、それって……」

「わ、わかってます!」

 咄嗟に私は彼の言葉を遮った。
 平常心には戻れないまま、それでも出来るだけはっきりと言った。

「わかってますよ私は。千秋さんはただ私を心配してくれたんだってこと。深い意味はないんでしょう?」

「それは……」

「…………」

「うん……まぁ」

「ですよね」

 ようやく安堵の実感がこの胸に訪れた。これならなんとかなりそうだ。

「だからいいじゃないですか覚えていたって。相談に乗ろうとしてくれた親切な気持ちを無かったことになんてしたくない。そういう意味ですからねさっきのは」

「ありがとう。そう言ってくれると僕も救われる」

 千秋さんの返事は微笑みの声色。
 緊張から解き放たれた。ホッとした。なんとか上手く話がまとまった。

 あなたも私もこれからは別々の場所で、それぞれのやるべきことに集中できるのだ。

 これで良かったのだ。

 そう、これで……

 何か込み上げてくる気配を感じて私は空を仰いだ。こうするといくらかマシになる気がするからだ。
 そのまま頭の中でこの後のプランを立てる。

 今日はもう帰ろう。思いがけないことが立て続けに起きたこんな日は、きっといつも以上に休息が必要だ。
 まだ開けてないラベンダーの香りの入浴剤……いや、カモミールもあったはずだ。それを使おう。そして早めに寝よう。我ながらよく頑張った。

 千秋さん、あなたもゆっくり休んで下さいね。私とは比較にならないくらいの忙しさでしょうから、身体を大事にして下さい。
 面倒くさいところもあるあなたですが変わらずに尊敬しています。

「あのさ、トマリ」

「はい?」

「……ごめん、トマリ」

「今度はなんですか」

 この時点での私は、声に若干の笑いが混じるくらいの余裕があった。
 しかしすぐに己の油断を思い知ることになる。


「どうしても気になるんだ。お願い、少しだけ動かないで」


 …………


 今なんて?


 見上げる頃にはもう遅かった。
 憂いを帯びた彼の表情、その距離はさっきよりも近い。
 細い指先が私の髪へと伸びてくる。

 まだ終わらないんだ。理解できたのはただそれだけ。

 延長戦に持ち込まれていることに気付かないだなんて、私はどれだけすきだらけだったのだろう。
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