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第1章/居場所を探して(Tomari Katsuragi)
16.ひっくり返された砂時計(☆)
しおりを挟む――千秋マネージャーってさ、プライベートとか謎だよね――
――わかる~! よく喋る人なのになんか掴みどころないんだよね――
前の職場で同期のスタッフたちが話していたことを思い出す。
確か千秋さんがエリアマネージャーとしてやってきて二、三ヶ月くらいの頃だと思うのだが。
――かっこいいと言えばかっこいいんだろうけど、割とクセが強そうだよね――
――上司としては素敵だけど、多分チャラいよね――
――あはは、そうそう!――
相変わらず憶測で好き勝手言っているなと傍観していたところ、皆の視線がサッと一斉にこちらを向いた。
何が起きたのかわからずぽかんとしていた私に、同期の一人が含み笑いをしながら言った。
――トマリン気を付けなよ。なんかあんた狙われてそうだから――
その言葉に対してなんと返事したかはもう忘れたのだが、今も思っていることは変わらない。
いやいやまさか。
確かにアパレル業界というのは、他の業界と比べて自由な社風が多いだろう。センスを活かす仕事だから役職によってはアーティスト寄りに見える人もいる。友達のように仲良くなる上司と部下もいるし、職場恋愛はそんなに珍しくもないと聞いたこともある。
だけどその中でもエリアマネージャーという役職は、店舗の調査やトレンドの分析・売り場への反映、在庫管理などの仕事に加え、店長やスタッフの精神面をケアし、サポートするという役割も担っている。それゆえ表向きには愛想が良くても本質は客観的かつ冷静な人が多い。
ましてや女性スタッフばかりの店舗を任されている男性社員となると、上からの信頼も相当厚いのだろうと考えられる。
プライベートはどうだか知らないが、職場ではもっと慎重に行動するのではないだろうか。
……と、あのときこんな疑問を抱いたものだから、今もなお実感が湧かずにいるのかも知れない。
近付いてくる手が、顔が、その動きがスローモーションのようだ。
私の頭の回転速度とは明らかな時間差があり、容易にかわせる気がするのに何故か身体は動かない。
あ、ネイルもしていたのか。シルバーの。
ピアスはあの頃と同じだ。気に入ってるのだろうか。
こうして悠長に相手の観察をしている自分がなんだかおかしい。
触覚を持たないはずの髪が彼の指の温度を敏感に捉えたような気がした。
「…………っ!」
――千秋さんが呼びやすい方でいいです。もう上司と部下じゃないんですから――
確かにそう言った。言ったけれど。
私は壁を作ったつもりであって扉を開いた訳ではないのだ。そうだろう。断じてそのようなこと……!
満面の笑顔が目の前でぱっと咲いたのは身構えた直後のことだ。
グレーの瞳にいくつもの星が宿る瞬間を見た。
「あっ、やっぱり桜の花だ!」
「は、はい?」
「髪に花ついてるなって、ずっと気になってたんだ」
「えっ、なんかついてます?」
私が髪に手をやろうとすると千秋さんが目を丸くして「あっ」と短く声を上げる。手をひらをこちらに向けて制止を促す。
「ちょっと待って! トマリ、手鏡とか持ってない?」
「あったと思います、確か」
「まだ気付いてなかったのなら、取る前に見てみてほしいんだ。とても似合ってるから」
桜の花? 似合っている?
よくわからないまま私はバッグを開け、メイクポーチの中から手鏡を取り出す。
顔の前に持ってくる。何処に? と思ったけれど、さっき千秋さんが触れたあたりを思い出して鏡を少し離してみた。
「あっ、本当ですね」
淡白な言葉が出たけれど、ふわふわとしたウェーブの髪の右サイドに五枚の花びらを携えた原型のままの花が上手い具合に刺さっていることに驚いていた。
この形、何処かで見かけたような気はするけれどはっきりと思い出せない。
「ねっ、髪飾りみたいでしょ。僕も最初はそう思ったんだけどやけにリアルだったから」
「でも私、桜の花をむしり取ったりなんてしていないのですが」
「ふふ、わかってるよ。それはきっとすずめの仕業だね」
「すずめ……」
あっ、と内心で短い声を上げる。
そういえば私が見上げた先にちょうどすずめの姿があった。
私と少し距離をとり、目を細めた千秋さんが言う。
「盗蜜って言うんだよ。すずめは桜の花の蜜を吸うんだけどそのやり方が独特でね、花を根本から千切って吸うんだ。だから綺麗に五枚の花びらがついたままで落ちてくることがあるんだよ」
「とうみつ……ですか」
「ちょっと待ってね、僕の知り合いで動画投稿してる人がいたはず」
千秋さんは少しの間スマホを弄ってから画面を私に見せてくれた。
それは私が使っているのとはまた別のSNSのようだ。“盗蜜”と書くことは動画のタイトルで知った。
「ほら」
「本当だ。むしって落としてますね」
「器用だよねぇ、次から次へと」
「取っ替え引っ替えですね」
すずめに容赦なくむしり取られた花が、くるくる回りながらいくつもいくつも落ちていく。
これはこれで綺麗な散り方にも見えると同時に、まだ新鮮な花だったであろうにとも思う。
やがてこちらへ、正確にはカメラの方を向いたすずめと目が合った。あざとく首を傾げている。こんな無邪気な顔をして。
「くちばしが太いからこういう蜜の吸い方になるらしいよ。それにしても今のトマリの髪色はなんだか花筏(はないかだ)を彷彿とさせるから、桜の花が乗っかっていても自然に馴染むというかとても似合ってて、すぐに取るのはもったいないと思っちゃってさ、あっ、花筏って知ってる? 川にね、こうやってワ~ッと桜の花びらがいっぱい広がって……」
彼の声は聞こえてはいるけれど、その内容以上に個人的な思考が頭を占めている。
無邪気な顔をした者は大抵悪気がない。
近付くことも、触れることも、時に傷付けることだって……
「ん、どうしたの?」
「いえ、なんでも」
いけないいけない。私は視線が失礼なときがあるのだから気を付けなければとさっきも思ったばかりではないか。
だけどこの人は、一部の感情に対してとてつもなく鈍感な気がする。
「千秋さん、あの……休憩時間は大丈夫ですか? 終わっちゃうじゃ……」
「僕は大丈夫だよ。ちょっと外の空気吸いたかったくらいだから」
「そうですか」
「あっ、そうだよね! トマリが困るよね! こんな長いこと引き止めてしまって」
こういうところには気を遣うくせに。
スマホをスラックスのポケットにしまい、一度伸びをした千秋さんがサッと踵を返しながら言う。
「じゃあそろそろ戻ろうか。話を聞いてくれてありがとう」
「いえ、だいじょう……」
くしゅっ!
「えっ」
私は思わず口元を押さえた。何故こんなタイミングでくしゃみなんて。
ほら、振り返ってしまったではないか。
心配そうな眼差しを受けてうつむいてしまう。
「大丈夫? 花粉症?」
「まぁ、そんなところで……」
「いや違うよね!? よく見たら凄く薄着じゃない! うわぁ本当にごめん! 気が利かなくて」
「いえ、なので大丈夫で……」
最後まで言えないまま、私は柔らかな感触に包まれる。
滑らかな質感のストールが私の肩を覆っている。この素材はカシミヤだろうか。
ちらり、と見上げて気が付いた。さっきまで彼が首から下げていたものだと。
「これ使って。羽織るもの持ってないんでしょ。夕方からはもっと冷え込むから」
真剣な顔してる。私の背の高さに合わせて屈んでる。
ストールにはフレグランスの香りが移っているらしい。そしてその中にもう一つ、なんとも形容し難い匂いをわずかに感じる。
形容し難いのだけど、強いて言うならば“優しい匂い”。
「少しはあったかいかな」
「……いいんですか、お借りして」
「気にしないで。僕、今日は羽織るもの持ってきてるし。トマリはそれじゃ駄目だよ、風邪ひいちゃうから」
「ありがとうございます」
前から思っていたことがある。
柔らかさと優しさの組み合わせはあまりにもずるい。
本当はきっと、刺激で相手を繋ぎ止めるよりもこちらの方が強力なのだ。中毒性だって比較にならない。
どうしようもなく目頭が熱くなってくること、幼い自分が顔を出しそうになること、悟られずに帰る自信がない。どうしてくれるのだ。
「あの、千秋さん。さっき近過ぎるって言いましたよね、私のこと」
「ああ、さっきはちょっとびっくりしただけで別に怒った訳じゃあ……」
「これはいいんですか」
「えっ……」
至近距離で合わさる視線。
少しの沈黙を挟んだ後、彼は素早く私から距離をとった。しばらく見ない間に一段と落ち着きのない人になったな。
「ご、ごめん、そうだよね、馴れ馴れしかったよね」
「私は構いませんが、変な噂が立ったら困るのは千秋さんなので」
「噂かぁ、そこまで考えてなかったなぁ」
「考えて下さいエリアマネージャーなんですから。もしスタッフの人に見られていたら妹だとでも言っておいて下さいね」
「あ、ああ! なるほど、妹ね」
緊張感のない笑い方だ。本当にわかっているのだろうか。
一緒に働いていたときから感じ取っていたのだが、この人はおそらく嫉妬されやすい。私だってかつてはそんな目で見ていた。
私と二歳違いでほぼ同年代であるはずなのに、こなせる仕事の幅といい、背負っている信頼の重さといい、能力を始めとしたありとあらゆることに大きな差がある。
私のような人間は代わりを見つけようと思えばいくらでもいるだろう。
だけどこの人はそういう訳にいかない。多くの人に必要とされていることは明白なのだ。
私は足を引っ張りたくない。だけどストレートにそんな言い方をしたらこの人はもっと気を遣うのだろうな。
遠くで鳴った車のクラクションの音が、細く、消えていく。
電車の音もやがて遠ざかる。賑やかでありながら何処か物悲しさを感じる街の中。
「千秋さん、このストールいつお返ししましょうか」
「でもまた来てもらうの大変でしょ。良かったらトマリにあげるよ。家に似たようなのいくつかあるから」
「いえ……それは困ります。千秋さんがここにいる日に持っていきます」
「えっと……じゃあ、トマリの都合の良い日に連絡くれる? 僕がそれに合わせるから」
周囲の時間とは異なる時間が動き出す。
一時停止機能など存在しない、ひっくり返された砂時計のよう。私の生きる世界はやはりアナログだ。
ぎこちなく視線が交わるその途中で思い出した。
「あ」
「どうしたの?」
「すみません、千秋さんの連絡先消しちゃいました」
「えっ、消したの!?」
千秋さんの表情はわずかに引きつり、そして全体的に萎れていくのがわかった。
「そうだよね……そりゃ消すよね……あんなメッセージ送られてきたら引くもんね……はは」
「だからもう一度追加したいのですがどうすればいいのでしょう。私、こういうアプリの操作は疎くて」
「えっ、いいの!?」
「だってそうしなきゃ千秋さんがいついるかわからないじゃないですか。連絡とると言ってもストールをお返しするまでの間ですよ」
「そうだね、それじゃあ……」
互いにスマホを出して横並びになる。
距離感がよくわからず身体が少し触れてしまったとき、どちらからともなく頭を下げた。
「またしばらくの間、宜しくね」
「承知しました」
平静を装っていたけれど本当はまだ少し怖かった。砂時計は音を立てずに時を刻むものだから。
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