tomari〜私の時計は進まない〜

七瀬渚

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第2章/記憶を辿って(Tomari Katsuragi)

24.強がりさえも通じない

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「えっと……知り合いという訳ではありません。何故なら、ですね……」

 出だしはつまずいたものの、ゆっくり呼吸を整えていけば意外と時間稼ぎくらいは思い浮かぶものなのだと知った。これが開き直りの効果か。侮れない。

「まず私が“千秋さん”と呼んでいた件ですが、失礼を承知で打ち明けますと、ストック作業をしている間に役職名を忘れてしまったからです。この店舗にはたまにバイヤーさんもいらっしゃるのでそちらと混同してしまい、それで咄嗟に。以後気を付けます」

 私は一度振り返り、千秋さん……ではない、千秋マネージャーの方に頭を下げた。

「あ、いや。僕は別に気にしてないから……」

 彼も私に合わせようとぎこちない笑みを浮かべてくれたのだが、その後の言葉は出てこないようだ。
 うん、やはり皆への説得力としては弱いか。
 そう思っていたところへ、よく通る高めの声が覆い被さる。

「えぇ~? 本当かなぁ。怪しいなぁ~!」

 ギクリとした。まるでアニメに出てくる若い女性キャラクターのような特徴的な喋り方。それは顔を見なくても誰だかわかるくらいの強烈な個性……なのだが、無視という訳にもいくまいと私も覚悟を決めて振り返る。

 スタッフとスタッフの間からひょっこり顔を出している、猫のような大きい目の女の子。トレードマークであるハーフツインの髪がサラリサラリと踊るように揺れている。
 いつだって彼女の全身からは、他の皆とは比較にならない程の純度の高い好奇心が溢れているのだが、今はそれが更に輝きを増しとてつもない眩しさを感じさせてくる。

「あ……えっと、るみさん……」

 チカチカと目の前をいくつもの星が回る錯覚。その中へ彼女はぐいと顔を押し込んでくる。

「知り合いなら知り合いだって言っちゃっていいと思うよぉ~。るみ、上司と部下が仲良しでも別にいいと思うけどなぁ~」

「本当に呼び間違えただけで……」

「えぇ~? トマリンいつも礼儀正しいじゃない。そんな簡単に間違えたりするかなぁ。あっ、それじゃ千秋マネージャーの方はどうなんですかぁ?」

 状況的には追い込まれているはず。しかしこの無邪気な問いかけがヒントとなった。

 そこからは生い茂った草木を掻き分け、サアッと風の通り道が出来たかのよう。思考がまとまっていく。

 ふっと私に影がかかる。あの香りが濃くなる。千秋マネージャーが屈んでこちらを覗き込んだのがわかった。
 だけどあともう少しだ。もう少し、待ってくれないだろうか。

「トマリさ……じゃなくて桂木さん、ごめんね気を遣わせちゃって。あのねみんな、実はこの間……」

 彼が観念しようとしたちょうどそのとき、これならいけると確信した私は瞳孔に力を込めるようにしてビシッと前を見据えた。


「千秋マネージャーは本当に苗字で呼んでいるつもりだったのでしょう」


「え?」

『え?』


 皆が揃って不思議そうな表情を浮かべる。

 ……千秋マネージャー、あなたまで首をかしげないでもらいたいのだが、まぁいい。
 私はかまわずに続けた。

「皆さんも聞いていたでしょう、私が“トマリン”と呼ばれているところを。るみさんだけじゃない、そう呼んでいる人は他にもいます。この響きから連想されるのは本当に“名前”の方でしょうか。初めて聞いた人はむしろ“苗字”からきているあだ名だと思いませんか」

「えっと……」「そうかなぁ」といった戸惑いの声に私はすかさず返す。

「そうなんですよ。私はずっとこの名前で生きてきたからよくわかります。宿泊の“泊”と書いて 泊とまりさん。そう思っている人は少なくありませんでした」

「ああ、なるほど」「言われてみれば」などという声がちらほらと聞こえてきたところで、私は更なる説得力となりうるものを突き付ける。


「そのような経験から私はもう確信を持っているのです。つまり自分は“苗字×苗字”みたいな名前をしているのだと」

『!!』


「確かに朝礼のときに我々スタッフも自己紹介をしましたが、実際のところ人というのは何度か会話を交わすうちに顔と名前が一致していくものではないですか? それならば千秋さ……マネージャーだって、スタッフ同士のやり取りを聞いているうちに“トマリ”の方が苗字なのかも知れないと思っても不思議ではないですよね」

 あと一息。彼の方を見上げて同意を得ようとしたときだった。

 ぶっ、と勢いよく吹き出す声が後ろから聞こえた。
 笑い声がどんどん広がり、呆気に取られた私を包み込んでいく。

 訳がわからないまま千秋マネージャーの方を再び見ると、なんと彼まで笑っていた。

「も~、トマリンったら普通は面白おかしく話すようなことを真顔で言うからジワジワくる~!」

「本当よ、もう~! ちょうどお客様がいないタイミングで良かったわ。っていうか、もし接客中に思い出し笑いしちゃったらどうしてくれんのよ」

「私は好きだよ、トマリンの名前。小鳥みたいで可愛いよね!」

 そうやって皆が口々に言う。
 私は特に面白いことを言ったつもりはないのだが……とりあえず誤魔化せたのならそれでいい。

 しかし何故あなたまで。どさくさに紛れてほんの少し冷ややかな視線を隣に送ってみる。
 彼はくすくすと控えめな笑みを零したまま私に言う。

「ごめんごめん、今笑ってるのはね、ちょっと親近感覚えちゃったから」

「親近感、ですか」

「そう、僕の名前“千秋カケル”でしょ。どっちが名前かわかってない知り合いもいるみたいでさ、そういえば千秋くんの苗字なんだっけって、この間も訊かれちゃって」

「…………っ」

「あっ、笑った」

「いえ別に」

 千秋マネージャーと私がこんなやりとりをしている間にお客様のご来店があったようだ。
 何人かが「いらっしゃいませ~!」と元気よく声を出しながら、何事もなかったかのように売り場へ戻っていく。

「ふふ、わかったぁ。そういうことにしといてあげるね、トマリン」

 最後までその場に残っていたるみさんが、こちらへニッコリ微笑む。
 そういうことに、って。これは……誤魔化せている、のか?
 戸惑う私をよそに、彼女の視線はスッと横へ移って今度は彼をロックオンする。

「でも駄目ですよぉ、千秋マネージャー。トマリンには彼氏さんいるんですからぁ」

「えっ! いや、僕はそんな変な意味で見てる訳じゃ……」

「トマリンの彼氏さんは可愛い系だけど中身は肉食系なんだよねぇ。割と束縛するタイプだけど~、トマリンもまんざらじゃないんだよねぇ?」

「えっと……まぁ」

「あぁ~! でもこれどうなるのかなぁ!? るみ気になるなぁ! だってさだってさ、女子って大人の余裕に惹かれちゃうときあるじゃない? トマリンも多少はそういうの……っ、いたたたた!!」

 口調がヒートアップしたところで彼女の耳は横から伸びてきた手にぐい、と掴まれる。そのままズルズルとレジカウンターの方へと引っ張られていった。

「るみっ! あんたいつまで騒いでんの! さっきレジ点検頼んだばかりでしょ。早くやりなさい!」

「ひぃぃ、あすか先輩ごめんなさいぃぃ! 許してぇ!」

「許してやってんでしょ、いつもいつも」

 私からしたらどちらも結構な声量なのだが……と思いつつ、私はさっき千秋マネージャーから受け取ったばかりの書類に視線を落とした。
 ああ、そうだった。ようやく自分のとるべき行動を思い出した。


「では、私は休憩に行って参ります。こちらはちゃんと相原店長に渡しておきます」

「あぁ、うん。宜しくね」


「千秋マネージャー」

「どうしたの?」

「また後で」

「……う、うん」


 通路側へ向かって歩き出そうとしたとき、再びあの声が聞こえた。

「二人とも、呼び方はなんでもいいと思いますよぉ~。私たちスタッフだって名前やあだ名で呼び合ったりしますし~、お客様の前では気を付ければいいんですよぉ。経緯はわからないけど、せっかくそんなに気が合うんだからもっと仲良くフレンドリーに……」

「るみ! 終わったの!?」

「はぃぃ! ただいま!」

 さすがに、くす、と笑みが零れた私は、この表情に気付かれる前にと足早に店を後にした。



「相原店長、お疲れ様です。こちら千秋マネージャーから預かってきました」

「あっ、これ売り場のレイアウト! 千秋くんったらやっぱり渡し忘れてたんだぁ。出来れば休憩中に目を通しておきたかったんだけどもう売り場に戻る時間だわ。やれやれ」

「相原店長はいつも忙し過ぎるくらいだと思うので、休憩時間はゆっくりされた方が良いかと思います」

「ふふ、まぁそれもそうね。ありがとう、桂木さん。あなたこそ無理はしてない?」

「はい、大丈夫です」

 相原店長は荷物を持って立ち上がり、涼しげな微笑みの余韻を残して休憩室を後にした。
 閉じたドアの向こうで、カツンカツン、と彼女のヒールの音が鳴っている。誰もが見惚れる長い黒髪が優雅に揺れているところまで想像できた。

 なんだろう、さっき少しだけ引っかかるところがあったような。
 そうは思ったのだけど、多分大したことじゃない。先程の皆とのやり取りで私はもう疲れているのだと半ば強引に結論付け、相原店長が座った後の椅子に腰を下ろした。

 書類を渡すことを優先して煙草を吸うタイミングを逃した。まぁ後でもいい。
 とりあえず私は持参したカップ麺にお湯を注ぎに行った。


 それから約二十分後。
 もうそろそろかと思っていたあの人が現れた。私は昼食を終えたばかり。タイミングが良かった。

「お疲れ様です。千秋マネージャー」

「お疲れ様、桂木さん。もうお昼ごはんは……」

 言いかけた彼は私の手元に残っているカップ麺の空き容器を見て、何故か困ったように笑った。
 これはこの人の癖なんだろうか。それとも私が何かおかしなことをしているのだろうか。

 少し心細い気持ちになっている私の隣で、彼はそっと椅子を引いた。
 そういえばこの間もそうだった。向かい側にも椅子はあるのに、この人はやっぱり隣に座る。
 彼のまとう香りがダイレクトに伝わったとき、どういう訳か私はとても安心した。初対面のときとは真逆の感覚だ。

「それでね、トマリさん。この間の返事を僕なりに考えてみたんだ。でも自信があるかって言ったら正直微妙で……」

 呼び方、戻ってるじゃないか。
 私は口元を押さえて、こく、と頷く。

「あまり参考にならないかも知れないんだけど……」

 もう一度、頷いた。
 ちら、と彼がこちらを見た。その目がゆっくりと驚きの形へと変わっていった。

「トマリさん、大丈夫?」

「何故ですか」

「だって……」

 目の前の心配そうな表情が水面に溶け込むように揺らいで、揺らいで、やがては原型さえもあやふやにしていく。

 声を出さなかったのはわざとじゃない。出せなかったのだ。


「大丈夫です」

「そうは見えないよ」


「大丈夫でなければいけないんです」


 皆の前ではいくらでも強がれるのに、この人の前だと上手くいかない。
 込み上げる熱いものをギリギリのところで留めながら、重力に抗う方法が一つくらいあっても良いではないかと思っていた。
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