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第2章/記憶を辿って(Tomari Katsuragi)
25.抑えきれない温度は高い
しおりを挟む人間関係は第一印象が重要だとよく聞いた。特に接客業では共通認識とも言えるものだろう。
それを思い返すと私は今回、初っ端から転んでいることに気付くのだ。
同じ人に、それも上司に、弱っているところを二度も見られるという頭を抱えたくなるやらかし。
千秋マネージャーから顔を背け、素早く目元を拭った。
情けないと思っているのだろう、あなたも。立場上、私に寄り添うしかなかっただけで面倒な事に巻き込まれたという気持ちに違いない。
そうやって卑屈な思いがじわりじわりと胸の裏側にも染みを作った。
「トマリさん」
だから安心してくれ、千秋マネージャー。
あなたがどんなに優しくても私は期待なんかしない。これ以上寄りかかるつもりなんてない。
今回の相談を最後にするから。
「ねぇ、トマリさん。さっき話しかけてくれた凄く明るい子って、 稲葉さんでいいんだっけ」
「……はい、稲葉るみさんです」
「で、彼女を叱ってたのが 桑名さんでいいんだよね」
「はい、桑名あすかさん」
「あの二人は覚えやすそうだね。いつもあんなやり取りをしてるの?」
涙の引いた顔で私はやっと振り向いた。やっと気付いた。
なんだろう、この人さっきから相談とは全く関係ない話をしているようだが……?
でも訊かれたことには答えなくてはと、いくらか冷えた頭で考えを巡らせる。
「えっと、確かにあすか先輩は、るみさんを叱っていることが多いんですが、ああ見えて実は親友みたいに仲の良い二人なんです」
「へぇ! そうなんだ。じゃあ桑名さんの歯にきぬ着せない物言いも信頼関係があってこそのものなんだね」
「そうだと思います。多分、あすか先輩は仲の良い人にほど毒舌になるので、他のスタッフには基本的に優しい話し方をするんですよ。繊細そうな相手にキツイ言い方は絶対しません」
「なるほどね~、ちょっと僕の親友に似てるかも」
今、私の目に映っているのは、温泉にでも浸かっているかのようにリラックスした千秋マネージャーの横顔。
本当に何を考えているのだろう。
このやり取りになんの意味があるのだろう。
それとも単に面倒くさくなって話題をそらしたのか。うん、その線が濃厚だろうな。
私が一人で納得しかけたそのときに、柔らかく弧を描いた瞳がこちらを向いた。
胸の奥がほんのり疼く。微弱な熱を伴って。掴まれたというよりは、指先でそっとなぞられたような感覚だ。
「今トマリさんから聞いたのは、表向きの印象だけではわからないことだね。彼女たちと一緒に働いて、いろんな面を見てきたトマリさんだから実際はどういう形の関係なのか把握できてるんだ」
「は、はい。そう……かも知れないですね」
「でしょ? 僕なんてまだ君たちスタッフのこと、全然知らないんだよ。だから大丈夫」
「大丈夫……と、言いますと?」
優しい表情はそのまま、だけど彼の眼差しはいくらか真剣になったように見えた。
こくり、頷いて私に言う。
「一度や二度話したくらいで君の全部をわかった気になんてならないから大丈夫だよ」
そのとき何故か私は、この言葉を待ち望んでいたように感じたのだ。
おかしな話だ。そんなこと考えたこともなかったはずなのに。
「いま弱音を吐いていたからって、君を弱い人だなんて思わない。決めつけたりしない。できないでしょ、そんなこと。ここに来たばかりの僕がさ」
当たり前のようにさらりと言う彼に見入る。
正直、あなたのような考え方ができる人の方が珍しいと感じるよ。何故なら……
「だからさ、どうせわかってない奴なんだしとでも思って、話したい部分だけ気軽に話してくれればいいんだよ。無理強いはしないし、今すぐに僕のこと信じてとも言わないから」
何故なら、私自身がずっと固定観念にとらわれていたから。
主観に踊らされないことがポリシーだなんて、所詮は自分への戒めなのだ。人の一部を見てこうだと決めつける癖があるから自分も決めつけられると思っていたんだろう。
私の心の中の霧を呆気なく振り払ったその人に力強く頷いて応える。
深々と頭を下げたとき、ようやく素直な気持ちが声となって零れた。
「ありがとうございます」
「そんな、だってこれが僕の仕事だもん。気にしなくていいからさ、顔を上げてよ。ね」
「……千秋マネージャー」
「どうしたの、トマリさん」
「何故私の考えていることがわかったんですか」
「えっと、なんとなく……なんだけど、ごめん、僕何か無神経なこと言っちゃったかな?」
「いえ、そんなことないです」
すん、と一度、鼻を啜る音を立ててしまったけれど、私はなんとか笑みを浮かべてみたつもりだ。
この間も、そして今日も、あなたがそうしてくれたように。見よう見まねだけど、上手く出来ている自信はないけれど。
「千秋マネージャーのおかげでだいぶ気持ちが楽になりました。正直に話してもいいですか」
「うん、もちろん」
安心したように笑う彼が、小さく首を傾げたのが合図となった。
私は恐る恐る時を遡る。
当時の感情が容赦なく押し寄せてきてもなんとか耐えて、出来るだけわかりやすく伝える努力をした。
「そっか、トマリさんは前の職場でもリニューアルを経験してるんだ」
「はい」
「でも途中で体調を崩してしまった」
「私は環境の変化に弱すぎるんです。周りが忙しなく動いているだけでも気持ちが落ち着かなくて、息が苦しくなったり、めまいがしたり。休みをもらって病院に行っても身体そのものに異常は見つからないことが多くて、上司に結果を報告するときも気まずいです。何故そうなってしまうのかと訊かれても……私にはわかりません」
「そして今回、またリニューアルがある。確かに不安にもなるよね」
「はい、正直なところ……」
また目を合わせられなくなっていく私の様子だけで、彼は大体を察してくれたようだ。
「トマリさんは何度も“平等”を突きつけられてきたんじゃないかな? みんな同じ条件で我慢してるんだからあなたも我慢しなさいって」
「そう、ですね。自分ばかり大変だと思わないでとか、よく言われていました」
「ああ、それは良くないやつだね」
「あの……平等に良いとか悪いとかあるんですか?」
ちらりと横目で彼を 窺う。
物憂げな瞳は何もない空間へ向いているように見えた。繊細そうな薄い唇はしばらく経ってから動いた。
「平等という言葉自体は本来悪いものではないよ。でも使い方次第で優しくもなるし残酷にもなる」
「使い方次第」
「そう。“人はみんな平等”みたいな言葉、よく聞くでしょ。あれは噛み砕くと、自由とか権利とか尊厳とか、みんな当たり前に持っているんだよってニュアンスじゃない?」
「確かにそういった意味合いで使われていることが多いと思います」
「でしょ? だったら疲れた身体を労わること、体調が悪ければ病院に行くこと、不安について相談すること、どれも我慢することじゃないよね。それこそトマリさん“だけ”駄目ってことはないでしょ」
「でも……みんなつらくたって迷惑にならないよう周りに合わせてるんじゃないですか? 私に忍耐力が足りないだけで……」
「違うよ」
彼はゆっくりと首を横に振る。私を見つめ、はっきりとした口調で言うのだ。
「そんな真剣に悩んでいる君に忍耐力が足りないとか、僕はそう思えないな。何をストレスと感じるかだって人によって違うんだよ。“つらいのはみんな一緒だから一人じゃないと思って我慢しよう”は、前向きに聞こえるけど実際はネガティブを共有しようとする言い方だよ。平等と呼んでいいのかさえ疑問じゃない?」
「は、はい」
「大体我慢しなきゃいけないなんて誰が決めたの」
「千秋マネージャー……?」
「あっ……」
恐る恐る名を呼んだのは、彼が怒っているように思えたからだ。
鬼の形相に目の当たりにした訳でもない、ただピリッとした静電気のようなものが伝わったなどという実に曖昧な感覚によるものだった。
「え~っとまぁ~、僕はそんなふうに思うんだけど~……」
千秋マネージャーの声色は柔らかくなり、顔は緩み過ぎなくらい緩んだ。
少しだけわかったような気がした。この困り顔のような笑顔の意味。
私も黙っておけばいいのに、何故かこのときは口に出てしまった。
「千秋マネージャーって熱いですよね」
「えっ、暑苦しい!?」
「いえ、熱いですよね。穏やかそうなのに中身が熱血。よく言われません?」
「あ~……久しぶりに言われたかなぁ。ウザかったらごめんね」
「そんなこと思ってないですよ、本当に」
緩んで見えるけど本当は違う。
眉を寄せて力を込め、視界が霞むほどに目を細め、自分ごと騙す勢いで笑ってみせる。
それくらいしなければこの人は、込み上げる情を抑えられないのだろう。
何気なくカップ麺の空き容器に手を添える。何も考えずに飲み干した後の空っぽの中身を見つめながら。
「失礼しました。決めつけるような言い方をしてしまいました。まだ知り合ったばかりなのに」
「え……ああ、僕がさっき言ったことなら気にしなくていいよ。トマリさんは洞察力がありそうだもん。実際、こうして話していると見抜かれているような気がするときあるし、凄いなって思う。僕は人の本質を見抜くとか全然自信がないからさ」
「えっ、自信ないんですか?」
「ないよ~。役職変わったばかりだし、うちのブランドのエリアマネージャーの中では最年少らしいしさ、つまりヒヨッコだよ。リニューアルは僕だって不安なんだ。上手くいくかどうかヒヤヒヤしてる」
言われてみれば、エリアマネージャーになってすぐリニューアルを任せられるなんて凄まじいプレッシャーなのだろうな。
しかし……そんな弱気なことを部下に言ってしまって良いのか?
「そういえば千秋マネージャーはご年齢おいくつですか?」
「二十八になったばかりだよ」
なったばかり……早生まれか。ということはつまり。
「私の二つ上ですか」
「えっ、トマリさん二十六!?」
「はい」
「へぇ……そうなんだ」
「もっと幼く見えました? 慣れてますが」
「いや、年齢不詳だと思ってた。凄い若く見えるけどしっかりしてるし」
「なるほど、それも慣れてます」
「じゃあほぼ同年代なんだね、僕たちは」
同年代で、この違いか。嫉妬心がちらつくのが自分でもわかった。
私だって本当は社会の場で、人から必要とされる何かが欲しい。
そんなことを思っていたから、直後に彼が放った言葉に心底驚いたのだろう。
「だからね、トマリさんの力が必要なんだよ」
「私……の?」
「そう、スタッフの力がなきゃ乗り越えられない。僕一人じゃ無理なんだから」
この人は超能力者かと思ってしまったほどだ。
少年のように澄んだ瞳。何故エリアマネージャーに抜擢されたのもわかってないのだろうな。人はそれを才能と呼ぶのに。
「そうだ! この間の返事がまだだったね。パパッと伝えてもいい? ほんの一言、いや二言くらいだから」
私は素早くスマホの時計を見る。休憩終了まであと七分だ。
腰を浮かせ、荷物をスタンバイしながら「お願いします」と答えた。正直煙草が吸いたい。
「あのねトマリさん」
「はい」
「あっ、ごめん桂木さんだったよね!」
「今更すぎます」
ああ、これは駄目だ。
煙草は諦めようと私は再び腰を下ろした。
だけど変だな、予定通りにいかないのは苦手なはずなのに、この人といるのはなんだか面白い。実感すると共に小さな苦笑が零れた。
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