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第一話 愛蘭(あいらん)婚約破棄される!
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愛蘭(あいらん)、婚約破棄される!
愛蘭(あいらん)が二十歳の誕生日を迎えた初春の日は、港湾都市・緑港に重たい雲が垂れこめていた。
海から吹きつける風は湿り気を帯び、貿易船で賑わうはずの港も、どこか沈んだ色をしている。
――今日は、祝いの日のはずだった。
緑港伯爵家の屋敷は、東国建国から続く名門だ。
交易で富を築き、海を支配する家として知られている。
その屋敷の大広間に、愛蘭はひとり立たされていた。
正面には、叔父。
その隣には、従姉の麗香(れいか)。
そして……昨日まで婚約者だった男、沈(しん)琳道(りんどう)。
「……なぜ?」
愛蘭の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「どうして、わたしが……婚約破棄されて、家を出なければならないの?」
問いは、広間に落ちたまま、誰にも拾われない。
使用人たちは視線を伏せ、床に置かれた小さな荷物袋を見つめている。
それが、愛蘭に許された“すべて”だった。
「悪いが、愛蘭」
沈琳道が、居心地悪そうに視線を逸らしながら口を開く。
「俺は……麗香を選ぶことにした」
その言葉は、刃のように胸へ突き刺さった。
だが、愛蘭は声を荒げなかった。
――怒鳴っても、泣いても、何も変わらない。
そんなことは、昔から知っていた。
「婚約破棄よ、愛蘭」
麗香が一歩前に出る。
淡い絹の衣に身を包み、顎を少し上げたその姿は、勝者そのものだった。
「あなたは琳道様を置いて、五年もフラン王国に行っていたわよね」
責めるというより、裁く口調だった。
「その間、私がどれだけ琳道様を支えてきたか……あなたには分からないでしょう?」
愛蘭は、唇を噛みしめる。
――フラン王国に行ったのは、確かに私の我がままだった。
――でも正当な理由がある。父を探し、西洋画を学ぶためだ。
だが、それを説明する気力は、もう残っていなかった。
「それに」
麗香は、さらに冷たい声で続ける。
「おじい様も亡くなって、あなたの後ろ盾はなくなったわ。
フラン人とのハーフであるあなたが、この家にいる理由は……もうないでしょう?」
叔父が、ゆっくりとうなずいた。
「おまえがこの家にいると、麗香と琳道君が気まずい」
淡々とした声だった。
「悪いが、今日限りでこの屋敷を、そして、街から出て行きなさい」
胸の奥が、ぎしりと音を立てて裂けた気がした。
しかし、この街の支配者である叔父に逆らうことはできない。
それでも愛蘭は、俯いたまま、考えを巡らせる。
――昔から、そうだった。
父がフラン人だったこと。
母が早くに亡くなったこと。
目鼻立ちがはっきりしすぎていること。
そのすべてが、この家では“異物”だった。
「……分かりました」
愛蘭は、静かに頭を下げた。
引き止める声は、どこからも上がらなかった。
小さな荷物袋を抱え、屋敷の門を出た瞬間。
冷たい雨粒が、肩に落ちる。
その雨は、まるで――
自分が泣く代わりに、空が流してくれている涙のようだった。
――これで、この街での暮らしは、全部終わったのだ。
◆ ◆ ◆
緑港の街並みは、愛蘭の記憶の中よりも遠く感じられた。
市場の喧騒。
港で鳴る鐘の音。
すべてが、もう自分の居場所ではない。
――行くあては、帝都。
祖父が、生前に言っていた言葉が脳裏に浮かぶ。
『もし、わしに何かあったら……顔中蓮(がんちゅうれん)を頼りなさい』
祖父の元執事だった人物だ。
ハーフである愛蘭にも、分け隔てなく接してくれた数少ない大人。
それだけを胸に、愛蘭は馬車に乗り込んだ。
後ろを振り返らなかった。
振り返っても、戻れる場所はないと分かっていたから。
――誕生日に家を追われるなんて、少し出来すぎた話だ。
心のどこかで、そう思いながら。
愛蘭は、雨に煙る緑港を、静かに後にした。
この日が、
一人の女性が「家族」を失い、
一人の女性絵師が生まれる、始まりになるとも知らずに。
愛蘭(あいらん)が二十歳の誕生日を迎えた初春の日は、港湾都市・緑港に重たい雲が垂れこめていた。
海から吹きつける風は湿り気を帯び、貿易船で賑わうはずの港も、どこか沈んだ色をしている。
――今日は、祝いの日のはずだった。
緑港伯爵家の屋敷は、東国建国から続く名門だ。
交易で富を築き、海を支配する家として知られている。
その屋敷の大広間に、愛蘭はひとり立たされていた。
正面には、叔父。
その隣には、従姉の麗香(れいか)。
そして……昨日まで婚約者だった男、沈(しん)琳道(りんどう)。
「……なぜ?」
愛蘭の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「どうして、わたしが……婚約破棄されて、家を出なければならないの?」
問いは、広間に落ちたまま、誰にも拾われない。
使用人たちは視線を伏せ、床に置かれた小さな荷物袋を見つめている。
それが、愛蘭に許された“すべて”だった。
「悪いが、愛蘭」
沈琳道が、居心地悪そうに視線を逸らしながら口を開く。
「俺は……麗香を選ぶことにした」
その言葉は、刃のように胸へ突き刺さった。
だが、愛蘭は声を荒げなかった。
――怒鳴っても、泣いても、何も変わらない。
そんなことは、昔から知っていた。
「婚約破棄よ、愛蘭」
麗香が一歩前に出る。
淡い絹の衣に身を包み、顎を少し上げたその姿は、勝者そのものだった。
「あなたは琳道様を置いて、五年もフラン王国に行っていたわよね」
責めるというより、裁く口調だった。
「その間、私がどれだけ琳道様を支えてきたか……あなたには分からないでしょう?」
愛蘭は、唇を噛みしめる。
――フラン王国に行ったのは、確かに私の我がままだった。
――でも正当な理由がある。父を探し、西洋画を学ぶためだ。
だが、それを説明する気力は、もう残っていなかった。
「それに」
麗香は、さらに冷たい声で続ける。
「おじい様も亡くなって、あなたの後ろ盾はなくなったわ。
フラン人とのハーフであるあなたが、この家にいる理由は……もうないでしょう?」
叔父が、ゆっくりとうなずいた。
「おまえがこの家にいると、麗香と琳道君が気まずい」
淡々とした声だった。
「悪いが、今日限りでこの屋敷を、そして、街から出て行きなさい」
胸の奥が、ぎしりと音を立てて裂けた気がした。
しかし、この街の支配者である叔父に逆らうことはできない。
それでも愛蘭は、俯いたまま、考えを巡らせる。
――昔から、そうだった。
父がフラン人だったこと。
母が早くに亡くなったこと。
目鼻立ちがはっきりしすぎていること。
そのすべてが、この家では“異物”だった。
「……分かりました」
愛蘭は、静かに頭を下げた。
引き止める声は、どこからも上がらなかった。
小さな荷物袋を抱え、屋敷の門を出た瞬間。
冷たい雨粒が、肩に落ちる。
その雨は、まるで――
自分が泣く代わりに、空が流してくれている涙のようだった。
――これで、この街での暮らしは、全部終わったのだ。
◆ ◆ ◆
緑港の街並みは、愛蘭の記憶の中よりも遠く感じられた。
市場の喧騒。
港で鳴る鐘の音。
すべてが、もう自分の居場所ではない。
――行くあては、帝都。
祖父が、生前に言っていた言葉が脳裏に浮かぶ。
『もし、わしに何かあったら……顔中蓮(がんちゅうれん)を頼りなさい』
祖父の元執事だった人物だ。
ハーフである愛蘭にも、分け隔てなく接してくれた数少ない大人。
それだけを胸に、愛蘭は馬車に乗り込んだ。
後ろを振り返らなかった。
振り返っても、戻れる場所はないと分かっていたから。
――誕生日に家を追われるなんて、少し出来すぎた話だ。
心のどこかで、そう思いながら。
愛蘭は、雨に煙る緑港を、静かに後にした。
この日が、
一人の女性が「家族」を失い、
一人の女性絵師が生まれる、始まりになるとも知らずに。
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