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第二羽・賭け場の百舌鳥
賭け場は、色街の地下深くにあった。
湿った階段を一段降りるたび、空気が目に見えて重くなる。
粗悪な煙草。きつい酒。男たちの脂汗。
そして、全財産を失った人間の、絶望と諦めの匂い。
銅貨三枚。
これを今夜中に増やすには、もうここしかなかった。
本当はわかっている。
こんな場所に一発逆転を狙って来るやつから、順番に奈落へ落ちるのだと。
でも、容赦のない飢えは、人間のまともな理屈を殺す。
「張るのか、坊主」
不敵に笑う胴元が、ダイスを振るカップを揺らしながら言った。
俺は震える手で銅貨を一枚、盤の上に置いた。
大勝ちする必要はない。
ほんの少しだけ増やして、まともなパンを買えればいい。
それだけで、今夜は生き延びられる。それだけでよかった。
一回目、勝った。
二回目も、運よく勝った。
しかし、三回目で気づいた。
賽の転がり方が、微妙におかしい。
盤の特定の端に近づくと、磁石に吸い寄せられるように、必ず特定の目が沈む。
床の下か盤の裏に、何か仕込んである。イカサマだ。
俺は伸ばしかけた手を止めた。
「どうした。張らねえのか」
けれど、それは同時に、勝ち筋でもあった。
胴元は、客が張った場所を見てから出目を寄せている。
なら、俺が読むべきなのは賽の目じゃない。
胴元の手だ。
どの目を出せば、場の金が一番胴元に流れるのか。
どの客を勝たせ、どの客を沈めるつもりなのか。
それさえ読めば、次に張る場所は見える。
でも、勝ちすぎればイカサマを見破ったとバレて目立つ。
かといって、ここで引けば、今夜の飯が完全に消える。
迷った、その一瞬だった。
背後から、氷のように冷たい声が落ちた。
「その盤、見抜いたなァ」
驚いて振り返る。
そこに立っていた男は、一切笑っていなかった。
細く鋭い、まるで刃物のような目。焦げ茶色の髪を短く刈り込んでいる。そして、首筋には、生々しい「赤い刺青」が刻まれていた。
百舌鳥(シュライク)
見た瞬間、直感した。
この街の鳥たちの名を知らなくてもわかる。
この男は、獲物をただ殺すのではない。残酷にいたぶり、飾るタイプだ。
「……何の話ですか」
「嘘が下手だな、坊主」
男――シュライクは、俺の肩に容赦なく手を置いた。
重い。
骨が軋むほどの圧迫感。逃げるな、と全身で威嚇されているみたいだった。
「イカサマを見抜ける目は、裏社会じゃ高く売れる」
心臓が、早鐘のように嫌な音を立てて脈打つ。
「ただし、うちの身内のイカサマを見抜いた目は」
シュライクは、口元だけを吊り上げて少しだけ笑った。
「潰しておかないと、今後の商売にならねえ」
背筋がぞっとした。恐怖で身体が勝手に後ろに後退する。しかし、背後を囲む男たちの背にぶつかって逃げられない。
「そこまでにしとけよ、モズ」
紫煙の向こうから、聞き覚えのある、あの軽い声がした。
レイヴンだった。いつの間に追ってきたのか、壁に背を預けて立っている。
「それ、まだ俺が値下がり待ちしてる途中だからさ」
「なら札でもつけとけ。野良犬みたいに俺の縄割りを歩かせるなよ。いじめたくなる」
「野良犬じゃねえよ」
レイヴンは、犬歯を覗かせて歪に笑った。
「烏が拾う予定の、可愛い雛だ」
「相変わらず騒がしい夜だね」
さらに上、薄暗い二階席から、静かで染み通るような声が落ちた。
その声が響いただけで、あれほど喧騒に満ちていた賭け場の音が、水を打ったように静まり返った。
シュライクがチッと忌々しげに舌打ちする。
レイヴンの笑みが、一瞬で薄くなる。
「梟(ノクス)まで来てたのかよ」
白髪の男――ノクスは、手すりに腕をかけ、ゆっくりと美しい目を細めた。
「この三人が同じ場所に再会するなんて、あの日以来じゃないか」
ノクスは二階席から、まるで本物の鳥のように音もなく軽々と着地した。そのまま真っ直ぐ俺の前まで歩いてくる。
「名前は?」
「り、凛……」
「じゃあ、凛ちゃんだね。僕はノクス」
「俺はシュライクだ。凛坊か」
たった二文字の名前に、二人の視線が絡みついた。
「こいつらに潰されないでね。困ったら、いつでも僕のところにおいで」
ノクスから、ずっしりと重い革の子袋を無理やり手渡される。隙間から覗く輝きで分かった。袋には大量の金貨が入っていた。
「ただし、利子付きで返してね」
そこに、シュライクも懐から取り出した金貨を投げ入れた。
「張るのは、そいつの財布じゃねえ」
シュライクは金貨をさらに一枚、袋の上に落とした。
ちゃり、と硬質で乾いた音が響く。
周囲のゴロツキたちの貪欲な視線が、一斉にその袋に集まる。
金貨。
さっきまで銅貨三枚の軽さに震えていた俺の目の前に、一生かかっても拝めないような大金が積まれていく。
「こいつが、いつまで逃げられるかだ」
シュライクが邪悪に笑った。
「俺は、朝まで持たねえに金貨一枚」
「ひどいなあ、君は」
「おめぇに言われちゃ、おしまいだな。こんだけ飢えた目が集まってる場所で、大金なんざ持たせやがって。可哀想に」
そう言いつつ、シュライクは少しも可哀想だと思っていない顔で、いやらしく笑っていた。
「僕は三日。凛ちゃんは、思ったより賢そうだからね。生き延びるよ」
「三日も泳がせんのかよ。退屈だな」
レイヴンが咥え煙草のまま、つまらなそうに笑った。
更に金貨が積まれる。
「じゃあ俺は一週間」
シュライクが驚いたように眉を上げる。
「随分買ってんじゃねえか、レイヴン」
「値下がり待ちしてるっつったろ。限界まで追い詰められて、腐る直前が一番うまいんだよ」
三人の冷酷な声が、俺の頭上で行き交う。
俺は確かにそこに立っているのに、まるで肉市場のオークションにかけられている家畜みたいだった。肉を見ながら、焼き加減や解体の時期を相談されている気分だった。
「……何の話を、してるんですか」
声が震えた。
震わせたくなかったのに、圧倒的な強者の前で防衛本能が悲鳴を上げる。
レイヴンが冷たい目で俺を見下ろした。
「お前の、値段の話」
ノクスが床に落ちかけた袋を拾い上げ、優しく、しかし拒絶を許さない力で俺の胸元に押しつけた。
「受け取りなさい、凛ちゃん。ここで断れば、君は今すぐただの獲物として消費される。受け取れば、少なくとも今夜だけは、僕たちの賭けの『駒』として安全だ」
「……駒にされるなんて、真っ平です」
「この国で、駒じゃない人間なんて最初からいないよ」
梟の声はやわらかかった。
シュライクが俺の横を通り過ぎざま、低く耳元で笑う。
「金貨一枚で、憲兵はどんな犯罪からも目を逸らす。二枚で、宿の主人はお前の正体に口を閉じる。三枚あれば、裏路地の死体の数を間違えてくれる」
背筋に強烈な悪寒が走った。
「使い方を間違えんなよ、凛坊」
「……なんで、俺みたいな人間に、こんなことをするんですか」
振り絞った俺の問いに、三人が同時に、ぴたりと口を閉ざした。
一瞬だけ、賭け場の空気が重く変わる。
煙草の煙。賽の転がる音。遠くの酔っ払いの笑い声。
それらが急に遠のいて、三人の間にだけ、触れてはいけない古い傷口のような、重苦しい沈黙が落ちた。
梟(ノクス)が、先にどこか寂しげに笑った。
「懐かしかったからさ」
「は……?」
「昔、君みたいな子がいたんだ。でも、ある日いなくなった」
レイヴンの顔から、完全に笑みが消えた。
シュライクの首筋の赤い刺青が、地下の不気味な灯りを受けて鈍くどす黒く光る。
「梟」
レイヴンの声が、地を這うような低さになる。
「余計なこと言うな」
「まだ名前も出してないよ」
「出すなって言ってんだよ」
その緊迫した空気の瞬間、すべてを察した。
この三人は、かつて仲間だった。
そして、過去に何か決定的なものを失っている。
たぶん、大切だった人を。
たぶん、守ろうとした女を。
たぶん、この街から逃げようとした誰かを。
俺は金貨の袋を、指が白くなるほど強く握りしめた。
重い。
金貨の物理的な重み。
背負わされた借金の重み。
首にかけられた、見えない首輪の重み。
ノクスが、俺の耳元にさらに顔を寄せて囁く。
「凛ちゃん。ひとつだけ、本当の忠告をしてあげる」
白い睫毛の奥で、底の知れない金色の目が細くなる。
「烏は弱った者を拾う。百舌鳥は容赦なく刺す。僕はすべてを見る」
「……」
「でもね、この街で一番信用しちゃいけないのは」
ノクスは、酷く美しく微笑んだ。
「――『助かった』と思った瞬間の、油断した自分自身だよ」
背中にじっとりと冷たい汗が落ちた。
俺は袋を抱えたまま、一歩、また一歩と後退する。
逃げろ。
今すぐここから逃げろ。
ここに長居したら、この怪物の三人の歪んだ過去に確実に巻き込まれて狂わされる。
そう思った瞬間、レイヴンが口元だけでニヤリと笑った。
「走るなら裏口な。表通りは憲兵がもう張ってる」
「……なんで、そんなこと教えるんですか」
「そっちの方が、チェイスが面白くなるから」
シュライクが首の骨をゴキリと鳴らす。
「裏口の先は、百舌鳥(おれ)の縄張りだ」
ノクスが穏やかに声を重ねる。
「屋根に上がれば、梟(僕)の目がどこまでも届く」
レイヴンが最後に、煙を吐き出しながら言った。
「路地に降りたら、烏(俺)がまた拾ってやる」
三人の怪物が、同時にまっすぐ俺を見た。
逃げ道はある。
ただし、その全てのルートが、最初からあいつらの手のひらの上に続いている。
俺は金貨の袋を強く握り直した。
「……利子は」
ノクスが意外そうに目を瞬かせる。
「何?」
「利子付きで返せって言いましたよね。その利子は、一体いくらですか」
賭け場が、一瞬静まり返った。
レイヴンが堪えきれずにブハッと吹き出した。
シュライクが、初めて獲物を見るのではない、愉快そうな声を上げて笑った。
ノクスだけが、感情の読めない目で俺をじっと見つめていた。
「いい質問だね」
白髪の男は、細く冷たい指先で俺の頬をそっとなぞった。俺は反射的に嫌悪感で身を引く。
「金で返すなら、倍」
「倍……」
「情報で返すなら、ひとつでいい」
「情報?」
「君が、本当はどこの世界から来たのか」
心臓が、嫌な音を立てた。
その言い方は、この国の外という意味ではなかった。
もっと遠い場所を、ノクスは指している。
梟は、すべてを見透かしたように、もう一度不気味に笑った。
「そして――君が、本当は何から逃げているのか」
俺は答えなかった。
いや、恐怖で答えられなかった。
レイヴンが紫煙を大きく吐き出す。
「凛」
「……なんですか」
「その、怯えた顔、やめとけ」
「顔?」
「――女みてえだ」
全身の血の気が、一気に引いた。
周囲の男たちの笑い声が、急に遠のいていく。
シュライクの目が、獣のようにギラリと細くなる。
ノクスの金色の目が、暗闇の中で静かに光を放つ。
俺は袋を必死に胸に抱いたまま、顔の筋肉を無理やり動かして笑ってみせた。
「……よく、男にしちゃ線が細いって言われます」
声は、自分でもわかるほど少しだけ掠れていた。
レイヴンはもう笑わなかった。
さっきまでの軽薄な態度を完全に消し去って、ただの冷徹な捕食者の目で、じっと俺を見ていた。
「……へえ」
その地を這うような一言が、この夜で一番、骨の髄まで怖かった。
俺は脱兎のごとく背を向けた。
今度こそ、この化物どもから生き延びて逃げるために。
湿った階段を一段降りるたび、空気が目に見えて重くなる。
粗悪な煙草。きつい酒。男たちの脂汗。
そして、全財産を失った人間の、絶望と諦めの匂い。
銅貨三枚。
これを今夜中に増やすには、もうここしかなかった。
本当はわかっている。
こんな場所に一発逆転を狙って来るやつから、順番に奈落へ落ちるのだと。
でも、容赦のない飢えは、人間のまともな理屈を殺す。
「張るのか、坊主」
不敵に笑う胴元が、ダイスを振るカップを揺らしながら言った。
俺は震える手で銅貨を一枚、盤の上に置いた。
大勝ちする必要はない。
ほんの少しだけ増やして、まともなパンを買えればいい。
それだけで、今夜は生き延びられる。それだけでよかった。
一回目、勝った。
二回目も、運よく勝った。
しかし、三回目で気づいた。
賽の転がり方が、微妙におかしい。
盤の特定の端に近づくと、磁石に吸い寄せられるように、必ず特定の目が沈む。
床の下か盤の裏に、何か仕込んである。イカサマだ。
俺は伸ばしかけた手を止めた。
「どうした。張らねえのか」
けれど、それは同時に、勝ち筋でもあった。
胴元は、客が張った場所を見てから出目を寄せている。
なら、俺が読むべきなのは賽の目じゃない。
胴元の手だ。
どの目を出せば、場の金が一番胴元に流れるのか。
どの客を勝たせ、どの客を沈めるつもりなのか。
それさえ読めば、次に張る場所は見える。
でも、勝ちすぎればイカサマを見破ったとバレて目立つ。
かといって、ここで引けば、今夜の飯が完全に消える。
迷った、その一瞬だった。
背後から、氷のように冷たい声が落ちた。
「その盤、見抜いたなァ」
驚いて振り返る。
そこに立っていた男は、一切笑っていなかった。
細く鋭い、まるで刃物のような目。焦げ茶色の髪を短く刈り込んでいる。そして、首筋には、生々しい「赤い刺青」が刻まれていた。
百舌鳥(シュライク)
見た瞬間、直感した。
この街の鳥たちの名を知らなくてもわかる。
この男は、獲物をただ殺すのではない。残酷にいたぶり、飾るタイプだ。
「……何の話ですか」
「嘘が下手だな、坊主」
男――シュライクは、俺の肩に容赦なく手を置いた。
重い。
骨が軋むほどの圧迫感。逃げるな、と全身で威嚇されているみたいだった。
「イカサマを見抜ける目は、裏社会じゃ高く売れる」
心臓が、早鐘のように嫌な音を立てて脈打つ。
「ただし、うちの身内のイカサマを見抜いた目は」
シュライクは、口元だけを吊り上げて少しだけ笑った。
「潰しておかないと、今後の商売にならねえ」
背筋がぞっとした。恐怖で身体が勝手に後ろに後退する。しかし、背後を囲む男たちの背にぶつかって逃げられない。
「そこまでにしとけよ、モズ」
紫煙の向こうから、聞き覚えのある、あの軽い声がした。
レイヴンだった。いつの間に追ってきたのか、壁に背を預けて立っている。
「それ、まだ俺が値下がり待ちしてる途中だからさ」
「なら札でもつけとけ。野良犬みたいに俺の縄割りを歩かせるなよ。いじめたくなる」
「野良犬じゃねえよ」
レイヴンは、犬歯を覗かせて歪に笑った。
「烏が拾う予定の、可愛い雛だ」
「相変わらず騒がしい夜だね」
さらに上、薄暗い二階席から、静かで染み通るような声が落ちた。
その声が響いただけで、あれほど喧騒に満ちていた賭け場の音が、水を打ったように静まり返った。
シュライクがチッと忌々しげに舌打ちする。
レイヴンの笑みが、一瞬で薄くなる。
「梟(ノクス)まで来てたのかよ」
白髪の男――ノクスは、手すりに腕をかけ、ゆっくりと美しい目を細めた。
「この三人が同じ場所に再会するなんて、あの日以来じゃないか」
ノクスは二階席から、まるで本物の鳥のように音もなく軽々と着地した。そのまま真っ直ぐ俺の前まで歩いてくる。
「名前は?」
「り、凛……」
「じゃあ、凛ちゃんだね。僕はノクス」
「俺はシュライクだ。凛坊か」
たった二文字の名前に、二人の視線が絡みついた。
「こいつらに潰されないでね。困ったら、いつでも僕のところにおいで」
ノクスから、ずっしりと重い革の子袋を無理やり手渡される。隙間から覗く輝きで分かった。袋には大量の金貨が入っていた。
「ただし、利子付きで返してね」
そこに、シュライクも懐から取り出した金貨を投げ入れた。
「張るのは、そいつの財布じゃねえ」
シュライクは金貨をさらに一枚、袋の上に落とした。
ちゃり、と硬質で乾いた音が響く。
周囲のゴロツキたちの貪欲な視線が、一斉にその袋に集まる。
金貨。
さっきまで銅貨三枚の軽さに震えていた俺の目の前に、一生かかっても拝めないような大金が積まれていく。
「こいつが、いつまで逃げられるかだ」
シュライクが邪悪に笑った。
「俺は、朝まで持たねえに金貨一枚」
「ひどいなあ、君は」
「おめぇに言われちゃ、おしまいだな。こんだけ飢えた目が集まってる場所で、大金なんざ持たせやがって。可哀想に」
そう言いつつ、シュライクは少しも可哀想だと思っていない顔で、いやらしく笑っていた。
「僕は三日。凛ちゃんは、思ったより賢そうだからね。生き延びるよ」
「三日も泳がせんのかよ。退屈だな」
レイヴンが咥え煙草のまま、つまらなそうに笑った。
更に金貨が積まれる。
「じゃあ俺は一週間」
シュライクが驚いたように眉を上げる。
「随分買ってんじゃねえか、レイヴン」
「値下がり待ちしてるっつったろ。限界まで追い詰められて、腐る直前が一番うまいんだよ」
三人の冷酷な声が、俺の頭上で行き交う。
俺は確かにそこに立っているのに、まるで肉市場のオークションにかけられている家畜みたいだった。肉を見ながら、焼き加減や解体の時期を相談されている気分だった。
「……何の話を、してるんですか」
声が震えた。
震わせたくなかったのに、圧倒的な強者の前で防衛本能が悲鳴を上げる。
レイヴンが冷たい目で俺を見下ろした。
「お前の、値段の話」
ノクスが床に落ちかけた袋を拾い上げ、優しく、しかし拒絶を許さない力で俺の胸元に押しつけた。
「受け取りなさい、凛ちゃん。ここで断れば、君は今すぐただの獲物として消費される。受け取れば、少なくとも今夜だけは、僕たちの賭けの『駒』として安全だ」
「……駒にされるなんて、真っ平です」
「この国で、駒じゃない人間なんて最初からいないよ」
梟の声はやわらかかった。
シュライクが俺の横を通り過ぎざま、低く耳元で笑う。
「金貨一枚で、憲兵はどんな犯罪からも目を逸らす。二枚で、宿の主人はお前の正体に口を閉じる。三枚あれば、裏路地の死体の数を間違えてくれる」
背筋に強烈な悪寒が走った。
「使い方を間違えんなよ、凛坊」
「……なんで、俺みたいな人間に、こんなことをするんですか」
振り絞った俺の問いに、三人が同時に、ぴたりと口を閉ざした。
一瞬だけ、賭け場の空気が重く変わる。
煙草の煙。賽の転がる音。遠くの酔っ払いの笑い声。
それらが急に遠のいて、三人の間にだけ、触れてはいけない古い傷口のような、重苦しい沈黙が落ちた。
梟(ノクス)が、先にどこか寂しげに笑った。
「懐かしかったからさ」
「は……?」
「昔、君みたいな子がいたんだ。でも、ある日いなくなった」
レイヴンの顔から、完全に笑みが消えた。
シュライクの首筋の赤い刺青が、地下の不気味な灯りを受けて鈍くどす黒く光る。
「梟」
レイヴンの声が、地を這うような低さになる。
「余計なこと言うな」
「まだ名前も出してないよ」
「出すなって言ってんだよ」
その緊迫した空気の瞬間、すべてを察した。
この三人は、かつて仲間だった。
そして、過去に何か決定的なものを失っている。
たぶん、大切だった人を。
たぶん、守ろうとした女を。
たぶん、この街から逃げようとした誰かを。
俺は金貨の袋を、指が白くなるほど強く握りしめた。
重い。
金貨の物理的な重み。
背負わされた借金の重み。
首にかけられた、見えない首輪の重み。
ノクスが、俺の耳元にさらに顔を寄せて囁く。
「凛ちゃん。ひとつだけ、本当の忠告をしてあげる」
白い睫毛の奥で、底の知れない金色の目が細くなる。
「烏は弱った者を拾う。百舌鳥は容赦なく刺す。僕はすべてを見る」
「……」
「でもね、この街で一番信用しちゃいけないのは」
ノクスは、酷く美しく微笑んだ。
「――『助かった』と思った瞬間の、油断した自分自身だよ」
背中にじっとりと冷たい汗が落ちた。
俺は袋を抱えたまま、一歩、また一歩と後退する。
逃げろ。
今すぐここから逃げろ。
ここに長居したら、この怪物の三人の歪んだ過去に確実に巻き込まれて狂わされる。
そう思った瞬間、レイヴンが口元だけでニヤリと笑った。
「走るなら裏口な。表通りは憲兵がもう張ってる」
「……なんで、そんなこと教えるんですか」
「そっちの方が、チェイスが面白くなるから」
シュライクが首の骨をゴキリと鳴らす。
「裏口の先は、百舌鳥(おれ)の縄張りだ」
ノクスが穏やかに声を重ねる。
「屋根に上がれば、梟(僕)の目がどこまでも届く」
レイヴンが最後に、煙を吐き出しながら言った。
「路地に降りたら、烏(俺)がまた拾ってやる」
三人の怪物が、同時にまっすぐ俺を見た。
逃げ道はある。
ただし、その全てのルートが、最初からあいつらの手のひらの上に続いている。
俺は金貨の袋を強く握り直した。
「……利子は」
ノクスが意外そうに目を瞬かせる。
「何?」
「利子付きで返せって言いましたよね。その利子は、一体いくらですか」
賭け場が、一瞬静まり返った。
レイヴンが堪えきれずにブハッと吹き出した。
シュライクが、初めて獲物を見るのではない、愉快そうな声を上げて笑った。
ノクスだけが、感情の読めない目で俺をじっと見つめていた。
「いい質問だね」
白髪の男は、細く冷たい指先で俺の頬をそっとなぞった。俺は反射的に嫌悪感で身を引く。
「金で返すなら、倍」
「倍……」
「情報で返すなら、ひとつでいい」
「情報?」
「君が、本当はどこの世界から来たのか」
心臓が、嫌な音を立てた。
その言い方は、この国の外という意味ではなかった。
もっと遠い場所を、ノクスは指している。
梟は、すべてを見透かしたように、もう一度不気味に笑った。
「そして――君が、本当は何から逃げているのか」
俺は答えなかった。
いや、恐怖で答えられなかった。
レイヴンが紫煙を大きく吐き出す。
「凛」
「……なんですか」
「その、怯えた顔、やめとけ」
「顔?」
「――女みてえだ」
全身の血の気が、一気に引いた。
周囲の男たちの笑い声が、急に遠のいていく。
シュライクの目が、獣のようにギラリと細くなる。
ノクスの金色の目が、暗闇の中で静かに光を放つ。
俺は袋を必死に胸に抱いたまま、顔の筋肉を無理やり動かして笑ってみせた。
「……よく、男にしちゃ線が細いって言われます」
声は、自分でもわかるほど少しだけ掠れていた。
レイヴンはもう笑わなかった。
さっきまでの軽薄な態度を完全に消し去って、ただの冷徹な捕食者の目で、じっと俺を見ていた。
「……へえ」
その地を這うような一言が、この夜で一番、骨の髄まで怖かった。
俺は脱兎のごとく背を向けた。
今度こそ、この化物どもから生き延びて逃げるために。
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