アンフェア・ゲーム ~傲慢上司は生意気なインターンに勝てない~

つむぎ薫

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流れる街灯の光が、タクシーの窓を規則的に流れていく。  車内には、タイヤがアスファルトを噛む音と、わずかな振動だけが満ちていた。

「……お前、あんな馬鹿正直に付き合う奴があるか。桐島は調子に乗ると面倒なんだ」

 沈黙に耐えかねたように、遊佐が窓の外を向いたまま毒づいた。隣に座る羽柴は、シートに深く身体を沈め、ぼんやりと虚空を見つめている。

「断ったら角が立ちますから。……それに、遊佐さんが助けてくれるのが遅いからですよ」

「あ”ぁ? 俺のせいかよ」

「教育係なんでしょう。部下の管理不行き届きです」

 減らず口を叩くその声は、いつもより少し潤んでいて、掠れている。遊佐が苛立ち紛れに言い返そうとした、その時だった。

 ガクン、とタクシーが揺れる。その反動を利用するように、羽柴の頭がコトリと遊佐の肩に落ちた。

「……おい」

 遊佐の肩が強張る。押し返そうとしたが、羽柴は退くどころか、あろうことか遊佐の腕に頬をすり寄せ、重みを預けてきた。鼻先をかすめる、あの柔軟剤の清潔な香りと、わずかなアルコールの甘い匂い。

「……すみません。少し、酔いが回ったみたいで」

「なら反対側の窓にもたれろ。俺に寄るな」

「揺れると気持ち悪いんです。……遊佐さん、体幹しっかりしてるから、壁としてちょうどいい」

「俺は壁じゃねぇぞ」

 憎まれ口を叩きながらも、羽柴は目を閉じ、無防備な寝息を立て始めた――ように見えた。だが、遊佐は気づいてしまう。 自分の腕に触れている羽柴の指先が、シャツの生地を弄るように、ゆっくりと、意味ありげに這っていることに。

 遊佐は息を呑み、低い声で威嚇した。

「……羽柴。お前、本当は酔ってないな?」

 問い詰めると、肩に頭を乗せたままの羽柴が、くつくつと喉の奥で笑った。振動が遊佐の二の腕に直接伝わってくる。

「……さぁ。どうでしょうね」

 羽柴はゆっくりと目を開け、上目遣いに遊佐を見上げた。その瞳は、とろんと蕩けているようでいて、奥底は氷のように冷徹に遊佐を観察していた。ちょいちょいと手招かれて、耳元に唇が寄ってきた。触れそうな距離。

「でも、桐島さんにはこんな隙、見せませんよ」

 囁くような声は、誘惑のようでもあり、勝利宣言のようでもあった。

「……っ、この」

 遊佐が何かを言いかけるより早く、羽柴は再び目を閉じ、「おやすみなさい」と呟いて完全に体重を預けてきた。ここで振り払えば、狭量な男だと思われる。それを分かっていてやがる。

 遊佐は舌打ちし、行き場のない手で、自分の膝を強く握りしめた。肩に感じる体温と重みが、焼印のように熱い。  この生意気な「壁扱い」を許している自分自身に、遊佐は猛烈に腹を立てていた。

ガーガーと寝息が大きければ嫌がらせで動画を撮ってやるのだが、すーすーっと静かに音を立てている。

「おら、着いたぞ」

揺り起こすと、目があった。タクシー代を払おうとするので、すげない態度で「インターン生に払わせる奴がいるか」とタクシーから追い出そうとする。降りる瞬間、「壁、あったかかった」蠱惑的に笑いながら、舌足らずに告げた。

遊佐は悶絶した。こいつは魔性で酷いやつだ!


タクシーのドアが閉まる音が、夜の住宅街に虚しく響いた。走り去ろうとする車内で、遊佐は自身の膝を殴りつけんばかりに強く握りしめた。耳に残る「あったかかった」という甘い響きと、あの挑発的な笑顔。あれで「おやすみなさい」で済むと思っている神経が、どうしても許せない。

「……運転手さん、止めてくれ」

「え?」

「ここでいい。釣りはいらない!」

 遊佐は財布から万札を適当に引き抜いてトレイに叩きつけると、まだ完全に停止していない車から転がり出るようにして降りた。夜道を歩き始めた羽柴の背中は、まだそこにあった。

「羽柴!」

 怒号に近い声で名を呼ぶ。羽柴が驚いたように振り返った瞬間、遊佐はその腕を掴み、勢いのまま近くのマンションの外壁――本物の「壁」に、羽柴を押し付けた。

 ドンッ、と鈍い音がして、羽柴が小さく息を呑む。

「ゆ、遊佐さん……? 帰ったんじゃ」

「お前が焚き付けたんだろうが」

 至近距離で睨みつける。先ほどまで余裕綽々だった羽柴の瞳が、今は驚愕に見開かれ、わずかに揺れている。  その「予想外」の表情を見た瞬間、遊佐の中で燻っていた劣等感が、嗜虐的な喜びに変わった。

 そうだ。口や頭の回転じゃお前に勝てないかもしれないが、力で押さえ込めば、お前はただの華奢なガキだ。

「……壁扱いしてくれた礼だ。その壁に押しつぶされる気分はどうだ?」

 遊佐は逃げ場を塞ぐように両手を壁につき、わざと体重をかけて羽柴を圧迫した。密着した身体から、ドクドクと早い心拍が伝わってくる。それが自分のものではないことに気づき、遊佐は口端を歪めた。

「……逃げないんですか、羽柴くん。得意のフェイントで」

 挑発するように囁くと、羽柴は悔しそうに唇を噛み、それでも遊佐から目を逸らさずに言い返した。

「……ファウルですよ、これ。ディフェンスのやり方が汚い」

 遊佐は羽柴の顎を強引に上向かせた。 街灯の逆光で遊佐の顔が影になり、羽柴にはその表情が見えない。見えない恐怖と、抗えない体格差。初めて羽柴の表情から「余裕」が剥がれ落ちるのを、遊佐は特等席で見下ろした。

「知るか。……ファウルついでだ。もっと汚い手を使ってやる」

 遊佐は低い声で言い捨てると、抗議しようと開いた羽柴の唇を、自身のそれで強引に塞いだ。

「……んっ!?」

 驚愕に息を呑む音ごと、口内に閉じ込められる。それは愛の告白などという生温かいものではなく、捕食者が獲物の喉笛に食らいつくような、荒々しいキスだった。  壁と遊佐の身体に挟まれ、逃げ場のない羽柴の喉が小さく鳴る。

 柔軟剤の清潔な香りなど吹き飛ぶほど、雄の匂いと、アルコールの熱が混ざり合う。遊佐は、羽柴が息継ぎをする隙すら与えなかった。生意気な減らず口を叩くその舌を、自分の舌で絡め取り、蹂躙する。抵抗するように羽柴の手が遊佐の胸板を叩いたが、遊佐はそれを片手で制し、さらに深く角度を変えて押し入った。

(……あぁ、いい気味だ)

 至近距離で見る羽柴の瞳が、涙で潤み、焦点が合わずに揺れている。あのコートの上でも、オフィスでも、常に涼しい顔で周囲を支配していた「司令塔」が、今はただのキス一つで呼吸を乱し、自分に翻弄されている。その事実が、遊佐の脳髄を痺れるような快感で満たした。

 長い、永遠にも思える時間が過ぎ――。ふっ、と遊佐が唇を離すと、銀色の糸が二人の間で細く引いて、プツリと切れた。

「……は、ぁ……っ」

 羽柴が肩で息をしながら、濡れた唇を手の甲で乱暴に拭う。その顔は真っ赤で、怒りとも、羞恥ともつかない表情で遊佐を睨み上げた。

「……さいていです、遊佐さん」

「お前が煽ったんだ。自業自得だろ」

 遊佐は親指で羽柴の唇の端を拭ってやりながら、ニヤリと笑った。初めて、この男に「勝った」という確信があった。

「どうだ。壁の感触は」

 問いかけると、羽柴は悔しそうに目を伏せ、しかし小さな声で――けれど、負けず嫌いな彼らしく、精一杯の強がりで言い返してきた。

「……テクニックは、最低でしたよ」

 そう吐き捨てると、羽柴は遊佐の腕の下をくぐり抜け、逃げるようにマンションのエントランスへと走っていった。  その背中が、明らかに動揺で強張っているのを見て、遊佐は夜空に向かって大きく息を吐き出した。

「……可愛くない奴」

 だが、その声は先ほどまでの怒りを含んでおらず、代わりにどうしようもない熱だけが残されていた。




 

洗面台の鏡に映る自分の顔は、ひどく不機嫌そうだった。  羽柴は冷たい水で顔を洗い、タオルで乱暴に拭った後、恐る恐る指先で下唇に触れた。

「……っ、」

 僅かな痛みが走り、鏡を睨む。少し、腫れている気がする。昨夜の遊佐のキスは、それほどまでに暴力的で、一方的だった。

(……野蛮人が)

 脳裏に、あの瞬間の記憶がフラッシュバックする。  逃げ場のない壁際。アルコールと、雄の匂い。普段は理性的で、どこか自分を突き放そうとしている遊佐が、あの瞬間だけは獣のように自分を貪った。抵抗しようとしたのに、身体の芯が痺れて力が抜け、情けない声を漏らしてしまった自分自身が、何よりも許せない。

 ――あんなの、ただのマグレだ。不意打ちで、ファウル紛いのプレーをされただけ。

 羽柴は整髪料を手に取ると、前髪をいつものように完璧にセットし、鏡の中の自分に向かって「仕事モード」の冷徹な仮面を貼り付けた。このまま主導権を握られたままで終わるなんて、司令塔(ポイントガード)の名折れだ。

「……やり返してやる」

 羽柴は、冷蔵庫から取り出したエスプレッソ用の豆を、いつもより深く、黒くなるまでローストされたものに変えた。苦味の強い、刺激的なやつを。







「おはようございます、遊佐さん」

 翌朝、羽柴は何事もなかったような涼しい顔で出社してきた。デスクで身構えていた遊佐は、そのあまりに普段通りな態度に拍子抜けし、同時に少しの安堵と――言いようのない苛立ちを覚えた。

(……昨日の今日で、よくそんな平然としてられるな)

 遊佐が眉間に皺を寄せていると、羽柴がいつものように淹れたてのコーヒーをデスクに置いた。

「どうぞ。今朝は少し、目覚めが良いように調整しておきました」

「……あぁ、すまん」

 遊佐は複雑な気分のままカップを手に取り、一口啜った。瞬間、舌を刺すような強烈な苦味が広がり、思わず顔をしかめる。

「……っ、苦いな。なんだこれ」

 いつもの絶妙なバランスとは程遠い、焦げ付くような苦さだ。遊佐が抗議の視線を向けると、羽柴はパソコンの画面を見たまま、ふふ、と喉の奥で笑った。

 そして、周囲に聞こえないような小声で、毒を吐いた。

「僕の好みです。……遊佐さんの昨夜のテクニックよりは、幾分かマシな味でしょう?」

「……ぶっ」

 遊佐は危うくコーヒーを吹き出しそうになり、慌てて口元を手で覆った。咳き込む遊佐を、羽柴は横目でちらりと見下ろす。 その耳元が、隠しきれないほど真っ赤に染まっているのを、遊佐は見逃さなかった。

「……お前なぁ」

「仕事してください、遊佐さん。……それとも、まだ酔いが残ってますか?」

 羽柴はキーボードを叩く手を止めない。だが、その指先がわずかに震え、タイプミスをバックスペースで消していることに気づいた時、遊佐の中で昨夜の「獣」がまた低く喉を鳴らした。

 テクニックが最低だと?上等だ。なら、お前が「美味しい」と言うまで、何度でも教え込んでやる。

 遊佐は苦いコーヒーを一気に飲み干すと、不敵な笑みを浮かべてモニターに向き直った。この「試合」は、まだ始まったばかりだ。
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