4 / 8
4
しおりを挟む
流れる街灯の光が、タクシーの窓を規則的に流れていく。 車内には、タイヤがアスファルトを噛む音と、わずかな振動だけが満ちていた。
「……お前、あんな馬鹿正直に付き合う奴があるか。桐島は調子に乗ると面倒なんだ」
沈黙に耐えかねたように、遊佐が窓の外を向いたまま毒づいた。隣に座る羽柴は、シートに深く身体を沈め、ぼんやりと虚空を見つめている。
「断ったら角が立ちますから。……それに、遊佐さんが助けてくれるのが遅いからですよ」
「あ”ぁ? 俺のせいかよ」
「教育係なんでしょう。部下の管理不行き届きです」
減らず口を叩くその声は、いつもより少し潤んでいて、掠れている。遊佐が苛立ち紛れに言い返そうとした、その時だった。
ガクン、とタクシーが揺れる。その反動を利用するように、羽柴の頭がコトリと遊佐の肩に落ちた。
「……おい」
遊佐の肩が強張る。押し返そうとしたが、羽柴は退くどころか、あろうことか遊佐の腕に頬をすり寄せ、重みを預けてきた。鼻先をかすめる、あの柔軟剤の清潔な香りと、わずかなアルコールの甘い匂い。
「……すみません。少し、酔いが回ったみたいで」
「なら反対側の窓にもたれろ。俺に寄るな」
「揺れると気持ち悪いんです。……遊佐さん、体幹しっかりしてるから、壁としてちょうどいい」
「俺は壁じゃねぇぞ」
憎まれ口を叩きながらも、羽柴は目を閉じ、無防備な寝息を立て始めた――ように見えた。だが、遊佐は気づいてしまう。 自分の腕に触れている羽柴の指先が、シャツの生地を弄るように、ゆっくりと、意味ありげに這っていることに。
遊佐は息を呑み、低い声で威嚇した。
「……羽柴。お前、本当は酔ってないな?」
問い詰めると、肩に頭を乗せたままの羽柴が、くつくつと喉の奥で笑った。振動が遊佐の二の腕に直接伝わってくる。
「……さぁ。どうでしょうね」
羽柴はゆっくりと目を開け、上目遣いに遊佐を見上げた。その瞳は、とろんと蕩けているようでいて、奥底は氷のように冷徹に遊佐を観察していた。ちょいちょいと手招かれて、耳元に唇が寄ってきた。触れそうな距離。
「でも、桐島さんにはこんな隙、見せませんよ」
囁くような声は、誘惑のようでもあり、勝利宣言のようでもあった。
「……っ、この」
遊佐が何かを言いかけるより早く、羽柴は再び目を閉じ、「おやすみなさい」と呟いて完全に体重を預けてきた。ここで振り払えば、狭量な男だと思われる。それを分かっていてやがる。
遊佐は舌打ちし、行き場のない手で、自分の膝を強く握りしめた。肩に感じる体温と重みが、焼印のように熱い。 この生意気な「壁扱い」を許している自分自身に、遊佐は猛烈に腹を立てていた。
ガーガーと寝息が大きければ嫌がらせで動画を撮ってやるのだが、すーすーっと静かに音を立てている。
「おら、着いたぞ」
揺り起こすと、目があった。タクシー代を払おうとするので、すげない態度で「インターン生に払わせる奴がいるか」とタクシーから追い出そうとする。降りる瞬間、「壁、あったかかった」蠱惑的に笑いながら、舌足らずに告げた。
遊佐は悶絶した。こいつは魔性で酷いやつだ!
タクシーのドアが閉まる音が、夜の住宅街に虚しく響いた。走り去ろうとする車内で、遊佐は自身の膝を殴りつけんばかりに強く握りしめた。耳に残る「あったかかった」という甘い響きと、あの挑発的な笑顔。あれで「おやすみなさい」で済むと思っている神経が、どうしても許せない。
「……運転手さん、止めてくれ」
「え?」
「ここでいい。釣りはいらない!」
遊佐は財布から万札を適当に引き抜いてトレイに叩きつけると、まだ完全に停止していない車から転がり出るようにして降りた。夜道を歩き始めた羽柴の背中は、まだそこにあった。
「羽柴!」
怒号に近い声で名を呼ぶ。羽柴が驚いたように振り返った瞬間、遊佐はその腕を掴み、勢いのまま近くのマンションの外壁――本物の「壁」に、羽柴を押し付けた。
ドンッ、と鈍い音がして、羽柴が小さく息を呑む。
「ゆ、遊佐さん……? 帰ったんじゃ」
「お前が焚き付けたんだろうが」
至近距離で睨みつける。先ほどまで余裕綽々だった羽柴の瞳が、今は驚愕に見開かれ、わずかに揺れている。 その「予想外」の表情を見た瞬間、遊佐の中で燻っていた劣等感が、嗜虐的な喜びに変わった。
そうだ。口や頭の回転じゃお前に勝てないかもしれないが、力で押さえ込めば、お前はただの華奢なガキだ。
「……壁扱いしてくれた礼だ。その壁に押しつぶされる気分はどうだ?」
遊佐は逃げ場を塞ぐように両手を壁につき、わざと体重をかけて羽柴を圧迫した。密着した身体から、ドクドクと早い心拍が伝わってくる。それが自分のものではないことに気づき、遊佐は口端を歪めた。
「……逃げないんですか、羽柴くん。得意のフェイントで」
挑発するように囁くと、羽柴は悔しそうに唇を噛み、それでも遊佐から目を逸らさずに言い返した。
「……ファウルですよ、これ。ディフェンスのやり方が汚い」
遊佐は羽柴の顎を強引に上向かせた。 街灯の逆光で遊佐の顔が影になり、羽柴にはその表情が見えない。見えない恐怖と、抗えない体格差。初めて羽柴の表情から「余裕」が剥がれ落ちるのを、遊佐は特等席で見下ろした。
「知るか。……ファウルついでだ。もっと汚い手を使ってやる」
遊佐は低い声で言い捨てると、抗議しようと開いた羽柴の唇を、自身のそれで強引に塞いだ。
「……んっ!?」
驚愕に息を呑む音ごと、口内に閉じ込められる。それは愛の告白などという生温かいものではなく、捕食者が獲物の喉笛に食らいつくような、荒々しいキスだった。 壁と遊佐の身体に挟まれ、逃げ場のない羽柴の喉が小さく鳴る。
柔軟剤の清潔な香りなど吹き飛ぶほど、雄の匂いと、アルコールの熱が混ざり合う。遊佐は、羽柴が息継ぎをする隙すら与えなかった。生意気な減らず口を叩くその舌を、自分の舌で絡め取り、蹂躙する。抵抗するように羽柴の手が遊佐の胸板を叩いたが、遊佐はそれを片手で制し、さらに深く角度を変えて押し入った。
(……あぁ、いい気味だ)
至近距離で見る羽柴の瞳が、涙で潤み、焦点が合わずに揺れている。あのコートの上でも、オフィスでも、常に涼しい顔で周囲を支配していた「司令塔」が、今はただのキス一つで呼吸を乱し、自分に翻弄されている。その事実が、遊佐の脳髄を痺れるような快感で満たした。
長い、永遠にも思える時間が過ぎ――。ふっ、と遊佐が唇を離すと、銀色の糸が二人の間で細く引いて、プツリと切れた。
「……は、ぁ……っ」
羽柴が肩で息をしながら、濡れた唇を手の甲で乱暴に拭う。その顔は真っ赤で、怒りとも、羞恥ともつかない表情で遊佐を睨み上げた。
「……さいていです、遊佐さん」
「お前が煽ったんだ。自業自得だろ」
遊佐は親指で羽柴の唇の端を拭ってやりながら、ニヤリと笑った。初めて、この男に「勝った」という確信があった。
「どうだ。壁の感触は」
問いかけると、羽柴は悔しそうに目を伏せ、しかし小さな声で――けれど、負けず嫌いな彼らしく、精一杯の強がりで言い返してきた。
「……テクニックは、最低でしたよ」
そう吐き捨てると、羽柴は遊佐の腕の下をくぐり抜け、逃げるようにマンションのエントランスへと走っていった。 その背中が、明らかに動揺で強張っているのを見て、遊佐は夜空に向かって大きく息を吐き出した。
「……可愛くない奴」
だが、その声は先ほどまでの怒りを含んでおらず、代わりにどうしようもない熱だけが残されていた。
洗面台の鏡に映る自分の顔は、ひどく不機嫌そうだった。 羽柴は冷たい水で顔を洗い、タオルで乱暴に拭った後、恐る恐る指先で下唇に触れた。
「……っ、」
僅かな痛みが走り、鏡を睨む。少し、腫れている気がする。昨夜の遊佐のキスは、それほどまでに暴力的で、一方的だった。
(……野蛮人が)
脳裏に、あの瞬間の記憶がフラッシュバックする。 逃げ場のない壁際。アルコールと、雄の匂い。普段は理性的で、どこか自分を突き放そうとしている遊佐が、あの瞬間だけは獣のように自分を貪った。抵抗しようとしたのに、身体の芯が痺れて力が抜け、情けない声を漏らしてしまった自分自身が、何よりも許せない。
――あんなの、ただのマグレだ。不意打ちで、ファウル紛いのプレーをされただけ。
羽柴は整髪料を手に取ると、前髪をいつものように完璧にセットし、鏡の中の自分に向かって「仕事モード」の冷徹な仮面を貼り付けた。このまま主導権を握られたままで終わるなんて、司令塔(ポイントガード)の名折れだ。
「……やり返してやる」
羽柴は、冷蔵庫から取り出したエスプレッソ用の豆を、いつもより深く、黒くなるまでローストされたものに変えた。苦味の強い、刺激的なやつを。
「おはようございます、遊佐さん」
翌朝、羽柴は何事もなかったような涼しい顔で出社してきた。デスクで身構えていた遊佐は、そのあまりに普段通りな態度に拍子抜けし、同時に少しの安堵と――言いようのない苛立ちを覚えた。
(……昨日の今日で、よくそんな平然としてられるな)
遊佐が眉間に皺を寄せていると、羽柴がいつものように淹れたてのコーヒーをデスクに置いた。
「どうぞ。今朝は少し、目覚めが良いように調整しておきました」
「……あぁ、すまん」
遊佐は複雑な気分のままカップを手に取り、一口啜った。瞬間、舌を刺すような強烈な苦味が広がり、思わず顔をしかめる。
「……っ、苦いな。なんだこれ」
いつもの絶妙なバランスとは程遠い、焦げ付くような苦さだ。遊佐が抗議の視線を向けると、羽柴はパソコンの画面を見たまま、ふふ、と喉の奥で笑った。
そして、周囲に聞こえないような小声で、毒を吐いた。
「僕の好みです。……遊佐さんの昨夜のテクニックよりは、幾分かマシな味でしょう?」
「……ぶっ」
遊佐は危うくコーヒーを吹き出しそうになり、慌てて口元を手で覆った。咳き込む遊佐を、羽柴は横目でちらりと見下ろす。 その耳元が、隠しきれないほど真っ赤に染まっているのを、遊佐は見逃さなかった。
「……お前なぁ」
「仕事してください、遊佐さん。……それとも、まだ酔いが残ってますか?」
羽柴はキーボードを叩く手を止めない。だが、その指先がわずかに震え、タイプミスをバックスペースで消していることに気づいた時、遊佐の中で昨夜の「獣」がまた低く喉を鳴らした。
テクニックが最低だと?上等だ。なら、お前が「美味しい」と言うまで、何度でも教え込んでやる。
遊佐は苦いコーヒーを一気に飲み干すと、不敵な笑みを浮かべてモニターに向き直った。この「試合」は、まだ始まったばかりだ。
「……お前、あんな馬鹿正直に付き合う奴があるか。桐島は調子に乗ると面倒なんだ」
沈黙に耐えかねたように、遊佐が窓の外を向いたまま毒づいた。隣に座る羽柴は、シートに深く身体を沈め、ぼんやりと虚空を見つめている。
「断ったら角が立ちますから。……それに、遊佐さんが助けてくれるのが遅いからですよ」
「あ”ぁ? 俺のせいかよ」
「教育係なんでしょう。部下の管理不行き届きです」
減らず口を叩くその声は、いつもより少し潤んでいて、掠れている。遊佐が苛立ち紛れに言い返そうとした、その時だった。
ガクン、とタクシーが揺れる。その反動を利用するように、羽柴の頭がコトリと遊佐の肩に落ちた。
「……おい」
遊佐の肩が強張る。押し返そうとしたが、羽柴は退くどころか、あろうことか遊佐の腕に頬をすり寄せ、重みを預けてきた。鼻先をかすめる、あの柔軟剤の清潔な香りと、わずかなアルコールの甘い匂い。
「……すみません。少し、酔いが回ったみたいで」
「なら反対側の窓にもたれろ。俺に寄るな」
「揺れると気持ち悪いんです。……遊佐さん、体幹しっかりしてるから、壁としてちょうどいい」
「俺は壁じゃねぇぞ」
憎まれ口を叩きながらも、羽柴は目を閉じ、無防備な寝息を立て始めた――ように見えた。だが、遊佐は気づいてしまう。 自分の腕に触れている羽柴の指先が、シャツの生地を弄るように、ゆっくりと、意味ありげに這っていることに。
遊佐は息を呑み、低い声で威嚇した。
「……羽柴。お前、本当は酔ってないな?」
問い詰めると、肩に頭を乗せたままの羽柴が、くつくつと喉の奥で笑った。振動が遊佐の二の腕に直接伝わってくる。
「……さぁ。どうでしょうね」
羽柴はゆっくりと目を開け、上目遣いに遊佐を見上げた。その瞳は、とろんと蕩けているようでいて、奥底は氷のように冷徹に遊佐を観察していた。ちょいちょいと手招かれて、耳元に唇が寄ってきた。触れそうな距離。
「でも、桐島さんにはこんな隙、見せませんよ」
囁くような声は、誘惑のようでもあり、勝利宣言のようでもあった。
「……っ、この」
遊佐が何かを言いかけるより早く、羽柴は再び目を閉じ、「おやすみなさい」と呟いて完全に体重を預けてきた。ここで振り払えば、狭量な男だと思われる。それを分かっていてやがる。
遊佐は舌打ちし、行き場のない手で、自分の膝を強く握りしめた。肩に感じる体温と重みが、焼印のように熱い。 この生意気な「壁扱い」を許している自分自身に、遊佐は猛烈に腹を立てていた。
ガーガーと寝息が大きければ嫌がらせで動画を撮ってやるのだが、すーすーっと静かに音を立てている。
「おら、着いたぞ」
揺り起こすと、目があった。タクシー代を払おうとするので、すげない態度で「インターン生に払わせる奴がいるか」とタクシーから追い出そうとする。降りる瞬間、「壁、あったかかった」蠱惑的に笑いながら、舌足らずに告げた。
遊佐は悶絶した。こいつは魔性で酷いやつだ!
タクシーのドアが閉まる音が、夜の住宅街に虚しく響いた。走り去ろうとする車内で、遊佐は自身の膝を殴りつけんばかりに強く握りしめた。耳に残る「あったかかった」という甘い響きと、あの挑発的な笑顔。あれで「おやすみなさい」で済むと思っている神経が、どうしても許せない。
「……運転手さん、止めてくれ」
「え?」
「ここでいい。釣りはいらない!」
遊佐は財布から万札を適当に引き抜いてトレイに叩きつけると、まだ完全に停止していない車から転がり出るようにして降りた。夜道を歩き始めた羽柴の背中は、まだそこにあった。
「羽柴!」
怒号に近い声で名を呼ぶ。羽柴が驚いたように振り返った瞬間、遊佐はその腕を掴み、勢いのまま近くのマンションの外壁――本物の「壁」に、羽柴を押し付けた。
ドンッ、と鈍い音がして、羽柴が小さく息を呑む。
「ゆ、遊佐さん……? 帰ったんじゃ」
「お前が焚き付けたんだろうが」
至近距離で睨みつける。先ほどまで余裕綽々だった羽柴の瞳が、今は驚愕に見開かれ、わずかに揺れている。 その「予想外」の表情を見た瞬間、遊佐の中で燻っていた劣等感が、嗜虐的な喜びに変わった。
そうだ。口や頭の回転じゃお前に勝てないかもしれないが、力で押さえ込めば、お前はただの華奢なガキだ。
「……壁扱いしてくれた礼だ。その壁に押しつぶされる気分はどうだ?」
遊佐は逃げ場を塞ぐように両手を壁につき、わざと体重をかけて羽柴を圧迫した。密着した身体から、ドクドクと早い心拍が伝わってくる。それが自分のものではないことに気づき、遊佐は口端を歪めた。
「……逃げないんですか、羽柴くん。得意のフェイントで」
挑発するように囁くと、羽柴は悔しそうに唇を噛み、それでも遊佐から目を逸らさずに言い返した。
「……ファウルですよ、これ。ディフェンスのやり方が汚い」
遊佐は羽柴の顎を強引に上向かせた。 街灯の逆光で遊佐の顔が影になり、羽柴にはその表情が見えない。見えない恐怖と、抗えない体格差。初めて羽柴の表情から「余裕」が剥がれ落ちるのを、遊佐は特等席で見下ろした。
「知るか。……ファウルついでだ。もっと汚い手を使ってやる」
遊佐は低い声で言い捨てると、抗議しようと開いた羽柴の唇を、自身のそれで強引に塞いだ。
「……んっ!?」
驚愕に息を呑む音ごと、口内に閉じ込められる。それは愛の告白などという生温かいものではなく、捕食者が獲物の喉笛に食らいつくような、荒々しいキスだった。 壁と遊佐の身体に挟まれ、逃げ場のない羽柴の喉が小さく鳴る。
柔軟剤の清潔な香りなど吹き飛ぶほど、雄の匂いと、アルコールの熱が混ざり合う。遊佐は、羽柴が息継ぎをする隙すら与えなかった。生意気な減らず口を叩くその舌を、自分の舌で絡め取り、蹂躙する。抵抗するように羽柴の手が遊佐の胸板を叩いたが、遊佐はそれを片手で制し、さらに深く角度を変えて押し入った。
(……あぁ、いい気味だ)
至近距離で見る羽柴の瞳が、涙で潤み、焦点が合わずに揺れている。あのコートの上でも、オフィスでも、常に涼しい顔で周囲を支配していた「司令塔」が、今はただのキス一つで呼吸を乱し、自分に翻弄されている。その事実が、遊佐の脳髄を痺れるような快感で満たした。
長い、永遠にも思える時間が過ぎ――。ふっ、と遊佐が唇を離すと、銀色の糸が二人の間で細く引いて、プツリと切れた。
「……は、ぁ……っ」
羽柴が肩で息をしながら、濡れた唇を手の甲で乱暴に拭う。その顔は真っ赤で、怒りとも、羞恥ともつかない表情で遊佐を睨み上げた。
「……さいていです、遊佐さん」
「お前が煽ったんだ。自業自得だろ」
遊佐は親指で羽柴の唇の端を拭ってやりながら、ニヤリと笑った。初めて、この男に「勝った」という確信があった。
「どうだ。壁の感触は」
問いかけると、羽柴は悔しそうに目を伏せ、しかし小さな声で――けれど、負けず嫌いな彼らしく、精一杯の強がりで言い返してきた。
「……テクニックは、最低でしたよ」
そう吐き捨てると、羽柴は遊佐の腕の下をくぐり抜け、逃げるようにマンションのエントランスへと走っていった。 その背中が、明らかに動揺で強張っているのを見て、遊佐は夜空に向かって大きく息を吐き出した。
「……可愛くない奴」
だが、その声は先ほどまでの怒りを含んでおらず、代わりにどうしようもない熱だけが残されていた。
洗面台の鏡に映る自分の顔は、ひどく不機嫌そうだった。 羽柴は冷たい水で顔を洗い、タオルで乱暴に拭った後、恐る恐る指先で下唇に触れた。
「……っ、」
僅かな痛みが走り、鏡を睨む。少し、腫れている気がする。昨夜の遊佐のキスは、それほどまでに暴力的で、一方的だった。
(……野蛮人が)
脳裏に、あの瞬間の記憶がフラッシュバックする。 逃げ場のない壁際。アルコールと、雄の匂い。普段は理性的で、どこか自分を突き放そうとしている遊佐が、あの瞬間だけは獣のように自分を貪った。抵抗しようとしたのに、身体の芯が痺れて力が抜け、情けない声を漏らしてしまった自分自身が、何よりも許せない。
――あんなの、ただのマグレだ。不意打ちで、ファウル紛いのプレーをされただけ。
羽柴は整髪料を手に取ると、前髪をいつものように完璧にセットし、鏡の中の自分に向かって「仕事モード」の冷徹な仮面を貼り付けた。このまま主導権を握られたままで終わるなんて、司令塔(ポイントガード)の名折れだ。
「……やり返してやる」
羽柴は、冷蔵庫から取り出したエスプレッソ用の豆を、いつもより深く、黒くなるまでローストされたものに変えた。苦味の強い、刺激的なやつを。
「おはようございます、遊佐さん」
翌朝、羽柴は何事もなかったような涼しい顔で出社してきた。デスクで身構えていた遊佐は、そのあまりに普段通りな態度に拍子抜けし、同時に少しの安堵と――言いようのない苛立ちを覚えた。
(……昨日の今日で、よくそんな平然としてられるな)
遊佐が眉間に皺を寄せていると、羽柴がいつものように淹れたてのコーヒーをデスクに置いた。
「どうぞ。今朝は少し、目覚めが良いように調整しておきました」
「……あぁ、すまん」
遊佐は複雑な気分のままカップを手に取り、一口啜った。瞬間、舌を刺すような強烈な苦味が広がり、思わず顔をしかめる。
「……っ、苦いな。なんだこれ」
いつもの絶妙なバランスとは程遠い、焦げ付くような苦さだ。遊佐が抗議の視線を向けると、羽柴はパソコンの画面を見たまま、ふふ、と喉の奥で笑った。
そして、周囲に聞こえないような小声で、毒を吐いた。
「僕の好みです。……遊佐さんの昨夜のテクニックよりは、幾分かマシな味でしょう?」
「……ぶっ」
遊佐は危うくコーヒーを吹き出しそうになり、慌てて口元を手で覆った。咳き込む遊佐を、羽柴は横目でちらりと見下ろす。 その耳元が、隠しきれないほど真っ赤に染まっているのを、遊佐は見逃さなかった。
「……お前なぁ」
「仕事してください、遊佐さん。……それとも、まだ酔いが残ってますか?」
羽柴はキーボードを叩く手を止めない。だが、その指先がわずかに震え、タイプミスをバックスペースで消していることに気づいた時、遊佐の中で昨夜の「獣」がまた低く喉を鳴らした。
テクニックが最低だと?上等だ。なら、お前が「美味しい」と言うまで、何度でも教え込んでやる。
遊佐は苦いコーヒーを一気に飲み干すと、不敵な笑みを浮かべてモニターに向き直った。この「試合」は、まだ始まったばかりだ。
0
あなたにおすすめの小説
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
優しい檻に囚われて ―俺のことを好きすぎる彼らから逃げられません―
無玄々
BL
「俺たちから、逃げられると思う?」
卑屈な少年・織理は、三人の男から同時に告白されてしまう。
一人は必死で熱く重い男、一人は常に包んでくれる優しい先輩、一人は「嫌い」と言いながら離れない奇妙な奴。
選べない織理に押し付けられる彼らの恋情――それは優しくも逃げられない檻のようで。
本作は織理と三人の関係性を描いた短編集です。
愛か、束縛か――その境界線の上で揺れる、執着ハーレムBL。
※この作品は『記憶を失うほどに【https://www.alphapolis.co.jp/novel/364672311/155993505】』のハーレムパロディです。本編未読でも雰囲気は伝わりますが、キャラクターの背景は本編を読むとさらに楽しめます。
※本作は織理受けのハーレム形式です。
※一部描写にてそれ以外のカプとも取れるような関係性・心理描写がありますが、明確なカップリング意図はありません。が、ご注意ください
彼の巨大な体に覆われ、満たされ、貪られた——一晩中
桜井ベアトリクス
恋愛
妹を救出するため、一ヶ月かけて死の山脈を越え、影の沼地を泳ぎ、マンティコアとポーカー勝負までした私、ローズ。
やっと辿り着いた先で見たのは——フェイ王の膝の上で甘える妹の姿。
「助けなんていらないわよ?」
は?
しかも運命の光が私と巨漢戦士マキシマスの間で光って、「お前は俺のものだ」宣言。
「片手だけなら……」そう妥協したのに、ワイン一杯で理性が飛んだ。
彼の心臓の音を聞いた瞬間、私から飛びついて、その夜、彼のベッドで戦士のものになった。
相性最高な最悪の男 ~ラブホで会った大嫌いな同僚に執着されて逃げられない~
柊 千鶴
BL
【執着攻め×強気受け】
人付き合いを好まず、常に周囲と一定の距離を置いてきた篠崎には、唯一激しく口論を交わす男がいた。
その仲の悪さから「天敵」と称される同期の男だ。
完璧人間と名高い男とは性格も意見も合わず、顔を合わせればいがみ合う日々を送っていた。
ところがある日。
篠崎が人肌恋しさを慰めるため、出会い系サイトで男を見繕いホテルに向かうと、部屋の中では件の「天敵」月島亮介が待っていた。
「ど、どうしてお前がここにいる⁉」「それはこちらの台詞だ…!」
一夜の過ちとして終わるかと思われた関係は、徐々にふたりの間に変化をもたらし、月島の秘められた執着心が明らかになっていく。
いつも嫌味を言い合っているライバルとマッチングしてしまい、一晩だけの関係で終わるには惜しいほど身体の相性は良く、抜け出せないまま囲われ執着され溺愛されていく話。小説家になろうに投稿した小説の改訂版です。
合わせて漫画もよろしくお願いします。(https://www.alphapolis.co.jp/manga/763604729/304424900)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる