【完結】乙ゲー世界でもう一度愛を見つけます

瀬川香夜子

文字の大きさ
3 / 38

02

しおりを挟む



 リシャーナ・ハルゼラインには、このオルセティカ王国の伯爵家に生まれ落ちる前の人生が存在した。
 そこには貴族や平民なんていう階級差は存在せず、魔法や魔力といった不可思議な力も存在しない――そんな日本で十八年間生きた、少女の人生だ。
 そこでは糸田清花と名を受け、両親と五つ下の妹とともに二階建ての住宅に暮らしていた。
 ハルゼラインの邸は、住んでいたリシャーナでさえ部屋数を把握しきれないほどに大きな家だったが、それに比べて糸田の家はひっそりとしたものだ。
 姉妹には一つずつ部屋を与えられていたが、リシャーナが今暮らしている寄宿の寝室よりも幾分も狭い。よく考えると、オルセティカで生を受けてから、リシャーナは前世の自身の部屋より狭いところにいったことがないかもしれない。
 あったとしても、移動に使う馬車程度だろうか。
 実家の敷地は邸から見渡す限りがハルゼラインのもので、与えられる衣服も食事も、全てが厳選された最高級のもの。
 欲しいものはほとんどが手に入るし、決して生活に困ることはない。
 それでも日本での生活が恋しく淋しく思えるのは、糸田清花として生きていたリシャーナが根っからの貴族ではないからだろうか。
(ハッキリと覚醒する前は、こうじゃなかった気もする……)
 寄宿を出て研究室に向かう途中、リシャーナはふと思い返す。
 物心がつくまでのリシャーナは、ずいぶんとぼんやりした子どもだった。
 幼い体はしっかりとオルセティカで生きているが、意識の半分は日本での記憶を辿っていたからだ。目を開けて夢を見ている心地に近かったと思う。
 意識がハッキリとしたのは五歳の頃だ。
 夢うつつに記憶を辿りつつも、年相応の子供であったリシャーナは、それなりに両親たちに甘えて過ごしていた。
 ときには愛情を試すように、可愛らしい我が儘を言って困らせたものだ。
 きっと突然失った糸田の家族たちの愛情を、今世の両親で埋めようとしていたのかもしれないと後になって思う。
 ハルゼラインの両親は、微笑ましそうになんでも頷いてきいてくれた。
 きっとリシャーナのワガママが、軽くこなしてしまえるものだったというのもあるだろうが、幼い娘を愛していたからだとも思う。おぼろげながら覚えている両親の表情は、いつだって柔らかく微笑んでリシャーナを見つめていたから。
 しかし、その考えが引っくり返されたのは、リシャーナの伯爵家の令嬢としての教育が始まったあとのことだ。
 五歳の誕生日を過ぎた春のことだった。家庭教師ガヴァネスを出迎えたとき、春の温もりを含む風に心地良さを覚えたので間違いない。
 簡単な読み書きや計算から始まり、魔力や魔法に関する基礎知識など。そして令嬢の教育は花嫁修業の一貫でもあったので、刺繍などといった嗜みまで。
 そして、なにより大事なものが貴族に相応しい礼儀作法と貴族として生きていく上でのその心意気や姿勢。
 目上の者には敬意を。下の者には愛情を。
 貴族という尊き血のもとに生まれたならば、決して誰にも弱みや未熟なところを見せてはならず、常に気高く、正しくあらねばならない。
 持てる者としての責任を理解し、持たざる者には施しを与えるべし。しかし、傲慢になるべからず。謙虚な心を忘れず、けれど決して持てる者であるという誇りを忘れず、弱き者を助けるべし。
 何度も何度も暗唱を繰り返した、その貴族の信念はリシャーナは簡単にそらんじることが出来る。
 けれど、どれだけ頭に刻み込もうと、心が変わってくれるものでもない。
 読み書きも計算も、はたまた前世にはなかった魔力や魔法といった概念の勉強も、リシャーナはそれほど苦もなくやりこなした。
 けれど、貴族の礼儀や誇りといったところになると、てんで違和感をもってしまってダメなのだ。
 誰にも――それこそ家族にでさえ弱みを見せてはいけないなんて、そんなことってあるだろうか?
 令嬢として生まれたならば、子を産み、血を繋がなくてはならないなんて、そんなことってあるだろうか?
 なにがあっても余裕を持った笑みで堂々としていなければならないなんて、そんことってあるだろうか?
 もやもやと名状しがたい違和感が、ふつふつと幼い胸のなかに積もっていった。
 そして、家族とでさえくつろぐことのできぬ関係に、言いようのない淋しさや恐怖を感じたのだ。
 幼いリシャーナは、授業を見守っていた母と眼の前の家庭教師に向かってぽつりと言った。
 リシャーナからすると、いつものわがままの延長だった。
「私、おうちを出て誰かと結婚するなんて嫌。ずっとお母さまとお父さまと一緒にいたい!」
 だからこんなお勉強やめちゃおうかなあ。
 本気じゃなかった。けれど、あまりに糸田清花自分の中の常識と違うものが降りかかってくるものだから、怖くなったのだ。
 ――まあリシャーナ。可愛いことを言って。でも、これはお勉強なんだからちゃんとやらないとダメよ。
 これらはあくまで勉強として、知識として頭に入れておかなければならないこと。そう思えたら、安心できると思ったのだ。
 きっといつもみたいに、母は困ったように……けれど愛情の隠しきれない笑みで答えるはずだ。
 そう思っていたリシャーナの考えを裏切るように、母はつり目がちの瞳を瞬時に眇め、感情のない顔でリシャーナを見下ろした。
 澄んだグレーの瞳に浮かぶ庇護欲や愛情といった温かな感情が、一瞬で消えていくのを目の当たりにしたリシャーナは息を飲んだ。
(あ、これダメなやつだ……)
 遠い記憶の中、これとよく似た瞳を向けられた、学校での風景が脳裏をよぎった。
 途端、喉が痙攣したように震えだした。
「……おかあさま」
「リシャーナ、私たちハルゼラインの生活がどう成り立っているのか知っていますね?」
「……りょ、領民たちからの税金です」
「そうです。私たちはこの領地を治め、平民のように労働せずとも金銭を得て豊かな生活が出来ます。なにより、この地は由緒正しきハルゼライン家が代々治めてきた地です」
 淡々の述べる母の声は、冷たく聞こえるほどに平坦だった。
 これが諭すような優しさ含む響きであれば、まだリシャーナは平静を保っていられただろう。
「ハルゼラインの家に生まれたあなたは、ほかの貴族と番い、その血を繋いでいかねばなりません。私たちは貴族です。その身は、この領地のために。家のために使うものです。お前の兄テシャルが家を継ぐように、リシャーナ。お前にとってはそれが貴族としての務めなのです」
 そこで母は一歩、リシャーナとの距離を詰めた。普段ならば腰を折って目線を合わせてくれる母は、ぴんと伸びた美しい姿勢のまま、リシャーナに戒告した。
「その務めを放棄するというのならば、お前はハルゼラインを名乗る資格はありません。出てお行きなさい」
 微塵の揺らぎもなく、母は言い切った。
 その佇まいは凛と美しく、貴族とはかくあるべきということをリシャーナに突きつけてくる。
 リシャーナはふと助けを求めるように、一歩下がったところにいた家庭教師を見た。
 けれど、彼女は母を静止することも、リシャーナを心配そうに見やることもない。
 まるで母の弁舌に聞き惚れるように眼を伏せ、その口許には誇らしいとばかりに笑みが乗っていた。
 途端に、リシャーナの背筋が粟立った。
 この人たちは本気なのだ。本当にこれが正しいと、誇らしいことだと、一縷いちるの疑念もなくそう信じているのだ。
 ゾワリと幼い肌を撫でたのは、理解できないものと相対した気味の悪さと恐怖だった。
 恐怖で竦む足が、今にも崩れそうだった。
 けれど、それをしたら今度こそ自分は見放されるのではないかと思うと、震える足を叱咤して立っているしかなかった。
 習ったばかりの作法を頭の中で必死に反芻し、出来るだけ優雅に、貴族らしく見えるようにリシャーナは頭を下げた。
「お母さま、申し訳ありませんでした。私が間違っておりました」
 そこでようやく母は血の通った笑みで応えた。
「いいのよリシャーナ。あなたはまだ子供だもの。これからきちんと貴族としての責任を感じていけばいいのよ」
 ──いいえ、お母さま。私は子供だから分からないのではないのです。
 頭の中で密かに返し、リシャーナは小さな心を恐怖で震わせていた。
 冷ややかな視線と、愛情のない冷えきった声。
 それを浴びた瞬間に、リシャーナの今世での意識は、ハッキリと覚醒したのだ。
 愛しているはずの娘でさえ、貴族としてあるまじきものだと思えば、一瞬で情もなにもかも捨てることが出来る。それがこの人たちには当たり前なのだ。これが、貴族というものなのだ。
(それなら、もし私が貴族じゃないと知れたのなら……)
 その先の考えに行き着く前に、学園から帰省していた兄に手を引かれて、リシャーナはされるがまま母たちのいる部屋を出た。
 

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

おばさんは、ひっそり暮らしたい

波間柏
恋愛
30歳村山直子は、いわゆる勝手に落ちてきた異世界人だった。 たまに物が落ちてくるが人は珍しいものの、牢屋行きにもならず基礎知識を教えてもらい居場所が分かるように、また定期的に国に報告する以外は自由と言われた。 さて、生きるには働かなければならない。 「仕方がない、ご飯屋にするか」 栄養士にはなったものの向いてないと思いながら働いていた私は、また生活のために今日もご飯を作る。 「地味にそこそこ人が入ればいいのに困るなぁ」 意欲が低い直子は、今日もまたテンション低く呟いた。 騎士サイド追加しました。2023/05/23 番外編を不定期ですが始めました。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました

佐倉穂波
恋愛
 転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。  確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。 (そんな……死にたくないっ!)  乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。 2023.9.3 投稿分の改稿終了。 2023.9.4 表紙を作ってみました。 2023.9.15 完結。 2023.9.23 後日談を投稿しました。

完璧(変態)王子は悪役(天然)令嬢を今日も愛でたい

咲桜りおな
恋愛
 オルプルート王国第一王子アルスト殿下の婚約者である公爵令嬢のティアナ・ローゼンは、自分の事を何故か初対面から溺愛してくる殿下が苦手。 見た目は完璧な美少年王子様なのに匂いをクンカクンカ嗅がれたり、ティアナの使用済み食器を欲しがったりと何だか変態ちっく!  殿下を好きだというピンク髪の男爵令嬢から恋のキューピッド役を頼まれてしまい、自分も殿下をお慕いしていたと気付くが時既に遅し。不本意ながらも婚約破棄を目指す事となってしまう。 ※糖度甘め。イチャコラしております。  第一章は完結しております。只今第二章を更新中。 本作のスピンオフ作品「モブ令嬢はシスコン騎士様にロックオンされたようです~妹が悪役令嬢なんて困ります~」も公開しています。宜しければご一緒にどうぞ。 本作とスピンオフ作品の番外編集も別にUPしてます。 「小説家になろう」でも公開しています。

竜帝に捨てられ病気で死んで転生したのに、生まれ変わっても竜帝に気に入られそうです

みゅー
恋愛
シーディは前世の記憶を持っていた。前世では奉公に出された家で竜帝に気に入られ寵姫となるが、竜帝は豪族と婚約すると噂され同時にシーディの部屋へ通うことが減っていった。そんな時に病気になり、シーディは後宮を出ると一人寂しく息を引き取った。 時は流れ、シーディはある村外れの貧しいながらも優しい両親の元に生まれ変わっていた。そんなある日村に竜帝が訪れ、竜帝に見つかるがシーディの生まれ変わりだと気づかれずにすむ。 数日後、運命の乙女を探すためにの同じ年、同じ日に生まれた数人の乙女たちが後宮に召集され、シーディも後宮に呼ばれてしまう。 自分が運命の乙女ではないとわかっているシーディは、とにかく何事もなく村へ帰ることだけを目標に過ごすが……。 はたして本当にシーディは運命の乙女ではないのか、今度の人生で幸せをつかむことができるのか。 短編:竜帝の花嫁 誰にも愛されずに死んだと思ってたのに、生まれ変わったら溺愛されてました を長編にしたものです。

【完結】姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。

猫屋敷 むぎ
ファンタジー
誰もが憧れる勇者と最強の騎士が恋したのは聖女。それは私ではなく、姉でした。 復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。 やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、 勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。 過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。 魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、 四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。 輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。 けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、 やがて――“本当の自分”を見つけていく――。 そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。 ※本作の章構成:  第一章:アカデミー&聖女覚醒編  第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編  第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編 ※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位) ※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。

溺愛最強 ~気づいたらゲームの世界に生息していましたが、悪役令嬢でもなければ断罪もされないので、とにかく楽しむことにしました~

夏笆(なつは)
恋愛
「おねえしゃま。こえ、すっごくおいしいでし!」  弟のその言葉は、晴天の霹靂。  アギルレ公爵家の長女であるレオカディアは、その瞬間、今自分が生きる世界が前世で楽しんだゲーム「エトワールの称号」であることを知った。  しかし、自分は王子エルミニオの婚約者ではあるものの、このゲームには悪役令嬢という役柄は存在せず、断罪も無いので、攻略対象とはなるべく接触せず、穏便に生きて行けば大丈夫と、生きることを楽しむことに決める。  醤油が欲しい、うにが食べたい。  レオカディアが何か「おねだり」するたびに、アギルレ領は、周りの領をも巻き込んで豊かになっていく。  既にゲームとは違う展開になっている人間関係、その学院で、ゲームのヒロインは前世の記憶通りに攻略を開始するのだが・・・・・? 小説家になろうにも掲載しています。

悪役令嬢に転生したので地味令嬢に変装したら、婚約者が離れてくれないのですが。

槙村まき
恋愛
 スマホ向け乙女ゲーム『時戻りの少女~ささやかな日々をあなたと共に~』の悪役令嬢、リシェリア・オゼリエに転生した主人公は、処刑される未来を変えるために地味に地味で地味な令嬢に変装して生きていくことを決意した。  それなのに学園に入学しても婚約者である王太子ルーカスは付きまとってくるし、ゲームのヒロインからはなぜか「私の代わりにヒロインになって!」とお願いされるし……。  挙句の果てには、ある日隠れていた図書室で、ルーカスに唇を奪われてしまう。  そんな感じで悪役令嬢がヤンデレ気味な王子から逃げようとしながらも、ヒロインと共に攻略対象者たちを助ける? 話になるはず……! 第二章以降は、11時と23時に更新予定です。 他サイトにも掲載しています。 よろしくお願いします。 25.4.25 HOTランキング(女性向け)四位、ありがとうございます!

処理中です...