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完結編

14 黒彦とイサベル

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 午後六時を過ぎると、帰宅途中の会社員や学生たちで書店は混んでくる。しかしいつも以上に客は会計を済ませずに帰っていく。それもそのはずだ。スーツで決めた黒彦が尊大な雰囲気でレジにいるからだ。参考書を買いに来た男子高校生がひそひそと話をしている。

「なんか買いづらくね?」
「いつもの優しそうなお姉さんだとなあ」
「今からアカデミー賞でも受賞しそうだよな」

 チラチラ見られていることに気づき、黒彦は気を利かせて彼らに近づいた。

「お客様、何かお困りでも?」

 威圧的な黒彦に、男子高校生は緊張し口をパクパクさせる。

「ああ、これか」

 参考書のコーナーで選んでいるの察し、何冊か手に取り黒彦は彼らに解説を始めた。

「こっちは受験向きで、こっちは授業の理解に向いている。どっちにしろ先に自分の将来の希望を考えないとな」

 もともとカリスマ性の高い黒彦は、若い彼らをあっという間に魅了する。高圧的に見えたのは彼の自信による堂々とした態度によってであるが、実際は親しみやすい。2人の男子高校生は緊張感を伴ってはいるが、少しずつ黒彦に親しみを感じ、質問を始める。

「あ、あの俺、いや僕、親はこの学校行けって言うんですけど、ホントは――」
「うん、うん。確かに親はある程度経験があるからな――」
「あの僕はこの方向性が好きなんですが、得意なのはこっちって言うか――」

 いきなり始まる進路相談に、黒彦は臆することなく答えていく。説得力と落ち着いた成熟した男性の雰囲気に、しばらくすると高校生たちは魅了されはじめる。黒彦の話を熱心に聞き入り彼らは頬を紅潮させ、明るい表情を見せ始めた。そして参考書ではなく全然別のジャンルの本を買っていった。
 この高校生たちが将来この国の経済と医療に大発展をもたらす二人になるとは、今はだれも予想できなかった。

「今日もなかなかだったな」

 売り上げを確認していると、ガラッと扉が開き「クロヒコー。コンバンワ」とイサベルの声がかかった。

「ん、今閉店だ。んん? なんだその恰好」
「え? クロヒコこそそんな恰好でどこに行くツモリ?」
「いや、鈴木さんが……。ちょっと待ってて着替えてくる」
「ごゆっくりドーゾ」

 イサベルはカットソーにカプリパンツだった。黒彦もカジュアルなシャツとパンツに着替え、店のシャッターを降ろした。

「さて、何食べたい?」
「そうねえ。サシミ、テンプラ、ポンシュを堪能したいワ」
「ふーむ。じゃ緑丸とか黄雅のたむろしてるところにでも行くか」

 食に頓着がない黒彦は、緑丸と黄雅がよく行くという海鮮居酒屋に向かうことにした。

「今日はお付きの者はいないのか」
「エエ。呼べばいつでも執事は迎えにくるワ。遅くなってもヘーキよ」
「まあ、そんなに遅くはならないだろう」
「えー。オールナイト! オールナイトッ!」
「いや。勘弁してくれ……」

 商店街を2人で少し歩くとすぐに海鮮居酒屋が見えてきた。イサベルは紺の暖簾を指さし「この布カワイイ。欲しい」と黒彦にせがむ。

「ダメだ。これは店の看板と同じだからな」
「ふーん。どこかで売ってるカナ」
「カーテンを取り扱ってる店にあるかな」
「ワタシの国の建物、カタイから、こういう柔らかそうなモノ欲しい」
「なるほどな。オリエンタルで価値のあるものなら青音のとこにあるかもしれない」
「オウ! セイネのとこでいっぱい買い物したい!」

 店の中に入り、座敷に上がるとやはりイサベルは畳みやら座布団やらを欲しがる。そんな様子を見ていると、外国の研究所での生活に慣れていた黒彦もやはり和風は良いものだと再認識する。

「適当に頼むか」
「お願いネ」

 刺身と天ぷらの盛り合わせと日本酒を頼む。

「なんか変わったものあるかなあ」

 せっかくなのでナマコと牡蠣の酢の物を頼み、イサベルに勧めた。

「これはなかなか珍味ってやつかな」
「うーん。グロテスクね。でも、エイっ! あ、んん? カタイわ! オウ! でもオイシイ」
「だろう。こっちは柔らかい」
「うー。ふにゃふにゃネ。すべって掴めないネ」
「ああ、フォーク使うといい」
「エイっ! う、ぬるっとして、んん。このひらひらしてるとこ、何かしら? つるっと入っチャウ。オウッ! オイシイ!」
「感想が激しいな……」

 襖の外から「あのー、すみません」と声がかかったので黒彦が襖を開けると黄雅がいた。

「やっぱり、黒彦たちか。騒いでるのイサベルだと思ってさ」
「オウ。コウガいたのね」
「やあ、イサベル堪能してる?」
「エエ。コウガは1人なの?」
「いや、4人だよ」
「オウッ! パーティね。ゴウリュウゴウリュウ!」
「え、合流する? 黒彦いいの?」
「ああ、俺はどっちでもいい」
「じゃ、ちょっとみんなに聞いてくるよ」

 黒彦とイサベルは黄雅たちに加わり、もう一つ広い座敷に移る。メンバーは黄雅、菜々子、緑丸、理沙だった。

「緑丸のフィアンセの高村理沙だ」
「私は、えーっと、あ、名刺作ってない! 山崎菜々子です」
「ヨロシク。研究仲間のイサベラよ」

 名前は聞いていたが理沙と菜々子がイサベラに会うのは初めてだった。

「とりあえず、また乾杯でもしようか」
「そうしよう」

 しばらく飲んだのち理沙は率直にイサベラに尋ねる。

「イサベラは恋人はいないのか?」
「エエ、残念ながら」

 菜々子もそれを聞きつけ会話に加わる。

「イサベラさん。まさか黒彦くん狙ってないわよね?」
「フフっ。どうかしらネ」

 思わせぶりなイサベラに菜々子は黒彦に聞こえないように「事情知ってるんでしょ?」と小声で話す。
 記憶のない黒彦に気を使っている菜々子だが、彼ら三人はこちらの話に耳を傾けることなく話し合っていた。

「そうだ。イサベル。人の恋路を邪魔してはいけないぞ」

 理沙も菜々子の応戦を始める。イサベルは2人の女性が黒彦と桃香を応援しているのだと分かっていたし、長く一緒に研究をしていた黒彦との関係はなんら発展性がないものだとわかっていた。

「ご心配ナク。彼らの邪魔をするつもりはないノ。でも……」
「どうしたんだ、イサベル。悩みでもあるのか」
「いきなり暗いじゃない。あなたラテン系じゃないの?」

 人の好い二人は桃香のライバルだと思いイサベルに好意的ではなかったが、思いつめる彼女を心配し始める。

「来月結婚スル。子供のころから決まったフィアンセがイルから」
「ほう。めでたい話じゃないか」
「なになに、で、何でそんなに暗いのよ」
「顔もみたことがナイ。歳は同じみたいだけど」
「えー! 今どきそんな結婚があるのか!?」

 イサベルの一族では当然のことであったが、理沙と菜々子は驚きを隠せない。

「みんなが羨ましい。好きな人と恋がしてみたかったカナ」
「そうか……」
「まあ、じゃあ、とりあえず飲もう!」

 女性たちの雰囲気が良くなったので、緑丸や黄雅も安心して飲み始める。明るく楽しく飲んだ後。案の定、菜々子と理沙はしたたかに飲み黄雅と緑丸に背負われて帰っていった。

「じゃあね。イサベル」
「おやすみ」
「マタネ! コウガ、ロクマル。リサとナナコによろしく言っといて」

 2組のカップルを見送り、黒彦も「さて、執事呼ぶか」とイサベルに帰宅を促す。

「クロヒコ。おねがい。もう少し付き合ってくれない?」
「ん、まあいいか」
「公園行くネ」
「酔い覚ましにいいか」

 2人は恋人たちのメッカである公園を散歩することにした。もう夜も遅いので恋人たちもいない。噴水の水もとまって静かだ。
 ベンチに腰掛け黒彦とイサベルは薄曇りの夜空を見上げる。

「あの宇宙にいたなんて、ここにいるとあまり信じられないな」
「ソウネ。でもホント無事に帰ってきてくれてヨカッタ」
「SFじゃないからな。案外宇宙の方が安全だな。交通事故もないし」
「クロヒコ、ロマンがない」
「ふっ。仕事にロマンは求めないよ」
「クロヒコ。あの、私帰国したら、結婚スル」
「そうか。おめでとう」
「でも私クロヒコが好き!」
「え、そう言われてもな……」
「今晩一晩だけでイイ! 思い出が欲しい!」
「イサベル……」

 彼女は真剣に黒彦に訴える。

「今、クロヒコ、恋人イナイ。いいでしょう?」
「確かに今は恋人はいない。だけど」
「だけど?」
「イサベル。君は大事な研究仲間だ。おまけに婚約者もいる。だからダメだ」
「どうしてもダメ? 遊びでもイイ。ずっとずっとクロヒコ好きだった」
「いや。やめておこう。俺と君はそういう結ばれ方をするべきじゃない」
「……。頑なネ」
「お互いが愛し合っていなければ、そういうことは後悔の元になると思う」
「ロマンチストね」
「仕事じゃないからな」
「ワカッタ。でもありがとう。付き合ってくれて」
「いつでも付き合うさ。大事な仲間だからな」
「ん……」

 しばらく宇宙を眺め、イサベラは執事を呼び帰っていった。


 イサベラは帰国後、王族の決まりにより顔も知らない婚約者と結婚することになるが、相手の顔を見た途端、憂いはなくなった。

「オウッ! イケメン! よかったー、クロヒコとそうならなくて」

 後々、イサベラは自分を拒んでくれたロマンチストの黒彦に大いに感謝するのだった。


 黒彦は1人で夜空を眺め、人恋しい気持ちを感じる。

「誰か分からないが誰かを求めている気もするな……」

 ふっと桃香の顔が浮かぶ。

「鈴木さん……。そういえば彼女も恋人がいないようだな」

 スタアシックスの仲間たちが随分桃香の事を気に入っているようで、黒彦に会うと必ず彼女の様子を聞き褒める。

「あいつらも恋人がいるくせに、鈴木さんと親密そうだよなあ」

 黒彦よりもスタアシックスの仲間たちの方が、桃香との物理的な距離が実際に近かった。

「白亜は確か鈴木さんの髪を触っていた気がする……。美容師だからって、まったく」

 白亜の態度になぜか黒彦はイラつく。

「まあ鈴木さんは可愛いからな……」

 自分で言っておいて黒彦はハッとする。そしてまたあの淫靡な夜を思い出してしまった。耳の奥で桃香の耳触りの良い声が記憶に残っている。『てん、ちょう……』

「いけないいけない。彼女は大事なうちの店員だ。――自制しなければな」

 こぶしを握り締め黒彦はベンチを立ち、闇の中に紛れていった。
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