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第二部
10 小夜子
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夏の繁忙期も終わり、少し秋風を感じるようになってスカーレットオークがほんのり紅葉し始めた頃、小夜子が倒れた。
「あら。来てくれたの」
少し痩せた小夜子が見舞いに来た直樹に笑いかけた。
身体を起こそうとする小夜子を直樹は支えた。(軽い)
倒れたときにはもう手遅れで癌はまだ若い小夜子の身体をあっという間に蝕んだ。
延命治療は拒み、最後の時間は自宅で過ごしたいという強い希望で退院してきたのだ。
ペンションはしばらく休業する。
小夜子は反対したが和夫は仕事をする気分にはなれなかったし、笑顔で接客することなど到底無理だった。
今は緋紗の陶芸教室だけ機能している状況だ。
緋紗も陶芸教室を休もうかと提案したが、子供の明るい声や賑やかさがペンションを明るくするし、幼い和奏への暗い不安な気持ちを感じさせたくないという希望から休むことなく続けられている。
「和夫はああ見えてデリケートな人でね」
相変わらず女王様として凛とした態度を崩さず、小夜子は微笑みながら言った。
「男はみんなデリケートですよ」
ポツリという直樹に「そうね」 と微笑んで返した。
小夜子は和夫との出会いを思い出していた。
これからという時にピアニストの小夜子は手を痛め演奏家としての道が閉ざされた。
些細な怪我かもしれないがピアニストとしては致命的だった。
ピアノへの執着と絶望感とプライドを保つため、慈善事業のつもりで福祉施設で演奏活動を始める。
福祉施設には様々な年代の様々な症状を抱えた人がいた。
最初は全くやる気が出なかった。
――クラシックのクの字も知らないような人が私のピアノを聴いてどうするのか。
そんな現状を知らないかつての仲間は褒め称えるが、小夜子にとってステージ上から下を見るような憐れみの賞賛にしか感じられなかった。
ある時慰問した福祉施設で設置してあるピアノを見て愕然とする。
調律はおろか手入れも掃除もろくになされていなかった。(これピアノなの?)
古びた黒い木の箱にしか見えなかった。
壊すくらいの勢いで弾いた。(どうせ誰も聴いていない)
今までの鬱憤を晴らすようにピアノに当たり散らした。
何を弾いたのかさえ覚えていないくらいに。
自分の指にさえ注意を払わなかった。
体力の限界を感じて演奏を終えたとき大きな歓声に包まれる。(え?)
今までで一番大きな拍手をもらった気がした。
観客を見るとベッドに横たわっているまま恍惚としている人、ぼんやりと空を見るような目で涙を流している人もいた。
目を閉じることを忘れていたかのように目を充血させながらずっと小夜子を見つめている人もいた。
自分で身体を抱きしめて震わせながらむせび泣いている人もいた。
一部の心も身体も知性も奪われていて、到底まともに評価などできないだろうと思っていた小夜子には初めて人には魂があるのだと感じる。
気が付くと小夜子のプライドも憤りも虚しさも何もかも昇華されていた。
流す涙が自分のすべてを浄化するように。
その自分の魂の歓びに打ち震えている静止した時間の中、すうっと引き込まれるように男がやってきた。
自分より年配でしっかりとしたスーツを着こなしながらも人生に疲弊を感じているような男だった。
男が告げる。
「あなたは美しい」
そのあとのことはあまり覚えていない。
覚える必要がなかったのかもしれない。
気が付くとその男『和夫』の腕に抱かれていた。
「あの時が人生の絶頂だったわね」
死を目の前にして生命の輝いた瞬間を話す小夜子の美しさは圧巻だった。
青白い小夜子の頬が薔薇色に染まる。
「私は一人でも生きていけたけど和夫のおかげでいつ死んでもいいと思えたわ」
心からそう思っているのだろう。
強がりでも誤魔化しでも美化でもなく率直な感想のようだ。
「きっと和奏は和夫のためね」
笑って小夜子は言う。
「愛の証じゃないの」
「ロマンチストねえ」
直樹の言いように小夜子は優しく微笑んで言った。
「直君。子供なんて気にしなくていいわよ。あなたは目の前の緋紗ちゃんを大事にね」
「ん」
素直に頷いた。
「和奏には可哀想だけど彼女は彼女の人生がきっと拓けると思うから。悪いけどたまにピアノ弾いてやってくれないかな」
小夜子にとって幼い娘の和奏でさえ魂を持った一人の人間なのだ。
「モーツアルトお願い……」
「女王様。承知いたしました」
うとうとし始めたので直樹は静かに部屋を出た。
「あら。来てくれたの」
少し痩せた小夜子が見舞いに来た直樹に笑いかけた。
身体を起こそうとする小夜子を直樹は支えた。(軽い)
倒れたときにはもう手遅れで癌はまだ若い小夜子の身体をあっという間に蝕んだ。
延命治療は拒み、最後の時間は自宅で過ごしたいという強い希望で退院してきたのだ。
ペンションはしばらく休業する。
小夜子は反対したが和夫は仕事をする気分にはなれなかったし、笑顔で接客することなど到底無理だった。
今は緋紗の陶芸教室だけ機能している状況だ。
緋紗も陶芸教室を休もうかと提案したが、子供の明るい声や賑やかさがペンションを明るくするし、幼い和奏への暗い不安な気持ちを感じさせたくないという希望から休むことなく続けられている。
「和夫はああ見えてデリケートな人でね」
相変わらず女王様として凛とした態度を崩さず、小夜子は微笑みながら言った。
「男はみんなデリケートですよ」
ポツリという直樹に「そうね」 と微笑んで返した。
小夜子は和夫との出会いを思い出していた。
これからという時にピアニストの小夜子は手を痛め演奏家としての道が閉ざされた。
些細な怪我かもしれないがピアニストとしては致命的だった。
ピアノへの執着と絶望感とプライドを保つため、慈善事業のつもりで福祉施設で演奏活動を始める。
福祉施設には様々な年代の様々な症状を抱えた人がいた。
最初は全くやる気が出なかった。
――クラシックのクの字も知らないような人が私のピアノを聴いてどうするのか。
そんな現状を知らないかつての仲間は褒め称えるが、小夜子にとってステージ上から下を見るような憐れみの賞賛にしか感じられなかった。
ある時慰問した福祉施設で設置してあるピアノを見て愕然とする。
調律はおろか手入れも掃除もろくになされていなかった。(これピアノなの?)
古びた黒い木の箱にしか見えなかった。
壊すくらいの勢いで弾いた。(どうせ誰も聴いていない)
今までの鬱憤を晴らすようにピアノに当たり散らした。
何を弾いたのかさえ覚えていないくらいに。
自分の指にさえ注意を払わなかった。
体力の限界を感じて演奏を終えたとき大きな歓声に包まれる。(え?)
今までで一番大きな拍手をもらった気がした。
観客を見るとベッドに横たわっているまま恍惚としている人、ぼんやりと空を見るような目で涙を流している人もいた。
目を閉じることを忘れていたかのように目を充血させながらずっと小夜子を見つめている人もいた。
自分で身体を抱きしめて震わせながらむせび泣いている人もいた。
一部の心も身体も知性も奪われていて、到底まともに評価などできないだろうと思っていた小夜子には初めて人には魂があるのだと感じる。
気が付くと小夜子のプライドも憤りも虚しさも何もかも昇華されていた。
流す涙が自分のすべてを浄化するように。
その自分の魂の歓びに打ち震えている静止した時間の中、すうっと引き込まれるように男がやってきた。
自分より年配でしっかりとしたスーツを着こなしながらも人生に疲弊を感じているような男だった。
男が告げる。
「あなたは美しい」
そのあとのことはあまり覚えていない。
覚える必要がなかったのかもしれない。
気が付くとその男『和夫』の腕に抱かれていた。
「あの時が人生の絶頂だったわね」
死を目の前にして生命の輝いた瞬間を話す小夜子の美しさは圧巻だった。
青白い小夜子の頬が薔薇色に染まる。
「私は一人でも生きていけたけど和夫のおかげでいつ死んでもいいと思えたわ」
心からそう思っているのだろう。
強がりでも誤魔化しでも美化でもなく率直な感想のようだ。
「きっと和奏は和夫のためね」
笑って小夜子は言う。
「愛の証じゃないの」
「ロマンチストねえ」
直樹の言いように小夜子は優しく微笑んで言った。
「直君。子供なんて気にしなくていいわよ。あなたは目の前の緋紗ちゃんを大事にね」
「ん」
素直に頷いた。
「和奏には可哀想だけど彼女は彼女の人生がきっと拓けると思うから。悪いけどたまにピアノ弾いてやってくれないかな」
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「モーツアルトお願い……」
「女王様。承知いたしました」
うとうとし始めたので直樹は静かに部屋を出た。
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