憧れの彼は一途で優しくて時々イジワル

RIKA

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一章

16.不安の理由

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数日後の木曜日、始業してまだ間もない時間に、背後からやけに慌ただしい喧騒が聞こえてきた。
ちらりと見やると、課長席に座る永瀬が、いつになく厳しい表情で部下数人と話をしている。

営業事務の女性達から聞こえ漏れてきた内容を整理すると、どうやら隣県の事業所でトラブルがあり、契約を打ち切ると顧客が怒っているらしい。
現在の営業担当がフォローにあたったが先方の担当者の怒りが収まらず、急遽永瀬が出向くことになったようだ。
再度契約を巻きなおしになる可能性もあるため、事務面でのサポートとして、営業事務の女性も同行することになったのだが、その担当というのが…――。

「じゃあ皆、あとはよろしく~」

どこか期待すら含んだ表情で天沢はそう周囲に告げると、ハイブランドのトートバッグを持って颯爽と退社していった。
事業所は隣県の北部に位置するため、今日は泊まりになる可能性が高いという。
女性だと色々入用だろうからと、天沢はその準備のために一旦自宅に戻り、駅で永瀬らと落ち合って先方の元に向かうことになったようだ。

数人いる事務員の中で、なぜ彼女が選ばれたのか、香澄には分からない。
さっき永瀬が彼女を直接呼び出していたので、おそらく彼自身の選定なのだろう。

正直、よりによってどうして、という想いがないわけではない。
ざわめきに似た何かが心を覆っているのも確かだ。
とはいえ、彼女が彼に想いを寄せていること、くれぐれも注意してほしいということは既に伝えたし、彼も了解したと言っていた。
だから香澄にはそれ以上、何もすることができない。ただ永瀬を信じること以外は。

とにかく、一刻も早くこのトラブルが無事に解決しますように――香澄は縋るような思いで、一人そう願った。


永瀬は担当営業の部下を引き連れて、昼前には会社を出発した。
言葉を交わすことも視線を合わせることもなかったので見送ることはできなかった。
そのかわり、昼休みになると香澄はスマホを開いて彼にメッセージを送った。

――『トラブル対応で今日は宿泊出張になるかもしれないと聞きました。無事に解決することを願っています。忙しいと思いますので、連絡は控えますね』

暫くすると、そのメッセージに対して、『了解、ありがとう。また連絡する』と短い返事があった。


***


その日は稟議の精査が立て込んでおり、香澄は夜9時を過ぎても会社に残っていた。
町谷は既に帰宅している。
無理しなくていいと言われたが、明日以降を少しでも楽にするため、ある程度残数に目処がつけられるようになるまで頑張るつもりだ。
何より、仕事をすることで少しでも気を紛らわせたかった。そうでなければ、永瀬と天沢のことを考えてしまうから…。

フロアには離れたところにまだ数名残っているようだが、香澄の席周辺で残っているのは、香澄含めた3人。
営業事務の望田と、もう一人若い事務員のようだ。

稟議に不備があれば、当然担当者に差し戻すことになる。
修正対応は基本的に営業事務が担当しているので、それに対応するために残っているのだろう。
ただし、件数に追われて休憩する間もない香澄とは違って、望田達は比較的落ち着いて、時折談笑すらしながら進めている。
そのほとんどはテレビの話や美容の話など他愛もない雑談だったが、望田が「えっ!」と突然声をあげたことから始まった話題には、周囲を驚かせるほど高い集中力を誇る香澄も、動揺を隠しきれなかった。キーボードを叩く手が思わず止まってしまったぐらいに。

「いま、沙世から連絡きた。今夜、落としてみせます!…だって」
「ええ~!天沢さん、ついに」

沙世とは、天沢のことだ。誰を、とは聞くまでもない――永瀬のことだろう。
つまり今夜、彼女は彼を自分のものにしようとしているのだ。
そう理解した瞬間、香澄は心臓を掴まれたような息苦しさを覚えて、ごくりと喉を鳴らした。

「わざわざ言ってくるってことは、相当自信あるみたいね。あーあ、ついに落ちちゃうか~」
「天沢さんに迫られて落ちない人なんていなさそうですもんね」
「実際いないじゃなかったかな。百発百中って言ってたよ」
「ほんとですか?さっすが~」

香澄は再度キーボードを叩き始めたが、その指が震えているのは自分でも分かった。
その連絡から察するに、今夜はやはり宿泊することになったということなのだろう。それもおそらく…同じホテルに。

(まさか…今、一緒に?)

考えた瞬間、香澄は咄嗟にスマホに手を伸ばした。
出張中の彼と繋がることができるのは、このスマホだけ。そして彼に連絡を取れば、その真偽が分かるだろう。

でも、と理性がそれを制止する。

もしまだ仕事中だったら。隣に部下や天沢がいたら。
下手すると自分達の関係がバレてしまうかもしれない。
それに、ただでさえ疲れているはずの彼を問い詰めるようなことはしたくない。
そもそも、連絡を控えると言ったのは自分なのだ。

(…大丈夫。心配しなくても、大丈夫)

香澄はなんとか仕事できるだけの冷静さを取り戻すと、スマホを置いて仕事に向き直った。
あと数件程度で目途が立ちそうだ。いつもどおりやれば、30分程度で終わるだろう。
そう自分を奮い立たせたが、芽生えた微かな猜疑心と背後で盛り上がる望田たちがことごとく香澄の集中力を邪魔して、結局彼女が退社したのはそれから一時間程経ってからだった。


***


帰宅してからも、香澄は永瀬のことばかり考えていた。
もう0時近いので、さすがに永瀬もホテルにいるはずだが、何も連絡はない。
相変わらず無音なスマホも更けていく夜も、嫌な予感ばかりを増幅させる。

トラブルは無事に収まったのだろうか。ご飯は食べただろうか。きちんと休めているだろうか…。
労いのメッセージを何度も送ろうとしたが、却って疲れている彼を煩わしくさせてしまいそうで、結局何も送れていない。
それでも、また連絡する、と言う彼の言葉を信じて、その日香澄は夜遅くまで起きていた。いや、眠ることができなかった。

――天沢ほどの美人に言い寄られて、嬉しくない男はいないだろう、と思う。
そして野望を抱くあの彼女が、その言葉どおり、今日というチャンスを逃すわけがないことも分かっている。
それこそ、実力行使で、その豊満な身体を以て彼を誘惑するつもりなのだろう。果たして、彼は拒むことができるのだろうか。

恋愛経験豊富で自分自身に絶対的自信を持つ容姿端麗な彼女と、女としての自信はおろか大した取り柄もない自分。
どちらが男性にとって魅力的かなんて――誰に聞かなくたって分かり切っている。

(…でも、私を好きって言ってくれた。だから大丈夫。信じてる――信じなくちゃ)

視線を少し動かせば、アクセサリースタンドが視界に入った。
そこに飾られているのは、いつか永瀬に買ってもらったネックレス。
香澄はそれを手に取ると、まるで希望にしがみ付くようにぎゅっと握りしめた。

(私は彼女なんだから…不安になることなんてない)

香澄は何度も自分にそう言い聞かせたが、時間が経てば経つほど不安はどんどん大きくなっていく。
やがてそれは少しずつ不満へと形を変えて、香澄をさらに暗い気持ちへと追いやった。

――どうして連絡くれないの?今どこで、何をしているの?誰と一緒にいるの。

何も心配いらいないと、たった一言だけでいいのに。
その言葉さえあれば、この不安は全て杞憂だったと思うことができるのに…。

依然として、スマホは静かなままだ。
待ちくたびれてベッドに横になれば、次第に瞼が重くなっていく。
視界が暗転するそのそばで、彼女の目尻から一筋の涙が零れ落ちた。

微睡む意識の中、香澄はいつの間にかどうしようもなく彼に惹かれていたこと、そして彼を誰にも奪われたくないと強く願う自分がいることに――ようやく気が付いた。
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