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しおりを挟む「あぁ…緊張した……こんなに緊張したのすごく久しぶりだった……」
車に乗り込むやいなや、一平はネクタイを軽く緩めると「ふぅぅぅ……」と大きな息を一つ吐いた。
「今日は本当にありがとうごさいました、あの、両親が、特に母が、何か…すみませんでした…」
「謝ることなんてない、あんな風に言ってもらえるなんて思ってもみなかったし、何より、結婚を認めてもらえたんだ。本当によかったよ」
タイミングよく定休日が2日重なった初日の今日、2人は車で繭子の実家に行った。
事前に繭子が母親に電話をして、紹介したい人がいると伝えていた。驚いた母親から、年齢は? 仕事は? 性格は? どこに住んでいるの? など色々聞かれたが、近々そっちに行くからその時にきちんと紹介すると言って何とか宥めたのだった。
アパートに迎えに来てくれた一平に、繭子は胸がドキンと大きく高鳴った。
極々細いシルバーのストライプが入った濃紺のスーツに白いワイシャツ、そしてスーツと合わせたやはり濃紺の同系色のペイズリー柄があしらわれたネクタイ、ビシッと折り目が付いた細身のパンツにピカピカに磨かれた黒い革靴……。初めて目にした一平のスーツ姿に言葉を失った。な、なんてカッコいいんだろう…まるでモデルさんみたい…。
「繭子? どうしたの?」
ポーッとその場に立ち尽くしている繭子に怪訝な顔をした一平が声をかけると、ハッと正気に返った。
「あ、すみません! あ、あの…一平さんのスーツ姿を見たのが初めてで…すごく、すごくカッコよくて素敵で、思わず見惚れてしまいました…」
そう言うと、一平は恥ずかしそうに頭を軽く掻いた。
「…ああ、スーツを着て繭子に会うのは初めてだな。今は着る機会なんて滅多にないから…。でも、そんなに見つめられると照れるな」
「だって、本当に素敵なんで…」
「繭子だって、そのブルーのシフォンのスカートとシルバーグレーのブラウス、よく似合ってる。指輪とも合ってるし、とても綺麗だよ」
甘い笑顔で見つめられて繭子は頬を染めた。
約束した時間に実家に到着すると、玄関の上がり口の所で母親が待ち構えていた。そして一平の姿を見た瞬間、破顔した。
一平が挨拶をすると、さあさあとにかく上がって、とウキウキした様子でリビングに案内した。
すでにリビングのソファに座って待っていた父親は少し不機嫌そうに見えた。一平が深くお辞儀をすると、まあ、とにかく掛けてください、と一言告げた。それから繭子と母親がお茶の準備をしている間、軽い雑談をしていた。
そしてお茶を出し終えて4人が揃うと、一平が改めて2人に挨拶をし、自己紹介をした。
祖父が始めたカフェレストランでマスターをしていて、主に常連客に支えられて店は続けられていることを話すと両親は顔を見合わせた。そこで繭子が、自分は一平さんのお父様がマスターの頃に何度か行っていて、とてもいいお店で店内はお爺様が集めたアンティークの古時計や珍しい品々とかが飾られていて素敵で、たまたま店のことを思い出してまた通うようになったんだけど、中にいると時間がとてもゆったりと感じられて落ち着いて心が穏やかになるの、と言った。
「なら今は2代目のお父様と一緒にお店を切り盛りしているのかな」
父親が問いかけると一平はゆっくりと首を横に振った。
「自分が商社を辞めて店を継ぐことになってからは一緒に店に入っていましたが、父は4年前に病気で亡くなりました。それから母ですが、私が小学生の頃に交通事故で亡くなりました」
繭子の母が、まぁ…、と悲痛な面持ちになった。
そして一平が続けた。
「父が亡くなってからは、妻と一緒に店を切り盛りしていました」
「……妻?」
両親が怪訝な顔をした。
「はい。実は私は一度結婚しています。ただ、結婚して約2年後に妻はガンで亡くなりました。3年前のことです。子供はいません」
「……」
両親は言葉を失っていた。場が静まり返った。繭子も一平が経験してきた悲しい出来事に改めて胸が痛んだ。
「……そうでしたか…色々お辛い経験をなさったのですね…お悔やみ申し上げます」
両親が深く頭を下げると、一平は軽く微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、もう過去のことです。もちろん色々な思い出は残っていますが、今はもう前を向いて日々を過ごしております」
そして一度繭子の顔を見つめてから続けた。
「繭子さんは店で私が作った料理やお茶をいつも美味しそうに食べてくれて楽しんでくれて、常連のお客さんとしてだんだんと打ち解けていく中で彼女の思慮深さや律義さや誠実さや人を思いやる優しさなどを知るうちに、少しづつ繭子さんに魅かれていき好きになっていきました。ただ、その気持ちにはっきりと気がついたのが遅かったため、彼女に辛い思いをさせてしまいました。それが申し訳なく、不甲斐ないと思っております」
それを聞いて繭子が慌てて口を挟んだ。
「一平さん、申し訳ないことなんてないです、私は全然辛く思いなんてしてませんから」
「なので、繭子さんと思いが通じ合った今は自分が全力で彼女を支え、できる限り彼女を幸せにする決心でおります。とは申しましても、実際には繭子さんに支えられてばかりなのですが。実は、2ヶ月ほど前から店で働いてもらっていましてとても助かっています。いつも店内を綺麗に掃除してくれて忙しい時でもいつもお客さんに温かく丁寧に接客してくれまして彼女がいると店の中が本当に優しい雰囲気になります」
一平にそんな風に言われた繭子は頬が熱くなった。
「そんなこと……支えてもらってるのは私の方です」
そう言うと両親の方に顔を向けた。
「本当なの、私は一平さんに救われたの。実は…私、2人に話してなかったことがあって……」
繭子は初めて両親に、会社を辞めた理由や適応障害で心療内科に通院していたことや、一平が自分の様子をとても気にかけてくれたこと、話を全部聞いてくれて自分の気持ちに寄り添ってくれ励ましてくれて精神的に支えてくれたこと、などを打ち明けたのだった。
驚いた両親は、そんなことが…! 何でもっと早く言わなかったんだ、と声を荒げた。
「本当にごめんなさい。2人に余計な心配をかけさせたくなくて…。でもね、病院の帰りに『古時計』のことを思い出して、昔と変わらない温かく居心地のいい空間と一平さんに出会えてもうその時に好きになってしまって、また通うようになって、だんだんと心が癒されていったの。食欲がなくても一平さんが作る心の籠った料理やお茶なら口にできた。店に行くのが楽しみで、疲れ果ててボロボロだった自分にとって店は本当にオアシスで心の支えだった。一平さんのおかげで心と身体の健康を取り戻すことができたの。本当に命の恩人で、優しくて思いやりがあって、自分にはもったいないくらいの人。奥様のことを知った時、まだ一平さんは奥様のことを想っていると分かった時も、たとえこの恋が報われなくても私の想いは変わらないし想いが実らなくてもかまわない、せめて友人としてでもこの人を何らかの形で少しでも恩返しできればいいと思ってた。でも、一平さんははっきりと言ってくれた、今は私だけを愛しているって。今でも信じられないくらいだけど、でも、すごく幸せで……。あと、店で働きたいって希望したのは私で、あそこで働けて何とか一平さんの力になれてるみたいでとても嬉しいんだ」
話し終えると両親がポカンとした顔をしていた。繭子はハッと我に返った。うわぁ、めちゃくちゃ熱く語ってしまったかもしれない……。考えてみたらこういう話を2人の前でしたのは初めてだった。今更ながら恥ずかしくなってしまった。
そんなことを思ってると父親がゆっくりと口を開いた。
「……話は分かった。古谷さん、まずは娘を助けていただき支えていただき、誠にありがとうございます。前に繭子がとても痩せた姿でここに帰ってきた時があって心配したのですが、その理由が分かりましたし、今の話と姿で本当に娘は回復したことが分かりました。それに、この子がこんなに饒舌に自分の気持ちを我々に話したのにも驚きました。どちらかというと内気で控え目であまり自分の感情を表に出さないような子でしたが…。あなたとの出会いが娘を変えたのでしょうね。それで、今後のことですが…。古谷さんはどうお考えなのでしょうか」
「はい、本日こうしてご挨拶に伺いましたのは、娘さんとの結婚をお許しいただくためです。繭子さんとこれからの人生を一緒に歩んで行きたいと真剣に思っております。必ず幸せにすると誓います。どうか、繭子さんと結婚させてください。お願いいたします」
一平が深く頭を下げたので繭子も一緒に下げた。
「…繭子はどうなんだ? 彼と結婚して添い遂げる覚悟は本当にできているのか?」
頭を上げた繭子は強く頷いた。
「もちろん。最初からそのつもりだから」
「でも、こう言っては失礼だが、自営業は売上に波があるし、生活が安定しないのではないかと…。その点が少し不安に思うのだが…」
「そうですね、それは否定できません。これまでのところは特に大きな波はなく安定していまして、現在繭子さん以外にもう1人スタッフを雇っているのですが、人件費やその他の経費を差し引いてもきちんと生活できるくらいの利益はあります。持ち家なので店の家賃もありません。ただ、ものすごく贅沢な生活をさせてあげることは難しいかもしれません…。今度、数年分の収支報告書をお見せいたします」
「一平さん、そこまでする必要ないですよ! それに私は元々質素な方が好きなので贅沢な生活なんて興味ありません。結婚したら私はお給料なんていらないし、実は、今いただいているお給料も後々返すつもりで取ってあるんです。私の貯金もそれなりにまだあるし、2人で頑張れば何とかなります。在宅の仕事だって続けるつもりでいます」
繭子は熱くなっていた。
「大事なのは、一平さんといつまでも楽しく幸せに暮らすことと『古時計』をずっと後世まで残すこと。私が生きている限り、何があっても店は守りぬくから!」
ふと気がつくと、また自分だけが熱弁していることが分かり、あっ…となった。すると、一平が繭子の手を握った。
「繭子…ありがとう…これまでも君がくれた言葉に感銘を受けてきたけど、今日ほど感銘を受けた日はない……今日ほど君と出会えてよかったと思えた日はない……本当にどうもありがとう。俺は何があっても全力で君を守り幸せにするから」
そこで、んんっ、と咳払いがした。
「えーと、我々の存在を忘れているようだが…」
「あ…大変失礼いたしました…」
一平が恥ずかしそうに顔を下に向けた。
「古谷さん、いや、一平くん」
父親に名前で呼ばれて一平はさっと顔を上げた。
「正直に色々話してくれてどうもありがとう。君の真面目で誠実な人柄が伝わってきたし、繭子のことを本当に大事に想ってくれていることもよく分かった。娘をよろしくお願いします」
「一平さん、これからは娘と一緒に末永く幸せになってね」
両親の言葉に一平と繭子の顔がパァと明るくなった。
「はい! ありがとうございます」
「ありがとう!」
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