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輪廻Ⅱ『結願』
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二人で四国遍路をしようと決めたのは17年前だった。それも歩いて回る。一年に五カ所、正月とゴールデンウイークと盆休みのどれかを利用する。だから桜の時期とか紅葉の時期からは外れている。真言宗の信徒ではない。仏教徒だと何となく思っているだけで特に宗派に拘りも無い。日本人は大概が仏教徒だから自分達もそうなんだろう生きて来ただけである。
四国遍路を始めるきっかけは一人息子の死である。高校生の時に交通事故で亡くなった。息子の晃は自転車通学をしていた。いつものように弁当箱を自転車の前かごに入れて出掛けた。母の雅子が台所の窓から晃の後ろ姿を見送っていた。ガチャーンと大きな音が雅子の耳に届いた。自宅前の路地から大通りまで直線で70メートル。歩道が狭いので車道に出なければならない。通学の小学生が歩道を占拠している。雅子はその音に驚いて蛇口を閉めた。大通りにトラックの荷台が見える。雅子は素足に突っ掛けで走った。歩道に弁当箱を包んだ赤い風呂敷が転がっていた。晃の自転車がひとつ先の電信柱に寄り掛かっている。雅子はどうして自転車だけがあるのか不思議に感じた。そして道路を見ると何かが横たわっている。雅子にはそれが晃だと認識する理性は失われていた。
「晃、晃、どこにいるの?」
歩道を歩きながら晃を探した。歩道に晃のバッグが落ちている。それを拾いパタパタと手で叩いた。
「しょうがないわねえ」
息子がバッグを忘れたから持って行くと担任に電話しようと家に急いだ。「わーっ」と泣き声がしたので振り返った。若い男が狂ったように泣き叫んでいる。雅子は我に返った。泣いている男の元に走りもう一度道路に横たわっている物を見た。頭から流れている血がもう数センチでトラックのタイヤに辿り着く。靴はお気に入りのスリッポン。片方が脱げている。まさかと思い近付いた。
「晃、晃」
サイレンの音と共に気を失った。雅子は晃とは別の病院に運ばれた。目が覚めると夫の隆敏がぼやけて見えた。
「晃は?」
隆敏が首を横に振った。それからずっと泣き続けた。ドライバーは事故当時22歳、牧田義和と言い大型免許を取ったばかりだった。事故は牧田の前方不注意だが、晃の飛び出しも認められた。双方に50%の過失がありそれが裁判にも反映された。隆敏夫妻は納得がいかなかったがどうすることも出来ない悔しさに打ちひしがれた。牧田義和は3年で出所してすぐに謝罪に訪れた。夫婦は謝罪を受け付けず、手土産も投げ捨てた。牧田の謝罪訪問は一年間続いた。訪問は迷惑と諦めたが日雇いの作業員をしながら帰りには必ず立ち寄って玄関前で頭を下げ続けた。仕事が休みの日には晃の墓掃除に出掛けた。それが20年続いた時だった。
「お父さん、あの人は悪い人ですか」
雅子の言葉に驚いた。驚いたのは隆敏も同じ疑問を持ち始めていたからである。
「悪い奴さ、息子を殺したんだ」
それでも隆敏は牧田を許したくなかった。
「どうしてもっと悪い人に轢かれなかったのかしら」
「そんなことを考えるんじゃない、牧田は息子を殺した男だ、生涯怨み続ける。それが私達の試練だよ」
牧田は晃が急に道路に飛び出したことを自分から指摘することはなかった。現場検証から明らかになった事実を弁護士が利用したのである。その翌日隆敏は雅子に内緒で牧田に会いに出掛けた。アパートは木造の古い造りである。隆敏は一升瓶をぶら提げて牧田のアパートの前で待っていた。リュックサックを背負った牧田が戻って来た。
「牧田さん」
初めて名前を呼んだ。牧田は隆敏に気付かなかった。これまで顔を合わすことがほとんどなかったからである。
「ああ、吉川さん」
牧田は驚いて後退りした。
「ちょっと話があって来たんだが時間はあるかね?」
「はい、どうぞ」
真ん中が廊下で両側に部屋がある。
「トイレは突き当りの右側です」
部屋にトイレがない。
「どうぞ」
牧田が作業靴を脱ぐと足の臭いが鼻を突いた。
「失礼します」
隆敏も上がった。一間に流しがあるだけの部屋である。衣類は長押に釘を打ってハンガーにかけている。電化製品は小さな冷蔵庫だけである。部屋には不釣り合いな立派な仏壇がある。仏壇には花の他に菓子や果物が添えられている。位牌の名を見て驚いた。橘晃、息子の名である。
「その仏壇は?」
隆敏は指を差してのけ反った。
「すいません、勝手に晃君の仏壇を置かせてもらいました」
牧田は正座して畳に頭を付けた。
「牧田君は・・・」
隆敏は言葉にならなかった。沈黙が続いた。
「君は20年間晃のために人生を捧げて来たのかね」
「これからも続けていきます。それが私の人生に課された報いですから。ご両親から晃君を奪ってしまったことは、取り返せない。私に生ある限り祈り続ける、そして謝罪を続けることしか出来ません。申し訳ありません」
牧田は事故後初めて父親の前で謝罪することが出来た。
「頭を上げてください。牧田君お酒は?」
「酒煙草は一切断ち切りました」
「好きな女性ぐらいいるだろう?」
「いえ、女性が出入りする場所には行きません」
「毎日肉体労働をしているらしいが、辛いだろう」
「いえ、身体を酷使する方が楽です」
「毎週墓掃除をしてくれるらしいが、甲府までの電車賃もばかにならない」
「使い道がありません。稼ぎはありますから問題ありません。それでも少し残るので被害者の会に寄付をしています」
隆敏は涙が溢れてきた。こんな律儀な男を20年間も罵り相手にしなかった愚かさが情けなかった。
「君は幾つになった?」
「今年43歳です」
21歳から刑務所に2年間、その後の20年間を無駄にさせてしまった。晃と四つしか変わらない牧田の青春を奪ってしまった。
「昨夜、家内が君の後ろ姿を見ながら言った。君が悪い人なら良かったのにねと。私もそう思っていた。もっと早く君を受け入れて上げれば良かった。ねえ牧田君、もう晃への償いは充分過ぎるぐらい返していただいた。これからは君自身のために人生を楽しんで欲しい。この通りだ」
隆敏が畳に頭を付けた。
「困ります、困ります」
牧田は隆敏の肩を抱いて頭を起こした。
「橘さん、これはもう決めたことなんです。隙が出来ると私はまた過ちを犯します。知らず知らずのうちに、他人に迷惑を掛けてしまいます。私に続けさせてください」
牧田の決意は変わらない。
「どうしても私達の願いを聞き入れてくれないのならお願いがある。私達は四国遍路を歩いて回りたい。君に付き合ってもらえないだろうか。結願をしたら、この願いを聞き入れて欲しい」
牧田は考えた。それはその時が必ず来ると言うことである。結願した後は何を目的に生きていけばいいのか想像が付かなかった。しかし命を奪った息子の親の願い。聞き入れるのが正道と受け入れた。
そしてその年のゴールデンウイークの五日間を利用して徳島に渡った。旅費経費は全て橘が負担した。牧田に預貯金は一銭もない。その代わり、身体の弱い雅子を介助する役目を請け負った。宿は遍路小屋や善根宿など無料に近い宿に宿泊することを牧田の薦めで決めた。徳島の旅館で一泊し翌日朝出発した。隆敏61歳、雅子還暦、牧田43歳、初めてのお遍路である。一番札所霊山寺で旅の安全を祈願した。極楽寺までは雅子の遅い足取りでも20分ほどで到着した。
「もっと大変かと思ったわ」
雅子に余裕がある。これくらいの距離ならそれほど苦労しないだろうと安易に考えた。次の金泉寺までは途中休憩しながら小一時間掛かってしまった。五日間で最低五カ所を目標にしている。難儀な雅子のことを考慮して、近くの遍路宿に泊まることにした。
「すいませんね牧田さん。私には無理かもしれません。今年で止めようかしら」
雅子の足はパンパンに腫れていた。それを牧田がマッサージしている。
「奥さん、頑張りましょう、夢を叶えてください。私がこんなことを言える立場ではありませんが。すいません」
牧田は余計なことを言ってしまったと後悔した。一人息子の命を奪っておいて、その母親に頑張りましょうなどと大層なことを言ってしまった。そして年を重ね15年目になった。高知、愛媛県の難所も何とかクリアした。雅子は持病の悪化で体力が著しく低下していた。5分歩けば15分の休憩が必要になっていた。
「牧田君、今年は女房をおいて行こう」
辛そうな雅子を気遣い隆敏は苦渋の決断をした。
「車椅子でいいじゃないですか。私は体力がありますから問題ありません」
牧田の強い希望で雅子は車椅子での遍路旅となった。それは時間の短縮にもなった。
「香川県は比較的、距離が短いですね。楽勝ですよ」
それでも坂道はきつい。牧田は二人に気を遣い苦しくても表情には出さなかった。そしてその翌年雅子が亡くなった。
「牧田君、話があるんだ」
通夜の日である。
「はい」
「君には家族として参列して欲しい」
牧田は固辞した。
「私に隙を与えないでください。隙があればろくなことが頭に浮かばないんです。私は最後まで晃君を轢き殺した男として生涯を送ります」
そして四国遍路17年目になった。隆敏は喜寿、牧田は還暦になった。残るは志度寺、長尾寺、大窪寺の三か所となった。88ヶ所詣でを終えて高野山まで行く五日間である。決まりとして去年最後の85番札所八栗寺からスタートをする。隆敏も元気ではあるが膝に痛みを抱えている。一足ごとにずきんと痛みが走る。
「橘さん、大丈夫ですか?少しお休みしましょうか」
隆敏の荷物も牧田が背負っている。牧田の胸ポケットには晃と雅子のツーショット写真が入れてある。
「いやここは一気に行きたい。次が長丁場になる」
志度寺から長尾寺まで1時間半を要する。長尾寺から大窪寺は5時間掛かる。それも健康な人の足である。坂道や階段は隆敏の足では容易ではない。これまでも一昼夜通して歩き続けたこともある。それに比べれば5時間は軽い。そう自分に言い聞かせるが膝痛はひどくなるばかりである。隆敏にとっては地獄のような5時間になる。そして悪い予感が的中した。隆敏の膝がパンパンに膨れて立っているのがやっとの状態である。
「私はあそこの遍路宿でタクシーを呼んでもらう。残念だが歩き遍路の夢はここで諦める」
隆敏の目から大粒の涙がポロポロと零れた。
「ここで待っててください」
牧田は近所に車椅子の在庫がないか聞き歩いた。
「すいませんが車椅子はないでしょうか?」
「爺さんが使うとったやつがあるが、錆びて車輪が回るかどうか?」
機械油を注いでなんとか動くようになった。
「ありがとうございます。結願の際は必ずお返しに上がります」
「どこぞに捨て置きまいよ。車で取りに行くけん電話しまいよ。しかし無理せずに車で回ったら宜しいのに」
「ありがとうございます。17年掛けて今年が最後の年になります。あの方の夢は歩いてお遍路をすることです。どうか成し遂げていただきたいと思っています」
「あの方って親子やないんか?てっきり息子さんか思うとったわい」
主は石段に座る隆敏と牧田を交互に見やった。
「ご迷惑序に鋏を貸していただきたいんです」
「何に使う?」
主は突然現れたおかしな遍路に鋏を渡すわけにはいかない。
「丸刈りにしたいんです」
「それならバリカンがあるわい。いきなり鋏なんて言うけん驚いた。あの方連れまいよ。大したことは出来んがあんた丸刈りにするまでお接待させまいよ」
牧田は隆敏を負んぶして接待小屋まで連れて行った。
「おーい、おーい」
奥から野良着の夫人が出て来た。
「ようおまいり」
夫人が笑顔で迎えた。主が事情を話し夫人がバリカンを掛けた。髪の多い牧田は地肌が青い。
「よかったら白装束にしたらどうや。古着けど洗うてあるんじゃけん」
牧田はシャワーを浴びて厚意に甘えた。接待小屋では隆敏が主に二人の関係を明かしていた。
「そうか、そなん深いご関係やったか。あの方も立派だが、心開いたあんたは素晴らしい。もし、うちが同じ経験したなら、許せるかどうか、恐らく憎み続けるじゃろう」
主は感慨深げに言った。
「お待たせしました」
頭を丸め、洗いざらしの白装束に身を包んだ牧田が現れた。
「ああっ」
主人が思わず手を合わせた。
「奥さんからいただきました。少しは遍路っぽく見えるでしょうか?」
「牧田君、ありがとう」
自然と涙が溢れる。
「いやだな橘さん、さあこうしちゃいられません、夢を叶えてください」
夫人がビニール袋を牧田に手渡した。
「紙袋だと雨降りには破けてしまうけん」
隆敏が手にしている紙袋をビニール袋に入れ、口をしっかり結んだ。隆敏を車椅子に乗せる。夫人が隆敏の膝の上にオレンジを二つ置いた。
「ありがとうございます。結願したら便りを出します」
出発した。
「あんたどうしたの、顔色が悪いんじゃわ」
「あの人がお大師さんに見えた。若い頃の空海さんに見えた」
主は同行二人の背に手を合わせた。
「雨が降らなけりゃええが」
夫人が空を見上げた。丸刈りになって敏感になった地肌に雨粒が落ちた。牧田は空を見上げた。黒い雲が山に掛かってきた。
「橘さん、合羽を着ましょう」
隆敏に合羽を着させた。
「君は?」
「私は雨降りも合羽など着ずに仕事をしています。合羽を着ると蒸れて汗を掻くんです」
雨が激しくなってきた。身体が冷えて来た。熱が出ているのを感じている。車椅子を押す力が萎えて来た。
「牧田君、牧田君」
「はい」
返事をするのが精一杯だった。牧田の意識が薄れてきた。
『神様、弘法大師様、どうか私のために不幸になったこの方を結願させてください』
牧田の手が車椅子のハンドルから離れた。下り坂である。車椅子が前に進んだ。
「おっとっとっと、今ブレーキ掛けますからね」
隆敏の前に変な男が現れた。
「私より倒れている彼を看てください」
「はいはい、順番順番」
男はブレーキを掛けた。
「癪」
天に向かって叫んだ。稲妻と一緒に癪が降下してきた。
「傘代わりに上で羽を広げてくれ」
癪が巨大化して羽を広げた。隆敏は雨が上がったと勘違いしている。
「これはひどい熱だ」
牧田の額に手を当てて言った。
「ねえ、聞こえる」
牧田は頷いた。
「熱は冷ましてあげるから。その前に寿命を見るからね、天命なら諦めてもらうよ」
男は右手人差し指の腹を牧田の天中に当てた。そして山根までゆっくりと滑らせる。
「あなたは常人ではない、選ばれた人だ」
そう言って掌を額に当てた。牧田の熱が掌に吸い取られる。真っ赤になった掌を天に向けて息を吹きかけた。熱が散らばって消えた。牧田は意識を取り戻した。すぐに隆敏の元に走る。
「大丈夫でしたか、すいませんでした」
「私より君は大丈夫か?うなされていたが」
「はいそれが不思議と治りました」
牧田は焦げ茶色のハンチングを被った男に気付いた。
「あの方は?」
「私達を助けてくれた方です」
牧田が近付いた。
「ありがとうございます。お接待の方でしょうか?」
「まあそんなとこだけど、こういう者です」
男は名詞を差し出した。
「金原武さん、仙人?」
「そうなんですよ。あなたの祈りが私に通じました」
「祈りですか?」
「そうです、あの方の結願を祈られたでしょ?まさか忘れたとは言わせないですよ」
金原は笑った。
「はい、その祈りがあなたに通じたのですか?」
「そう。それであなたを救いにきました」
「金原さんありがとうございます。これであの方の夢を叶えさせてあげられます。なんとお礼を申し上げればよいか、あいにく私は金品の持ち合わせはありません。それにあなたに感謝の意を伝える適当な言葉も持ち合わせていません。ただお礼を申し上げるのみでございます」
牧田は深々と頭を下げた。金原は牧田が既に常人から解脱していることを感じ取っていた。常人なら仙人の出現をすぐに信じたりはしない。牧田は仙人金原と信じて話している。
「しかし不思議だ、目の前は大雨なのに私達がいる所だけ雨がない。きっとお大師様のご加護だろう」
隆敏が手を合わせた。
「私の連れがこの上で羽を広げています。たまには役に立つもんだ」
『ギャー』と癪が鳴いた。隆敏はおかしなことを言う男だと思った。
「さあ、結願目指して進んでください。夜の内は傘代わりに私の連れをお貸しします」
牧田が深く礼をした。そして車椅子のグリップを握り進み出した。金原はそれを見送った。癪が移動すると本降りの雨に肩をすぼめた。薄っすらと朝焼けが見える頃雨は止んだ。上空でバタバタと音がして青空が見えた。癪が雲の切れ間に消えて行った。
「何だろう今の羽音は?」
隆敏が上空を見上げた。
「さっきの方のお連れさんらしいですよ」
「おかしな男がいるもんだ。だが助けてもらったのはありがたい」
押し方の牧田も疲労困憊していたが乗っている方の隆敏も楽じゃない。尻が痛くなり位置をずらしたり片方の尻を浮かしたりしている。そして念願の88番大窪寺に到着した。山門の石段には車椅子を貸し出した主夫婦が声掛けしたお接待の衆が応援に駆け付けていた。石段の下に辿り着いた二人に拍手喝采である。
「ありがとうございます。みな様の力沿いでここまで来ることが出来ました。本当にありがとうございます」
隆敏の目に涙が溢れた。
「橘さん、私の背に乗ってください」
牧田が隆敏を背負った。牧田の足も棒のようになっていた。一段一段をしっかりと上がる。そして本尊を参拝し大師堂で手を合わせた。
「おんころころせんだりまとうぎそわか、おんころころせんだりまとうぎそわか、おんころころせんだりまとうぎそわか」
隆敏と牧田は抱き合って結願を喜んだ。そして翌日高野山参りに出掛けた。
「君の人生を無駄にした私を許してくれ」
「橘さんの人生を狂わせたのは私です」
「私の家を継いでくれないか?」
「ありがとうございます。お気持ちだけいただきます。私は四国遍路を命ある限り続けることにしました。何の見返りも求めないお接待の心に感銘しました。生涯を修行僧として回り続けることを誓いました」
その三年後に隆敏が旅立った。遺言に牧田の名が記されていたが親族に相続を譲った。そして日雇い作業員をしながら三月と四月を利用して遍路を続けた。始めは50日掛かったが次第に30日で回れるようになった。古希になり日雇い仕事も首になった。物乞いをしながら回り初めて三年目に倒れた。
『神様、お大師様、ここまで命をいただきありがとうございます。結願するたびに迷いが薄れて行きました。私は罪びとです。地獄に落ちるのに悔いはありません。残念なのは大窪寺で待っていてくれるお接待の方にお礼が言いたかった。お願いです。私はこれから山に入ります。穴を掘り埋まります』
牧田が遍路道から山に入ろうとした時だった。
「行きましょうよ大窪寺まで」
焦げ茶色のハンチングに黒っぽい服を着た男が声を掛けた。
「あなたは」
13年前に車椅子を押していて倒れた時に助けてくれた男だと想い出した。
「確か仙人の金原さん」
「覚えていてくれましたか。そりゃ良かった。あなたをここで埋めるわけにはいきませんよ。最後の結願を果たしてください」
「私にはもう力が残っていません。それに四国霊場の地で骨になるならこんな嬉しいことはありません。お気持ちだけいただきます」
「そうはいきません。さっき高野山の奥の院に行って来ました。大師遍照金剛にあなたのことを伝えました。大師様はあなたのことをよく知っておられた」
「お会い出来たのですか?」
「ええ、一応神の使いですから。役得とでも言いましょうか、増々力強く修行をなされていました。もう来られると思います」
羽音が聞こえるとつむじ風が起きた。欅の木の裂け目から癪が飛び出して来た。ゆっくりと着地した。癪の背からひとりの坊主が降りた。
「仙人から其方のことは聞いた。どうだろう、もうこの世の寿命は尽きるようだ、奥の院に入り一緒に修行をせんか?」
「ありがとうございます」
「さあ、この世の最後の結願じゃ、わしの肩に摑まりなさい」
牧田は大師遍照金剛に抱えられた。背の同行二人が消えていた。
了
四国遍路を始めるきっかけは一人息子の死である。高校生の時に交通事故で亡くなった。息子の晃は自転車通学をしていた。いつものように弁当箱を自転車の前かごに入れて出掛けた。母の雅子が台所の窓から晃の後ろ姿を見送っていた。ガチャーンと大きな音が雅子の耳に届いた。自宅前の路地から大通りまで直線で70メートル。歩道が狭いので車道に出なければならない。通学の小学生が歩道を占拠している。雅子はその音に驚いて蛇口を閉めた。大通りにトラックの荷台が見える。雅子は素足に突っ掛けで走った。歩道に弁当箱を包んだ赤い風呂敷が転がっていた。晃の自転車がひとつ先の電信柱に寄り掛かっている。雅子はどうして自転車だけがあるのか不思議に感じた。そして道路を見ると何かが横たわっている。雅子にはそれが晃だと認識する理性は失われていた。
「晃、晃、どこにいるの?」
歩道を歩きながら晃を探した。歩道に晃のバッグが落ちている。それを拾いパタパタと手で叩いた。
「しょうがないわねえ」
息子がバッグを忘れたから持って行くと担任に電話しようと家に急いだ。「わーっ」と泣き声がしたので振り返った。若い男が狂ったように泣き叫んでいる。雅子は我に返った。泣いている男の元に走りもう一度道路に横たわっている物を見た。頭から流れている血がもう数センチでトラックのタイヤに辿り着く。靴はお気に入りのスリッポン。片方が脱げている。まさかと思い近付いた。
「晃、晃」
サイレンの音と共に気を失った。雅子は晃とは別の病院に運ばれた。目が覚めると夫の隆敏がぼやけて見えた。
「晃は?」
隆敏が首を横に振った。それからずっと泣き続けた。ドライバーは事故当時22歳、牧田義和と言い大型免許を取ったばかりだった。事故は牧田の前方不注意だが、晃の飛び出しも認められた。双方に50%の過失がありそれが裁判にも反映された。隆敏夫妻は納得がいかなかったがどうすることも出来ない悔しさに打ちひしがれた。牧田義和は3年で出所してすぐに謝罪に訪れた。夫婦は謝罪を受け付けず、手土産も投げ捨てた。牧田の謝罪訪問は一年間続いた。訪問は迷惑と諦めたが日雇いの作業員をしながら帰りには必ず立ち寄って玄関前で頭を下げ続けた。仕事が休みの日には晃の墓掃除に出掛けた。それが20年続いた時だった。
「お父さん、あの人は悪い人ですか」
雅子の言葉に驚いた。驚いたのは隆敏も同じ疑問を持ち始めていたからである。
「悪い奴さ、息子を殺したんだ」
それでも隆敏は牧田を許したくなかった。
「どうしてもっと悪い人に轢かれなかったのかしら」
「そんなことを考えるんじゃない、牧田は息子を殺した男だ、生涯怨み続ける。それが私達の試練だよ」
牧田は晃が急に道路に飛び出したことを自分から指摘することはなかった。現場検証から明らかになった事実を弁護士が利用したのである。その翌日隆敏は雅子に内緒で牧田に会いに出掛けた。アパートは木造の古い造りである。隆敏は一升瓶をぶら提げて牧田のアパートの前で待っていた。リュックサックを背負った牧田が戻って来た。
「牧田さん」
初めて名前を呼んだ。牧田は隆敏に気付かなかった。これまで顔を合わすことがほとんどなかったからである。
「ああ、吉川さん」
牧田は驚いて後退りした。
「ちょっと話があって来たんだが時間はあるかね?」
「はい、どうぞ」
真ん中が廊下で両側に部屋がある。
「トイレは突き当りの右側です」
部屋にトイレがない。
「どうぞ」
牧田が作業靴を脱ぐと足の臭いが鼻を突いた。
「失礼します」
隆敏も上がった。一間に流しがあるだけの部屋である。衣類は長押に釘を打ってハンガーにかけている。電化製品は小さな冷蔵庫だけである。部屋には不釣り合いな立派な仏壇がある。仏壇には花の他に菓子や果物が添えられている。位牌の名を見て驚いた。橘晃、息子の名である。
「その仏壇は?」
隆敏は指を差してのけ反った。
「すいません、勝手に晃君の仏壇を置かせてもらいました」
牧田は正座して畳に頭を付けた。
「牧田君は・・・」
隆敏は言葉にならなかった。沈黙が続いた。
「君は20年間晃のために人生を捧げて来たのかね」
「これからも続けていきます。それが私の人生に課された報いですから。ご両親から晃君を奪ってしまったことは、取り返せない。私に生ある限り祈り続ける、そして謝罪を続けることしか出来ません。申し訳ありません」
牧田は事故後初めて父親の前で謝罪することが出来た。
「頭を上げてください。牧田君お酒は?」
「酒煙草は一切断ち切りました」
「好きな女性ぐらいいるだろう?」
「いえ、女性が出入りする場所には行きません」
「毎日肉体労働をしているらしいが、辛いだろう」
「いえ、身体を酷使する方が楽です」
「毎週墓掃除をしてくれるらしいが、甲府までの電車賃もばかにならない」
「使い道がありません。稼ぎはありますから問題ありません。それでも少し残るので被害者の会に寄付をしています」
隆敏は涙が溢れてきた。こんな律儀な男を20年間も罵り相手にしなかった愚かさが情けなかった。
「君は幾つになった?」
「今年43歳です」
21歳から刑務所に2年間、その後の20年間を無駄にさせてしまった。晃と四つしか変わらない牧田の青春を奪ってしまった。
「昨夜、家内が君の後ろ姿を見ながら言った。君が悪い人なら良かったのにねと。私もそう思っていた。もっと早く君を受け入れて上げれば良かった。ねえ牧田君、もう晃への償いは充分過ぎるぐらい返していただいた。これからは君自身のために人生を楽しんで欲しい。この通りだ」
隆敏が畳に頭を付けた。
「困ります、困ります」
牧田は隆敏の肩を抱いて頭を起こした。
「橘さん、これはもう決めたことなんです。隙が出来ると私はまた過ちを犯します。知らず知らずのうちに、他人に迷惑を掛けてしまいます。私に続けさせてください」
牧田の決意は変わらない。
「どうしても私達の願いを聞き入れてくれないのならお願いがある。私達は四国遍路を歩いて回りたい。君に付き合ってもらえないだろうか。結願をしたら、この願いを聞き入れて欲しい」
牧田は考えた。それはその時が必ず来ると言うことである。結願した後は何を目的に生きていけばいいのか想像が付かなかった。しかし命を奪った息子の親の願い。聞き入れるのが正道と受け入れた。
そしてその年のゴールデンウイークの五日間を利用して徳島に渡った。旅費経費は全て橘が負担した。牧田に預貯金は一銭もない。その代わり、身体の弱い雅子を介助する役目を請け負った。宿は遍路小屋や善根宿など無料に近い宿に宿泊することを牧田の薦めで決めた。徳島の旅館で一泊し翌日朝出発した。隆敏61歳、雅子還暦、牧田43歳、初めてのお遍路である。一番札所霊山寺で旅の安全を祈願した。極楽寺までは雅子の遅い足取りでも20分ほどで到着した。
「もっと大変かと思ったわ」
雅子に余裕がある。これくらいの距離ならそれほど苦労しないだろうと安易に考えた。次の金泉寺までは途中休憩しながら小一時間掛かってしまった。五日間で最低五カ所を目標にしている。難儀な雅子のことを考慮して、近くの遍路宿に泊まることにした。
「すいませんね牧田さん。私には無理かもしれません。今年で止めようかしら」
雅子の足はパンパンに腫れていた。それを牧田がマッサージしている。
「奥さん、頑張りましょう、夢を叶えてください。私がこんなことを言える立場ではありませんが。すいません」
牧田は余計なことを言ってしまったと後悔した。一人息子の命を奪っておいて、その母親に頑張りましょうなどと大層なことを言ってしまった。そして年を重ね15年目になった。高知、愛媛県の難所も何とかクリアした。雅子は持病の悪化で体力が著しく低下していた。5分歩けば15分の休憩が必要になっていた。
「牧田君、今年は女房をおいて行こう」
辛そうな雅子を気遣い隆敏は苦渋の決断をした。
「車椅子でいいじゃないですか。私は体力がありますから問題ありません」
牧田の強い希望で雅子は車椅子での遍路旅となった。それは時間の短縮にもなった。
「香川県は比較的、距離が短いですね。楽勝ですよ」
それでも坂道はきつい。牧田は二人に気を遣い苦しくても表情には出さなかった。そしてその翌年雅子が亡くなった。
「牧田君、話があるんだ」
通夜の日である。
「はい」
「君には家族として参列して欲しい」
牧田は固辞した。
「私に隙を与えないでください。隙があればろくなことが頭に浮かばないんです。私は最後まで晃君を轢き殺した男として生涯を送ります」
そして四国遍路17年目になった。隆敏は喜寿、牧田は還暦になった。残るは志度寺、長尾寺、大窪寺の三か所となった。88ヶ所詣でを終えて高野山まで行く五日間である。決まりとして去年最後の85番札所八栗寺からスタートをする。隆敏も元気ではあるが膝に痛みを抱えている。一足ごとにずきんと痛みが走る。
「橘さん、大丈夫ですか?少しお休みしましょうか」
隆敏の荷物も牧田が背負っている。牧田の胸ポケットには晃と雅子のツーショット写真が入れてある。
「いやここは一気に行きたい。次が長丁場になる」
志度寺から長尾寺まで1時間半を要する。長尾寺から大窪寺は5時間掛かる。それも健康な人の足である。坂道や階段は隆敏の足では容易ではない。これまでも一昼夜通して歩き続けたこともある。それに比べれば5時間は軽い。そう自分に言い聞かせるが膝痛はひどくなるばかりである。隆敏にとっては地獄のような5時間になる。そして悪い予感が的中した。隆敏の膝がパンパンに膨れて立っているのがやっとの状態である。
「私はあそこの遍路宿でタクシーを呼んでもらう。残念だが歩き遍路の夢はここで諦める」
隆敏の目から大粒の涙がポロポロと零れた。
「ここで待っててください」
牧田は近所に車椅子の在庫がないか聞き歩いた。
「すいませんが車椅子はないでしょうか?」
「爺さんが使うとったやつがあるが、錆びて車輪が回るかどうか?」
機械油を注いでなんとか動くようになった。
「ありがとうございます。結願の際は必ずお返しに上がります」
「どこぞに捨て置きまいよ。車で取りに行くけん電話しまいよ。しかし無理せずに車で回ったら宜しいのに」
「ありがとうございます。17年掛けて今年が最後の年になります。あの方の夢は歩いてお遍路をすることです。どうか成し遂げていただきたいと思っています」
「あの方って親子やないんか?てっきり息子さんか思うとったわい」
主は石段に座る隆敏と牧田を交互に見やった。
「ご迷惑序に鋏を貸していただきたいんです」
「何に使う?」
主は突然現れたおかしな遍路に鋏を渡すわけにはいかない。
「丸刈りにしたいんです」
「それならバリカンがあるわい。いきなり鋏なんて言うけん驚いた。あの方連れまいよ。大したことは出来んがあんた丸刈りにするまでお接待させまいよ」
牧田は隆敏を負んぶして接待小屋まで連れて行った。
「おーい、おーい」
奥から野良着の夫人が出て来た。
「ようおまいり」
夫人が笑顔で迎えた。主が事情を話し夫人がバリカンを掛けた。髪の多い牧田は地肌が青い。
「よかったら白装束にしたらどうや。古着けど洗うてあるんじゃけん」
牧田はシャワーを浴びて厚意に甘えた。接待小屋では隆敏が主に二人の関係を明かしていた。
「そうか、そなん深いご関係やったか。あの方も立派だが、心開いたあんたは素晴らしい。もし、うちが同じ経験したなら、許せるかどうか、恐らく憎み続けるじゃろう」
主は感慨深げに言った。
「お待たせしました」
頭を丸め、洗いざらしの白装束に身を包んだ牧田が現れた。
「ああっ」
主人が思わず手を合わせた。
「奥さんからいただきました。少しは遍路っぽく見えるでしょうか?」
「牧田君、ありがとう」
自然と涙が溢れる。
「いやだな橘さん、さあこうしちゃいられません、夢を叶えてください」
夫人がビニール袋を牧田に手渡した。
「紙袋だと雨降りには破けてしまうけん」
隆敏が手にしている紙袋をビニール袋に入れ、口をしっかり結んだ。隆敏を車椅子に乗せる。夫人が隆敏の膝の上にオレンジを二つ置いた。
「ありがとうございます。結願したら便りを出します」
出発した。
「あんたどうしたの、顔色が悪いんじゃわ」
「あの人がお大師さんに見えた。若い頃の空海さんに見えた」
主は同行二人の背に手を合わせた。
「雨が降らなけりゃええが」
夫人が空を見上げた。丸刈りになって敏感になった地肌に雨粒が落ちた。牧田は空を見上げた。黒い雲が山に掛かってきた。
「橘さん、合羽を着ましょう」
隆敏に合羽を着させた。
「君は?」
「私は雨降りも合羽など着ずに仕事をしています。合羽を着ると蒸れて汗を掻くんです」
雨が激しくなってきた。身体が冷えて来た。熱が出ているのを感じている。車椅子を押す力が萎えて来た。
「牧田君、牧田君」
「はい」
返事をするのが精一杯だった。牧田の意識が薄れてきた。
『神様、弘法大師様、どうか私のために不幸になったこの方を結願させてください』
牧田の手が車椅子のハンドルから離れた。下り坂である。車椅子が前に進んだ。
「おっとっとっと、今ブレーキ掛けますからね」
隆敏の前に変な男が現れた。
「私より倒れている彼を看てください」
「はいはい、順番順番」
男はブレーキを掛けた。
「癪」
天に向かって叫んだ。稲妻と一緒に癪が降下してきた。
「傘代わりに上で羽を広げてくれ」
癪が巨大化して羽を広げた。隆敏は雨が上がったと勘違いしている。
「これはひどい熱だ」
牧田の額に手を当てて言った。
「ねえ、聞こえる」
牧田は頷いた。
「熱は冷ましてあげるから。その前に寿命を見るからね、天命なら諦めてもらうよ」
男は右手人差し指の腹を牧田の天中に当てた。そして山根までゆっくりと滑らせる。
「あなたは常人ではない、選ばれた人だ」
そう言って掌を額に当てた。牧田の熱が掌に吸い取られる。真っ赤になった掌を天に向けて息を吹きかけた。熱が散らばって消えた。牧田は意識を取り戻した。すぐに隆敏の元に走る。
「大丈夫でしたか、すいませんでした」
「私より君は大丈夫か?うなされていたが」
「はいそれが不思議と治りました」
牧田は焦げ茶色のハンチングを被った男に気付いた。
「あの方は?」
「私達を助けてくれた方です」
牧田が近付いた。
「ありがとうございます。お接待の方でしょうか?」
「まあそんなとこだけど、こういう者です」
男は名詞を差し出した。
「金原武さん、仙人?」
「そうなんですよ。あなたの祈りが私に通じました」
「祈りですか?」
「そうです、あの方の結願を祈られたでしょ?まさか忘れたとは言わせないですよ」
金原は笑った。
「はい、その祈りがあなたに通じたのですか?」
「そう。それであなたを救いにきました」
「金原さんありがとうございます。これであの方の夢を叶えさせてあげられます。なんとお礼を申し上げればよいか、あいにく私は金品の持ち合わせはありません。それにあなたに感謝の意を伝える適当な言葉も持ち合わせていません。ただお礼を申し上げるのみでございます」
牧田は深々と頭を下げた。金原は牧田が既に常人から解脱していることを感じ取っていた。常人なら仙人の出現をすぐに信じたりはしない。牧田は仙人金原と信じて話している。
「しかし不思議だ、目の前は大雨なのに私達がいる所だけ雨がない。きっとお大師様のご加護だろう」
隆敏が手を合わせた。
「私の連れがこの上で羽を広げています。たまには役に立つもんだ」
『ギャー』と癪が鳴いた。隆敏はおかしなことを言う男だと思った。
「さあ、結願目指して進んでください。夜の内は傘代わりに私の連れをお貸しします」
牧田が深く礼をした。そして車椅子のグリップを握り進み出した。金原はそれを見送った。癪が移動すると本降りの雨に肩をすぼめた。薄っすらと朝焼けが見える頃雨は止んだ。上空でバタバタと音がして青空が見えた。癪が雲の切れ間に消えて行った。
「何だろう今の羽音は?」
隆敏が上空を見上げた。
「さっきの方のお連れさんらしいですよ」
「おかしな男がいるもんだ。だが助けてもらったのはありがたい」
押し方の牧田も疲労困憊していたが乗っている方の隆敏も楽じゃない。尻が痛くなり位置をずらしたり片方の尻を浮かしたりしている。そして念願の88番大窪寺に到着した。山門の石段には車椅子を貸し出した主夫婦が声掛けしたお接待の衆が応援に駆け付けていた。石段の下に辿り着いた二人に拍手喝采である。
「ありがとうございます。みな様の力沿いでここまで来ることが出来ました。本当にありがとうございます」
隆敏の目に涙が溢れた。
「橘さん、私の背に乗ってください」
牧田が隆敏を背負った。牧田の足も棒のようになっていた。一段一段をしっかりと上がる。そして本尊を参拝し大師堂で手を合わせた。
「おんころころせんだりまとうぎそわか、おんころころせんだりまとうぎそわか、おんころころせんだりまとうぎそわか」
隆敏と牧田は抱き合って結願を喜んだ。そして翌日高野山参りに出掛けた。
「君の人生を無駄にした私を許してくれ」
「橘さんの人生を狂わせたのは私です」
「私の家を継いでくれないか?」
「ありがとうございます。お気持ちだけいただきます。私は四国遍路を命ある限り続けることにしました。何の見返りも求めないお接待の心に感銘しました。生涯を修行僧として回り続けることを誓いました」
その三年後に隆敏が旅立った。遺言に牧田の名が記されていたが親族に相続を譲った。そして日雇い作業員をしながら三月と四月を利用して遍路を続けた。始めは50日掛かったが次第に30日で回れるようになった。古希になり日雇い仕事も首になった。物乞いをしながら回り初めて三年目に倒れた。
『神様、お大師様、ここまで命をいただきありがとうございます。結願するたびに迷いが薄れて行きました。私は罪びとです。地獄に落ちるのに悔いはありません。残念なのは大窪寺で待っていてくれるお接待の方にお礼が言いたかった。お願いです。私はこれから山に入ります。穴を掘り埋まります』
牧田が遍路道から山に入ろうとした時だった。
「行きましょうよ大窪寺まで」
焦げ茶色のハンチングに黒っぽい服を着た男が声を掛けた。
「あなたは」
13年前に車椅子を押していて倒れた時に助けてくれた男だと想い出した。
「確か仙人の金原さん」
「覚えていてくれましたか。そりゃ良かった。あなたをここで埋めるわけにはいきませんよ。最後の結願を果たしてください」
「私にはもう力が残っていません。それに四国霊場の地で骨になるならこんな嬉しいことはありません。お気持ちだけいただきます」
「そうはいきません。さっき高野山の奥の院に行って来ました。大師遍照金剛にあなたのことを伝えました。大師様はあなたのことをよく知っておられた」
「お会い出来たのですか?」
「ええ、一応神の使いですから。役得とでも言いましょうか、増々力強く修行をなされていました。もう来られると思います」
羽音が聞こえるとつむじ風が起きた。欅の木の裂け目から癪が飛び出して来た。ゆっくりと着地した。癪の背からひとりの坊主が降りた。
「仙人から其方のことは聞いた。どうだろう、もうこの世の寿命は尽きるようだ、奥の院に入り一緒に修行をせんか?」
「ありがとうございます」
「さあ、この世の最後の結願じゃ、わしの肩に摑まりなさい」
牧田は大師遍照金剛に抱えられた。背の同行二人が消えていた。
了
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