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労災調査士『ファイル22 墜落(レッコ)』 8
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「最近うるさくなったからなあ、色々条件が厳しくなって大変だろう。わかったわかった、連絡待ってますから、よろしく」
織田ははっきりと引導を渡すことが出来なかった。結局嘘を吐いた。織田が独立してから十五年間ずっと織田の下で支えてきてくれた藤木である。現在の地位は藤木によって築いてもらったといっても過言ではなかった。そんな恩人に首とはとても言えずに電話を切った。
藤木は織田の奥歯に物の挟まったような言い方が気になった。
「お父さんどこに行くの?」
「現場見てくる、大体の場所は田中さんから聞いて知っているから」
近隣交渉に回っている池田所長をはじめ大竹建設の職員と出くわす可能性もある。藤木は横浜での事故の謝罪も兼ねて、手土産に川崎大師の久寿餅を五つも買ってぶら下げて行った。
二子新地駅から多摩川の川淵を歩いた。藤木が目にしたのは大竹建設独自の仮囲いである。仮囲いはとび職の仕事、現場乗り込みの最初の仕事が仮囲い、藤木は仮囲い杭打ちのプロ。大ハンマーを振り上げ杭パイプに振り下ろし叩き込む技術は織田班では藤木に敵う者はいない。この仮囲い作業に外されていたことにショックを受けた。ゲートの影から覗くと場内は慌しく動いていた。杭打ち、掘削、掘削が終わった棟の基礎配筋、型枠工事、そしてコンクリート打設用の足場を二和建設が組んでいる。当然主力メンバーになると自負していた藤木にはショックが大きかった。どうしたらいいのかパニックになってしまった。
「藤木さーん」
関野に見つかってしまった。作業を抜け出して藤木に駆け寄る。田中も、岡田も山崎も武も洋二も固まって動けなかった。
藤木は目を逸らし、来た道を戻り始めた。
「藤木さん、ご無沙汰しています。怪我の方はもう大丈夫ですか?寄って行ってください、みんないますよ。瀬田さんと高品さん以外は」
「瀬田さんと高品さんも来ていないのか?」
「ええ、でも忙しくなれば来るんじゃないですか」
藤木には察しがついた。瀬田も高品も今年還暦を迎えている。姥捨て山なのであった。安くて若い職人がハイエナみたいに仕事を漁っているこの不景気に、プライドも手間も高いベテランは用無しなのである。
「これ、みんなで食べろ。関野、地足場はたっぱ(高さ)が低いからみんな油断するんだ、面倒臭がらずに、パイプの上なんか歩かず、足場板を敷いてそこを渡るようにしろよ」
大師の久寿餅を渡して駅へ急いだ。事情の把握していない関野は一礼して見送った。
五十年間一城主に仕えた侍は帰る場所を失っていた。家に戻り妻に説明するにはあまりも情けなかった。藤木は最後の勤めとなった横浜の墜落した現場に訪れた。そして塔屋から飛んだ。
藤木の一件は生活に困った年寄りの自殺として処分された。当然その事実を把握していない大竹建設から葬儀には誰も顔をみせなかった。全国規模からすれば地方紙に小さく載る程度の事件で、その地域に暮らしている人にしか藤木の記事を読む機会はなく、藤木の死を知らずにいる仲間も多かった。
私生活でも付き合いのあった田中に藤木の妻がこぼした
「田中さん、あの日何があったんでしょうか?あれを見てください。ぴかぴかの腰道具を揃えて入り口に置いて、邪魔ですよって私が言うと、いつ声がかかってもいいようにって。そんな主人がどうして自殺なんかしたんでしょうか?教えてください田中さん」
田中の手を取りすすり泣く藤木未亡人は真相も明らかにされぬままに諦めと変わり、夫の骨を抱えて葬儀の一週間後に四十年過ごした川崎のアパートを引き払い茨城の実家に戻った。実家に居場所があるわけではなかったが川崎から離れたいという思いがそうさせたのだった。
藤木が墜落した代償は三日分の休業補償四万五千円だけである。婦人は労災扱いを勧めたが『これ以上迷惑をかけられない』という藤木に素直に従ったことを悔やんでならなかった。こんなことならゆっくりと休ませてあげたかったと。織田ははっきりと告げられなかったのを悔やんだ。気まずい思いはしても最悪の結果を招くことはなかった。小さな墜落事故は不景気風に煽られ、老夫婦の人生を浚ってしまった。もう元に戻すことは出来ない。
(九)
梅雨が開け二子新地の現場も順調に軌道に乗ってきた。毎日のノルマはきついが、残業や早出をかけてなんとかこなしていた。藤木の事件直後の湿った空気も梅雨明けと共に薄れていった。しかし、仲間同士の酒の席ではどうしても避けられない話題となった。
「長井の香典一万だってよ。いくらなんでもそりゃあねえよなあ」
現場帰りに酒を飲むメンバーは決まっていて、田中、山崎、関野である。そして大概田中のこの一言から突入していく。
「なんで労災にしてやれなかったのかなあ親方もよう、そうすりゃあ二ヵ月でも三ヵ月でもしっかりとリハビリ出来たろうしなあ。五十年も馬車馬みたい働かされて、一度も事故起こしたことないんだろう。労災っていうのは藤ちゃんのためにあるようなもんだ。あそこで使わなきゃどこで使うっていうんだよ」
アルコールの回ってきた山崎のテンションはあがった。しかし、どうしてあの時この科白を織田に言えなかったのかと自問する。答えはすぐに出る。保身のためである。自分自身が仕事を失わないために強く言えなかったのである。
「情けねえなあ」
山崎が独り言のように呟いた。関野が山崎のぼやきに大きく頷いた。
「ばかやろう、おめえに頷かれてどうすんだ」
「失礼しました。でも山崎さんは現場検証のときも藤井さんを庇ったし、労務の課長とも対等に意見交換してたじゃないすか、さすが僕の親方は口が巧いと感心しました」
「おまえよう、なんだ最後の口が巧いっていうのは、なんか俺が詐欺師みていじゃねえか」
山崎と関野の漫才のようなやりとりを聞いて田中が大笑いしている。
「でも職人てさあ、程度に差があっても怪我をすると隠すきらいがあるよなあ」
「ひとつ質問してもいいですか?どのくらいの怪我をすれば労災を適用してくれるんですか?」
関野のストレートな質問に二人は頭をひねった。そんなことを考えたことはなかったからである。現場で指を切ったり挟んだりすることはよくある。また、足首を捻挫したり腰を痛めたりすることもある。指先を少し切り落としても、また潰してもまず労災は適用してくれない。二週間程度の休業ならその職人を雇用している下請けが僅かな補償をしてくれる程度で、元受に報告すらしない。保障は微々たるものである。これが当時の現状である。切り傷であれば、職人は簡易なテープを巻いただけで現場に復帰する。いや生活のために無理をしてでも復帰せざるを得ないのである。この不景気はそれを煽り、いつまでも休んでいると、除外されてしまうという危機感が職人達を圧迫する。ましてや腰痛など持病の一言で片付けられ、初めから保障の対象外になっている。現場で痛めても、持病が悪化したぐらいで処理される。同情するのは数人の仲間だけで、会社は厄介者のレッテルを貼り仕事が甘いときは腰痛の心配をしたふりをして休ませる。逆に忙しくなると『どう、腰の具合、よかったらぼちぼち無理しない程度でいいから出て来たら』見え透いた都合を恥ずかしげもなく言ってのける。寂しいかな会社と職人の関係はそんなとこである。
「死んだらもらえるな間違いなく」
「死ぬんすか?」
関野が素っ頓狂な声を上げた。
(十)
この二子新地の現場に声がかからなかったのは藤木だけではなかった。還暦を迎えた瀬田と高品もそうであった。長井の忠告であったが最終的には織田の判断だった。
「織ちゃん、なるべく若いスタッフで乗り込んでくれよ、若いのがいい」
着工前に挨拶に行った織田に池田所長が言った。着工当初の作業人員も七名と制限されていた。様子を見ながら増員することになった。その時期は大竹建設が指示する。横浜での教訓を生かし、初めからのロスは避けたのだ。
織田は藤木以外の誰を省くのが適当か迷った。瀬田も高品も六十になった。岡田は五十七、武は五十六、技術力と統制力は高品が群を抜いていた。従兄弟の瀬田に関しては増員時に入場させようと考えていた。武には技術力も責任感もないが手間が安い。織田には大事な収入源であり、外すことは自身の生活に即影響する。高品の手間は高い。まだ三十半ばの息子洋二も力を付けてきた。これから織田を支えてくれるのは若い洋二である。洋二を副職長に抜擢し、高品を断った。
藤木にしてもそうだったが織田は高品にも連絡していなかった。ずっとそういうやり方で職人と接触してきたのだ。時が罪悪感を自然に薄めていくのを待った。しかし高品と洋二は親子である。それも同じ銭湯を利用する距離に住んでいる。洋二が川崎に出てきた当初、高品は行きつけの飲食店を紹介し、掛売が効くよう手配した。当然その飲食店で顔を会わせ、酒を酌み交わすこともしばしばであった。
「どうだ現場の方は?」
「副職長を任された。断ったけど山崎さんが後押ししてくれるからそれでやらせてもらうことにした」
「山崎さんの仕事を覚えろよ。間違いないから」
「どうして親父は外されたんだあの現場?岡田さんとか武さんとかじゃなくて、藤木さんの次に古い親父が」
「親方はなんも言わねえからわかんねえ。ただ俺も瀬田さんも六十だってことだ」
「電話してみればいいべ親方に」
「あの人はいつもそうなんだ。ひと現場終わるごとに消えていく職人が何人もいた。藤木さんが不憫でならねえ」
「親父は変なこと考えるなよ」
津軽訛の二人がカウンターの隅でぼそぼそと話している。お互いが手酌でやっているが、最後の一言に添えて洋二が酌をした。
梅雨が明ける頃にはF棟まですべての工区で二和建設が手配がされている。増員しなければならない時期にきていた。やはり高い施工技術が求められる部分で、計画になかった足場が必要になってきた。池田所長の号令で人件費の無駄は省くよう徹底した管理がなされていた。各棟の担当者も契約工事以外では増員を下請け業者に指示するわけにはいかなかった。
建設現場の躯体工事で三役と呼ばれている鳶職、大工職、鉄筋職のうち、常傭工事が多いのは鳶職が圧倒的である。
大工は、柱壁、梁スラブ(天井)、階段部など、図面によって完全な数量がわかる。そしてその難易度によって取り決められた単価で契約する。設計変更や追加工事がない限り平米数×単価によってその現場受注金額が確定する。鉄筋工事も同様、トン数×単価で契約するのだ。常庸工事はほとんど発生しない。
大工においては大きなリスクがある。コンクリート打設の圧力で、壁や柱が膨張することがある。それは型枠の精度の問題であると断定され、膨らみを削る斫り屋、それを修復する左官屋の手間は受注金額から差っ引かれるのである。
躯体業者で常庸工事が特に多いのが鳶職と片付け掃除を担当する土工職である。高層住宅の多くがPC工法になった現在、契約工事が大幅に激減した鳶職にとって常庸工事は大きな割合を占める。設計ミスや製作精度の質が許容範囲外であるとき、そこに足場が必要になる。机上の積み木のようにはいかないのが生きている現場である。大手ゼネコンという立場上危険作業は絶対に避ける。当然工期内の引渡しは責務である以上そこに新たな出費を嵩んででも増員しなくてはならなくなる。そこにどれだけ増員出来るかかどうかは職長の織田の駆け引きにかかっていた。
「倉田さん、この手配じゃ間に合わないよ。AとB棟はいいけど残りは最低三人ずつ増員しないとだめだよ」
織田が担当の倉田に言った。倉田は池田所長が新規現場の際に必ず連れて歩くいわば子分である。いずれ現場を任される時が来る。織田も経験から悟っている。盆暮の気遣い、仕事の区切り区切りでの接待も忘れずに実行している。織田のマメな性格が金額の多少に関わらず、若い監督達には効果があった。
「そうなんだよね、だけど俺の一存じゃ増やせないんだよ。分かって織田さん」
織田の要望には100%応えられないがそれなりに努力してくれる。人数の増員時に大竹建設事務所で必ず話題になるのが職人の技術力の差である。バブル崩壊後の苦しい時期である。ベテラン監督は他の会社の技術力をひけらかして双方を比べる。
「長井さん、あんまり言いたかないけど、もう少しましなのいないの?A棟の足場やってる連中いつまで掛かってんだ」
池田所長の後輩で坂出課長が巡廻に来た長井を掴まえて脅した。A棟は織田の付き合いで川崎から呼んだ若いグループに任せていた。確かに荒っぽいだけでさっぱり仕事が進まない。
「課長、そう脅かさないでよ。少しはっぱかけて来ますよ。それでさ課長、旅行どうします。勿論行かれるでしょ?」
二和建設の親睦旅行に坂出を招待している。それは羽田で大きな工場の建替え工事を坂出が所長で入ることが決まっているからである。
「行きますよ、これ、用意しといてよ」
坂出が子指を立てて笑った。これで一先ず収まる。長井が休憩室に入るとそれまでのお喋りがピタと止んだ。二和建設グループだけではない。他の職方からも嫌われている。
「汚い休憩室だなあ、これじゃ蛆が湧くよ。ほら左官屋さん、テーブルの上食べ残しは片付けないと、ああ汚い。池田所長に報告だなこれ。これじゃ仕事とれませんよ」
通路を歩きながらケチをつけている。
「織田ちゃん、A棟が遅れているって怒られたけどそうなの?」
全員十時の休憩に戻っていた。A棟を任されている五人組もいる。シャツを脱いでいるので刺青が剥き出しである。
「いきがってないでシャツ着なさいよ、みっともない」
五人組の一番若いのが切れて長井の胸倉を掴んだ。
「何だ君は、退場させるぞ」
五人組の長である長倉が若い衆を押さえた。
「すいませんね、若いから気が付かないで」
長倉が長井に謝罪した。長倉も織田から声を掛けられ助けられた。仕事にあぶれ、若い衆を遊ばせていた矢先に連絡があった。織田から一年は間違いなく安泰と太鼓判を押されていた。ここで問題を起こしてはまた元に戻ってしまう。バブル期の忙しい時代なら長井を蹴飛ばして自ずから退場したに違いないが刺青も不景気には勝てなかった。
「おい、謝れ長井さんに」
「すいませんでした」
親方にど突かれて謝罪した。
「あなた達かなA棟管理してるのは?」
長井が長倉に確認した。
「はい、お世話になっています」
「少し遅れてるからもう少しピッチ上げろって坂出課長から怒られちゃったからさ、まあよろしく頼みますよ」
長倉の肩を叩いた。
「織田さんどうなってんの、人足りないようじゃない、早く手配しないと、他職に迷惑掛けるわけにはいかないよ」
長井は人員不足を織田に一任している。
「はい、今考えてんですけど、瀬田と高品を先ず入れようかとそれから山崎さんの知り合いを二グループ考えてます」
「瀬田と高品か、ロートルは止めようよ、藤ちゃんの件もあるし、なあ洋ちゃん」
そっぽを向いている洋二に振った。洋二は父親の高品を入れて欲しい。貯蓄はあるが一生食っていけるだけには到底及ばない。
「うちの親父はまだまだ働けますよ。どうして入れてくれないんですか?」
洋二は長井に食い下がる。
織田ははっきりと引導を渡すことが出来なかった。結局嘘を吐いた。織田が独立してから十五年間ずっと織田の下で支えてきてくれた藤木である。現在の地位は藤木によって築いてもらったといっても過言ではなかった。そんな恩人に首とはとても言えずに電話を切った。
藤木は織田の奥歯に物の挟まったような言い方が気になった。
「お父さんどこに行くの?」
「現場見てくる、大体の場所は田中さんから聞いて知っているから」
近隣交渉に回っている池田所長をはじめ大竹建設の職員と出くわす可能性もある。藤木は横浜での事故の謝罪も兼ねて、手土産に川崎大師の久寿餅を五つも買ってぶら下げて行った。
二子新地駅から多摩川の川淵を歩いた。藤木が目にしたのは大竹建設独自の仮囲いである。仮囲いはとび職の仕事、現場乗り込みの最初の仕事が仮囲い、藤木は仮囲い杭打ちのプロ。大ハンマーを振り上げ杭パイプに振り下ろし叩き込む技術は織田班では藤木に敵う者はいない。この仮囲い作業に外されていたことにショックを受けた。ゲートの影から覗くと場内は慌しく動いていた。杭打ち、掘削、掘削が終わった棟の基礎配筋、型枠工事、そしてコンクリート打設用の足場を二和建設が組んでいる。当然主力メンバーになると自負していた藤木にはショックが大きかった。どうしたらいいのかパニックになってしまった。
「藤木さーん」
関野に見つかってしまった。作業を抜け出して藤木に駆け寄る。田中も、岡田も山崎も武も洋二も固まって動けなかった。
藤木は目を逸らし、来た道を戻り始めた。
「藤木さん、ご無沙汰しています。怪我の方はもう大丈夫ですか?寄って行ってください、みんないますよ。瀬田さんと高品さん以外は」
「瀬田さんと高品さんも来ていないのか?」
「ええ、でも忙しくなれば来るんじゃないですか」
藤木には察しがついた。瀬田も高品も今年還暦を迎えている。姥捨て山なのであった。安くて若い職人がハイエナみたいに仕事を漁っているこの不景気に、プライドも手間も高いベテランは用無しなのである。
「これ、みんなで食べろ。関野、地足場はたっぱ(高さ)が低いからみんな油断するんだ、面倒臭がらずに、パイプの上なんか歩かず、足場板を敷いてそこを渡るようにしろよ」
大師の久寿餅を渡して駅へ急いだ。事情の把握していない関野は一礼して見送った。
五十年間一城主に仕えた侍は帰る場所を失っていた。家に戻り妻に説明するにはあまりも情けなかった。藤木は最後の勤めとなった横浜の墜落した現場に訪れた。そして塔屋から飛んだ。
藤木の一件は生活に困った年寄りの自殺として処分された。当然その事実を把握していない大竹建設から葬儀には誰も顔をみせなかった。全国規模からすれば地方紙に小さく載る程度の事件で、その地域に暮らしている人にしか藤木の記事を読む機会はなく、藤木の死を知らずにいる仲間も多かった。
私生活でも付き合いのあった田中に藤木の妻がこぼした
「田中さん、あの日何があったんでしょうか?あれを見てください。ぴかぴかの腰道具を揃えて入り口に置いて、邪魔ですよって私が言うと、いつ声がかかってもいいようにって。そんな主人がどうして自殺なんかしたんでしょうか?教えてください田中さん」
田中の手を取りすすり泣く藤木未亡人は真相も明らかにされぬままに諦めと変わり、夫の骨を抱えて葬儀の一週間後に四十年過ごした川崎のアパートを引き払い茨城の実家に戻った。実家に居場所があるわけではなかったが川崎から離れたいという思いがそうさせたのだった。
藤木が墜落した代償は三日分の休業補償四万五千円だけである。婦人は労災扱いを勧めたが『これ以上迷惑をかけられない』という藤木に素直に従ったことを悔やんでならなかった。こんなことならゆっくりと休ませてあげたかったと。織田ははっきりと告げられなかったのを悔やんだ。気まずい思いはしても最悪の結果を招くことはなかった。小さな墜落事故は不景気風に煽られ、老夫婦の人生を浚ってしまった。もう元に戻すことは出来ない。
(九)
梅雨が開け二子新地の現場も順調に軌道に乗ってきた。毎日のノルマはきついが、残業や早出をかけてなんとかこなしていた。藤木の事件直後の湿った空気も梅雨明けと共に薄れていった。しかし、仲間同士の酒の席ではどうしても避けられない話題となった。
「長井の香典一万だってよ。いくらなんでもそりゃあねえよなあ」
現場帰りに酒を飲むメンバーは決まっていて、田中、山崎、関野である。そして大概田中のこの一言から突入していく。
「なんで労災にしてやれなかったのかなあ親方もよう、そうすりゃあ二ヵ月でも三ヵ月でもしっかりとリハビリ出来たろうしなあ。五十年も馬車馬みたい働かされて、一度も事故起こしたことないんだろう。労災っていうのは藤ちゃんのためにあるようなもんだ。あそこで使わなきゃどこで使うっていうんだよ」
アルコールの回ってきた山崎のテンションはあがった。しかし、どうしてあの時この科白を織田に言えなかったのかと自問する。答えはすぐに出る。保身のためである。自分自身が仕事を失わないために強く言えなかったのである。
「情けねえなあ」
山崎が独り言のように呟いた。関野が山崎のぼやきに大きく頷いた。
「ばかやろう、おめえに頷かれてどうすんだ」
「失礼しました。でも山崎さんは現場検証のときも藤井さんを庇ったし、労務の課長とも対等に意見交換してたじゃないすか、さすが僕の親方は口が巧いと感心しました」
「おまえよう、なんだ最後の口が巧いっていうのは、なんか俺が詐欺師みていじゃねえか」
山崎と関野の漫才のようなやりとりを聞いて田中が大笑いしている。
「でも職人てさあ、程度に差があっても怪我をすると隠すきらいがあるよなあ」
「ひとつ質問してもいいですか?どのくらいの怪我をすれば労災を適用してくれるんですか?」
関野のストレートな質問に二人は頭をひねった。そんなことを考えたことはなかったからである。現場で指を切ったり挟んだりすることはよくある。また、足首を捻挫したり腰を痛めたりすることもある。指先を少し切り落としても、また潰してもまず労災は適用してくれない。二週間程度の休業ならその職人を雇用している下請けが僅かな補償をしてくれる程度で、元受に報告すらしない。保障は微々たるものである。これが当時の現状である。切り傷であれば、職人は簡易なテープを巻いただけで現場に復帰する。いや生活のために無理をしてでも復帰せざるを得ないのである。この不景気はそれを煽り、いつまでも休んでいると、除外されてしまうという危機感が職人達を圧迫する。ましてや腰痛など持病の一言で片付けられ、初めから保障の対象外になっている。現場で痛めても、持病が悪化したぐらいで処理される。同情するのは数人の仲間だけで、会社は厄介者のレッテルを貼り仕事が甘いときは腰痛の心配をしたふりをして休ませる。逆に忙しくなると『どう、腰の具合、よかったらぼちぼち無理しない程度でいいから出て来たら』見え透いた都合を恥ずかしげもなく言ってのける。寂しいかな会社と職人の関係はそんなとこである。
「死んだらもらえるな間違いなく」
「死ぬんすか?」
関野が素っ頓狂な声を上げた。
(十)
この二子新地の現場に声がかからなかったのは藤木だけではなかった。還暦を迎えた瀬田と高品もそうであった。長井の忠告であったが最終的には織田の判断だった。
「織ちゃん、なるべく若いスタッフで乗り込んでくれよ、若いのがいい」
着工前に挨拶に行った織田に池田所長が言った。着工当初の作業人員も七名と制限されていた。様子を見ながら増員することになった。その時期は大竹建設が指示する。横浜での教訓を生かし、初めからのロスは避けたのだ。
織田は藤木以外の誰を省くのが適当か迷った。瀬田も高品も六十になった。岡田は五十七、武は五十六、技術力と統制力は高品が群を抜いていた。従兄弟の瀬田に関しては増員時に入場させようと考えていた。武には技術力も責任感もないが手間が安い。織田には大事な収入源であり、外すことは自身の生活に即影響する。高品の手間は高い。まだ三十半ばの息子洋二も力を付けてきた。これから織田を支えてくれるのは若い洋二である。洋二を副職長に抜擢し、高品を断った。
藤木にしてもそうだったが織田は高品にも連絡していなかった。ずっとそういうやり方で職人と接触してきたのだ。時が罪悪感を自然に薄めていくのを待った。しかし高品と洋二は親子である。それも同じ銭湯を利用する距離に住んでいる。洋二が川崎に出てきた当初、高品は行きつけの飲食店を紹介し、掛売が効くよう手配した。当然その飲食店で顔を会わせ、酒を酌み交わすこともしばしばであった。
「どうだ現場の方は?」
「副職長を任された。断ったけど山崎さんが後押ししてくれるからそれでやらせてもらうことにした」
「山崎さんの仕事を覚えろよ。間違いないから」
「どうして親父は外されたんだあの現場?岡田さんとか武さんとかじゃなくて、藤木さんの次に古い親父が」
「親方はなんも言わねえからわかんねえ。ただ俺も瀬田さんも六十だってことだ」
「電話してみればいいべ親方に」
「あの人はいつもそうなんだ。ひと現場終わるごとに消えていく職人が何人もいた。藤木さんが不憫でならねえ」
「親父は変なこと考えるなよ」
津軽訛の二人がカウンターの隅でぼそぼそと話している。お互いが手酌でやっているが、最後の一言に添えて洋二が酌をした。
梅雨が明ける頃にはF棟まですべての工区で二和建設が手配がされている。増員しなければならない時期にきていた。やはり高い施工技術が求められる部分で、計画になかった足場が必要になってきた。池田所長の号令で人件費の無駄は省くよう徹底した管理がなされていた。各棟の担当者も契約工事以外では増員を下請け業者に指示するわけにはいかなかった。
建設現場の躯体工事で三役と呼ばれている鳶職、大工職、鉄筋職のうち、常傭工事が多いのは鳶職が圧倒的である。
大工は、柱壁、梁スラブ(天井)、階段部など、図面によって完全な数量がわかる。そしてその難易度によって取り決められた単価で契約する。設計変更や追加工事がない限り平米数×単価によってその現場受注金額が確定する。鉄筋工事も同様、トン数×単価で契約するのだ。常庸工事はほとんど発生しない。
大工においては大きなリスクがある。コンクリート打設の圧力で、壁や柱が膨張することがある。それは型枠の精度の問題であると断定され、膨らみを削る斫り屋、それを修復する左官屋の手間は受注金額から差っ引かれるのである。
躯体業者で常庸工事が特に多いのが鳶職と片付け掃除を担当する土工職である。高層住宅の多くがPC工法になった現在、契約工事が大幅に激減した鳶職にとって常庸工事は大きな割合を占める。設計ミスや製作精度の質が許容範囲外であるとき、そこに足場が必要になる。机上の積み木のようにはいかないのが生きている現場である。大手ゼネコンという立場上危険作業は絶対に避ける。当然工期内の引渡しは責務である以上そこに新たな出費を嵩んででも増員しなくてはならなくなる。そこにどれだけ増員出来るかかどうかは職長の織田の駆け引きにかかっていた。
「倉田さん、この手配じゃ間に合わないよ。AとB棟はいいけど残りは最低三人ずつ増員しないとだめだよ」
織田が担当の倉田に言った。倉田は池田所長が新規現場の際に必ず連れて歩くいわば子分である。いずれ現場を任される時が来る。織田も経験から悟っている。盆暮の気遣い、仕事の区切り区切りでの接待も忘れずに実行している。織田のマメな性格が金額の多少に関わらず、若い監督達には効果があった。
「そうなんだよね、だけど俺の一存じゃ増やせないんだよ。分かって織田さん」
織田の要望には100%応えられないがそれなりに努力してくれる。人数の増員時に大竹建設事務所で必ず話題になるのが職人の技術力の差である。バブル崩壊後の苦しい時期である。ベテラン監督は他の会社の技術力をひけらかして双方を比べる。
「長井さん、あんまり言いたかないけど、もう少しましなのいないの?A棟の足場やってる連中いつまで掛かってんだ」
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「課長、そう脅かさないでよ。少しはっぱかけて来ますよ。それでさ課長、旅行どうします。勿論行かれるでしょ?」
二和建設の親睦旅行に坂出を招待している。それは羽田で大きな工場の建替え工事を坂出が所長で入ることが決まっているからである。
「行きますよ、これ、用意しといてよ」
坂出が子指を立てて笑った。これで一先ず収まる。長井が休憩室に入るとそれまでのお喋りがピタと止んだ。二和建設グループだけではない。他の職方からも嫌われている。
「汚い休憩室だなあ、これじゃ蛆が湧くよ。ほら左官屋さん、テーブルの上食べ残しは片付けないと、ああ汚い。池田所長に報告だなこれ。これじゃ仕事とれませんよ」
通路を歩きながらケチをつけている。
「織田ちゃん、A棟が遅れているって怒られたけどそうなの?」
全員十時の休憩に戻っていた。A棟を任されている五人組もいる。シャツを脱いでいるので刺青が剥き出しである。
「いきがってないでシャツ着なさいよ、みっともない」
五人組の一番若いのが切れて長井の胸倉を掴んだ。
「何だ君は、退場させるぞ」
五人組の長である長倉が若い衆を押さえた。
「すいませんね、若いから気が付かないで」
長倉が長井に謝罪した。長倉も織田から声を掛けられ助けられた。仕事にあぶれ、若い衆を遊ばせていた矢先に連絡があった。織田から一年は間違いなく安泰と太鼓判を押されていた。ここで問題を起こしてはまた元に戻ってしまう。バブル期の忙しい時代なら長井を蹴飛ばして自ずから退場したに違いないが刺青も不景気には勝てなかった。
「おい、謝れ長井さんに」
「すいませんでした」
親方にど突かれて謝罪した。
「あなた達かなA棟管理してるのは?」
長井が長倉に確認した。
「はい、お世話になっています」
「少し遅れてるからもう少しピッチ上げろって坂出課長から怒られちゃったからさ、まあよろしく頼みますよ」
長倉の肩を叩いた。
「織田さんどうなってんの、人足りないようじゃない、早く手配しないと、他職に迷惑掛けるわけにはいかないよ」
長井は人員不足を織田に一任している。
「はい、今考えてんですけど、瀬田と高品を先ず入れようかとそれから山崎さんの知り合いを二グループ考えてます」
「瀬田と高品か、ロートルは止めようよ、藤ちゃんの件もあるし、なあ洋ちゃん」
そっぽを向いている洋二に振った。洋二は父親の高品を入れて欲しい。貯蓄はあるが一生食っていけるだけには到底及ばない。
「うちの親父はまだまだ働けますよ。どうして入れてくれないんですか?」
洋二は長井に食い下がる。
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真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
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